夕礼拝

ナザレの人イエス・キリストの名

「ナザレの人イエス・キリストの名」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書第35章1-10節
・ 新約聖書:使徒言行録第3章1-10節
・ 讃美歌:327、447

 本日の聖書箇所は、3章に入って、足の不自由な男に起こったいやしの出来事が描かれています。見出しには「ペトロ、足の不自由な男をいやす」という題がついています。   
 しかし、この話の中心は、足の不自由な男ではなく、またいやしの業をおこなったペトロでもありません。   
 この出来事の中心は、名を呼ばれた方、「ナザレの人イエス・キリスト」です。死人の中から甦られて、天に上げられた、生きておられるこの方ご自身が、この男を癒し、また救って下さった出来事なのです。      

 さて、この男は、生まれながら足が不自由だった、と書かれています。   4章の22節には、「このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。」とあり、実に四十年もの間、一度も自分の足で立ったことも、歩いたこともなかったということが分かります。   
 この男は、生活の糧を自分で働いて得ることが出来ません。   
 そこで、「神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである」と書かれています。そうやって、神殿の境内に入る人に、施しを乞うていたのでした。   
 施しをすることは、当時の人々の美徳とされていましたから、敬虔なユダヤ人たちがやってくる神殿が、施しを受けるのに一番の場所だったのでしょう。      

 しかし、そこにいることが男の意志だったかどうかは分かりません。2節には「運ばれて来た」、また「門のそばに置いてもらっていた」とあります。自分で行きたい場所へ行けない男は、人に運ばれ、そこに置かれて、また一日が終わったら家に運ばれて、というように、人の手によって、恐らく小さいころからずっと、そのようにされてきたのです。そうするしかなかったのでしょう。それが、この男の人生でした。   
 立派な門のそばに置かれて、神殿の境内に祈りに行く大勢の人を見上げながら、その祈りに加わることもできず、ただ、その日生きるための施しを乞うていたのです。      

 男には、諦めなければならないことが、人よりとても多かったに違いありません。その諦めを積み重ねながら、変わらない、変わりようのない毎日を、男はどのように考えていたのでしょうか。もしかすると、もう考えることも止めてしまっていたかも知れません。      

 そんな男の、いつもの毎日の中のある日、午後三時に、ペトロとヨハネが神殿にやってきました。午後三時の祈りの時は、特にやってくる人々が多くなる時間帯なので、この日も足の不自由な男は、運ばれてきて、美しい門のそばに置いてもらいました。   
 ペトロとヨハネたちも、2章46節に「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」とあるので、実はこの男のそばを毎日通っていたはずでした。   
 でも、特別にこの日、その出来事は起こりました。      

 男はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた、とあります。   
 すると、ペトロはヨハネと一緒に、「彼をじっと見た」のです。   
 一瞥したとか、ただ目に入ったのではない。自分たちに施しを求める男の目線を受けて、じっと注意深く見た。彼らはこの男に関心を持ち、この男に関わっていきます。      

 使徒たちのこの態度は、主イエスが十字架に架かられる前と、復活の主イエスに出会った後では大きく違っています。主イエスが十字架に架かられる前の使徒たちは、自分が偉くなることに関心があり、また自分の身を守ることに必死でした。自分のことばかり考えていました。   
 しかし、復活の主イエスに出会い、主イエスこそが、人の罪を贖って下さる、まことのメシヤ、救い主であると知りました。この世の見える国を建て直す方ではなく、神がすべてを支配される、神の国を建てていく方だと知ったのです。   
 復活の主イエスに出会い、聖霊を受けて、神の国のために主イエスの証人として遣わされる使徒たちは、自分のことではなく、主イエスの御心を第一に考え、主イエスご自身が目を注がれ、招いておられた、病の者、社会から追われていた者、孤独だった小さな者たちに、使徒たちもまた、目を注ぐようになっています。      

 ペトロは、ヨハネと一緒に物乞いをしている男をじっと見て、そして「わたしたちを見なさい」と言いました。      

 当然男は、自分が施しを乞うたことに応じてもらえると思ったでしょう。男は「何かもらえると思って二人を見つめた」、と書かれています。この男は、何をもらえるか、いくらもらえるかと期待して、ペトロを見つめていました。      

 しかし、ペトロは意外なことを言いました。   「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」      

 ペトロが持っているのは、金や銀ではなく、「ナザレの人イエス・キリストの名」だと言うのです。男は、金や銀を求めていました。その日食べるのに必要なものが、欲しかったのです。しかし、ペトロがくれるというのは「ナザレの人イエス・キリストの名」です。それは男が求めていたものではありませんでした。      

 毎日エルサレムの神殿にいた足の不自由な男は、当然この「ナザレの人イエス」のことを知っていたでしょう。ナザレのイエスは、ある時エルサレムにやって来て、毎日境内で教えていた人です。そして、ユダヤ人の祭司長や律法学者たちが邪魔に思い、死刑にするために引き渡し、不名誉で残酷な十字架刑で殺された人です。   
 しかし、ペンテコステの日、聖霊が降るという出来事が起こり、使徒たちがナザレの人イエスが死人の中から甦ったことを証言し、たくさんのユダヤ人たちが、ナザレの人イエスは、聖書に預言されていた、待ち望んでいたキリストである、救い主であると信じて、毎日神殿に一緒になってやってきます。そのようなことが、きっと男の耳にも入っていたし、実際にキリストを信じた人々のことも見ていたでしょう。      

 さて、ペトロが、そのナザレの人イエス・キリストの「名」を持っている、というのは、一体どういうことでしょうか。   
 「名」というのは、ただの記号ではありません。名は、聖書においては、その名前を持つ人自身を表します。ですから、「ナザレの人イエス・キリストの名」と言う時には、そこには、ナザレの出身で、十字架に架けられ、復活され、天に上げられ、救い主となられたイエス、その方ご自身のことを現わしているのです。   
 天に上げられ、今も生きておられる主イエスは、ペンテコステの日に聖霊を送って下さり、ペトロたちといつでもどこでも、共におられます。復活されて、天に上げられたので、主イエスの姿を直接見ることは出来ませんが、しかし聖霊の働きによって、主イエスご自身が、いつも信じる者と共におられるのです。   
 「ナザレの人イエス・キリストの名を持っている」ということは、ペトロ自身が、主イエス・キリストと共に生きているということです。自分たちの罪のために十字架に架かり、罪を贖って下さった主イエスの、復活の新しい命の中に、生きる者だということです。      

 ペトロは、その、わたしを生かし、わたしと共におられる方の名をあげよう、と言うのです。   
 それは、このナザレの人イエス・キリストご自身に、あなたも出会いなさい、あなたもこの方によって生かされなさい、ということです。      

 男は、生きてはいます。息をして、施しでご飯を食べ、生活をしています。しかし、その毎日の生活は、決して活き活きしたものではなく、閉塞感に満ち、なんの希望も目的もない生活だったでしょう。      

 人が、本当の意味で「生きる」ということは、どういうことなのでしょうか。   
 それは、神に向かって生きる、ということです。   
 わたしたちを神に応答する存在として創造して下さった神に、正しく応答して、神と共に生きるということです。   
 エデンの園の物語で、アダムが食べてはならないという実を神に逆らって食べ、神に対して罪を犯し、神が呼ぶ声に身を隠してちゃんと応えることが出来なくなったように、罪に捕らわれているわたしたちは、正しく神にお応えすることが出来なくなっています。神から目を背け、どんどん罪と死に捕らわれて、神から離れ、滅びに向かっていくのです。   
 しかし、神の御子が、人となって世に来られ、十字架と復活の業によって、わたしたちの罪を赦し、神に立ち帰らせて下さいました。そうして、わたしたちを神の呼びかけに、神の恵みに応えて生きる者として下さったのです。   
 ウェストミンスター大教理問答という、教会の信仰を表した問答で、一番最初の問と答えは、このようになっています。   
 問1:人間の第一の、最高の目的は何ですか。
 答え:人間の第一の、最高の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を限りなく喜びとすることです。  
 この目的に生きることが、神に向かって生きることが、人が本当に生きる、ということです。      

 ペトロが4節で男をじっと見つめ、「わたしたちを見なさい」と言ったのは、わたしたちを生かしているものを見なさい、ということです。ペトロは、罪の赦しのために十字架と復活の御業を行って下さった、ナザレの人イエス・キリストによって、まことに生かされているのです。      

 そして聖霊を受けたペトロが、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と男に言う時、そこには救い主イエス・キリストご自身が、共にいて、働いて下さるのです。   
 キリストの名において、そこには、男に対する主イエス・キリストご自身の愛の眼差しがあり、ご自身の十字架の死による罪の赦しがあり、ご自身の力ある救いの業が行われるのです。   
 ペトロはその主イエスの御心に従って、このように男に告げたのです。      

 そしてペトロは、地べたに座り込んで自分では動けない男の手を取って立たせます。ペトロを通して、主イエスの御手が、力強く男の手を捕らえ、立たせます。   
 すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出した、とあります。「躍り上がって立つ」とは、四十年分の抑圧が、一気に解き放たれたような、力が一気に溢れ出したかのような表現です。      

 当時、身体の不自由は、悪霊や罪の力によって起こると考えられていました。ナザレの人イエス・キリストの名による男の体の癒しは、そのお方が、罪と死、また悪の力から解放して下さる救い主であることの「しるし」です。   
 それは、今日一緒にお読みした、イザヤ書で預言されていたことの成就です。
 弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。/心おののく人々に言え。/「雄々しくあれ、恐れるな。/見よ、あなたたちの神を。/敵を打ち、悪に報いる神が来られる。/神は来て、あなたたちを救われる。」/そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。/そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。   
 男はペトロとヨハネに、施しをしてもらうことしか期待していませんでした。しかし、予想もしなかったものが与えられました。   
 しかもそれは、ただ単に「癒し」が与えられたということではありません。その癒しだけでも、大変なものですが、癒しの業は、主イエスが救い主であり、神のご支配が到来したことの「しるし」でした。   
 男が本当に与えられたのは、「ナザレの人イエス・キリストの名」でした。   
 男には、罪を贖い、新しい命を下さる、救い主、イエス・キリストご自身が、与えられたのです。   

 初めて歩いた足で、男が最初に向かったところはどこでしょうか。   
 それは、神殿の境内でした。聖書には「歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入っていった」とあります。これまでは、自分の意志でどこへ行くことも出来なかった男は、今や自分の足で、喜んで神の許へ向かいます。神を賛美しながら、神に祈りを捧げ、礼拝するところへと向かったのです。   
 男は、神の恵みを受け、その恵みに応えて神を賛美しました。   
 これは人間の最高の目的です。神に栄光を帰し、神を喜びとすること。   
 この男は、まことに人としての最高の生き方が出来るようになったのです。   
 「ナザレの人イエス・キリストの名」は、この男のように、希望もなく、生きていながら本当には生きていない人々に命を与え、立ち上がらせ、神を賛美する者、神に従う者とします。救い主である主イエスが出会って下さり、罪と死、また悪の力から解放し、ご自身の命にあずからせて、本来あるべき、神の御前に立ち応答する人間の姿を、回復して下さるのです。      

 男はペトロとヨハネと一緒に境内に入って行きました。男は神を礼拝する者として、彼らの仲間に加わっていきました。2章の最後で「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」とあるように、人々から忘れ去られるような、自分の力では生きられない、貧しく不自由な男に目を注ぎ、主ご自身が、教会に、神を礼拝する群れに加えられたのでした。   

 この出来事を目撃した人は大勢いたはずです。午後三時の祈りの時間に神殿にやってきた人々は、最初は、境内で踊り回っている男が、ずっと美しい門で施しを乞うていた男だと分からなかったようです。   
 10節には、「彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気付き、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた」とあります。   
 その男が立って歩くということなど、人々には想像も出来ないことだったからです。   
 足が不自由で、毎日毎日、何年も何十年も、門の横で施しを乞うていた男が、踊りあがって、境内でペトロとヨハネと一緒に、神を賛美している姿を見たのです。   
 今や、キリストの名によって立っている男の存在そのものが、大勢の人に、ナザレの人イエス・キリストこそ救い主であると証しし、告げ知らせているのです。      

 教会は、この「ナザレの人イエス・キリストの名」を持っています。   
 復活の主イエスが聖霊を送って下さって誕生した教会には、生きておられる主イエスご自身がいつも共におられ、主イエスご自身が人々を救い、立ち上がらせるために働いて下さいます。   
 そして、わたしたち一人一人に、このキリストの名が、キリストご自身が与えられているのです。   
 この救い主の名は、罪と死に支配された、一人の人間のすべてを新しくし、神と共に生きる新しい命を与えて下さいます。   
 希望を持つことさえ出来なかった者を、人々が一瞥して通り過ぎていったような小さな存在の者さえも、主イエスは慈しみと愛の眼差しで、じっと見つめ、手を取り、立ち上がらせ、神に向かって歩かせて下さいます。   
 それは、躍り上がるほど喜び溢れることです。40年間も歩けず、これからも決して歩けないはずだった男が、初めて歩いた喜びにも増して、神に目を注がれ、キリストの十字架と復活を与えられて、罪を赦され、主イエスの命に生き、神を賛美するということは、大きな喜びなのです。   
 そのように、キリストによって大きな喜びを与えられて、毎週、主の日の礼拝で、神への賛美が繰り返されているのです。   
 そして、わたしたちがキリストの名によって立っており、神を賛美しているということそのものが、主イエスが救い主であることを証しすることになります。      

 そしてまた、ペトロやヨハネのように、キリストに救われ、キリストの名を与えられた者は、聖霊に満たされて、キリストの御心に従って生きる者とされます。   
 わたしたちはもう、自分が偉くなることを求めたり、自分の身を守ることに必死にならなくても良いのです。わたしたちは、自分自身のものではなく、もはやイエス・キリストのものとされたからです。主イエスに自分をすべて委ね、御心に従っていくなら、世の苦しみや、困難や、戦いがあっても、わたしたちはキリストの名によって、立ち上がり、癒され、神を見上げて歩いていくことが出来ます。ペトロたち自身も、キリストによって罪赦され、癒され、立ち上がらされた者でした。   
 そして、立ち上がったペトロたちが足の不自由な男のところへ遣わされたように、わたしたちもまた、主イエスご自身が目を注いでおられる者のところへ遣わされていきます。まだキリストを知らない人々に、わたしたちもキリストの御心を通して目を注ぎ、わたしたちが受けたものを、伝えていく者とされます。   
 わたしたちは遣わされたところで、「ナザレの人イエス・キリストの名」が、わたしを生かし、わたしを立ち上がらせ、歩かせているのだということを、証ししていきます。   
 実際にわたしたちは、その名によってしか、本当に立ち上がることは出来ないし、生きられないのです。   
 主イエスがわたしの救い主ですと証しする時、福音が告げ知らされる時、そこに、聖霊を通して主イエスご自身が働いて下さり、救いの御業を行って下さいます。そして教会に仲間を加え、一つにして下さいます。   
 教会は人を罪と死の中から立ち上がらせ、神に向かって生かす、「ナザレの人イエス・キリストの名」を持っているのです。
 わたしたちは、この名の許に集められ、神を賛美しているのです。

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