夕礼拝

天の主イエスを見つめて

「天の主イエスを見つめて」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第31編1-25節
・ 新約聖書:使徒言行録 第7章54節-第8章3節
・ 讃美歌:18、528

 ステファノは、キリスト教の教会において、一番はじめの「殉教者」と言われています。
 「殉教」と聞くと、みなさんはどのようなイメージを持たれるでしょうか。死においても信仰を貫いた、とても立派な人物。攻撃に屈しなかった勇敢で強い人。世の悪と戦って死んだ清らかな人。
 殉教者ステファノの記録は、なんだかわたしたちには及びもしない、違う世界の人ことが語られているのかと思ってしまいます。
 しかし、ここで語られようとしているのは、ステファノの立派さや素晴らしさを讃えることではありません。むしろ、この残酷で恐ろしい死の時さえも、ステファノと共にいて、ステファノの信仰を最後まで支え守られた方、そして、今わたしたちとも共におられる、主イエス・キリストというお方に注目したいのです。

 ステファノは、主イエスが、神が人を救うために遣わして下さった救い主であることを宣べ伝えていました。しかし、ユダヤ人たちが、律法と神殿を冒涜している、と言って、ステファノを捕え、最高法院という裁判の場所に引っ張り出してきました。
 前回お読みしたところは、その法廷で、ステファノが人々を前に説教をしたところでした。ステファノは、イスラエルの歴史を振り返りつつ、訴えてきたあなたたちこそ、神が遣わして下さった主イエスを受け入れず殺して、神に逆らい、また神殿で形式だけの儀式を行って、神の命の言葉を聞く、まことの礼拝を捧げていないのだ、と逆に訴えてきた人々の罪を指摘したのでした。

 「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした」とあります。ここからが今日お読みしたところです。彼らは激怒し、ステファノに向かって敵意をむき出しにしました。ステファノを神への冒涜罪で訴えていたのに、ステファノから、自分たちこそが罪を犯しているのだと、告発されてしまったのです。
 ステファノへの殺意が、最高法院に満ちました。普通、このような怒り狂った人々の中に立たされたなら、恐怖に恐れ慄いたり、自分の死を予感して絶望的な気持ちになるのではないかと思います。

 しかし、ここでステファノは、聖霊に満たされ、天を見つめていました。
 「天」とはどこでしょうか。ステファノはどこを、何を、見つめていたのでしょうか。
 わたしたちは、どこか「空」に「天」という場所、「天国」というようなところがあるようなイメージを持っているかも知れません。しかし、ここは最高法院の議場の中ですから、もちろん空などは見えません。「天」は、わたしたちが目を上げて、網膜に映し出されて見えるものではありません。

 主イエスは、十字架で死なれ、復活されて、天に上げられた、と、同じ使徒言行録の1章に書かれています。死の中から、体を持って甦られた主イエスは、使徒たちと共に食事をしたり、神の国について教えて共に過ごされた後、天に上げられ、そのお姿が目には見えなくなりました。見えるところから、見えないところへと移られた。それが天です。ですから、わたしたちは「天」を空間や場所として捉えることは出来ません。しかし、すべてに勝利され、すべてを支配しておられる復活の主イエスがおられ、神の栄光が満ちているのが天である、ということが出来ます。
 そして、その後、天に上げられた主イエスは、使徒たちに、そして信じる者たちに聖霊を遣わして下さいました。

 復活の主イエスが、お体があって、もし地上に留まっておられるならば、わたしたちは主イエスがおられる時、特定の場所に行かなければ、主イエスとお会いすることが出来ないことになります。
 しかし、主イエスは天に昇られたので、遣わされた聖霊のお働きによって、わたしたちは天におられる主イエスと一つに結ばれて、いつでも、どこでも、お会いし、共にいていただくことが出来ます。わたしたちが、礼拝を捧げているこの時も、聖霊のお働きによって、天の生きておられる主イエスが、今ここにおられるのです。

 ステファノが見つめたのは、その地上のわたしたちの目には見えなくなられた、天の主イエスのお姿です。
 ステファノは「神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った」と書かれています。
 聖霊がステファノを満たし、その時ばかりは、ステファノの目が、神の栄光を、主イエスのお姿を見ることがゆるされたのです。

 そしてこの発言をきっかけに、人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノめがけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めました。

 彼らが、なぜこのステファノの言葉にこれだけ反応したのか。
 それは、ルカによる福音書22:69に書かれている、主イエスご自身が、十字架に架かられる前、このステファノが裁かれているのと同じ最高法院で、このように言っておられたからです。
 「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」
 「人の子」とは、メシア、救い主を表す言葉です。主イエスはご自身のことを「人の子」と言われていました。「神の右に座る」ということの意味は、主イエスが、神の全権を委任され、見えるものも見えないものも、すべてを統治されている、支配されている、ということです。
 これは、もしまったく普通の人間が口にしたのなら、「自分は救い主であり、神である」と言っているのであり、神に対する大変な冒涜になります。人々は、主イエスが救い主であると信じなかったので、この主イエスの発言を受けて「この男はわが民族を惑わし、自分が王たるメシアだと言っている」と言って、神を冒涜したとして、訴えたのでした。そして人々は主イエスを十字架につけるようにと大声で叫んだのです。

 しかし、今ステファノは、その主イエスが裁かれた時と同じ最高法院で、まさに主イエスご自身が言われたことが、本当であったのだ、確かに主イエスは神の右におられるのだと、言いました。これは、主イエスが「正しい方」で、本当に「救い主」であったのだと、証言するものであり、また人々がその救い主を殺したのだ、とはっきり宣言することであったのです。

 さて、主イエスは「神の右に座る」とおっしゃったのに、ステファノは「神の右に立っておられる」のを見た、と言います。この「座る」と「立つ」の違いについて、実際には同じ意味でつかわれているのだとか、主イエスは裁きを行うために立ち上がられたのだとか、理由は色々言われています。それらの説の中でも、初期のキリスト教を指導した教父と言われる人たちは、神の右に座しておられる主イエスが、愛する僕を迎えるために、身を乗り出して、手を差し伸べ、立ち上がっておられるお姿を見てきたといいます。まさに主イエスが、ステファノに向かって御手を差し伸べ、その腕に抱こうとされている、ステファノはそのような主イエスを見たのかも知れません。

 人々はステファノに襲いかかり、都の外に連れ出して石を投げ始めました。石打ちの刑は殺人や姦淫の罪、また神を冒涜した者が処せられる極刑です。まず最初に、裁判の証人によって、身丈ほどある大きな穴に突き落とされます。それで死ななければ、とても大きな石を、頭や胸に投げつけて、死に至らせるという酷い刑です。

 そのような想像を絶する、死に至る苦しみと痛みを受けながら、ステファノは二つの祈りを、祈りました。
 一つは「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」という祈りです。
 もう一つは、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」という祈りです。

 このステファノの祈りは、主イエスが十字架の苦難の時に祈られた祈りと、とてもよく似ています。
 それはルカによる福音書の23章に出てきますが、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という祈りと、最後に息を引き取られる時に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という祈りです。

 ステファノは、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と呼びかけます。
 今、ステファノの目の前には、父なる神が遣わされた救い主、十字架の死によって、ステファノを罪から贖い出し、死から甦られ、天に昇られたキリストがおられます。ステファノは、復活し、生きておられる救い主、イエスの名を、呼ぶことが出来るのです。罪を赦し、永遠の命を与えて下さる方を、「わたしの主」と呼ぶことが出来るのです。
 世の望みが全て失われたような時も、誰も助けがおらず、今や死のうとしているその時でも、自分の命を死に委ねるのではなく、死に勝利された、復活の主イエスの御手に委ねることが出来るのです。ステファノを神の子として下さり、天へ昇られ、天への道を開いて下さった主イエスが、ご自分のもとへ、ステファノを迎え入れて下さいます。
 死に際して、主イエスという方に信頼し、自分の霊も何もかもお委ねする、この祈りは、ステファノの信仰告白と言っても良いでしょう。

 そしてステファノは、さらに石が次々と投げられ、体がボロボロになっていく中で、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫びました。
 自分を殺している者たちの罪の赦しを、主イエスに執り成したのです。

 わたしたちは、まず、考えられないと思うのではないでしょうか。恨んで死んでいった、呪いの言葉を吐いて死んでいった、というなら、まだなるほど、と思うでしょう。
 しかし、自分を傷つけ、殺す者の罪の赦しを願う、というのは驚くべきことです。
 そう思うのは、わたしたち自身、日常の小さな出来事においてさえも、自分を傷つける人のことを決して赦せないし、その人のために祈り願うということが中々出来ないからです。それはとても困難だし、耐え難いことのように思われます。
 もし、自分の怒りや、恨めしい感情を殺して、納得していないのに無理をして、自分を傷つけるための者に祈るなら、それは確かに困難だし、耐え難いことでしょう。

 しかし、ステファノの祈りはそのような祈りだったでしょうか。彼は、自分の憎しみや恨む心を押し殺して、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈ったのでしょうか。そうではないでしょう。
 ステファノがこのように祈ることが出来たのは、ステファノと共に主イエスおられ、ステファノを恵みで支配しておられたからです。

 ステファノと共におられるのは、このステファノの苦しみも、痛みも、敵に迫害される辛さも、孤独も、何もかもを知っておられ、その身にすべて負って下さった主イエスです。ステファノのために、十字架の苦しみを受け、命を捨てて下さった主イエスです。その主イエスが、十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られた。それはステファノのためにも祈られた、父なる神への執り成しの祈りです。その主イエスの祈りによって執り成され、罪を赦され、主イエスの復活の命に生きることをゆるされたステファノです。
 その罪も、死も、何もかもを覆いつくしてしまう、十字架と復活の恵みを受け、主イエスに結ばれて生きているから、その救いの恵みをはっきりと見つめているから、ステファノは、主イエスが祈られた執り成しの祈りを、この終わりの時にも、敵対する者のために、心から祈ることが出来たのではないでしょうか。主イエスの救いの御心を、自分の心とすることができたのではないでしょうか。
 ステファノの祈りは、聖霊に満たされ、主イエスの恵みの中にあるからこそ、祈られた祈りだったのです。

 ステファノの目は、残酷に殺されていく絶望的な現状に奪われることはありませんでした。ステファノの目は、聖霊のお働きの中で、罪も死もすべてを支配される主イエスを、最期までしっかりと見つめていました。
 一人のキリスト者が殺され、残酷な死に渡されているようなこの場面において、しかし確かに、ここでは復活の主イエスの愛と、赦しと、永遠の命が、勝利しているのです。

 そうして、ステファノは眠りにつきました。
 キリスト教で、一番目の殉教者と言われています。「殉教者」という言葉は、ギリシャ語だと「証人」(証する人)という言葉と、全く同じ単語が使われます。
 主イエスを証しする力を与える聖霊が、ステファノを満たし、主イエスの救いを信じる信仰を与え、その信仰をこの世で最も過酷と思われる時、人生の最後の時においても、支え、守って下さいました。そしてステファノは、イエス・キリストの恵みに寄りすがって生きる姿によって、主イエスを証ししたのです。

 この一人の殉教者によって、その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こった、と聖書には書かれています。一人の信仰深いキリスト者が殺され、迫害が強まり、まるで事態は急速に悪化していくかのようです。
 しかし、使徒言行録では、この後、迫害のために各地に散らされて行ったキリスト者によって、福音がユダヤやサマリアという地方にまで宣べ伝えられ、主イエスの恵みがどんどん広がっていく様子が記されています。人の思いを超えて、神の救いのご計画は、どんどん前進しているのです。

 また、このステファノが殺害される時に、一人のユダヤ人の若者が登場しました。「サウロ」という者です。石を投げる者たちの、上着の番をしていました。今日の聖書箇所では、このサウロは、ステファノの殺害に賛成していた、と書かれています。その後には家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた、と書かれています。
 しかし、この一人の大変激しい迫害者は、後に「パウロ」という名を名乗り、命を懸けてキリスト教を熱心に宣べ伝える、大伝道者となるのです。
 主イエスは、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」というステファノの祈りを聞いて下さいました。パウロは主イエスと出会い、悔い改めて、主イエスを救い主と信じる者となるのです。主イエスは、この迫害者であったパウロの罪をも赦し、神の救いのご計画のために選んで、伝道者として遣わされるのです。

 主イエスは、ご自分の恵みのもとへ、救いのもとへと、人々を招いておられます。そして、先に恵みに召された者は、今度は主イエスと共に、招く者とされて、その救いの御業に用いられていきます。主イエスと一つになった者たちは、福音を宣べ伝えるために遣わされ、主イエスと共に苦しみ、主イエスと共に祈り、主イエスと共に喜ぶ者とされるのです。
 それは、終わりの日の、神の国、神のご支配の完成に向かう、勝利を約束された歩みです。

 しかし、その勝利の知らせを聞いていながら、主イエスの勝利に既にあずかっていながら、わたしたちの目はすぐに目の前の出来事に覆われ、見るべきものが見えなくなってしまいます。
 ですから、わたしたちは、わたしたちの目が、どのような時にも、天の主イエスを見つめることができるように、神の恵みから目を離すことがないように、聖霊の導きを祈り求めなければなりません。

 そして、わたしの苦しみや悩みをすべてご存知であり、わたしの罪と死を担って下さり、わたしを新しく生きる者として下さった、主イエスが共におられることを忘れないように。
 人生における大きな出来事においても、また、どのような小さな日常の一コマにおいても、わたしたちが生きている、その場所において、わたしたちの語ること、行うこと、一つ一つが、主イエスに寄り頼んで生きる者であるように。
 主イエスに罪を赦された者として、わたしたちも隣人を愛し、敵のために執り成しの祈りを祈り、主の救いの御手に、敵さえもお委ねすることが出来るように。
 そのようにわたしたちを強くし、支え、人を赦す者とならせて下さる主イエスの恵みを、わたしたちは受けているのです。

 殉教者、主イエスを証しする人とは、主イエスに罪を赦された者、主イエスによって命を与えられ、恵みに支えられ、生きる者のことです。ですから、主イエスの救いにあずかったなら、わたしたちすべてが主イエスの証人となるのであり、地上の歩みの終わりの時まで、主イエスを証する者とされるのです。
 それは、わたしたちの信仰深さや、熱心さや、努力や、我慢によるのではありません。主イエスが、恵みによってわたしたちを捕らえて離さない、そのことによって起こることです。
 聖霊に満たされ、神の右におられる天の主イエスを見つめて、恵みによって、証しする者とならせていただきましょう。

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