夕礼拝

心も思いも一つに

「心も思いも一つに」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:ヨシュア記第7章1節
・ 新約聖書:使徒言行録第4章32-5章11節
・ 讃美歌:13、390

 今日の聖書では、教会が出来たばかりの時の様子が、詳しく描かれています。
 そして、その後に続く箇所は、わたしたちに衝撃を与えます。アナニアとサフィラという夫婦の出来事です。ここでは、教会に属していた二人が、献げものの代金をごまかして、神を欺こうとし、そして死んでしまった、ということが書かれています。
 わたしたちはどうして衝撃を受けるのでしょうか。アナニアとサフィラが代金をごまかし、嘘をついたことが、死ぬほどの大きな罪なのだろうか、と思うからでしょうか。死んでしまうというのは、厳しすぎるんじゃないか、と思うからでしょうか。そもそも、教会において、罪を犯してその場で死ぬなんていうことが、あるのでしょうか。この箇所を読む時に、アナニアとサフィラのところだけを読むなら、わたしたちの中には衝撃と不安と恐れだけが残ってしまうでしょう。

 しかし、この箇所が初代の教会において記録され、今のわたしたちに聖書として伝えられているのは、教会にとって重要なことであるからです。分からないこと、納得できないことを排除して、心地よい言葉だけ、理解できる事柄だけを残そうと思えば、教会はこの出来事をなかったことにできたかも知れません。
 でも、このことが聖書に記されており、わたしたちの恵みに関することが語られていると信じるとき、この箇所はわたしたちにとって、教会にとって、とても大切なことを示していると思うのです。教会におけるアナニアとサフィラの罪とは一体何だったのか、そして、教会において、主イエスに救われた者として、心も思いも一つにして生きていくとはどういうことなのかを、共に聞いていきたいと思います。

 そのことを知るためには、4章32節以下から語られている、当時の教会の様子をよく知らなければならないでしょう。この直前には、使徒たちがユダヤ当局からの迫害を受け、捕えられて主イエスの復活を宣べ伝えることを禁じられたこと。しかしなお教会は、祈り、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語っていた、ということが記されています。

 そして、4章の32~37節で、教会においてどのような生活がなされていたかが述べられます。その教会生活において、良い例として36~37節のバルナバのことが、悪い例として5章1~10節までのアナニアとサフィラのことが語られるのです。

 まず、当時の教会の様子です。
 最初に書かれている重要なことは、「信じた人々の群れは心も思いも一つにしていた」ということです。主イエスの復活を信じ、生きておられる主イエスとの交わりの中で、新しい命に生きる者とされた人々は、「心も思いも一つにしていた」とあります。お一人の、人となられた神の御子、主イエス・キリストに結ばれた者は、主イエスにあって互いにも結び合わされ、共に主に仕え、共に生きる者とされます。主にあって、人々は心も思いも一つになっていました。

 そして、そのように一つとなって、主に救われた者として新しい命を生き始めた人々の群れは、持ち物を自分のものだと言わないで、すべてを共有していた、と書かれています。つまり、利己心がなかった、自分だけが満たされていれば良いと考える人がいなかった、ということです。主イエスの救いを信じた人々は、神の恵みに生かされている者として、自分に与えられているものを、必要とされているところで用いられるように、自発的に喜んで、使徒たちのもとに、献げものとして持って来ました。
 これは、わたしたちが献げる献金と同じです。献金とは、救われ、神の恵みを受けた者が、その感謝の応答として、自分自身を献げるしるしとして、神に献げるものです。キリストに救われた者は、キリストと結ばれて、キリストのものとなるからです。そして、キリストのものとされたなら、自分の所有物や財産によってではなく、神によってすべては与えられ、生かされていることを知るからです。生かされていることに感謝し、献げることが出来る喜びを知ることは、幸いなことです。
 初代の教会において人々は、罪人である自分を救って下さった神に感謝し、また共に生きる隣人のために奉仕すること、神を愛し、隣人を愛するということの具体的な形として、このように自分の持ち物を共有したのでした。
 このことは、主にあって心も思いも一つになっていなければ、行うことが出来ないことでしょう。

 その結果、34節には「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足元に置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」と書かれています。人々は使徒たちのもとに持っているものを持ちより、使徒たちがそれを必要に応じて分配していたようです。
 これは共産主義のようなこととは違います。おそらく、なお人々の間には貧富の差があったかも知れません。しかし、「貧しい人がいなかった」。生活に困るような者はいなかったのです。不足した時には、献げものから必要が補われ、満たされたということです。恵みを共有し、痛みや貧しさを共有し、信じる人々は一つとなって主イエスに仕えたということです。
 5章4節で、アナニアに対してペトロが、「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになった」と言ったように、これは決して強制的なものではなく、また規則があったのでもなく、神の恵みに生かされている人々が自発的に、喜んで行ったことでした。
 旧約聖書の申命記において、15章4節に「あなたの神、主は、あなたに嗣業として与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなる」と書かれています。主イエスの救いにあずかった、選ばれた新しい神の民イスラエルにおいて、この神の約束が果たされていることが示されています。

 そして教会は、大いなる力をもって主イエスの復活を証していたのです。これが、教会の姿です。教会は、イエス・キリストに結ばれた人々が、心も思いも一つにし、恵みに応え、感謝の中で共に生き、聖霊に満たされて、主イエスの十字架と復活を証し、宣べ伝えていく群れなのです。そこには、復活し、天におられ、生きておられる主イエスが、聖霊によって人々と共におられます。それが、2000年前から今も変わらない、わたしたちの教会の姿です。

 このように、持ち物を共有する生活は、主イエスにあって心も思いも一つになった教会だからこそ実現したことでした。
 そして人々は何よりも、復活の主イエスに与えられた新しい命に生きる、ということを共有していたのです。

 このような教会の姿が示された後に、使徒たちからバルナバ「慰めの子」と呼ばれていた、ヨセフという人のことが、一つの例として書かれています。この人物は、後にキリスト教会の迫害者であったパウロが回心した後、教会に迎え入れさせた人です。そしてパウロと一緒に最初の伝道旅行に行きました。バルナバは非常に熱心な伝道者、指導者となるのです。
 バルナバは主イエスを信じた後に、自分の畑を売って、使徒たちのもとへ持ってきました。人々は、別に自分の土地や畑を売らなくても良かったのです。しかし、必要があれば、土地を売っては代金を持ち寄って、困っている者に分配したのでしょう。バルナバは必要を感じて、自分の畑を売ってすべてを神に献げたのでした。これは、主イエスの救いの恵みにあずかり、利己心や所有や富から自由にされ、喜んで神と隣人に仕える姿です。
 簡単には出来ないことです。主イエス・キリストの恵みを受けたからこそ、喜んでできる行為です。

 ところが、これらのことが語られた後に、アナニアとサフィラという夫婦が登場します。5章1節に、「アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた」とあります。これは4章34~35節の「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き」と書かれている表現が繰り返されています。つまり、アナニアとサフィラも、人々と同じように神への感謝の献金として、ごまかした代金を献げたということです。

 どうして代金をごまかしたりしたのでしょうか。
 3節でペトロが言うように、売らないでおけば土地はそのまま自分たちのものだし、売っても、これだけ献げます、といって自分で金額を決めて出すこともできたのです。
 しかし、アナニアたちは、売った代金の一部を自分たちのものにして、しかし献げる時には、売った代金すべてを献げたことにしたのです。代金をごまかし、嘘をつきました。見栄を張りたかったのでしょうか。人々に褒められたかったのでしょうか。
 ある人は、どちらにしろ、献げることは強制的なことではなかったのだから、何も献げないよりも、献げただけでも良い行為ではないか。嘘をついてしまったくらい、大したことではないのではないか、と考えるかも知れません。しかし、もしそう考えるのだとすれば、わたしたちは、このアナニアたちの罪を、軽く見ることになります。

 ここで2節、4節に「代金をごまかし」とある「ごまかす」という言葉は、「着服する、横領する、盗む」という意味でつかわれる言葉です。本日お読みした旧約聖書のヨシュア記7章1節以下に、アカンという人が、神にささげるべきものの一部を盗み取ったために、主がイスラエルの人々に対して激しく憤られた、という記事が書かれています。この罪が明らかになって、アカンは一家もろとも石で打ち殺されました。ここで、アカンが「盗み取った」と書かれている言葉は、アナニアたちが「ごまかした」という言葉と同じ言葉です。これは、奴隷が主人のものを着服する、というような時に使われる言葉です。主人を信頼し、尊敬している奴隷が、主人のものを着服したりするでしょうか。

 つまり、アナニアとサフィラの行為は、ただ代金をごまかした、嘘をついた、というだけではなく、アカンと同じ罪、「神のものを、盗み取った、着服した」のだと指摘されているのです。神のものを盗み取ろうとすることは、神を侮ること、神を神としていないということです。

 ペトロは言います。「なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか」。そしてアナニアはペトロに「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と言われたとたんに、倒れて息絶えてしまいました。

 この「サタンに心を奪われる」という言葉は、直訳すると、「サタンに心を満たされる」となります。これは4章31節で、「皆、聖霊に満たされて」の「満たされて」と同じ言葉です。主イエスを信じ、聖霊に満たされていた心を、サタンに明け渡してしまったということです。サタンとは、人を神から引き離そうとする力のことです。

 主イエスが再び来られるまで、神のご支配が完成する時までは、わたしたちはこの世において、なおそのようなサタンの誘惑と戦わなければなりません。しかしわたしたちは、主イエスが、すでに全てに勝利されていることを知っています。御子を遣わし、罪を赦して下さった神の愛に信頼し、神の恵みの中に確かに立たされていることを、自覚しなければなりません。わたしが必死にしがみついて神の恵みにぶらさがっているのではないのです。神の力強い御手が、わたしを捕え、決して離さないということを信じるのです。このわたしのために、主イエスが肉を裂き、血を流し、死なれた。そして罪を赦し、新しい命をくださったその恵みを、真剣に受け取らなければなりません。

 主イエスを信じた人々は、ご自分の御子の命によって救って下さったその神の愛に、恵みに感謝して、新しい生活の中で真剣にその恵みに応答し、心も思いも一つにして、神に献げものをしたのです。
 しかし、神から引き離そうとするサタンの力によって、アナニアは神の恵みを蔑ろにしました。献げものにおいて、神を欺いたのです。虚栄心や強欲によって、恵みを忘れ、自分の欲を満たすことに熱心になり、神にささげるべきものを盗み取り、神を神としなくなりました。神の恵みに感謝して応える心ではなく、神を侮り、自分の心を満足させるやり方で、神への献げものを扱ったのです。

 後から妻のサフィラがやってきます。ペトロが代金のことについて「あの土地をこれこれの値段で売ったのか」と問いただすと、サフィラはアナニアと相談した通り、偽って「はい、その値段です」と答えました。そしてまたペトロの言葉の後で、サフィラも息絶えたのです。
 ペトロはサフィラにこのように言いました。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか」。ここの箇所は、前の口語訳では「あなたがたふたりが、心を合わせて主の御霊を試みるとは、何事であるか」と訳されていました。信じた人々が神の愛と恵みに感謝し、主イエスを証しすることに心も思いも一つにしていた時、この二人は神から離れ、自分たちのこの計画のために、二人で神を欺くことに「心を合わせて」いたのです。

 アナニアとサフィラがしたことは、単にケチであったとか、セコイ嘘をついたとか、そのようなことではありません。偽りは口先だけのことではなく、心が神から離れ、主イエスの十字架と復活の恵みを忘れたところから起こったことです。神から離れることは、罪そのものです。それは神の御前で、人の命では贖えない、神の御子主イエスの十字架の死によらなければ赦されない罪です。この二人がしたことは、主イエスのもとで心も思いも一つとなった教会の中から分裂し、神の愛と恵みを忘れて神を欺くことに二人で心を合わせ、主イエスを証する群れとしての歩みを妨げるものであったのです。

 アナニアとサフィラは死にました。この死について、わたしたちは聖書以上に知ることや、納得できる理由を引き出すことは出来ません。しかし神は、ご自分に逆らって滅びに向かう、罪の中にある者を、ご自分の御子の命によって贖ってくださったのだということを、心に留めていたいと思います。

 そうして、ペトロが罪を指摘した直後に二人が死んだことを聞いて、教会全体とこれを聞いた人々は、非常に恐れた、と書かれています。この「恐れ」は、神の顕現、神がここおられるということに対する恐れです。アナニアとサフィラの共謀による隠された罪が、公にされ、決して神を欺くことは出来ないことを知らされたのでした。人々は、教会の群れにおいて、生きておられる神が、常に臨んでおられることを知ったのです。

 それは、赦されてなお罪深いわたしたちが、いつも神に見張られていることを恐れたり、罪を犯すや否や、アナニアたちのように死んでしまうことを恐れるのではありません。

 誰だって、いつサタンの誘惑にあうかも知れませんし、神の恵みを忘れてしまうことがあるかも知れません。そして自分の罪深さに、不信仰さに、不安になることがあるかも知れません。アナニアのように、またはアナニア以上に、自分は神に対して罪を犯しているのではないかと思うことがあるかも知れません。
 そうしたらわたしたちは、いつも怯えていなければならないでしょう。

 しかしそうではないのです。わたしたちは、そこで神を欺いたり、主の霊を試すのではなく、また神の恵みに胡坐をかいたり、反対に裁きをひどく恐れたりするのでもなくて、今ここにおられる神の前で、素直に悔い改めることが求められています。
 わたしたちの罪は、主イエスが血を流し、苦しみを受け、十字架で死なれたことによって、すでに赦されたのです。その恵みに固く立ち、神のもとに立ち返るのです。
 神はわたしたちの弱さも不信仰も十分ご存知です。それでもなお、今わたしたちは生かされており、このように神の御前に集められて、復活の主イエスとの交わりの内に、神を礼拝し、神を賛美することがゆるされているのです。そして、感謝して、喜んで、神の恵みに応えていく生活をすることが出来るのです。

 この聖書箇所は、まさにわたしたちが神の恵みを真剣に受け止め、自分の罪を悔い改めて、神のもとに立ち返るために、与えられているのではないでしょうか。教会は始まって間もないうちに、生きておられる神の前で、神の恵みに生きる真剣さを教えられたということでしょう。そして、それは今のわたしたちの教会にも問われていることなのです。

 わたしたちが、主イエスの死と復活によって与えられた恵みを、打ち捨てたりすることがないように。御子を遣わして下さった神の愛を、蔑ろにすることがないように。サタンに心を満たされるのではなく、聖霊が心を満たして下さるように祈り、神から引き離そうとするサタンの誘惑に打ち勝たせてくださるように。
 主イエスが再び来られる約束の日まで、「われらを試みにあわせず悪より救い出したまえ」と、教会は一つになって祈り続けます。わたしたちは一人ぼっちでサタンと戦うのではありません。共に確かな恵みに生かされている兄弟姉妹が共におり、何よりすべてに勝利された、生きておられる復活の主イエスが、いつも信じる者の群れと共におられ、聖霊なる神様によって信仰を守り導いて下さいます。主に信頼し、委ね、心も思いも主を見上げて一つにしましょう。
 そしてすべての者が、復活の主イエスとの交わりの中で、喜んで神と隣人に仕えて生きる、そのような恵みに満ちた、新しい生き方に招かれているのです。
 その神の招きと、福音を宣べ伝えるために、心も思いも一つにし、主イエスの十字架と復活を証しつつ、教会は歩んでいくのです。

関連記事

TOP