「神の御心ならば」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:エレミヤ書 第29章11節
・ 新約聖書:使徒言行録 第18章18-23節
・ 讃美歌:6、463
<伝道旅行の終わりと始まり>
パウロたちは、主イエスの福音を宣べ伝える旅をしていますが、本日の聖書箇所で、二回目の伝道旅行がいよいよ終わります。前回はコリントという町に長く滞在していたことが語られていました。そしてパウロは、コリントからシリア州へ旅立ち、ケンクレアイを経て、エフェソというところにやって来ました。そこからパウロはエルサレムへ行き、そして、第二回伝道旅行の出発点であったアンティオキアの教会に戻ったのです。そして23節からは、「パウロはここでしばらく過ごした後(あと)、また旅に出た」と書かれており、ここから三回目の伝道旅行が始まります。
<エフェソ>
さて、19節にあるように、パウロたちはエフェソという町に行きました。エフェソというのは当時のアジア州にある、とても栄えていた商業都市です。実は、パウロは今回の伝道旅行の始めの方で、エフェソに行こうとしていたと思われます。しかしその時は、行くことが出来ませんでした。
使徒言行録の16:6を見てみます。そこには「さて、彼らはアジア州で御言葉を語るのを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った」とあります。
パウロたちが最初に向かおうと計画したエフェソの町があるアジア州は、その時、聖霊によって行くことを禁じられたのです。その後、目的地を変えても、イエスの霊がそれを許さず、とうとうトロアスという港町にたどり着いた、と書かれていました。そこで、パウロたちは幻を示され、海を越えた、自分たちでは計画すら思い至らない場所での伝道を、神がご計画しておられることを確信するのです。そうしてパウロたちは海を渡り、主イエスの救いが、はじめてヨーロッパ大陸にもたらされることになりました。
神のご計画は、海を越えた異邦人たちの地に、広く主イエスの福音を宣べ伝えることでした。それは、パウロたちには、思いもよらなかったことです。
この神のご計画は、聖霊によって禁じられたり、イエスの霊が許さなかった、とあるように、パウロたちの計画が思ったように進まない、自分たちのやろうとしていることが出来ない、という形で、はじめに示されました。
しかし、パウロたちは、神に祈り、神に従って歩む中で、その神の御心を示され、とうとう海を渡っていったのです。
そうして、新たな地で伝道を進めていき、キリストの福音を宣べ伝え、異邦人の国においても、キリストを信じる者が起こされていきました。そうして神が、多くの者を救いへと招き、ヨーロッパ大陸の各地に教会が誕生していったのです。
海の向こうの異邦人の地にも、離散したユダヤ人たちが住んでいました。ユダヤ人であるパウロは、各地のユダヤ人の会堂でまず福音を語りはじめました。しかし、ユダヤ人たちはキリストを信じず、パウロを迫害したり、捕えたりして、対立することが多々ありました。町を逃げるように去ることも度々です。しかし、パウロたちは行く先々で御言葉を語り、とうとう、はじめに聖霊に妨げられて来ることが出来なかったエフェソへ、やって来ることが出来たのです。
19節にあるように、エフェソでも、パウロは会堂でまず同胞のユダヤ人と論じ合い、そして、「人々はもうしばらく滞在するように願った」とあります。他の町と違って、エフェソのユダヤ人は、キリストの福音を素直に受け入れたようです。
エフェソの人々は、旅立とうとするパウロを引き止めました。
パウロは迫害を恐れる必要もなく、もっとこのエフェソの地で福音を語り続けることができたでしょう。人間の思いからすれば、ここは反発されたり迫害されてきたところと違って、人々に受け入れられ、居心地が良いでしょうし、旅の当初に訪れたかった念願の地ですから、できれば長く滞在したいと思うのではないでしょうか。
しかし、パウロはエフェソの人々の願いを断り、「神の御心ならば、また戻ってきます」と言って旅立ってしまうのです。
今、エフェソに残ることは神の御心ではない。そして、戻って来られるかどうかも分からない。でも、神の御心ならば、神がそうご計画されているなら、今、わたしは行かなければならないし、また戻ってくるでしょう、ということです。エフェソの人々は、パウロに自分たちと一緒にいて欲しいと強く願いながらも、こう言って去っていくパウロを引き止めることは出来なかったのです。
<神の御心>
「神の御心」とは、神のご意志のことです。神のなさろうとするご計画と言っても良いでしょう。教会の中では、よくこの言葉が使われるかも知れません。わたしたちは、神のご意志を知り尽くすことは出来ません。神の思いやお考え、なさることは、わたしたちの思いをはるかに超えています。
だからこそ、わたしたちは「神の御心」という言葉を使う時に、み言葉や、祈りを通して、神の御心が示されることを求め、神のご意志に従うことが出来るように願わなければならないでしょう。そうでなければ、わたしたちはこの「神の御心」という言葉を、まるで得体の知れない力や「運命」という言葉と同じようにして、自分のために都合よく使ってしまうことがあるように思うのです。
例えば、自分の人生で受け入れがたい出来事が起こったり、自分の思い通りにならなかった時に、「こうなることが神の御心だったんだ」と言って、納得するための理由にしたり、または何かを行なおうとしているけれど、上手くいくかどうか分からない時に、「神の御心だったら、上手くいくでしょう。そうでなかったのなら、それは神の御心ではないのです」と、言い訳にしてしまったり、説得に使ったりしてしまうことがあるように思います。
昔、教会のある青年が、納得がいかないことを、他の教会の人に「それが神の御心なんだ」と言われ、「何でもそう言えばいいと思って!」と憤慨していたのを思い出します。
それは、クリスチャンにとって、水戸黄門の印籠のようになってしまうことがあります。それを出したら、「神の御心」と言ってしまえば、何も言われないし、何も言えなくなってしまうのです。
しかし、「神の御心」は、そのように単にわたしたちの想像が及ばない出来事や、思い通りに行かないことを、仕方なく受け入れたり、責任逃れをするための言葉ではありません。わたしたちの人生は「神の御心」という得体の知れない力に翻弄されているのではないのです。わたしたちは「神の御心」を完全に分かることは出来ませんし、具体的にどう実現するかを知ることは出来ませんが、神の御心がどういうものであるかは、知らされています。
本日お読みしました、旧約聖書のエレミヤ書29:11には「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」と語られています。
神の御心、成そうとしておられるご計画とは、平和の計画です。旧約聖書で平和と言う時、それは神の救いを意味します。神がわたしたちに立てて下さる計画は、わたしたちに将来と希望を与える、救いのご計画だと、言って下さっているのです。この世での人生が苦しみや悩みに覆われているように見えても、肉体が死んでしまっても、その更に向こうに、なお将来と希望を与えるものです。その神のご計画の中に、わたしたちは置かれているのです。
神がわたしたちに望んで下さっていることは、主イエスの十字架と復活の救いを信じ、すべての者が罪を赦され、神のもとに立ち帰って、まことの神を知り、神との交わりの中で生きる者となることです。そして、終わりの日には、神の国、神のご支配が完成し、キリストを信じて救われた者に、永遠の命と復活にあずからせて下さることです。そのために、神は遠い昔から救いのご計画を立て、イスラエルの民を選び、主イエスを遣わして下さって御業を行い、世界中の人々に福音を告げ、今も神の国の完成に向かって、ご計画を進めて下さっています。
神は、わたしたちにとって、最も善いものを与えて下さる方であり、その恵みのご計画を成し遂げるために、働いて下さり、そして必ず完成させて下さいます。そしてこの御業に、神は、わたしたち一人一人の歩みをも、用いて下さるのです。
わたしたちは人生の中で、判断を誤ることもあれば、失敗をすることもあります。神に従い、神との正しい関係を築くために与えられた自由な意志を、神の望まれないことに使ってしまうこともあるでしょう。しかし、神はわたしたちの過ちも、弱さも、何もかも、ご存知です。そして、ご自分の善いご計画、救いの御心のために、それらをも用いることがお出来になる方です。
また、苦しみや悲しみの出来事も、神がわたしを苦しめようとしているのではありません。神のご計画は、災いのご計画ではなく、平和のご計画です。わたしたちはいつも神の御心をご自身において現して下さったイエス・キリストを見るべきです。神の御子は、低く降り、わたしたちの苦しみ悩み悲しみを担い、罪も死も代わりに引き受けて下さったのです。そうしてわたしたちを苦難と、罪と、死の中から立ち上がらせ、命の道を歩ませて下さるのです。
神がわたしたちに救いの恵みを与えようとしておられることを知っており、そのことは必ず成し遂げられると心から信じて、自分の歩みを神に委ねるなら、わたしたちは自分の望むことや、目的のためではなく、神の望まれること、神の御心のために、神の御心ならば、と歩んでいくことができます。それは主イエスに従うことです。その時、自分が望むことではなくても、現実には閉ざされたように見えても、失敗したように見えても、答えがないように思えても、すべては神の恵みの御手の中にあるのですから、決して絶望せず、必ず来る将来と希望を見つめて、踏み出すことが出来るのです。成し遂げられる方法も、時も、わたしたちには全く分かりません。しかし神は、わたしたちの人生を慈しみ、愛し、共に歩んで下さっている。キリストによって、命の道を拓き、神と共に生きる喜びの中を歩ませて下さっている。わたしたちはキリストを通してその御心を知り、聖霊によってそのことを信じることが出来るのです。
パウロは、そのことをよく心得ていたのだと思います。なぜなら、最初にエフェソ行きを閉ざされたことは、その結果、さらに多くの異邦人にキリストの救いをもたらしました。パウロの思いを遥かに超えた神の御心があったのです。振り返ってみると、すべてのことは、神が福音をより多くの者に告げ知らせるために働いて下さったのだということ、神の御心に従うことが出来るように、神がパウロの歩みを手取り足取り導いて、共に歩んで下さったのだということを、しみじみと実感したのだと思うのです。
ですからパウロが、出発を引き止めるエフェソの人々に「神の御心ならば、また戻って来ます」と言う時、これは期待に応えられないゆえの逃げ口上でもなく、無理に納得させようとするための印籠でもなく、曖昧な約束でもなく、まことに神が善いことを成して下さると信頼し、自分の意志や歩みをすべて神に委ねている故の言葉なのです。神に自分を献げ、献身をしているからこそ、良い時も、悪い時も、起こった出来事も、将来のことも、「神の御心です」「神の御心ならば」と言うことが出来るのです。
<エルサレムへ>
さて、そのようにして、パウロが神の御心としてエフェソを早急に立ち去り、向かったのはエルサレムです。
まず、18節の終わりに、「パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った」とあります。これは、旧約聖書に記されているナジル人の誓願のことです。神に献身する時や、感謝のため、または願いのために、誓願を立てることです。民数記の6章に詳しく出ていますが、誓願の期間は濃いお酒を断ち、髪を切らず、期間が満了になれば髪を剃ることになっていました。そして、エルサレムで犠牲を献げます。パウロは、このタイミングで誓願の期間が終わったのでしょう。どのような誓願を立てていたのかを知ることは出来ません。
このように旧約聖書の教えや律法の儀式を守ろうとすることは、主イエスが旧約聖書の預言を成就して下さった救い主と信じ、宣べ伝えているパウロには、馴染まないことのように思えます。しかし、他の聖書の箇所で、パウロが「ユダヤ人に対してはユダヤ人のように」、「律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました」「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(Ⅰコリント9:20)と語っているところがあります。ですから、エルサレムへ向かうパウロは、ユダヤ人との交わりを考えて、誓願を立てたのではないかと考えることが出来ます。
そして、パウロが神の御心として、急いでエルサレムへ行かなければならないと考えていたのは、これまでの異邦人伝道の結果を、ユダヤ人キリスト者が中心のエルサレム教会の指導者や人々に伝え、教会同士の一致、交わりを深めようとしたためであったでしょう。
神が、異邦人も新しい神の民として、救いに与らせて下さるということは、旧約聖書の歴史において自分たちだけが選ばれた神の民であると自負していたユダヤ人には、受け入れがたいことでした。使徒言行録の15章では、キリストに救われるには、自分たちユダヤ人のように神の民として割礼を受け、律法を守っていることが必要だし、異邦人も救われたいならそうすべきだ、という議論が起こり、エルサレム会議が開かれたことが記されていました。しかし、神の御業によって、異邦人にもキリストの福音が伝えられ、異邦人にも聖霊が降ったことを通して、救いは、ユダヤ人や異邦人ということは関係なく、割礼や律法を守るなどという人間側の条件や行いに関係なく、ただ、キリストを信じる信仰によって与えられるものだということ。洗礼を受けた者たちは、同じ一人のキリストに結ばれた、一つの新しい神の民なのだ、ということが示されました。
ですから、今回、異邦人の地で広く伝道し、多くの異邦人キリスト者が生まれ、各地に教会が誕生していく中で、ユダヤ人のキリスト者が集っているエルサレム教会と、新しく誕生した異邦人の教会が、同じキリストを信じ、同じ聖霊を受け、同じ信仰を持った一つの教会であるということを確認するのは大変重要なことでした。旧約の時代からの神の民の歴史、神のご計画の中に、ユダヤ人も異邦人も今、新しい神の民として共に連なっているということです。またそのことは今後、さらにキリストの福音が広く世界中に宣べ伝えられていく上でも、とても大切なことだったのです。
そのため22節にあるように、パウロは「カイサリアに到着して、教会に挨拶をするためにエルサレムに上り、アンティオキアに下った」とあります。パウロは確かにエルサレム教会に行ったのです。しかしそこの様子が全く書かれていません。おそらく、パウロの願いが届かなかったのだろうと予想することが出来ます。
<神の御心に委ねる>
では、エルサレム教会に受け入れられなかったから、これは神の御心ではなかったのでしょうか。別の、もっと良い方法があったのでしょうか。
たとえこのような結果でも、このことが神の御心ではなかった、と言うことは決して出来ません。ある出来事が、上手くいかなかったり、失敗に終わったように見えることがあります。それはとても落ち込むことですし、心も傷つきます。
しかし、わたしたちは、目の前で起こった出来事によって、失敗だったから神の御心ではなかったんだ、と神の御心を決めつけることは出来ません。ですから、上手く行っているからと言っても、これが神の御心だ、と決めることも出来ません。様々なことを通して、神の救いが示された時、神の栄光が現わされた時に、それらのことが神の御心だったと分かるのです。
どのような形で、いつ、御心が実現するかは、神ご自身がお決めになることです。わたしたちが神の御心を尋ね求めるは、ただ御言葉と、祈りによってです。ですから、わたしたちは、いつも神のみ言葉を聞き続けなければなりません。神との交わりに生き続けなければなりません。その時、わたしたちは、世の中の出来事に支配されているのではなくて、主イエスの救いの出来事がわたしたちを支配し、神の平和のご計画の中を、聖霊の導きの内に、主イエスと共に歩まされていることを知ることが出来るのです。
だから、パウロは失望しません。パウロは神と共に歩んでおり、これらの出来事も、これからのことも、すべて、神にお委ねしているからです。パウロは出発点の教会に戻り、新たな旅をスタートさせます。自分の計画や思いが遂げられるためではなく、神の御心が成し遂げられるために、将来と希望を与えてくださる、神のご計画が実現するために、また心を燃やして前に進んで行くことができるのです。
そうして今、パウロの時代からこんなに隔たったこの時代、この場所で、神を礼拝し、御言葉を聞き、祈るわたしたちの群れがあるのは、確かに神の御心であり、恵みの証しと言えるでしょう。
ですからわたしたちも、目の前の出来事や、失敗や、成功に目や心を奪われるのではなく、一人一人を愛し、最も善いものを与えようとして下さる、神の平和のご計画の中にいることを覚えましょう。神の御心を見つめましょう。キリストの十字架と復活の御業を覚えましょう。御言葉を聞き、祈りつつ、神の御手の中にある、与えられた毎日の生活を、神に信頼し、神に委ねて、歩んでまいりましょう。