夕礼拝

ステファノの殉教

説 教 「ステファノの殉教」 副牧師 川嶋章弘
旧 約 イザヤ書第66章1-2節
新 約 使徒言行録第7章44節-8章3節

「生ける言葉」を「死んだ言葉」に
 使徒言行録7章を読み進めています。最高法院で神殿と律法を蔑ろにしていると訴えられたステファノが語った長い説教が1~53節です。本日は44節以下と、そのステファノの説教を聞いた人たちによって、ステファノが殉教したことに目を向けていきます。

 前回の箇所でステファノは、モーセが神様から「命の言葉」を授かり、イスラエルの民に伝えた、と語りました。「命の言葉」は、聖書協会共同訳では「生ける言葉」と訳されています。この「命の言葉」、「生ける言葉」こそ、十戒を中心とした律法でした。律法は「生ける言葉」であり、イスラエルの民を生かす神様の言葉、神様からの語りかけです。エジプトの奴隷状態から救い出されたイスラエルの民が、その救いの恵みの中で感謝して喜んで生きていくための道しるべなのです。ところがユダヤ人は次第に、律法を守ることに自分が神の民であることの目に見える保証を求めるようになりました。すでに神の民とされていることの恵みに感謝して律法を道しるべとして生きるのではなく、律法を守ることそれ自体に神の民であることの目に見える保証を求めたのです。そうなると律法は単なる規則、ルールになってしまい、イスラエルの民を生かす言葉ではなく、縛る言葉となってしまいます。本来、「生ける言葉」、自分たちを生かす言葉である律法を、「死んだ言葉」としてしまった、律法を偶像化してしまった、とステファノは批判したのです。

神は人の手で造ったものには住んでおられない
 律法の偶像化を批判したステファノは、本日の箇所の44~50節では、神殿の偶像化について批判しています。
 そもそも神様は、どこにおられるのでしょうか。私たちはしばしば教会で神様にお会いする、と言います。それは、間違っていません。私たちは今も、この礼拝で確かに神様にお会いしています。しかしそのように言うとき、教会という建物に神様がおられる、神様が住んでおられると考えているのであれば、それは間違っています。神道そのものの教えとしては少々正確さに欠くかもしれませんが、多くの日本人は神社という建物には神がいる、神社に行けば神に会えると考えています。この正月も多くの人たちが神社に行って、神を拝んでいました。しかし教会という建物に行けば、そこに神様がおられるのではありません。ステファノはこのことを48節ではっきり語っています。「けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません」。これはかつてソロモン王が、エルサレム神殿を建てた際に、神様にささげた祈りの中で語ったことでもあります。「神は果たして地上にお住いになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません」(列王記上8章27節)。またステファノは49、50節で共に読まれたイザヤ書66章1、2節を引用していますが、そこでも、同じことが見つめられています。ステファノは、旧約の時代のソロモンや預言者の信仰に立ち、神様は人の手で造ったものには住んでおられない、と告げているのです。

 このことは私たちキリスト教会の基本的な信仰です。私たちもややもすれば、目に見える教会という建物に来れば、神様にお会いできるように思いがちです。しかし私たちが信じている神様は、地上に住まわれない方であり、天におられる方です。天と言っても、それは物理的に上の方とか、空の彼方ということではありません。私たちが生きている地上とは隔たっているところです。神様はその天におられるのであって、この地上に、人の手の造ったものに住まわれるのではありません。私たちはまずこのことをしっかり受けとめなくてはなりません。しかしそうなると、私たちはたちまち不安になるのではないでしょうか。毎週、教会に来ているけれど、そこに神様が住んでおられるのではないとしたら、神様に本当にお会いしているのだろうか、と不安になります。だからこそ私たちは、ステファノが批判する神殿の偶像化について、丁寧に見ていく必要があるのです。

神殿よりも幕屋が本質的
 ステファノは44節で、「わたしたちの先祖には、荒れ野に証しの幕屋がありました」と言っています。「証しの幕屋」は、旧約聖書では「臨在の幕屋」と呼ばれています。幕屋については、出エジプト記にその寸法も含めて詳しく記されていますが、大切なことは、「臨在の幕屋」に神様が臨んでくださるということです。幕屋の最大の特徴は移動式のテントである、ということです。イスラエルの民は、エジプトから脱出した後、四十年間を荒れ野で過ごしました。荒れ野を移動する度に、幕屋は解体され、運ばれ、再び宿営するときに建てられたのです。移動式のテントは、神殿と比べると簡易で、粗末なものですから、神殿に劣るものと思えるかもしれません。しかしここでステファノは、幕屋こそが、イスラエルの民にとって、神殿よりも本質的なものであることを見つめています。だから44節の後半で、「これは、見たままの形に造るようにとモーセに言われた方のお命じになったとおりのものでした」と語っています。神様のご命令通りにモーセが造ったのが幕屋なのです。神様は、その幕屋に臨んでくださり、荒れ野を旅するイスラエルの民と共にいてくださいました。それは、エルサレム神殿に行かなければ神様にお会いできない、というのとはまったく違います。神様は神殿のような一つの建物、一つの場所に住まわれる方ではないし、そこにいかなければお会いできない方でもありません。むしろ旅するイスラエルの民と共にいてくださる方なのです。

幕屋では会えるけれど神殿では会えないのか?
 ステファノは、この幕屋がダビデの時代まではあったと語り、46、47節で、その後、ダビデが神様のために家を建てようと願い、その子ソロモンが神殿を建てたと語っています。そして先ほどの48節、「けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません」、と語ります。ということは、神様は幕屋には臨まれるけれど、神殿には住まわれない、と言っているのでしょうか。幕屋では神様にお会いできるけれど、神殿ではお会いできないということなのでしょうか。しかし先ほど見たように、そもそも神殿を建てたソロモンが、神様は神殿には住まわれない、と言っていました。神殿も、本来は神様がそこに住まわれている、と考えられていたのではありません。その意味で神殿は、幕屋の延長上にあります。より本質的なのは幕屋ですが、それとはまったく別に神殿があるのではなく、その延長上に神殿があるのです。ですからステファノは、幕屋では神様にお会いできるけれど、神殿ではお会いできない、と言ったのではありません。もしそうなら、人間の手で造った私たちの教会堂でも、私たちは神様にお会いできないことになります。そもそも幕屋だって、人間の手で造ったものに変わりはないのです。
証しの幕屋

 ではステファノの批判の核心はどこにあるのでしょうか。実は「臨在の幕屋」の中には、契約の箱が置かれていて、その契約の箱の中には、十戒が記された二枚の石の板が納められていました。すでにお話しした通り、38節の「命の言葉」、「生ける言葉」(聖書協会共同訳)は、十戒を中心とする律法のことでした。つまり幕屋には、「生ける言葉」である十戒が置かれていたのです。神様は一方的な恵みによって、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出してくださいました。その救いに感謝して生きるために、イスラエルの民に与えられたのが十戒でした。つまり十戒は、目に見えない神様を証しし、その神様がイスラエルの民に成し遂げてくださった救いのみ業を証しし、その救いに感謝して生きる生活を証ししているのです。ステファノが幕屋を、「証しの幕屋」と呼んでいるのはこのためです。「証しの幕屋」に「生ける言葉」である十戒が置かれていることに、この幕屋において、救いのみ業が証しされ、その救いにあずかった民の生活が証しされていることを見つめているのであり、だからこそ、そこに神様が臨んでくださり、そこで神様にお会いできることを見つめているのです。

神殿から生ける言葉が失われるときに
 そうであれば、神殿で「生ける言葉」が語られ、そこに集う人々がその「生ける言葉」を聞くならば、そこに神様は確かに臨んでくださり、人々はそこで神様にお会いできる、ということです。しかしイスラエルの民は、そして最高法院の宗教指導者たちも、「生ける言葉」である律法を、「死んだ言葉」にしてしまいました。「神殿」から、「生ける言葉」が失われるときに、神殿はただの建物に過ぎなくなり、偶像と化すのです。ステファノは共に読まれたイザヤ書66章1~2節を引用していますが、そのすべてを引用しているわけではありません。2節の後半を引用していないのです。しかし引用していなくても、ステファノは、この2節後半をこそ強調したかったのではないでしょうか。「わたしが顧みるのは 苦しむ人、霊の砕かれた人 わたしの言葉におののく人」。神様が顧み、目を注いでくださるのは、神様のみ前に打ち砕かれて、自分を低くして進み出る者であり、神様の言葉を、畏れを持って聞く者です。「生ける言葉」が語られ、それを、畏れを持って聞く人たちが集うところに、神様は臨んでくださり、出会ってくださるのです。ステファノは確かに「証しの幕屋」と「神殿」を比べています。しかしそれは、幕屋では神様にお会いできるけれど、神殿ではお会いできないということではありません。「証しの幕屋」では、「生ける言葉」が、つまり神様の救いが証しされていたゆえに、そこに神様が臨んでくださいました。それに対して神殿では、ソロモンが建てた当初は幕屋の延長上にあったにもかかわらず、次第に「生ける言葉」が聞かれなくなりました。そしてついに最高法院の指導者たちは、「生ける言葉」が証ししていた、モーセのような預言者である主イエス・キリストを拒み、十字架に架けて殺したのです。そのようにして「生ける言葉」が聞かれなくなるとき、また語られなくなるとき、神殿は人の手で造った建物に過ぎなくなります。それにもかかわらずその神殿を尊ぶとしたら、その神殿でしか神様にお会いできないと主張するなら、それは神殿を偶像化しているのです。

「生ける言葉」が語られ、聞かれる礼拝で
 私たちは確かにこの教会堂で、毎週の礼拝で、今もこの礼拝で、神様にお会いしています。そのことを確信してよいのです。しかしそれはこの教会堂が立派な建物だからではありません。そうではなくこの礼拝で、「生ける言葉」が語られ、それが聞かれているからです。私たちにとって、「生ける言葉」とは、私たちを本当に生かす言葉とは、主イエス・キリストご自身であり、その十字架と復活による救いです。主イエス・キリストが私たちの罪をすべて背負って十字架で死んでくださり、復活されて、天に昇り、父なる神様の右に座しておられる。そのことによって私たちが救われ、その救いの恵みのもとで今、生かされていることこそ、私たちを本当に生かす言葉なのです。この「生ける言葉」が語られ、それが聞かれる礼拝であるならば、その礼拝において、私たちは確かに主イエスにお会いし、神様にお会いしているのです。

聖霊によって
 しかし「生ける言葉」が語られ、それが聞かれるのも、私たちの力によるのではありません。51節でステファノは、最高法院の宗教指導者たちをさらに批判して、このように言っています。「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたがの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです」。心と耳に割礼を受けていないとは、神様の言葉を聞く心と耳を持っていないということです。そして彼らが神様の言葉を聞こうとしないのは、「いつも聖霊に逆らってい」るからです。彼らの先祖がそうであったように、いつも聖霊に逆らっているから、彼らは神様の言葉を聞こうとしないし、52節にあるように、神様の言葉を語った預言者をたち迫害してきた、と言われています。「正しい方」、つまり主イエス・キリストの到来を告げた預言者たちを拒み、ついには、その主イエスご自身をも十字架に架けて殺したのです。このように聖霊に逆らっているなら、神様の言葉を聞くことはできません。たとえ聞いていても、受け入れることはできません。だから私たちは何よりも聖霊を求めなくてはならないのです。私たち自身は、語る者も聞く者も罪人に過ぎません。最高法院の人たちと同じように神様の言葉を拒み、聞こうとしない者です。しかしその私たちが聖霊を求めます。礼拝において聖霊によって主イエス・キリストによる救いが告げられ、それが聞かれるとき、そこに確かに主イエスがいてくださり、神様がいてくださるからです。私たちの力によってではなく、聖霊によって、私たちは毎週の礼拝で、主イエスにお会いし、神様にお会いしているのです。

ステファノの殉教
 ステファノは律法そのものを、あるいは神殿そのものを批判したのではありません。律法を単なる規則、ルールにした律法の偶像化と、「生ける言葉」抜きの神殿の偶像化を批判したのです。しかし律法と神殿を拠り所として生きていた人たちにとって、このステファノの批判は許せるものではありませんでした。54節にこのようにあります。「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした」。そのように人々の激しい怒りと敵意が渦巻く中で、しかしステファノは、「聖霊に満たされ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った」のです。それを聞いた人々は、「大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始め」ました。そしてステファノを殺しました。このようにしてステファノはキリスト教会最初の殉教者となったのです。
自分の声だけを聞いてしまう

 リンチのようにしてステファノを殺した人々に対して、私たちはなんてひどいことをする人たちだと、なんて自分勝手で残酷な人たちだと思います。しかし私たちは、自分はこの人たちほどはひどくない、と本当に言えるのでしょうか。この人たちは、「大声で叫びながら耳を手でふさぎ」ました。ステファノの言うことを、これ以上聞きたくなかったからです。耳をふさいで大声で叫べば、自分の声しか聞こえなくなります。自分の声に、自分自身が占領されてしまうのです。私たちも自分の耳をふさいで、ほかの人の言葉を聞こうとせず、なによりも神様の言葉を聞こうとせず、自分の中に響き渡る自分の叫びだけを、自分の声だけを聞いてしまう者ではないでしょうか。自分の声だけを聞いていれば、自己中心的で、自分勝手な考えはどんどんエスカレートしていくだけ、肥大していくだけです。そうなると私たちは、たとえ人を殺すことはなくても、とても残酷なことをします。自分を優先して、助けを求めている人を見捨ててしまうことがあります。ほかの人を無視したり、あるいは攻撃したり、裁いたりしてしまうことがあります。私たちも、ステファノを殺した人たちと、そう変わらない。私たちも自分の耳をふさいで、自分の声だけを聞いて、自己中心的で自分勝手に振る舞い、残酷なことをする者なのです。

キリストの福音によって変えられ続ける
 それに対して、ステファノはなんて立派な人物なのだろう、と思うかもしれません。私たちとは全然違って、敬虔な、立派な人物だから、人々の怒りと敵意の中で、なお「神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを」見ることができたのだ。私たちにはとても同じことはできない。そのように思うのです。しかしそれもまた違うのではないでしょうか。ステファノも、「ギリシア語を話すユダヤ人」であり、かつては律法と神殿を拠り所として生きていました。彼もまた、自分の耳をふさぎ神様の言葉を聞こうとせず、自己中心的に生きてしまう者であったのです。しかしその彼が変えられました。どこででしょうか。キリスト教会の礼拝においてです。生まれたばかりの教会に立派な建物などありません。とりわけエルサレム教会は貧しかった。しかしどんなにみすぼらしくても、貧しくても、礼拝で語られる「生ける言葉」によって、キリストの福音によって、ステファノは変えられたのです。主イエス・キリストが自分のために死んで復活してくださったことを聞くことによって、彼は変えられたのです。

 ステファノは、「神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを」見ました。聖霊によってそれを見ることができました。しかしステファノは、このとき初めて見たというよりも、毎週の礼拝で語られるキリストの福音によって、主イエスとお会いし、神様の栄光と、その神様の右に座しておられる主イエスを見ていた、と言ってもよいのではないでしょうか。いつも礼拝でみ言葉を通して見ている、お会いしている主イエスを、このときはっきりと見ることができたのです。ただ、ここでは、「神の右に立っておられるイエス」を見たとあります。私たちは使徒信条で告白しているように、主イエスが「神の右に座している」と信じています。「座っている」か「立っている」かに本質的な違いはないとも言われます。そうなのかもしれません。しかしステファノは、このとき、座っているのではなく、立って自分のほうに身を乗り出してくださっている主イエスを見たのではないでしょうか。

 その主イエスに、ステファノは自分を委ねて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言いました。ステファノがここで初めてこの言葉を言ったのではないはずです。ユダヤ人は毎晩、「主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」(詩編31:6)と祈りました。ステファノも、毎晩、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と祈って、眠りについたのではないでしょうか。死の間際になって、この祈りの言葉が突然出てきたのではありません。この祈りを祈りつつ歩み続けてきたからこそ、死の間際にも、このように祈れたのです。

 ステファノは、最後に、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫びました。あれほど厳しく批判していたのに、自分を殺そうとする者たちのために、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈ったのです。なぜ、そんなことができたのでしょうか。それもまた、礼拝で、キリストの福音を、主イエスの十字架による罪の赦しを聞き続けてきたからです。キリストが十字架上で、ご自分を十字架につけた者たちのために、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたことを聞き続けてきたからです。ステファノ自身が、この主イエスの十字架の死によって罪を赦され、新しく生かされました。だからこそかつての自分と同じように、罪を犯している者たちの罪を赦してください、と主イエスに執り成し祈ることができたのです。

 私たちも、もともとは自分の耳をふさぎ神様の言葉を聞こうとせず、自己中心的に生きていました。しかしその私たちが、毎週、この教会に集められ、礼拝において、キリストの福音を聞き続けることを通して、変えられています。キリストの十字架と復活による救いを、キリストが十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたことを聞き続きることを通して、確かに変えられているのです。私たちはステファノのように殉教することはないかもしれません。しかし毎晩、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と祈りつつ、主イエスに自分を委ねて生きる者に、自分に罪を犯した人に対して、主イエスにその人の罪の赦しを執り成し祈る者へと変えられていくのです。もちろんそれは、私たちの力によってではなく、聖霊によってです。礼拝において、キリストの福音を通して主イエス・キリストにお会いし、神様とお会いすることによって、私たちはすでに変えられているし、これからも変えられ続けていくのです。聖霊によってキリストの福音が語られ、聞かれる礼拝において、このことが起こり続けているのです。

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