主日礼拝

イエス・キリスト

説教「イエス・キリスト」 港南希望教会伝道師 坂口由起
旧約聖書 創世記第1章1-3節
新約聖書 コリントの信徒への手紙一第15章1-11節

「初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」

これが、この世の始まりでした。神様が天地を造られた時、地は混沌でありました。
混沌という言葉は元々の意味は、「形なく、虚しい」という意味です。神様によって光がもたらされる前は、大地は形がなく、虚しい状態でした。真っ暗で、命がない状態です。
そこで神様は仰いました。「光あれ。」すると、全地に光がもたらされました。光がもたらされたことによって、命が始まったのです。
新約聖書は、使徒パウロが書いたコリントの信徒への手紙15章の御言葉に聞きました。パウロは、まるでこの天地創造のような体験をした人です。パウロは元々、熱心なファリサイ派で、厳格に律法を守っていました。彼はメシアの到来と神の国の実現を待ち望むあまり、律法を守らないユダヤ人たちには暴力を振るうことも辞さないほどでした。しかしある時、パウロは耳を疑うような知らせを聞きます。
「十字架につけられて殺されたイエスを、神は主とし、メシアとなさったのだ!」
「神はイエスを死の苦しみから解放し、復活させた!」
「ナザレのイエスこそ、神が遣わされたメシアだ!」
大勢の人々が大声で叫び始めたのです。いろんな国の言葉で、燃え盛る炎のように叫び続けました。この叫びを聞いた人々は、次々にイエス様を信じるようになり、信じられない速度で福音が広がっていきました。パウロにとって、これは神への冒瀆以外の何物でもありませんでした。十字架刑は、ユダヤ人にとって最も恥ずべき死です。ローマ帝国の残忍な刑罰であり、人前で辱めを受け、苦しみながら命を絶たれる恥ずべき死刑でした。そんな「十字架刑で死んだイエス」が「復活した」と多くの人々が叫び始めたのです。
パウロはこれが「偽物のメシア」だと確信しました。なぜなら、彼が信じる終末の預言では、ラッパが鳴り響くと、イスラエルの民が皆で復活して、神の国に入るはずだったからです。終末でもないのに、一人の人間が、しかも「十字架で死んだイエス」が先に復活するなど、ありえないと、パウロは激しく憤りました。
「偽メシアを滅ぼさなければならない。」
パウロはキリストの弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、ダマスコへ向かいました。男女問わず縛り上げて、エルサレムに連行しようとしたのです。この時、彼は神様のために正しいことをしていると信じていました。けれども、実際は、パウロは、神様に敵対していたのです。
キリスト者を滅ぼし尽くすという使命感に燃えて、ダマスコへと旅をしていた時、突然、パウロは天からのまばゆい光に照らされました。強烈な光に照らされて、パウロは地面に倒れてしまったのです。すると、天から声が聞こえてきました。
「なぜ、わたしを迫害するのか」
パウロが「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、また天から声が聞こえました。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
パウロは地面から起き上がりましたが、目が見えなくなっていました。それからパウロは三日間、目が見えず、食べることも飲むこともせずに、暗闇の中で祈り続けました。
彼を照らした強烈な光は、主イエス・キリストの栄光です。神の栄光に照らされた時、人間は、自分がいかに形なく、虚しい者であるかを悟ります。それは、創世記で語られていた、光がもたらされる前の大地のように、形なく、虚しい、命なき混沌とした状態と同じです。
パウロは、キリスト者を迫害し、殺すことが神に仕える正しい行いだと信じていました。しかし、それこそが罪だったのです。彼は神に従うのではなく、自分自身の「正しさ」に従って生き、神に背き続けていました。そして栄光に輝くイエス様が目の前に現れた時、パウロの罪が明らかにされたのです。彼の人生は根底から覆されました。
「あのイエスは本当に復活されたのだ。十字架につけられたイエスこそがメシアだったのだ、あの方こそ神だったのだ。」パウロは、自らの罪に打ちひしがれ、絶望しました。
この時、パウロは死にました。肉体は生きていても、復活の主イエスに出会ったことで、古いパウロという人間は死にました。3日間、暗闇の中で、彼は死んだのです。

皆さんの中にも、パウロのように闇の中にいるような絶望を体験した方がいらっしゃると思います。私も、そのような深い闇を経験した一人です。
私はイエス様のことも、キリスト教のことも全く知らずに人生の大半を生きてきました。平凡な家庭で生まれ育ったのですが、21歳の時、不思議な出来事が起こりました。夏休みに大学の友人たちと8人で、車で旅行していた時のことです。夜中に港に着いて、車を停めて少し休憩を取ることになりました。私は車を降りて、友人と二人で、ぼんやり海を眺めていました。
その港には灯台があって、灯台の光がくるくると回って真っ暗な海を照らしてました。私も彼女も特にお喋りもせず灯台の光を眺めていたのですが、突然、真っ暗だった海全体が、ピカッと金色に輝いたのです。そして、海が金色に光ったその瞬間、白い服を着ている人が海の上を歩いてこちらに向かってくるのが見えました。私たちは同時に叫び声を上げました。一瞬の出来事でしたが、私も彼女も海の上を歩く人を見たのです。私たちは「幽霊だ!」と他の友人たちにも伝えて大騒ぎになりました。しばらく海を眺めていましたが、その人の姿は二度と見えませんでした。その後も、私は金色に輝く海と、海の上を歩く白い人の姿を忘れることができませんでした。
その後、私の人生には次々と災いが降りかかり、28歳の時には、死を考えるほど絶望の淵に立たされました。ある日、私は池に行って、橋の上に立ってぼんやり水を眺めていました。「ここに飛び込めば死ねる」と思いながら、ぼんやり水を眺めていたのです。すると、遠くに白い羽が飛んでくるのが見えました。
その羽は、私の目線の先まで飛んでくると、空中で止まってフワフワ浮いていました。その時、なぜか分からないのですが、心の中で「まだ私が生きていけるのなら、こっちに来てください」と願いました。すると、その羽はくるくると円を描くように回り始めました。私はもう一度、心の中で願いました。「まだ私が生きていけるのなら、こっちに来てください。」
するとその羽は一直線に私の方へ向かって飛んできて、手のひらにピタッと止まったのです。その瞬間、私の目から涙が溢れました。「誰かが見てくれている、守ってくれている」と思ったのです。私は涙を流しながら、羽を握って家に帰りました。
でも、それで問題が解決したわけではありません。その後も不幸な出来事は続いて、何年も苦しんだ後、人生をやり直そうと思ってニューヨークへ留学しました。38歳の時です。実際にニューヨークに行ってみると英語が全然わからなくて、余計に苦しむことになってしまいました。途方に暮れながらホームステイ先の家の周りを散歩していると、近くに教会を見つけました。2週間迷ったのですが、勇気を出して日曜日に礼拝に行きました。
礼拝堂に入ると、窓から煌々と光が差し込み、十字架が金色に輝いていて、とても心が安らぎました。礼拝で何が行われているのか全く分かりませんでしたが、不思議と心が癒されたのです。カルロス牧師と教会の皆さんが、言葉が通じない私を家族のように温かく迎えてくださり、毎週礼拝に通うようになりました。
礼拝に通い始めてから一ヶ月経った時、カルロス牧師が「よかったら今度、話をしに来ない?」と声をかけてくださいました。私は、自分の人生が不幸の連続だったこと、自殺を考えたこと、白い羽によって命が救われたこと、それから金色に輝く海の上を歩いている人を見たことを片言の英語で話しました。カルロス牧師はその話を聞いた途端、驚いたように笑って「それはイエス様だよ!」と仰いました。そして、聖書を開いて読んでくださったのです。それはマタイによる福音書で、夜、嵐の中、湖の上をイエス様が弟子たちの方に向かって歩いてこられたお話でした。弟子たちはイエス様だとわからずに恐れて「幽霊だ!」と叫んだのです。
驚きました。私の人生に起こった出来事が聖書に書かれていたのです。「17年前に見たあの白い人はイエス様だったのか」と思いました。けれどもこの時はまだ、イエス様を信じるには至りませんでした。神様は信じていましたが、イエス様のことがわからなかったのです。
ニューヨークで4年間過ごした後、日本に帰国したのですが、私は生きる目的を完全に失いました。私は神様に祈り始めました。「私には生きる意味がありません。早く私の命を取ってください。」そう祈り初めて3ヶ月後の朝、目覚める時に、十字架にかかっておられるイエス様の幻が見えたのです。
私は十字架のイエス様の幻を見た瞬間、「神様にお仕えしたい」という思いが与えられました。クリスチャンでもない自分が神学校へ行くことなど無理だと思いながらも、試しにインターネットで調べると、洗礼を受けて1年経てば受験できることがわかりました。「もしかしたら神学校に行けるかもしれない」と思って、すぐに教会を探しました。当時、和歌山の実家に住んでおりましたので、近くの教会をインターネットで検索して、日本基督教団和歌山教会を見つけました。和歌山連合長老会の教会です。
日曜日に勇気を出して礼拝に出席すると、教会の皆さんが温かく迎えてくださいました。そして礼拝後、清藤淳牧師に紹介してくださいました。私は清藤先生に、「突然で恐縮なのですが、洗礼を受けて神学校に行きたいと思ってるんです」と正直にお伝えしました。「変な人だと思われるかも」と心配したのですが、清藤先生は喜んで受けとめてくださり、すぐ手帳を取り出して面談の日をご予定くださって、私の話を聞いてくださいました。
それから毎週、主日礼拝と、聖書研究祈祷会に出席しました。また週に一度、受洗準備会をしていただき、使徒信条を学びながらイエス様のことを教えていただきました。自分の国の言葉で、聖書を読み、礼拝で説教を聞き、受洗準備会で教会の信仰を丁寧に教えていただく中で、次第にイエス様のことを知るようになりました。
そうして洗礼に向けて準備を進めていたある日、突然、神様から私に御言葉が与えられました。それは、コリントの信徒への手紙二5章14~15節の御言葉でした。

「すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」

この御言葉が与えられた時、私の人生は完全に逆転しました。生きる目的を失っていた私に、命の目的がはっきりと示されたのです。それは全く予想していなかった答えでした。パウロは、私にこう語りかけたのです。
「イエス様が十字架の上ですべての人のために死なれたのだから、すべての人も死んだことになるのだ。イエス様は、すべての人のために死んでくださった。その目的は、この世のすべての人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、私たちのために十字架で死んで復活してくださった主イエス・キリストのために生きることなのだ。あなたの命は、主イエス・キリストのために生きることなのだ。」
それまでの私の人生の主人は、私自身でした。私は自分の幸せを求めて、自分のために生きてきたのです。でも、それが苦しみの原因だったのです。私の命の主人は私ではない、主イエス・キリストだったのです。この瞬間、私の人生は完全に逆転させられました。
ペンテコステの日に洗礼を受けて、私は神様から聖霊を与えられました。イエス様の十字架と復活を伝えるキリストの弟子とされたのです。この時、私は43歳でした。

パウロは、イエス様の光によって地面に倒れ、死んだようになって3日目に洗礼を受けました。パウロは聖霊を受けて、新しい命をいただいて、復活させられたのです。形なく虚しい者であったパウロに、命がもたらされました。パウロは3日で洗礼を受けて復活しましたが、私はイエス様の光に照らされてから洗礼を受けるまで22年かかりました。時間はかかりましたが、私もパウロと同じように洗礼を受けました。
この時、暗闇の中で生きていた古い私は死にました。そして神様は私に聖霊を注ぎ、復活させたのです。イエス様のために生きる新しい命を与えられ、私は復活させられました。
洗礼を受けた翌年、東京神学大学を受験して、入学が許されました。今日の新約聖書の15章8節でパウロが「月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」と言っていますが、私も月足らずで生まれたような者です。イエス様のことをまだ十分にはわかっていない、月足らずで生まれたようなキリスト者の私が、神学校に入ることになったのです。
和歌山を出発する日、清藤先生ご夫妻が私の両親と共に駅まで見送りに来てくださいました。電車に乗る時、清藤先生が私に分厚い手紙を渡してくださいました。電車が動き始めると、清藤先生ご夫妻が万歳している姿が見えました。私は電車の中で、聖書を高々と上げて応えました。電車が出発して姿が見えなくなり、なんとも言えない寂しさを感じながら、清藤先生が渡してくださった手紙を開きました。そこには、私が初めて和歌山教会の礼拝に出席した日のことが書かれていました。私が清藤先生にお目にかかったのは、先生が和歌山に赴任されて10年目の年だったそうです。突然、受洗希望でしかも神学校に行きたいと言う私がやってきた日、清藤先生は「改めて神様の奇しき御業を思わされて、涙ながらに感謝の祈りをささげました」と書かれていました。
この手紙を読んだとき、私はびっくりして、涙が溢れました。清藤先生は、和歌山に赴任されてから10年間、和歌山教会から献身者が起こされるよう祈り続けておられたのです。だから突然私のような者が現れても、神様の出来事だとわかって、喜んで受け入れてくださったのです。
私は、自分がイエス様から啓示を受けて、聖霊のお導きで和歌山教会に自分でたどり着いたと思っていました。もちろん、教会に行き始めてからは、兄弟姉妹が私の献身のために熱心に祈ってくださいましたし、伝道者は自分でなるものではなく、教会によって立てられることを知って深く感謝していました。でも、それだけではなかったのです。
私が和歌山教会に行くずっと前から、清藤先生は祈っていたのです。清藤先生も教会の兄弟姉妹も祈っていたのです。和歌山教会だけではなく、ここにいるみなさんも、日本全国の教会の兄弟姉妹も、献身者が立てられるよう祈り続けておられたから、私は和歌山教会にたどり着いたのです。そして、福音を受け取りました。最も大切な福音を、ニューヨークの教会と和歌山教会で、私は受けました。
月足らずで生まれたような私が、東京神学大学を4年で卒業して、それもほとんどコロナ禍で何にもわからないまま、港南希望教会の主任担任教師として遣わされることになりました。私のような未熟な者には無理だと思いましたが、神様の御心と受けとめて着任しました。今にして思えば、私が何も知らない時から、私は神奈川連合長老会の祈りの中に置かれていました。
毎月、藤掛先生が港南希望教会に来てくださって、教会を建て直すような力強い説教をしてくださり、主の聖餐にあずかって、大きな恵みと励ましをいただきました。礼拝後には長老会にも陪席してくださって、長時間、丁寧にご指導くださいました。また、赴任したばかりの頃は、時々指路教会の夕礼拝に出席させていただき、川嶋先生がとり次いでくださる神様の言葉に、慰められ、力をいただいてきました。横浜指路教会の皆さんが、港南希望教会を覚えて祈ってくださり、支え続けてくださっていることを心から感謝しております。今日こうして皆さんにお目にかかって、共に主を賛美できることが本当に嬉しいのです。
今日は、神奈川連合長老会の講壇交換で、同じコリントの信徒への手紙の御言葉に聞いています。こうして、講壇交換ができるのは、私たちが同じ福音を受けているからです。同じ日に、同じ福音が語られ、それぞれの場所にあって、神奈川連合長老会の兄弟姉妹と共に祈っている、主を賛美している、これは神様の大きな祝福です。
私たちは皆、最も大切な福音を受けた主イエス・キリストの証人なのです。まさに、パウロが15章3節以下で語っている通りです。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。
すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」

そして、約2000年後の私たちの前にも、イエス様は現れてくださいました。キリスト者は皆、イエス様に出会って、洗礼を受けて、聖霊を注がれたのです。そうして、新しい命が与えられて、復活させられたのです。
私たちの罪のために十字架で死なれたイエス・キリストが、私たちの救い主となり、神となってくださったのです。この世の全ての悪を滅ぼされて、あらゆる痛み、苦しみ、絶望をその身に負ってくださった主イエス・キリストが、私たちの神となってくださったのです。
イエス様は、鞭で打たれてその身は引き裂かれ、茨の冠を被せられて血まみれになりながら、十字架を背負ってゴルゴタへと向かわれました。十字架に釘で打ち付けられ、さらし者にされて、愚かな人間たちから唾を吐きかけられ罵られても、イエス様は沈黙しておられました。
私たちのためです。私たち人間が救われるために、イエス様は十字架の上で祈り続けておられたのです。イエス様は、すべての人間の苦しみを負ってくださり、暗闇の中で叫びながら私たちの代わりに死んでくださいました。そして、三日目に復活してくださいました。死を打ち破って復活されたのです。そのお体には、十字架の傷が残っていました。イエス様は、傷のあるお体のまま復活されたのです。
この方こそが、まことの神です。私たちのために十字架で死に、傷のある体を持ったまま復活してくださった主イエス・キリストこそが、まことの唯一の神であられます。私たちも、体や心に今でも傷が残っているかもしれません。それでも私たちは、イエス様によって聖霊を注がれ、イエス様と同じように復活させられたのです。神の恵みによって今日のわたしたちがあるのです。
終わりの日には、イエス様が再び来られて、神の国が完成します。その日を待ち望みながら、私たちは主イエス・キリストの喜びの福音を告げ知らせるのです。イエス様によってすでに光がもたらされ、神の国が到来したことを告げ知らせ、この闇の世に光を広げていく使命が、私たち一人ひとりに与えられています。
もし、この中にまだ洗礼を受けておられない方がいらっしゃいましたら、ぜひ洗礼を受けてください。イエス様はあなたのために十字架の上で死に、復活されました。あなたが今ここにいるのは、間違いなく復活の主イエスがあなたをここに導いてくださったからです。
もし、私と同じように牧師になる志が与えられている方がいらっしゃいましたら、教会の皆さんと祈り、恐れることなく東京神学大学に入学してください。神様の御心に従うなら、神様がすべてを備えてくださいます。
そして横浜指路教会の兄弟姉妹の皆さん、これからも教会で、そして日々の生活の中で、それぞれ遣わされた場所で、共にキリストの証人となり、祈り続けましょう。私たち一人ひとりに、主の平和と希望の福音は与えられています。
私たちは皆、イエス様によって呼び出され、愛し尽くされて救われた、主イエス・キリストの弟子なのです。主イエス・キリストと結ばれた私たちは、これからも喜びと希望に満ちた福音を、復活の主イエスと共に伝え続けるのです。いつまでもイエス様と共に、永遠の命を生き続けるのです。

関連記事

TOP