夕礼拝

謙遜で勇敢な伝道者

「謙遜で勇敢な伝道者」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第22編28-32節
・ 新約聖書:使徒言行録 第20章13-27節
・ 讃美歌:17、504

パウロの告別説教  
 パウロは、各地でキリストの福音を宣べ伝え、伝道の旅をしてきましたが、これからエルサレムの教会に向かおうとしています。伝道にあたっては、同胞のユダヤ人から迫害を受け、パウロの旅は、いつも命がけです。  
 前回は、トロアスという場所で、キリストを信じた人々と礼拝を守り、復活の主の恵みによって、共に豊かな慰めを受けて、パウロは次のところへ出発しました。

 そして、今日の13~15節では、トロアスからの細かい経路が記されていて、ミレトスに到着した、とあります。
 そして16節には、「パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである」と書かれています。
 エフェソという場所は、パウロが約三年間も滞在して、キリストを宣べ伝えたところです。これは、他と比べて、一番長い滞在期間でした。ですから、パウロがエフェソの教会の人々に会いたいという思いは、ひとしおであったと思います。しかし、パウロは旅を急いでいたために、エフェソにはあえて立ち寄りませんでした。
 しかし、ミレトスまで来てから、パウロはエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せ、17節以下の長い説教をしたのです。

 パウロは、自分の命が危険にさらされていることをよく承知していました。それは、25節に「そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています」と言っている通りです。
 それでパウロは、エフェソの教会の人々に最後の言葉を伝えたいと思ったのでしょう。それで教会の指導者である長老たちを呼び寄せたのです。ですから、17節以下の説教は、パウロの「告別説教」であるということが出来ます。

 この説教は、キリストを知らない人に福音を伝えるための説教ではなくて、教会の長老たち、キリスト者である人たちを対象として語られました。キリスト者相手のパウロの説教として残されているのは、これが唯一のものです。
 この、パウロが遺言として語った説教を通して、わたしたちも、キリスト者がどのように歩むべきか、教会とは何であり、どのように守られ、導かれていくのか、ということを知ることが出来るのです。

主に仕える  
 この説教は長いので、今回は27節までの前半の部分を共に聞いていきたいと思います。  
 18~21節では、パウロがエフェソでどのように伝道してきたかを思い起こし、22~27節には、パウロの状況や決意などが述べられています。  

 まず18節以下にあるように、「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存知です」と言って、パウロは自分がしてきたことについて述べ始めます。

 パウロがこれまでしてきたこと。それはエフェソに来てからだけでなく、パウロがキリスト者となってから一貫して行なってきたことですが、それは「主に仕える」ということです。
 「主に仕える」ということが、キリスト者の生き方である、と言えます。  
 この「仕える」という言葉は、手伝ったとか、お世話をした、とかいうレベルではなく、「奴隷が主人に奉公する」という意味の「仕える」です。
 主イエスが主人であり、自分は主イエスに所有されているものとして、ご命令に従っていく。パウロはそのようにして「主に仕えた」のです。  

 そして、それは具体的にどのように仕えたかというと、19節には「すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました」とあります。  

 この「自分を全く取るに足りない者と思う」という言葉は、口語訳聖書では「謙遜の限りをつくし」と訳されていました。
 主イエスの御前で、まったく低くへりくだって、自分には価値がないと認めて、主イエスの奴隷となって仕えた、というのです。パウロはそのへりくだりの中で、主イエスに仕えるためならば、涙を流すことも、命の危険が及ぶほどの迫害も、試練も、忍耐し、甘んじて受け入れてきたのです。

わたしたちは誰だって、出来れば平和に、穏やかに、迫害なんかに遭わず、波風立たない心配のない生活を送りたい。そのように思っているのではないでしょうか。

また、わたしたちが「救われる」ということを考える時、何か自分が願っているもの、心地よいものを得るような、そんなイメージを持っていないでしょうか。  

 でも、パウロは、そのように自分の願う生活を守るのではなくて、主イエスの望んでおられることに従う生活をしようとします。それが、謙遜の限りをつくすということです。
 主イエスの十字架と復活を宣べ伝えるがために、一つのところに安住できず、あちこちを転々とし、涙を流すこともあり、試練に遭うこともあり、そして、命さえも危ぶまれるような生活です。しかし、自分の思いではなく、主イエスの思いに聞き従う。  
 それが、主イエスに仕えることです。自分を全く取るに足りない者と思い、自分の思いではなく、主イエスのご意志に従って生きる、ということなのです。

傲慢から謙遜に  
 わたしたちはこれを聞いて、「さすがパウロさんは覚悟が違うな。立派で、強い信仰を持っているんだな。でも、わたしたちに、パウロのようにしなさいと言われても、それは中々出来ないことだな。」そんな風に思うかも知れません。  
 しかしこれは、元々パウロが、迫害に負けない強い人だからとか、立派で、鋼の意志を持つ人だから、このように生きることが出来た、という訳ではありません。

 パウロが伝道者として、涙しつつ、試練に耐えつつ、へりくだってキリストに仕えるのは、他でもない、パウロが仕えている主イエス・キリストご自身がへりくだられた方であり、そしてパウロの前を歩いて下さり、パウロを支え導いて下さっているからです。
 主イエスは、罪の中で、死に捕らわれていたパウロを、御自分の命を捨てて救い出し、罪を赦し、パウロに新しい命を与えて、生き方を変えてくださった方です。  

 パウロはかつて、今のようにキリストを伝道している時とは、全く真逆の生き方をしていました。使徒言行録の9章に、パウロの回心の出来事が書かれていますが、ユダヤ人である彼はかつて、熱心に律法を守るファリサイ派の一員であり、キリストを信じる人々や教会を、迫害する側の人間でした。  

 パウロは、自分が、正しいと思っていました。自分の正しさを貫くために、とても熱心でしたし、努力もしていました。
 しかし、自分が正しいというその思いは、パウロを傲慢にし、自分を絶対化させ、他の人を裁き、多くのキリスト者を傷つけ、殺していったのです。
 しかも、それは神が喜ばれることだと思い込んでいました。  

 ところがある時、パウロは主イエスに出会い「なぜ、わたしを迫害するのか」と言われます。そうして、パウロは地面に打ち倒されたのです。パウロは、正しいと信じていた自分自身を打ち砕かれます。真の神の御心を知らずに、自分の思いに従って生きていた。それは、多くの人を傷つけ、そして何よりも、神に逆らう生き方をしていたのです。  

 しかし、主イエスは、そのように神に逆らい、ご自分を迫害したパウロのためにも、その罪を赦すために、十字架に架かって死なれたのです。
 パウロは、主イエスと出会い、主イエスが救い主であると信じ、洗礼を受けます。そして罪の赦しを受け、聖霊に満たされ、新しくされて立ち上がりました。そしてパウロは、神が彼に与えて下さった、異邦人のためにキリストを宣べ伝える、という務めを果たす者とされたのです。  

 パウロは、生き方が180°変わりました。迫害者から伝道者になり、神の御前で、傲慢な者から、謙遜な者になりました。自分の思いや意志は、何一つ良いものがなく、しかも神に逆らうものであると、身を持って知ったからです。  
 そして、そのような神に逆らう自分の罪のために、地上のすべての人間より、もっとも低くへりくだり、謙遜になって、自分を無にして下さったのは、命を惜しまず与えて下さったのは、神の御子である、主イエス・キリストだったのです。  

 この方の十字架の死によって罪を赦され、この方の復活によって、永遠の命をいただいた。パウロは、この地上のすべてのものよりも、最も価値のある、素晴らしい恵みを、主イエスからいただきました。  
 この恵みに代わるものは何もありません。この世のすべてを失っても、自分の命を失っても、その恵みは、パウロから決して失われることはありません。
 罪を赦し、死にも打ち勝って下さった方が、すべてを支配する方が、パウロの主人となって、パウロをご自分のものとして、恵みの内にしっかりと捕らえて下さったからです。  

 ですからパウロは、自分が受けた、主イエスのこの大いなる恵みを人々に伝えるためなら、自分の命をも惜しまないで、主イエスのために仕えることが出来るのです。

神の意志に従って  
 22節以下でパウロは、「そして今、わたしは霊に促されてエルサレムへ行きます」と語っています。これは、正確に訳すなら、「わたしは霊に縛られてエルサレムへ行きます」となります。
 聖霊はこの旅が、危険なものであること、投獄と苦難とがパウロを待ち受けていることを告げています。当然、避けたい、苦難に遭いたくないと思うでしょう。しかし、パウロは自分の思いには従いません。聖霊に自分自身を縛られて、神の意志のままに、エルサレムへ向かうのです。
 それは決して、パウロが自暴自棄になっているというのではありません。
 神ご自身が、パウロを用いて、必ずご自身が望まれることを成し遂げて下さると、パウロは信じているからです。  

 キリストの罪の赦しと、復活の新しい命に与っている者にとって、本当の平和や穏やかさ、安心というのは、決して表面上の波風立たない生活のことではありません。パウロのように、むしろキリスト者として生きる方が、苦労や悲しみや困難を経験するかも知れません。
 しかし、どのような困難に遭っても、悲しみがあっても、そして死ということが訪れても、そこに決して失われることのない、神の恵みがある。そして、まことの支配者である神ご自身が、神の国、神のご支配を必ず完成して下さり、わたしたちにも復活の希望が与えられている。そこに、世の争いや苦しみによっては左右されることのない、わたしたちの人生を根底から支える、神の御手に支えられている、平和と、穏やかさと、安心に満ちた人生があるのです。

果たすべき任務  
 ですからパウロは、24節で「しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」と、心から言うことが出来るのです。

 さて、「神の恵みの福音」を証しすることを、パウロは、この世での命を失うことになってもしなければならない使命であり、任務であると考えています。
 なぜなら福音は、人の存在そのものに関わることであり、世の命が長らえるとか、この世での生活が幸せになるとか、願いが叶うとかではなく、神との関係が回復するかどうか、滅びるか、永遠の命にあずかるかどうか、という問題だからです。
 言ってしまえば、キリストの福音を宣べ伝えること、神の御国を宣べ伝えることは、伝える相手の、永遠の生き死にに関わることだと言えます。

 ですからパウロは、20節で「役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも、方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです」と言います。

 「役に立つこと」。つまり一つは、神に背く自分勝手な歩みをやめて、神に赦していただき、神のもとに立ち帰るようにという「神に対する悔い改め」を語り、そしてもう一つは、「わたしたちの主イエスに対する信仰」、つまり、十字架の死によって主イエスがわたしたちの罪を贖って下さり、赦して下さった。そして復活して下さることによって、わたしたちに新しい命を与えて下さった、その主イエスの救いの恵みを信じる信仰を、パウロは、一つ残らず、伝え、教え、証ししてきたのです。
 エフェソの地で、まさに命を惜しまず、「神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果た」してきたのです。

 だから、25節の後半にあるように、「わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神のご計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです」と言っているのです。

 だれの血についても、わたしには責任がない。
 わたしは、神の救いのご計画について、つまり神に対する悔い改めと、主イエスに対する信仰を、確かに伝えたからだ、ということです。
 もしこれを伝えずにおいたなら、その福音を聞かなかった人は、神を知らず、神に逆らい続ける歩みをしなければなりません。
 神は、キリストの福音によって、すべての人を救って下さるご計画を示して下さいました。主イエスは、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と弟子たちにお命じになりました。
 ですから、わたしたちもまた、ひるむことなく福音を伝えていかなければならないのです。

 しかし、ここでパウロが「ひるむことなくあなたがたに伝えた」とわざわざ言っているのは、やはり、ひるみそうな時や、恐れや不安を抱いて、一歩引きたくなってしまうような時があったのだと思います。パウロは聖書の他の箇所で、「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安」だったと手紙に書いたこともあります。

 しかし、パウロはそれでも、主の恵みに支えられて、神ご自身が、救いのご計画を実現して下さることを信じて、勇敢に、伝道のために、主に仕えて行ったのです。
 パウロが受けている神の恵みは、そのような恐れや不安を覆い尽くすほど、はるかに大きいのです。そして、パウロの思いを遥かに超えて、神ご自身が救いの御業のために力強く働かれるのです。この神の恵みに促されてこそ、支えられてこそ、パウロは謙遜に、そして勇敢に、伝道することが出来たのではないでしょうか。
 神の恵みは、キリストの福音は、聖霊のお働きは、それほどに大きく、豊かで、力強いのです。

主に仕えて生きる  
 このように「主に仕える」こと、キリストの福音を宣べ伝える、という生き方は、キリストを信じた者が皆、招かれている歩みです。  

 わたしたちは、自分の傲慢さや、自分勝手な思いで、神に逆らって生きるその罪のために、人となり、低くへりくだってくださり、ご自分の命をも捨てて下さったキリストの十字架の前に立たされる時、罪にまみれた自分を主イエスの御前に投げ出し、わたしたちも低くならざるを得ません。
 そして、この方の復活の命に生かされる時、新しく神と共に生きる者として立たされる時、弱く空っぽなわたしたちにも、神の力が働いて下さり、神の御国の完成のために働く喜びが与えられ、わたしたちを勇敢に、大胆にしてくれます。自分が受けた、この世の何にも代えられない、本当に豊かな恵みを、最も良いものを、一人でも多くの人が受けることを、祈る者とされます。

 そして、そのような私たちの働きを、祈りを、神ご自身が、最も喜んで下さるでしょう。
 キリスト者が、教会が、福音を力強く人々に宣べ伝え、キリストを証しし、救いの恵みがすべての人に及んでいくというのが、神のご計画であり、望んでおられることだからです。
 わたしたちも、パウロのように、キリストの救いの恵みに生かされて、すべてを献げて主に仕え、ひるむことなく福音を宣べ伝える、謙遜で勇敢なキリスト者になりたいと願います。

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