夕礼拝

約束されたもの

説教「約束されたもの」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 イザヤ書第61章1-4節
新約聖書 使徒言行録第1章1-5節

使徒言行録を読み始める
 本日から私が夕礼拝を担当するときには、使徒言行録を読み進めます。本日から使徒言行録の連続講解説教が始まる、ということです。正確に言えば、先週、すでに連続講解の一部として2章1~13節を読みました。それは先週がペンテコステで、ペンテコステの出来事が語られている2章1節以下を読むのがふさわしいと考えたからです。2章1~13節を先に読んでしまう形になりましたが、本日から最初に戻って使徒言行録を読み始めます。
 さて、使徒言行録を読もうと考えた理由はいくつかありますが、一番シンプルな理由は、これまで読んできたルカ福音書の続きだからです。先々週、ルカ福音書の連続講解を終えました。コロナ禍で夕礼拝をお休みしていた二年を含めると、約六年間をかけて読み終えたことになります。しかしそれは、上下巻の本の上巻を読み終えたようなものです。せっかく長い時間をかけて上巻を読み終えたのに、下巻を読まない手はない、と思ったのです。

第一巻
 今、私は、使徒言行録がルカ福音書の続きであることを、ルカ福音書が上巻とすれば、使徒言行録が下巻であることを当然のようにお話ししていますが、このことはどこから分かるのでしょうか。本日の箇所の冒頭、つまり使徒言行録の冒頭から分かります。1~2節にこのようにあります。「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」。「わたしは先に第一巻を著して」と言われています。この先に著した第一巻がルカ福音書です。ルカ福音書と使徒言行録の著者とされるルカは、前者を第一巻として、後者を第二巻として書いたのです。第一巻であるルカ福音書では、これまで六年間かけて読んできたように、主イエスの地上の歩みが語られていました。主イエスが多くのみ業を行い、多くの教えを語られ、そして十字架で死なれ復活され、天に昇られたことが語られていたのです。先ほど見た使徒言行録の冒頭1~2節では、この第一巻に記されていることが簡潔に要約されています。「お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え」については後で見るとして、それを除いて読むと分かりやすいと思います。「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから……天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」。つまり著者ルカによれば、第一巻であるルカ福音書は、天に上げられた日までの主イエスの歩みのすべてについて、主イエスのみ業と教えのすべてについて記しているのです。

第一巻と第二巻の関係
 この第一巻に続く第二巻が使徒言行録ですが、第一巻と第二巻の関係はどのようなものなのでしょうか。著者ルカは、福音書を書き終えた後に、福音書では書き切れなかったことがあったので、続きを書くことにしたのでしょうか。そうではないと思います。ルカは、最初から第一巻と第二巻を書こうと考えていたのです。このことはルカ福音書が、その初めから、第二巻を視野に入れていたことから示されます。たとえばルカ福音書の初め、2章25節以下で、シメオンという人物が登場し、神殿の境内で幼子イエスと出会ったとき、このように言いました。2章30~32節です。「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」。ルカは、シメオンの言葉を通して、主イエスによる救いがすべての民のために実現すること、つまりその救いがユダヤ人だけでなく異邦人にも及ぶことを語っています。しかしこのシメオンの言葉は、ルカ福音書の中では実現していません。ルカ福音書において主イエスによる救いは異邦人に宣べ伝えられていないからです。おそらくルカは、このシメオンの言葉の実現を第二巻において記そうと考えていたのです。このようにルカは、初めから第一巻と第二巻からなる書物を構想していました。ですから私たちは使徒言行録を読み進めるとき、第一巻であるルカ福音書との結びつきを絶えず意識する必要があるのです。

第二巻の主人公は?
 第一巻であるルカ福音書は、すでに見たように、地上の歩みにおける主イエスの働きについて記しています。では第二巻である使徒言行録は、何を記しているのでしょうか。それはこれから読み進める中で示されていくことですが、読み始めるにあたり、この使徒言行録の主人公は誰なのか、という問いを立ててみるのは意味のあることだと思います。第一巻の主人公は、主イエス・キリストであったと言って良いでしょう。では、第二巻の主人公は誰なのでしょうか。

主人公は、天に昇られた主イエス
 一つには、第二巻の主人公も主イエス・キリストである、と考えることができます。使徒言行録1章6節以下では、ルカ福音書の終わりで語られていた主イエスの昇天が改めて語られています。その主イエスの昇天以後、主イエスは地上にはおられず天におられるのです。しかし天におられる主イエスが何もしていないのかというと、そうではありません。むしろ使徒言行録は、天におられる主イエスの働きをしばしば語っているのです。たとえばサウル、後のパウロに、天におられる主イエスが、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか…わたしは、あなたが迫害しているイエスである…」(9章4~5節)と語りかけています。また、後にコリント伝道の困難に直面しているパウロに、やはり天におられる主イエスが、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」(18章9~10節)と語りかけています。あるいはフィリピという街で紫布を商うリディアという女性が洗礼を受けたとき、「主が彼女の心を開かれたので」(16章14節)と語られていて、天におられる主イエスがリディアの心を開いてくださったことが記されています。このように第二巻の主人公も主イエス・キリストだと言うことができます。ルカは、第一巻では地上における主イエスの働きを、第二巻では天に昇られ、天におられる主イエスの働きを記した、と言えるのです。
 主イエス・キリストは十字架で死なれ、復活され、天に昇られて、そこで休んでおられるのではありません。働いておられるのです。使徒言行録の時代だけではなく、今このときも、そうです。天に昇られた主イエスが、私たちたちといつも共にいて、語りかけ、励まし、私たちの心を開いてくださるのです。私たちが休んでいるときですら、主イエスは働いておられます。復活して天に昇られた主イエスは今も生きて働かれ、この世界をご支配くださっている。私たちはそのことを信じているのです。私たちは使徒言行録を読み進める中で、復活して天に昇られた主イエスの働きを目の当たりにします。そのことを通して、主イエスが今も生きて働かれ、この世界と私たちをご支配くださっていると信じる信仰を確かなものとされるのです。

主人公は、聖霊
 その一方で、第二巻の主人公は聖霊である、と考えることもできます。先週見たように、ペンテコステに聖霊が弟子たちの上に降り、弟子たちは聖霊に満たされて「神の偉大な業」、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを力強く語り始め、そこに教会が誕生しました。聖霊はそのときだけ弟子たちに降ったのではありません。使徒言行録は、ペンテコステ以後、弟子たちと誕生したばかりの教会が聖霊に満たされ、導かれて歩んでいく姿を描いています。その点に注目すれば、第二巻の主人公は聖霊と言えるでしょう。そしてその聖霊は、今も私たちと私たちの教会に働きかけています。私たちの教会も聖霊に満たされ、導かれて歩んでいるのです。使徒言行録を読み進める中で私たちは、今、私たちと私たちの教会を導いている聖霊の働きに目を向けていくのです。

主人公は、使徒
 しかしさらに、第二巻の主人公は使徒である、と考えることもできます。「使徒言行録」という書名は、直訳すれば、「使徒たちの諸々の言葉と行い」となります。この書名は、第二巻が使徒たちの言葉や行いを、つまり使徒たちの働きを記していることを示しています。もっともこの書名はルカによるのではなく、後から付け加えられたものです。しかしそれでも、第二巻が使徒たちの働きを記しているのは確かであり、第二巻の主人公は使徒たちである、とも言えるのです。私たちは使徒言行録の描く使徒たちの姿に、自分たちを重ねることができます。それは私たち自身が使徒である、ということではありません。しかし私たちは使徒に続く者です。「使徒」とは「遣わされた者」という意味の言葉ですが、私たちキリスト者は誰もが、主イエスによる救いを証しし、宣べ伝えるために、主イエスによって遣わされた者に違いありません。そうであれば第二巻の主人公は、私たち自身である、と言っても間違いではないかもしれません。

主人公は、教会
 このように第二巻の主人公は、天に昇られた主イエスとも、聖霊とも、使徒たちとも考えられます。どれか一つに絞る必要はありません。いずれも第二巻の主人公と言えるし、私たちは使徒言行録を読み進める中で、天に昇られた主イエスの働きに、また聖霊の働きに、そして使徒たちの働きに目を向けていくのです。ただ使徒たちが主人公であるとは、使徒たちが自分の力で伝道を進めていった、ということではありません。天に昇られた主イエスと聖霊と使徒の関係を捉えることが大切です。つまり天に昇られた主イエスが、そして聖霊が、使徒たちに働きかけ、使徒たちを用いることによって、伝道は進んでいくのです。それが教会の歩みです。このことを踏まえれば、第二巻の主人公は教会である、と言うのが一番良いかもしれません。聖霊が降ったことによって誕生した教会は、今も生きて働かれる主イエスのご支配のもとで、聖霊のお働きと導きによって、また使徒たちと使徒に続く者たちを用いて、つまり私たちを用いて、2000年に亘って歩んできたし、今も歩んでいるのです。私たちは使徒言行録を読み進めることで、私たちの教会の歩みをも示されていきます。特に、日本の教会が置かれている状況は、2000年の隔たりがあるにもかかわらず、使徒言行録で語られている教会の状況に近いところがあります。使徒言行録が語る誕生したばかりの教会は、当然のことながら、キリスト者が圧倒的に少数の社会にあって、多くの困難に直面しながら伝道しました。日本のプロテスタント宣教が始まって160年が過ぎましたが、なお日本の教会は困難な状況にあります。だからこそ私たちは、使徒言行録が記している、困難の中にあっても前進していく誕生したばかりの教会の姿から力を与えられ、励まされていきたいのです。

ペンテコステの前から聖霊の働きはあった
 さて、先ほど1~2節の中で、「お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え」を後回しにしていました。この主イエスが使徒たちに聖霊を通して与えた指示とは、おそらくルカ福音書の最後、24章44節以下で語られていたことです。復活の主イエスは、聖書を悟らせるために弟子たちの心を開き、弟子たちに「キリストの十字架と復活の証人」となる、と言われ、しかし主イエスが「父が約束されたもの」を送り、「高い所からの力に覆われる」までは、エルサレムに留まるよう指示されたのです。この指示が聖霊を通して与えられた、と語られていることに疑問を持たれるかもしれません。「父が約束されたもの」が聖霊にほかなりませんから、聖霊を通して聖霊を待つように命じられたというのは、矛盾しているように思えるのです。しかし聖霊は、ペンテコステに初めて降ったのではありません。ペンテコステの前は、聖霊の働きがなかったということではないのです。たとえばルカ福音書のクリスマス物語で、身ごもったマリアがエリサベトを訪ねたとき、「エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った」(1章41~42節)、と語られていました。ペンテコステの前から、聖霊は注がれていたし、聖霊の働きはあったのです。この聖霊の働きを通して、主イエスは天に昇られる前に、弟子たちに指示を与えられたのです。

ご自分の復活を示された
 この指示は、本日の箇所の3節以下でも語られていますが、ルカ福音書では記されていなかったことも含まれています。3節で、このように言われています。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」。主イエスは十字架で苦しみを受けられ死なれましたが、神様によって復活させられて、弟子たちに現れてくださいました。復活の主イエスが「四十日にわたって」弟子たちに現れたことが記されているのは、新約聖書でここだけです。この四十日は、復活された主イエスが地上にいてくださった「特別な四十日」、と言えるでしょう。残念ながら私たちは決して経験することのできない四十日です。この特別な四十日の間に、主イエスは使徒たちに、「御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって」示されました。ご自分が本当に復活させられ、体を持って生きていることを示されたのです。「証拠」と訳された言葉は、誰かを論理的に説得するときの「決定的な証拠」を意味する強い言葉です。その決定的な証拠とは、ルカ福音書の終わりで語られていた、復活の主イエスが弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたことや、ご自分の手や足をお見せになったこと、さらには焼いた魚を一切れ食べられたことなどでしょう。特別な四十日の間に、主イエスは使徒たちにこれらの数多くの決定的な証拠をもって、ご自分の復活を示されたのです。

神の国について話された
 また復活の主イエスは、特別な四十日の間に、使徒たちに神の国について話された、とも言われています。ルカ福音書は、主イエスが地上の歩みにおいて神の国を宣べ伝えたことを語っていました。その神の国について、復活の主イエスがここで使徒たちに改めて話されたのです。それは、主イエスが宣べ伝えてきた神の国を、今度は使徒たちが、弟子たちが宣べ伝えていくためです。そのための最後のレクチャーを復活の主イエスがしてくださった、と言って良いかもしれません。使徒言行録は、この後、弟子たちが神の国を宣べ伝えていくことを語っていきます。その終わり、28章31節には、パウロが「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」とあります。地上を歩まれた主イエスが宣べ伝え続けた神の国を、パウロが、当時の世界の中心であったローマで宣べ伝え続けた、と語ることで使徒言行録は終えられているのです。使徒言行録は、主イエスの宣べ伝えた神の国が、弟子たちによって世界の中心にまで宣べ伝えられていく、その歩みを語っているのです。

すでに実現し、将来完成する神のご支配を宣べ伝える
 「神の国」とは、神のご支配のことです。しかもそのご支配は恵みによるご支配です。この神の恵みによるご支配は、主イエス・キリストが来てくださり、十字架で死なれ復活されたことによって、すでにこの地上に実現しています。私たちは洗礼を受け、救いにあずかることによって、この神の恵みのご支配のもとに入れられているのです。しかし神のご支配は、なお私たちの目に見えるわけではありません。私たちは今、目に見えない神のご支配を信じて生きているのです。しかし将来、世の終わりに、神のご支配は完成し、誰の目にも見えるようになります。神の国を宣べ伝えるとは、すでにキリストによって神のご支配がこの地上に実現し、将来、そのご支配が完成することを宣べ伝えることにほかなりません。主イエスはこのことを宣べ伝えました。主イエスに遣わされた弟子たちも、そして私たちもこのことを宣べ伝えていくのです。すでに神の恵みのご支配に入れられ、将来、その完成にあずかる約束を与えられている者として、私たちはすでに実現し、将来完成する神の恵みのご支配を宣べ伝えていきます。神のご支配の完成を待ち望みつつ、目に見えない神のご支配を信じて生きるところに、困難に直面するときも絶望しない歩みが与えられていくことを宣べ伝えていくのです。

約束されたもの
 復活の主イエスは使徒たちと食事を共にし、このように命じられました。4節です。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」。「エルサレムを離れず…父の約束されたものを待ちなさい」、つまり聖霊を待ちなさい、というのが、ルカ福音書の終わり24章49節で主イエスが弟子たちに与えた指示でした。ここでも改めて聖霊を待ちなさい、と命じられています。聖霊を待つのは、聖霊による洗礼を授けられるためです。聖霊による洗礼とは、聖霊に浸され、満たされることによって、新しくされることを意味しています。弟子たちは聖霊によって新しくされることによって、神の国を宣べ伝えていくことができるのです。

聖霊を待つ
 復活の主イエスは、聖霊を待つことの大切さを教えてくださいました。しかし私たちは、しばしば聖霊を待つことができません。聖霊の働きを待たずに、自分たちの力でなんとかしようとしてしまいます。自分たちの知恵や工夫、計画に頼ろうとしてしまうのです。もちろん私たちが計画を立て、知恵を絞り、工夫することに意味がない、ということではありません。しかしその前に、私たちは聖霊を待つ必要がある。せっかちに自分たちでなんとかしようとするのではなく、聖霊の働きを待つのです。弟子たちはずっと待たなくてはならなかったのではありません。主イエスは「間もなく」聖霊が注がれる、と約束してくださり、その約束通り、主イエスが天に昇られてから10日後に聖霊が降ります。そして聖霊に満たされた弟子たちは、力強く主イエス・キリストの十字架と復活による救いを語り始め、教会が誕生するのです。聖霊によって弟子たちが新しくされ、新たな力を与えられることによって、弟子たちが思ってもみなかった、神様の驚くべきみ業が実現するのです。私たちも自分の力に頼るのではなく、聖霊を待ちます。すぐに自分の力に頼ろうとする思いを脇において、天におられる主イエスが必ず聖霊を送ってくださることに信頼して、聖霊の働きを祈り求めるのです。聖霊の働きによって私たちが新しくされ、新たな力を与えられることによって、思いもよらない神様の驚くべきみ業が実現していくのです。

良い知らせを告げる教会
 共に読まれた旧約聖書イザヤ書61章1節にこのようにありました。「主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために」。「貧しい人」と言われていますが、必ずしも経済的に貧しい人だけを意味しているのではありません。聖書協会共同訳は「苦しむ人」と訳しています。言葉を補えば、救いを求めて苦しんでいる人、ということです。ルカ福音書は、このみ言葉が主イエスにおいて実現したと語りました。神の国を宣べ伝えるとは、このみ言葉が主イエス・キリストにおいて実現し、そして将来、世の終わりに完成することを宣べ伝えることにほかなりません。教会は救いを求めて苦しんでいる方々に、主イエス・キリストの十字架と復活による救いの良い知らせを伝えます。この世の様々な苦しみや悲しみによって心の打ち砕かれた方々を包み、罪と死の支配に捕らわれ、つながれている方々に自由と解放を告げ知らせていくのです。
 それは、私たち自身の力によるのではありません。復活され天に昇られ、今も生きて働かれている主イエス・キリストの働きと、聖霊の働きによってです。だから教会は聖霊を待ち、聖霊の働きを祈り求めて歩んでいきます。神様が聖霊の働きによって私たちの教会を用いて、私たち一人ひとりを用いて、驚くべきみ業を行ってくださることに信頼して歩んでいくのです。聖霊を待ち、聖霊の働きに信頼して歩んでいく教会は、苦しみと悲しみ、不安と恐れに満ちている世界に、良い知らせを、自由と解放を、本当の慰めと平安と希望を告げ知らせていくのです。

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