夕礼拝

イエスを復活させられた

説 教 「イエスを復活させられた」 副牧師 川嶋章弘
旧 約 詩編第16編1-11節
新 約 使徒言行録第2章22-36節

キリスト教会最初の説教
 使徒言行録2章を読み進めています。1~13節では、聖霊降臨の出来事、ペンテコステの出来事が語られていました。聖霊が弟子たちの上に降り、弟子たちは聖霊に満たされて、色々な国の言葉で神の偉大な業を語り始めたのです。それを目の当たりにしたユダヤ人たちは驚き、「いったい、これはどういうことなのか」(12節)と言いました。「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」(13節)と言って、あざける者もいたのです。ユダヤ人のこのような反応に対して、ペトロが語った説教が14節以下にあります。36節まで続く長い説教ですが、前回は23節まで読みました。本日は22節から終わりまで読み進めます。ペトロの説教と申しましたが、14節に「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた」とあるように、ペトロが一人で語ったというより、十二人の使徒を代表して語ったと言ったほうが良いでしょう。使徒たちの信仰を受け継ぐのが教会ですから、この説教は教会の説教であり、しかもキリスト教会最初の説教なのです。この説教に、教会が語るべきことが示されています。教会が語るべきこと。それは、主イエス・キリストの十字架の死と復活です。教会は、その誕生の時から今に至るまで、主イエスの十字架と復活を語り続けてきたのです。

イエスを十字架につけて殺した
 23節で「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまった」と言われていました。ペトロはユダヤ人に向かって、「あなたがたが主イエスを十字架につけて殺したのだ」と語ったのです。22節では、「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方」であり、ユダヤ人は、神の民イスラエルは、そのことを既に知っていた、と語られていました。つまりイエスの十字架の死とは、神の民が、神から遣わされた方を十字架につけて殺してしまった、という考えられないような出来事であったのです。ここに、人間の罪がどれほど深刻であるかが示されています。しかしユダヤ人の多くは、自分がイエスを十字架につけて殺したとは思っていませんでした。そのユダヤ人にペトロは、あなたがたがイエスを十字架につけて殺した、と告げているのです。それは、ペトロがイエスの十字架の死の責任をユダヤ人に押しつけ、一方的に糾弾している、ということではありません。なぜならペトロもユダヤ人であり、神の民イスラエルの一員であったからです。しかもペトロは、イエスの弟子として誰よりも地上を歩まれたイエスの近くにいました。それにもかかわらず、イエスが捕らえられると、三度、イエスなんて知らないと言って、イエスを拒み、裏切ったのです。ですからペトロは、自分こそがイエスを十字架につけて殺したと弁えた上で、語っているのです。それでもなお、「あなたがたが」と語るのは、ユダヤ人が、いえ、ユダヤ人だけでなく私たち一人ひとりが、イエスを十字架につけて殺したことを知らせるためです。ペトロは、イエスの十字架の死と関係ない人などいないことを、ほかならぬ私たちがイエスを十字架につけて殺したことを告げているのです。

罪と死の力
 この主イエスの十字架の死に、私たちは、私たち人間を支配し、捕らえている罪と死の力を見ます。罪の力はペトロを捕らえ、ユダヤ人を捕らえ、私たちをも捕らえたのです。また私たち人間は、誰もが地上の生涯を終えて死を迎えます。死の力から逃れられる者は一人もいないのです。この罪と死の力は、今もこの世界で猛威を振るっているように思えます。この世界の悲惨な現実は、罪と死の力に捕らえられた人間によって引き起こされているのです。戦争によって多くの命が奪われ、多くの人たちの命と生活が脅かされています。厳しい暑さが続いていますが、その背後に人間による深刻な環境破壊があります。国と国、人と人の間の分断も広がっています。どれも複雑な要因が絡んでいて、簡単に誰が悪いと言えることではありません。しかしこの悲惨な現実の根本には、人間の罪があります。イエスを十字架につけて殺してしまう人間の罪が、神様に背き、神様を無視し、自分を主人として、自己中心的に、自分勝手に生きる人間の罪があるのです。教会が主イエスの十字架を語るとは、主イエスを十字架につけて殺してしまう私たち人間の罪を語ることでもあります。人間の罪の現実を、罪と死の力に捕らえられた人間の姿を語ることでもあるのです。

神のご計画の中で
 ペトロは、ユダヤ人が、そして私たちがイエスを十字架につけて殺したことを、その罪を語りました。しかしそれだけではありません。この出来事が神のご計画の内にあったことも語っています。それが23節前半の、「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで」という言葉に示されています。神の民が、神から遣わされた方を十字架につけて殺した、という考えられないような出来事も、なお神のご計画の外にあったのではありません。神のご計画の中で起こったのです。それは、イエスの十字架の死が、神様にとって、またイエスご自身にとって、敗北や失敗を意味するものではなかった、ということです。さらに言えば、イエスの十字架の死は、ただ神の民が、神から遣わされた方を十字架につけて殺した、というだけではありません。なぜならイエスは十字架で死なれて終わりではなかったからです。

イエスを復活させられた
 ペトロは24節でこのように語ります。「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」。ここにイエスの復活が語られています。私たち人間の罪がイエスを十字架につけて殺しました。しかしそのイエスを、神様は復活させられたのです。ここで神様がイエスを復活させられた、と語られていることがとても大切です。イエスがご自分の力で復活した、と言われているわけではないのです。もしイエスがご自分の力で復活したのなら、イエスは特別な力を持っていたということになり、そのような特別な力を持っていない私たちにとって、イエスの復活は驚くべきことではあっても、自分たちとは関係ないことになってしまいます。しかし神様がイエスを復活させたのなら、イエスを信じ、イエスと結ばれて生きる私たちをも、終わりの日に神様が復活させてくださる、と信じて生きることができます。私たちは誰もが地上の生涯を終えて死を迎えます。しかし神様がイエスを死の支配から解放してくださったように、終わりの日に私たちをも死の支配から解放してくださることを信じ、そこに希望を置いて生きることができるのです。

私たちの罪の贖い
 イエスの十字架の死が神のご計画であったとは、イエスの十字架の死には目的があった、ということでもあります。その目的とは、神様が独り子イエスを十字架につけることによって、私たち人間の罪を赦してくださることでした。独り子イエスが私たちの罪をすべて背負って、私たちの代わりに十字架で死んでくださることによって、私たちの罪を贖ってくださったのです。しかしこのことは、神様がイエスを復活させてくださったことによって確かなこととなりました。イエスが十字架で死なれただけであれば、それは私たちの罪の贖いのためであったかもしれないし、そうでなかったかもしれません。しかし神様が、十字架で死なれたイエスを復活させたことによって、その十字架の死が、確かに私たち人間の罪の贖いであったことを示したのです。このようにイエスの十字架の死と復活は、別々の出来事ではなく、ひと続きの出来事です。私たちが贖われ救われたのは、イエスの十字架の死だけによるのでも、復活だけによるのでもなく、イエスの十字架の死と復活というひと続きの出来事によるのです。

聖書において予告されていた
 主イエスの十字架の死と復活が、偶然に起こったことではなく、神のご計画であったことは、すでに神様が(旧約)聖書においてイエスの十字架と復活を予告されていたことからも示されます。だからペトロは、25節から28節で、共に読まれた詩編16編8節以下を引用しているのです。27節に「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を 朽ち果てるままにしておかれない」とあります。このみ言葉は、神様がイエスを十字架で死なれたまま、朽ち果てるままにしておかれず、つまり死に支配されたままにしておかれず、復活させることを予告していたのです。

キリストを証言する詩編
 この16編の引用に先立って、25節でペトロは、「ダビデは、イエスについてこう言っています」と語っています。しかし16編の冒頭1節、いわゆる表題を見ると、そこには、「ミクタム。ダビデの詩」とあり、16編はダビデが自分について語っている詩であるように思えます。そうであるならば先ほどの27節は、神様がダビデを陰府に捨てておかれない、朽ち果てるままにしておかれない、と語っていることになってしまいます。しかしペトロは、そうではなく、ダビデは主イエス・キリストについて証言しているのだ、と言います。「ダビデは、イエスについてこう言っています」は、このことを意味しているのです。

 さらにペトロはこのことを説明して、29節でこのように言っています。「兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます」。つまりダビデは死んで、葬られ、その墓もあるのだから、16編はダビデ自身のことを語っているのではない、と言っているのです。では、どういうことになるのでしょうか。それが30節以下で語られています。「ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました」。ダビデは、自分の子孫からまことの王、まことの救い主が誕生するという神様の約束を知り、またその救い主が復活することをも前もって知り、16編において救い主(キリスト)の復活を預言した、と言われているのです。このようにペトロは詩編16編を、キリストを証言する詩編として読みます。このような詩編の読み方は、初代のキリスト教会においてとても大切にされました。詩編は、確かに祈りの書です。しかし同時に、キリストを証言する書でもあるのです。

主イエスの復活の証人
 そしてペトロは32節でこのように言います。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」。神様は、私たちが十字架につけたイエスを、詩編にすでに予告されていたように、復活させてくださいました。しかしペトロはそのように語って終わりませんでした。この詩編の預言が実現して、十字架で死なれたイエスが復活されたことを、ペトロ自身が、十二人の使徒たちが目撃し、自分たちが「そのことの証人」、つまり主イエスの復活の証人である、と語ります。それは、ペトロたちが、イエスを見捨てて逃げ出し、裏切ったことを深く反省し、心を入れ替えて、心機一転、主イエスの復活の証人となった、というようなことではありません。彼らを主イエスの復活の証人としたのは、主イエスご自身です。ルカ福音書24章が語っていたように、復活の主イエスが弟子たちに出会ってくださり、み言葉を説き明かしてくださり、彼らの心を開いてくださったことによって、彼らは復活の主イエスを信じました。その弟子たちを、主イエスはご自分の十字架と復活を証言する者として立て、遣わされたのです。

十字架と復活の出来事に巻き込まれて
 それは、ペトロたちが主イエスの十字架と復活の出来事に巻き込まれている、ということではないでしょうか。傍観者ではないということです。主イエスの十字架と復活によって救われた者として、罪と死の支配から解放された者として、終わりの日の復活と永遠の命を約束されている者として、主イエスの十字架と復活を、世のすべての人々に宣べ伝えるために遣わされたのです。

 私たちも主イエスの十字架と復活の出来事の傍観者でいられるはずがありません。傍観しているだけなら、2000年前にイエスという偉い人が、十字架で死んで復活したという驚くような出来事があった、と思っておしまいです。しかし私たちはそうではあってはならない。そうであるはずがない。私たちがイエスを十字架につけて殺したにもかかわらず、その十字架と復活によって、私たちが救われたからです。ペトロたちのように、この目で復活の主イエスを見ることはできなくても、主イエスの十字架と復活は、私たちと関わりのない出来事ではなく、ほかならぬ私たちのための出来事です。私たちも、私たちを罪と死の力から解放し、私たちに終わりの日の復活と永遠の命を約束する、この主イエスの十字架と復活の出来事に巻き込まれているのです。だから私たちは、私たちの教会は、この主イエスの十字架と復活を宣べ伝えていきます。主イエスの十字架と復活に関わりのない人などいないことを、誰もが主イエスの十字架と復活による救いにあずかり、罪と死の力から解放され、復活と永遠の命の約束を与えられて生きることへ招かれていることを語り続けていくのです。

イエスは神の右に上げられ
 しかしそのように使徒たちが、主イエスの復活の証人として、主イエスの十字架と復活による救いを語り始めるためには、これまで使徒言行録2章が語ってきたように、主イエスが天に昇り、聖霊を送ってくださる必要がありました。ペトロはこのことを33節で語っています。「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」。ペトロは人々に向かって、あなたがたが今、見聞きしている出来事は、十字架で死なれたイエスを、というよりあなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神様が復活させてくださり、天に上げてくださり、その主イエスが、約束された聖霊を父なる神様から受けて、注いでくださったことによって実現した、と語っているのです。
 主イエスの十字架と復活がそうであったように、主イエスの昇天も、すでに(旧約)聖書で、予告されていたことでした。ペトロはそのことを、34、35節で語っています。「ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするときまで」』」。これは詩編110編の引用ですが、ペトロは、ダビデが語った言葉の最初の「主」は、主なる神様のことであり、「わたしの主」は、ダビデの主であり、それが主イエスを指し示している、と読んでいます。つまりダビデは、主なる神様が主イエスに、「わたしの右の座に着け」と告げられた、と預言したということなのです。このように詩編110編は、主イエスが天に上げられ、父なる神の右の座に着くことを預言していたのであり、その預言が成就したのです。

主イエスがこの世界を統治されている
 主イエスが天に上げられ父なる神の右に座しておられることは、私たちに多くの恵みを与えます。このことについては、すでに1章6節以下を読み進めたときにお話ししました。ここでは詩編110編が引用されていることに注目して、そこから示される主イエスの昇天の恵みを受けとめたいと思います。110編を引用して、「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするときまで」とありました。天に上げられた主イエスが、父なる神の右の座に着いたとは、神様が主イエスにこの世界の統治を委ねられた、ということです。この世界は、私たちの罪をすべて背負って十字架で死んでくださった主イエスによって、それほどまでに私たちを愛し、生かそうとしてくださる主イエスによって統治されているのです。このことは私たちにとって大きな恵みであり、慰めであり、支えと励ましでもあります。しかし私たちはこの恵みをしばしば見失います。私たちの目に見えるのは、この世界の悲惨な現実だからです。罪と死の力が、なおこの世界で猛威を振るっているように思えるからです。日々、新聞やテレビで伝えられ、あるいはSNSで発信されるニュースは、私たちを憂鬱にさせるものばかり、不安や恐れを感じさせるものばかりではないでしょうか。そのために多くの人々の心が疲れ、落ち込んだり、逆に攻撃的になったりして、さらに社会が荒んでいっているように思えます。今なお、罪と死の力が失われていないことは、110編の引用においても見つめられています。「わたしがあなたの敵を あなたの足台とするときまで」と言われていました。「あなたの敵」とは、何よりも罪と死の力です。その罪と死の力が滅ぼされるときまで、と言われているのです。罪と死の力が滅ぼされるときとは、救いの完成のとき、終わりの日です。ということは、それまでは、終わりの日までは、なお罪と死の力は残っているのです。そして私たちの目には、それらの力が猛威を振るっているように思えるのです。しかし天におられる主イエスがこの世界を統治しておられるとは、どれほど罪と死の力が猛威を振るっているように思えても、罪と死の力に対する主イエスの勝利、神の勝利は確定しているということです。罪と死の力は侮ることはできないとしても、神の勝利は決して揺るがないのです。

罪と死の力に対する決定的な勝利
 なぜ、そのようなことを、私たちが信じることができるのでしょうか。それは、神様が、十字架で死なれたイエスを復活させてくださったからです。すでに主イエスの十字架と復活において、神様が罪と死の力に決定的に勝利してくださったからです。終わりの日まで、なお罪と死の力は残り続けます。罪の力に捕らえられた人間が、この世界の悲惨な現実を引き起こします。他人事ではなく私たち自身が日々罪を重ねています。また死の力は、必ず私たちを捕らえ、私たちは死んでその肉体は滅びるのです。しかしそれがすべてではありません。終わりの日に、罪と死の力は完全に滅ぼされ、私たちは死から解放されて復活と永遠の命にあずかるからです。私たちに与えられているこの約束は、主イエスの十字架と復活によって、神様がすでに罪と死の力に決定的に勝利してくださったゆえに、決して揺らぐことはないのです。だから私たちは、私たちを憂鬱にさせ、不安にさせ、恐れさせる報道が溢れている中で、落ち込んだり、逆に攻撃的になったりするのではなく、天におられる主イエスが確かにこの世界を統治してくださっていることに目を向けます。罪と死の力に対する神の勝利が決して揺らがないことに目を向けて、社会が荒んでいくのに抵抗して、救われた者として、罪と死の支配から解放された者として、復活と永遠の命を約束されている者として、感謝して喜んで生きていくのです。

私たちの主、救い主
 ペトロは、このように告げて説教を終えます。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。このことを私たちもはっきり知らなくてはなりません。このことを自分自身のこととして受けとめることによってこそ、私たちは、悲惨な現実の中にあって、なお絶望することなく、忍耐して生きることができるのです。私たちがイエスを十字架につけて殺しました。しかし神様は、十字架で死なれたイエスを復活させ、天に上げられました。そのことを通して、イエスが私たちとこの世界の主であり、私たちの救い主、メシアであることをはっきり示してくださったのです。だから私たちは、私たちの教会は、私たちが十字架につけて殺し、しかし神様が復活させられたイエスが、私たちの主、私たちの救い主であることを宣べ伝えていくのです。イエスを私たちの主、私たちの救い主として告白して生きることへ、すべての人が招かれていることを語り続けていくのです。イエスを私たちの主、私たちの救い主と告白し、天におられる主イエスがこの世界を統治してくださっていることを信じて生きるとき、私たちは、混迷を深める世界の中にあって、なお希望を持って生きることができるのです。

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