夕礼拝

そばに立つ主

「そばに立つ主」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第34編第5-8節
・ 新約聖書:使徒言行録 第23章11-35節
・ 讃美歌:17、467

<神のご計画>
 主イエス・キリストはパウロのそばに立ち、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われました。

パウロは、主イエス・キリストの救いを宣べ伝えるために、神に選ばれ、人々に遣わされている伝道者です。しかし、今滞在しているエルサレムでは、キリストの福音を受け入れられないユダヤ人たちの反発に遭い、言いがかりをつけられて、騒動を起こされてしまいました。そのため、当時エルサレムの治安を守っていたローマの兵士に捕えられているのが、今のパウロの状況です。そしてユダヤ人の最高裁判所のようなところである最高法院にも引き出されましたが、パウロの一言によって議場が分裂したので、そのままローマの兵営に連れていかれたのです。

しかし主イエスは、そのようにして捕えられているパウロのそばに立って、「勇気を出せ。あなたはエルサレムでしっかり私を証しした。次にあなたはローマへ行って、わたしの福音を証しし、宣べ伝えるのだ」と言われたのです。

神は、ご計画をお持ちです。それは、救いのご計画です。神の御子イエス・キリストの十字架と復活によって成し遂げられた、罪の赦しと永遠の命を与える、救いの恵みに、すべての神に造られた者があずかることです。
そのために、神は、キリストの福音を宣べ伝えさせるため、パウロをローマの人々に遣わすことを計画しておられるのです。

しかし今、パウロは囚人となり、しかも大ピンチです。ユダヤ人たちがパウロを殺そうと必死になっています。そのために40人以上も集まり、パウロの暗殺計画を立てているのです。彼らは、パウロを殺すまでは飲み食いしないと固く決意して、自分自身に呪いをかけ、誓うほどでした。
パウロはどうなってしまうのでしょうか。パウロによって、ローマにキリストの福音を宣べ伝えるという神のご計画は、どうなるのでしょうか。ユダヤ人たちが妨げてしまうのでしょうか。

<パウロの周囲の人々の行動>
本日の聖書箇所は、まるでスリル満点のドラマのような展開です。人の動きや、やり取りで、どんどん状況が変化していきます。そして、注目すべきことは、今回、奇跡のような特別なことは、何も起こっていないということです。

例えばこれまでの使徒言行録では、12章で、ペトロが捕まっていた時に、天使が鎖を外して脱出を助けたとか、16章で、パウロがフィリピで牢獄に入れられていた時に、大地震が起こって、牢の戸が全部開いて鎖が外れた、というようなことがありました。そのような仕方で、神の助けが現れることもあります。
しかし今回は、パウロの周囲にいる人々、妹の子ども、つまりパウロの甥っ子や、千人隊長の判断や行動が、最終的にパウロの最悪の状況を変えることになったのです。
このことは、現代のわたしたちにとって、天使が来て助けてくれたり、大地震が起こって鎖が外れるという奇跡が起こることよりも、この出来事をもっと身近に感じさせるかも知れません。

今回、当のパウロは、囚人ですから、何をすることも出来ません。ユダヤ人の陰謀を聞き着けたパウロの甥っ子が、そのことを知らせに来てくれたので、このことを千人隊長の耳に入れさせるように、百人隊長に頼んだだけです。これまで勇敢に、力の限り主に仕えてきたパウロは、今回まったく無力で、努力のしようもありませんでした。

しかし、ユダヤ人のパウロ暗殺の陰謀から始まった一連の出来事は、最終的に、何百ものローマ兵でパウロを護衛しながら、エルサレムを脱出させ、カイサリアに連れて行く、という展開になりました。そうしてさらに、千人隊長の上司にあたる、総督フェリクスのもとにパウロは預けられることになったのです。パウロは囚人のままですが、これは、ローマへ行くという目的からすれば、大きな前進と見ることが出来ます。

しかし、このようになったのは、この判断をしたローマの千人隊長が、神のご計画を知り、パウロを助けるために動いたから、という訳ではありません。
この判断の動機は、自分の管轄下のエルサレムで、ローマ市民であるパウロが殺されるなどという不祥事があると、どんな責任を負わされるか分からないからです。26節以下の総督フェリクス宛の手紙の内容も、事実が書かれているのではありません。本当はパウロがローマ市民と知らずに、縛って鞭打とうとまでしたのに、千人隊長がローマ市民パウロを救い出し、よく責任を果たしたかのような内容に修正されています。すべては、一刻も早く、パウロを自分には関係ないところまで遠ざけたい、またあわよくば、この行動を評価されたい、という、千人隊長のまったく人間的な、自己保身の思いによるものだったのです。

<運命論?結果論?>
 しかしそのように、困難な状況にあったけれども、様々な状況が、上手く繋がって、最終的に良い結果になった。それはパウロほどのことではなくても、多くの人が経験したことがあるのではないでしょうか。

 ある人は、このようなことを「運が良かったのだ」と言います。人の人生を翻弄する「運」という目に見えない力があって、運が良いと上手くいくし、運が悪い時は上手くいかない。それは自分の意志ではない力であり、「運命だから仕方がない」と、自分の思い通りに行かない境遇を諦めるときにも、使われる言葉です。
 しかし、これを何とか、自分の思い通りにするために、人は占いなどによって、運を読んで、先のことを知ろうとしたり、まじないやお守りによって、運命を変えようとしたりします。しかし、本当に、そのような目に見えない、わたしたちを翻弄する、正体不明の強い力などが存在するのでしょうか。

<神の摂理>
 まことの神を知る者は、そのようには考えません。神は、この世をお造りになった方であり、神が、世のすべてを支配しておられるからです。神は生きておられ、世の始まりから今も、そして終わりの時まで、この世界に関わり、働きかけ、導かれると信じているのです。これを「神の摂理」と言います。

 それでは一体、神はどういう目的に向かって、導いておられるのでしょうか。
それは、神の国の完成です。神の国とは、神のご支配のことです。神が支配しておられることが、造られたすべてのものの目に明らかになり、神の救いが完成することです。
神は、その大いなるご計画を進め、世を導いておられます。そして、神はすべての造られたものに、わたしたち一人一人にもまた、その目的のためのご計画をお持ちなのです。

 しかし、わたしたちには、神のご意志を知りつくすことは出来ず、理解できないことが多くあります。わたしたちは、自分を取り囲む現実を見つめて、神が支配しておられるのなら、導いておられるのなら、どうしてこのような悲しいことが起こるのか。苦しみがあるのか。争いが絶えないのか。そのような問いを持つのです。また時に、神がわたしたちを苦しめ、痛めつけておられるのではないかとさえ、思ってしまうことがあるかも知れません。
そしてわたしたちは、これらの苦難の理由を、納得する形で得ることは出来ません。これを、ある人々は「運命」という型に押し込んで、なんとか飲み込もうとしているのでしょう。  

しかしわたしたちは、すべての支配者である神に、問いかけ、訴え、助けを求めることが出来ます。そこで自分が疑問に思うことの「答え」を得ることはないかも知れません。
しかし、神が、わたしたちのことをどう思っておられるか、神がわたしたちに何をしようとしておられるのか、何を望んでおられるのかは、はっきりと知ることが出来ます。
それは、神の御子イエス・キリストによって知ることができます。わたしたちは、神のご意志、神の御心を知ろうとする時に、自分の想像や、勝手な思い込みを捨てて、ただイエス・キリストのみを見なければなりません。神は、このお方に、御自分の御心を現されたのです。

<神の御心>
神は、御自分の御子イエス・キリストを世に遣わされました。御子によって、神から離れ、背き、滅びに向かっているすべての人の罪を赦すためです。神がお造りになったすべての者が、神のもとに立ち帰り、神の呼びかけにお応えし、神と共に生きる者となるためです。
そのために、主イエス・キリストは、まことの人となって世に降り、罪のないお方であったのに、すべての者の罪を負って、十字架に架かり、死なれたのです。御子の十字架の死は、神が、わたしの罪を赦して下さるため、それほどにわたしを愛して下さったためです。

そうして、神を知り、神の愛を受け入れ、主イエス・キリストによって罪を赦されたことを信じる者は、聖霊によってキリストと一つに結ばれ、神の子とされるのです。そして、主イエスの永遠の命にも与ります。神は御子を死者の中から復活させて下さいました。わたしたちが主イエスを信じて十字架の死にあずかる時、また同時に復活の命にも与るのです。
生きている者すべてに訪れる死は、主イエスが死から復活させられたことにより、すでに主イエスが勝利されたもの、克服されたものとして、わたしたちに訪れます。わたしたちは、死に勝利された主イエスのものとされて、終わりの日に、復活に与ることが約束されているのです。

このことは、わたしたちの人生が、生まれて死んで終わりではないことを教えます。わたしたちの死の向こう側に、神の救いの完成の時がある。わたしたちもまた、その時に復活の体を与えられ、永遠の命を生きるという、希望を与えられているのです。そうして、神と共に永遠に生き、永遠に神を賛美するのです。
ですから、キリスト者は、死を、すべてを覆い尽くす永遠の終わりのように考えることはありません。いつも、復活と永遠の命を見つめるのです。

キリストの救いを知らないなら、死は永遠の終わりのように思われるかも知れません。それは計り知れない恐怖でしょう。しかし一方で、その永遠の終わりが、様々な苦しみや、絶望を終わらせる唯一の道ではないかと考える人もあります。現実の苦しみに耐え切れず、絶望し、「死にたい」と願う多くの人がいることを、わたしたちは知るのです。
しかし、神が、御自分の御子イエスを十字架の死に渡してでも、罪を赦し、滅びの中から救い出してくださるほどに、自分という存在を見て下さり、愛して下さっている。そして、どのような状況であっても、自分はその愛して下さる神の御手の中にあり、神の救いのご計画の中に置かれている。神を仰ぎ、神を賛美して生きる恵みを与えられようとしている。そのことを知るなら、わたしたちは決して絶望することはありません。
人の幸せは、沢山持っていることや、波風立たないことや、苦難がないことではありません。人の幸せ、喜びは、神を知ることにあります。神を知る者は、キリストの救いに与った者は、何によっても奪われたり、消し去られたりしない、まことの希望を持って、与えられた人生を神と共に生きていくことが出来るのです。人生を、命を、神の御子の死によって生かされたものとして、大切に感謝し、また「勇気を出して」、忍耐して、神のために、神と共に、生きていくことが出来るのです。

この主イエスの十字架と復活による神の恵みを、すべての者が信じ、洗礼を受け、聖霊によってキリストと一つに結ばれ、神と共に生きる者となることを、神は望んでおられます。そして、終わりの日、主イエスが再び来られ、神の国の完成の時が来るのです。
自分自身に対する、この神の御心、神の愛を知って生きることが出来ること。キリストの十字架が自分のためであり、キリストの復活が、自分の復活の約束であることを知る者は、本当に幸いなのです。

<神のご計画を知る者>
パウロは、この神の御心を知る者です。神の、自分に対する愛と赦し、そのためにキリストがなさって下さったこと、そして聖霊が遣わされ、復活の天におられる主が、地上を歩んでいるパウロといつも共にいて下さること。神の国の完成に向かって、パウロのためにもご計画を用意して下さっていること。そのことを、よく知っているのです。

ですからパウロは、主イエスが「ローマでも証しをしなければならない」と決められたのなら、必ずそのようになると信じたでしょう。神に逆らう者が攻撃し、神を知らない者が自分を捕えても、神のご計画は必ず実現するのです。パウロは敵の只中にある時にも、神のご支配、導きが必ずあると信じ、状況に目を凝らしていたはずです。
そうすると、今回の様々な人々の思惑、行動、判断によって、ローマへの道が開けたことも、単に運が良かったとか、偶然が重なって上手くいった、ということにはなりません。
神に逆らう者や、自分のことしか考えていない者のことさえも用いて、神はローマ伝道へのご計画を一歩進めて下さった。神が、パウロの歩みのために道を拓いて下さった、と受け止めることが出来るのです。
神の御心を知り、神のご計画に従おうとする者、神を見つめて生きる者は、そのような、自分の人生に関わって下さる、神のダイナミックな導きや御業を、目の当たりにすることが出来ます。
しかし、苦しみの真っ只中、自分ではどうしようもなく、八方塞がりに感じている時には、どうしても苦しみばかりを見つめてしまい、神の導きが分からないかも知れません。しかしそれでも、後になって、ああ、あの時、確かに神が導いて下さった、神の助けがあった、そうして、神のご計画が進められたのだ、と感謝して振り返ることが出来るのでしょう。
どのような神に逆らう者も、悪意も、罪も、神のご計画を妨げることは決して出来ません。神はそれらをも用いて、御自分の計画のために、御自分に従う者を、力強い御手で守り、導いて下さいます。

そして、わたしたちはまさに、主イエス・キリストの十字架がそうであったことを覚えます。弟子が裏切り、多くのユダヤ人が反発し、ローマ兵が取り巻き、侮辱し、主イエスを受け入れない人々が「殺せ」と叫ぶ。主イエスはそのような人々の手によって、十字架という最も残酷な刑によって死なれました。しかし、その主イエスの死によって、神は人々の罪を赦す、救いの約束を実現なさったのです。そして神は、主イエスを復活させられ、御自分の救いのご計画と約束の成就、そしてわたしたちの終わりの日の復活の保証を、与えてくださったのです。罪の中にある者たちの、神に逆らう業が、人の目には圧倒的な力に見えたとしても、神のご計画を妨げることは出来ないし、神はそのことさえもお用いになって、必ず御心を成されるのです。
 救いのみ業は成し遂げられ、神のご計画は、神の国の完成に向かって進められています。そしてそのために、パウロが、わたしたちが、教会が、神の素晴らしい恵みの御業に仕えるように召されているのです。ですからわたしたちは、自分が神のご計画にどのように用いられようとしているのかを、み言葉に聞き、真剣に祈り求めていく必要があるでしょう。

<そばに立つ主>
さて、今日の聖書箇所では、11節で主イエスがパウロのそばに立たれた、とありましたが、12節以降は一言も出てきませんでした。しかし、主はずっとそばにおられたのです。ユダヤ人が陰謀を巡らしている時も、甥が訪ねてきた時も、千人隊長が画策している時も、天におられる主が、聖霊によってパウロと常に共にいて下さり、すべてのことを御手の内に置き、神のご計画に従って導き、守って下さっていたのです。

わたしたちも、造り主である神を知らされています。主イエス・キリストの十字架と復活の福音を聞いています。聖霊なる神が遣わされています。
神がただ恵みによって、罪の中にあるわたしたちを愛し、救い出し、また神の国の完成に向かって、わたしたちを伴い歩んで下さるのです。わたしたちが苦しみや困難の中にある時も、その生活の一日一日、出来事の一つ一つに、神の愛の眼差しが注がれており、守りと導きの御手があるのです。ですからわたしたちも、いつも神に感謝と賛美を捧げ、神の御心のために仕え、苦しみの時には、ご計画がなるように祈り、安心して神に委ねる者となりたいのです。

本日の詩編34:8に「主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けて下さった。」とあります。天のすべての軍勢を従える方が、わたしの側に立たれるのです。敵に取り囲まれていると思うような時にも、主がそばに立ち、御使いの軍勢が陣を敷き、神に従う者の歩みを守り導いて下さるのです。
パウロが、命を狙う者に囲まれた時も、牢に一人で閉じ込められていた時も、数百のローマ兵士に護衛されてカイサリアに行った時も、主はそばにおられ、また主に仕える数えきれないほどの天の軍勢が、主と共にあるパウロの周りに陣を敷き、彼を守っていました。
神を知ったわたしたちもまた、そのように神の御手で力強く守られているのです。

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