主日礼拝

聖霊による自由

「聖霊による自由」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; ダニエル書、第3章 13節-30節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第16章 16節-40節
・ 讃美歌 ; 344、411、476
・ 聖歌隊 ; 31「風がどこから」

 
ペンテコステ
本日私たちは、ペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝を守っています。この日は、復活された主イエスのもとに再び集められた弟子たちが、主イエスが天に昇られた後、一と所に集まって祈っていると、聖霊が彼らに降り、新しい力を与えられて、主イエスこそ救い主であると宣べ伝える伝道が始まった、そのようにしてこの世に教会が誕生したことを記念する日で。キリスト教会は、このペンテコステに、聖霊の働きによって生まれ、その聖霊の働きのもとに今もなお歩んでいるのです。

聖霊とは?
しかしこの聖霊というのは、なかなか分かりにくい存在です。聖書の教える神様は、父と子と聖霊という三にして一、いわゆる三位一体の神様ですが、父なる神様とその独り子イエス・キリストはまだイメージをつかみやすいのに対して、聖霊はどうも分かりにくい、と誰もが感じます。先週の特別伝道礼拝の後のお茶の会でも、「聖霊とはどういうものですか」という質問がありました。このことは誰もが抱く問いであり、またなかなか簡単には答えられないことです。この問いに神学的に厳密に答えようとしたら一冊の本になってしまう、とその時に申しました。そう言いつつも私なりの一つの答えをお話ししたのですが、聖霊とは何か、という問いには、いろいろな答え方ができます。本日与えられている聖書の個所にも、一つの答えが示されていると言うことができます。使徒言行録を連続して読んできまして、このペンテコステの日にちょうどこの個所が与えられました。本日はこの個所を、聖霊とは何か、その働きとはどのようなものか、という視点から読んでみたいと思います。

占いの霊  
ここには先ず、聖霊ではない、別の霊とその働きのことが語られています。それを見つめることによって、聖霊とは何でないか、を知ることができます。16節にこうあります。「わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた」。聖霊ではない別の霊とは「占いの霊」です。それに取りつかれたある女性が、それによって占い師をしていたのです。「占いの霊に取りつかれた」とあります。そしてその後に、パウロがこの霊に、「この女から出て行け」と命じてそれを追い出したことが語られています。これは、悪霊に取りつかれていた人の癒しと同じ語り方です。つまりこの占いの霊は、悪霊の一種なのです。悪霊が、人に取りついて占いをさせていたのです。ここに、神様の霊、聖霊ではない、悪霊の業とはどのようなものかが示されています。悪霊は占いを生むのです。

占いとは  
占いとは何でしょうか。この世には、古今東西いろいろな占いがあります。それらに共通しているのは、人間の運命を言い当てようとすることです。特に、いろいろな苦しみや悲しみにおいて、占いはその原因を示そうとします。それが名前の字画だったり、家の方角だったり、生まれた日の星座だったり、先祖の霊のたたりだったりするわけです。それらの原因に共通しているのは、全て私たちの外側にある何かだということです。私たちの内側のこと、内面のことは語られません。「あなたは神様の前で罪を犯している、だから悔い改めなさい」ということは占い師は言わないのです。そんなことを言う占い師はいてもはやらないでしょう。人々が求めているのはそういう答えではないからです。人々が占いに求めているのは、自分が悔い改めたり変えられることではなくて、自分の外の何かに苦しみや悲しみの原因、あるいは運命を左右するものを見出し、それを変えることで苦しみを逃れたり、悪い運命を好転させることです。つまり自分が変わることなしに、運命を自分の都合のよいように変えようとしているのです。占いはそのためにあります。つまり占いにおいては、自分が、人間があくまでも主人であり、支配者なのです。そこに神様が持ち出されることがあるとしても、その神様は、人間の願いや思いを叶えるための道具です。神様も人間に仕える者とされているのです。この占いの霊に取りつかれていた女が奴隷だったということは象徴的なことです。奴隷は、主人に支配され、主人の思いのままに用いられ、道具とされ、そして用がなくなれば捨てられるのです。彼女の主人たちは、彼女に占いをさせて、それによって多くの利益を得ていました。彼女に取りついていた占いの霊は、その主人たちの金儲けに都合のよいお告げ、託宣を語っていたのです。これが占いの霊、悪霊の働きです。悪霊というと、人間を病気にしたり、正気を失わせたりするものとして語られることが多いのに対して、この占いの霊は人間の奴隷となって奉仕するものですから、悪霊とは違うようにも思えるかもしれません。しかしこの霊は、人間に仕えるように見せて、実は人々を、まことの神様に従うのではなく、自分が主人、支配者になって神様をも奴隷にするような罪へと引きずり込み、それによって人を神様の恵み、祝福から引き離し、罪の奴隷にしているのです。悪霊の目的は常にそこにあります。それを、人間に苦しみを与える仕方でするか、あるいはあたかも人間に奉仕するように見える仕方でするか、の違いです。そういう意味ではこの占いの霊はより巧妙にして悪質な悪霊であると言えるでしょう。  このような、占いの霊、悪霊の働きを見つめることによって、私たちは、聖霊とは何でないかを知ることができます。聖霊は、この占いの霊とは正反対の働きをするのです。聖霊の働きの下で生きる時に、人はどのような歩みへと導かれるのでしょうか。本日の個所はそのことを語っています。聖霊が私たちにどのように働いて下さるのかを知るために、本日の個所に語られていることを味わっていきたいと思います。

占いの霊を追い出す  
ここには、パウロの第二回伝道旅行における、フィリピの町での伝道の様子が語られています。パウロらの一行が初めてギリシャに足を踏み入れ、伝道したのがフィリピでした。そこで彼らはリディアという女性と出会い、その家族が信者となり、その家が伝道の拠点となったことが15節に語られていましたし、一番最後の40節にもそのことが示されています。このリディアの家を拠点として伝道をしていく中で、先程の占いの霊に取りつかれた女奴隷との出会いが起ったのです。彼女は、パウロらに付きまとい、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と叫んでいました。そういうことが幾日も続くので、パウロはたまりかねて彼女からその霊を追い出したのです。しかしどうしてそうしたのでしょうか。うるさく付きまとわれて迷惑だ、ということはあったにしても、彼女が叫んでいたことは確かにその通り、正しいのです。また、高名な占い師である彼女がそのように叫び続けていることは、またとない宣伝となります。マスメディアのないこの時代に、これ以上効果的な宣伝方法はないとも言えるでしょう。彼女の叫びを聞いて、おそらく多くの人々がパウロらの周りに集まって来て、その話を聞こうとしたに違いありません。わざわざ人を集めなくても、彼女のおかげで多くの人がやって来て話を聞いてくれる、この伝道の好機を逃す手はない…、私たちならばそう思うのではないでしょうか。しかしパウロはそうは思わなかったのです。そこに、私たちと使徒パウロとの違いがあります。パウロは、何でも人が集まればそれが伝道の機会となる、とは考えなかったのです。何によって、何のために集まるのかが問題なのです。それはキリストの福音と占いの世界の違い、聖霊の働きと悪霊の働きの区別をはっきりと意識している、ということでもあります。占い師の言葉によって集まるのは、たとえその言葉が形式的には正しかったとしても、そこに生まれるのは占いの世界、即ち、自分が主人となって、神様をも自分の奴隷として利用しようとする世界です。自分が変えられるのでなく、周りを変えることで運命を好転させようとする世界です。即ちそれは、悪霊の巧妙な支配に屈し、神様の本当の祝福を失ってしまう結果に至る歩みなのです。パウロはそのことをはっきりと意識していたために、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」という、私たちならいい気になり、鼻高々になってしまいそうな言葉にも動かされることがなかったのです。それは逆に言えば彼が、聖霊の働きをしっかりと見つめ、その下で歩んでいたということです。聖霊による歩みとはどのようなものか、それがその後の出来事を通して明らかになっていきます。

賛美の歌と祈り
この女から占いの霊が追い出されたことによって、彼女の主人たちは占いによる金儲けの道を閉ざされてしまいました。それで彼らは怒り、パウロとシラスを、おかしな教えを広めて町を混乱させる者として訴え、捕えて役人に引き渡したのです。彼らは町の有力者たちだったのでしょうから、町の高官たちはパウロらを、よく調べもせずに先ず鞭打たせ、牢に入れました。二人は牢獄の一番奥に、木の足枷をはめられて監禁されたのです。これは今の言葉で言えばひどい人権侵害です。何も罪を犯していないのに、捕えられ、鞭打たれ、真っ暗な牢獄に閉じ込められてしまったのです。現在の感覚においてそうであるだけではありません。37節に語られているように、パウロは、ローマ帝国の市民権を持っていた人でした。当時のローマ帝国において、市民権は誰もが持っているものではなく、それを持っているのは大変大きなことでした。当時の法に照らしても、パウロの受けたこの仕打ちは、ローマ市民権への重大な侵害であり、責任者は厳しく処罰されねばならないようなことだったのです。パウロらはそのような不当な苦しみを受けたのです。  その苦しみの中でのパウロたちの様子が25節に語られています。「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」。鞭で打たれた傷の痛みの中で、また足枷をはめられて暗い牢獄の奥に捕えられているその中で、彼らがしていたのは、賛美の歌を歌い、神様に祈ることでした。彼らは、賛美の歌を歌っていたのです。神様をほめたたえる歌です。そして祈っていた。苦しみ嘆き悲しみの中で、「神様、この苦しみから救い出して下さい」と必死に祈ることは私たちにもあります。しかし、賛美の歌と共になされていたこの祈りは、そういう悲壮な祈りとは違うでしょう。賛美の歌を歌いつつ祈っている彼らの姿には、不思議な平安があります。真っ暗な牢獄の中でも、そこには光があります。そしてこの平安と光は、彼らの内面にのみあったのではなく、この牢獄に捕われていた全ての人々にも伝わっていったのです。「ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」。パウロらの賛美の歌声と祈りは、他の囚人たち、囚われの身の苦しみの中で絶望の淵にいた人々の殺伐とした心をとらえ、静かに聞き入らせる力を持っていたのです。  すると突然、大地震が起こりました。牢の土台が揺れ動き、戸はみな開き、囚人たちを繋いでいた鎖も全て外れてしまって、逃げ出せるようになったのです。けれども、囚人たちは誰一人、そこを動こうとしませんでした。逃げ出す者が一人もいなかったのです。それは彼らが、逃げ出すよりも、パウロとシラスのもとに留まっていたいと思ったということです。パウロらの賛美の歌と祈りは、他の囚人たちの心をそれほどまでに深く捕え、彼等にも平安と光をもたらしたのです。

聖霊のもたらす歩み  
この賛美の歌と祈り、そこにある平安と明るさ、それをもたらしたものこそ聖霊です。これこそが、聖霊の働きの下を歩む者の姿なのです。ここに、占いの霊、悪霊のもたらす歩みと聖霊による歩みの違いがはっきりと表されているのです。占いは、苦しみや不幸を逃れるためのものです。占いは、人間が主人となって、神様をも自分の幸福追求の手段として用いようとすることなのです。そこにおいては、苦しみはあってはならないものであり、いかにしてそれを避け、そこから抜け出すかが問題なのです。苦しみの中で賛美の歌を歌い、祈るという平安や明るさはそこにはあり得ません。しかし聖霊のもたらす歩みはそれとは反対です。つまり人間が主人となるのではなく、神様が主人であり、人間は神様に従う者となる、という歩みなのです。聖霊は私たちを、神様のご支配の下で生きる者とします。そのことによって私たちは、幸福追求を第一の目的とする生き方から解放されるのです。自分の幸福よりも、神様に従うことを第一とする歩みを与えられるのです。そのように言うと、聖霊のお働きの下で信仰を持って生きることはものすごく大変な、幸せを放棄しなければならない苦しい生き方であると思われるかもしれません。しかし実は、神様のご支配の下で、神様に従って生きることにこそ、本当の幸福への秘訣があるのです。パウロらがここで、大きな苦しみの中でなお賛美を歌い、祈る平安と明るさを持つことができたことがその証拠です。聖霊は私たちを、神様のご支配の下で生きる者とする。その神様のご支配とは、独り子イエス・キリストによるご支配です。主イエス・キリストは、私たちの罪の赦しのために、人間となってこの世を歩んで下さり、そして私たちの罪を背負って十字架の苦しみと死とを引き受けて下さいました。独り子イエス・キリストの苦しみと死とによって、私たちの罪を赦して下さり、神様の祝福の内に新しく生きることができるようにして下さる、それが神様のご支配なのです。聖霊によってこのご支配の下で生きる者とされる、つまりそのご支配に身を委ねて生きる者とされる時、私たちは、苦しみの中でも、また死に直面しても、なお賛美を歌い、祈ることができるようになります。何故ならその苦しみは、私たちのために苦しみを受けて下さった主イエス・キリストが共にいて下さる苦しみであるし、死においても、私たちのために死んで下さった主イエス・キリストが共にいて下さるからです。そこでは苦しみも死も、あってはならないとんでもないことではなくて、私たちが、救い主イエス・キリストを身近に感じつつ共に歩む道となるのです。聖霊はそのようにして、私たちに、苦しみの中でなお賛美を歌い、神様に祈る歩みを与えます。そこには、幸福を追求し、神様をも自分の幸福のために利用しようとする所には決して得られない平安と明るさが与えられるのです。そしてそれが、目に見える仕方で周囲の人々にも伝わっていきます。パウロらの賛美の歌と祈りを核として、まことの平安の支配する群れが、フィリピの獄中に生まれていったのです。

本当の自由  
そしてこのことを通して、さらに一人の人とその家族全員とが救いにあずかるという出来事が起こりました。その人とはこの獄の看守です。彼は大地震で獄の戸がみな開いてしまったのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い、自殺しかけたのです。囚人が逃亡したら、看守が責任を問われ、罰を受けなければなりませんでした。囚人全員が逃げてしまったとしたら、もはや彼はおしまいなのです。その絶望の内に自殺しようとした彼にパウロは、「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」と声をかけました。パウロらの賛美の歌と祈りのもたらした平安の内に、囚人たちは一人も逃げ出すことなくそこに留まっていたのです。このことは、もはや死ぬしかないという絶望の中にあったこの看守にとって、まさに奇跡的な救いの宣言でした。しかし彼はこのことによって、単に奇跡的な救いを体験しただけではありませんでした。彼はこのことによって、獄の中に足枷をはめられて入れられているパウロやシラスこそ、本当に自由な者であることを、逆に牢の外でその番をしている自分が、実は不自由な、捕われた者であることを知らされたのです。パウロらは、捕えられ、鞭打たれ、閉じ込められる苦しみの中で、賛美の歌を歌い、祈ることができ、その平安の内に歩む本当の自由を得ています。その自由によって彼らは、獄の戸が全て開いてしまっても、そこに留まっていたのです。それに対して看守である彼はそれまで、自分は囚人ではない、自由な者だと思い、自分が自分の人生の主人として歩んでいるつもりでいましたが、実は、自分の幸福追求という縄にがんじがらめに縛られ、そしてそれが例えば地震によって脆くも崩れ去ってしまうならば、もう生きることができない、絶望の内に自殺するしかない、そういう闇の中に捕えられてしまっている、少しも自由ではない者だということを知らされたのです。この夜、フィリピの牢獄において起った出来事は、本当の自由とは何か。本当に自由な者とはどのような者であるかを私たちに考えさせてくれます。それは本日共に読まれた旧約聖書の個所、ダニエル書第3章13節以下とも共通するものです。バビロンの王ネブカドネツァルに、偶像を拝むことを強要され、拝まないなら燃え盛る炉に投げ込むと脅された三人のユダヤ人、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは、「私たちの仕える神は、燃え盛る炉からも、王様の手からも、私たちを救うことができる。たとえそうでなくても、私たちは絶対に偶像を拝むことはしない」と断言しています。たとえそのことによって命を失うことになっても、まことの神に従い続けると宣言する彼らと、絶対的な権力によって彼らを脅して従わせようとする王と、本当に自由なのはどちらでしょうか。この三人も、パウロらと同じように、生けるまことの神様のご支配を見つめ、それに身を委ねて生きています。そこにこそ本当の自由があるのです。聖霊はそのような本当の自由を私たちに与えるのです。

主イエスを信じなさい。  
パウロらの本当の自由と、自らの捕われた姿に愕然としたこの看守は、パウロとシラスの前にひれ伏し、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」と尋ねました。彼は、自分が救われなければならない者であることに気づき、救いを切に願ったのです。二人は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と告げました。私たちが救われるために必要なのは、主イエスを信じることです。私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストこそ、まことの主、救い主であり、まことの神であられることを信じて、その主イエスに自分の人生を委ねることです。救いとは、苦しみがなくなることでも、命が助かることでもありません。救いとは、本当に身を献げ委ねるに足るまことの主人を見出すことです。この方の下でなら、本当に生き生きと、喜びをもって仕えることができる、そしてこの方の下でなら、苦しみの中にあっても賛美を歌い、祈ることができる、そういうまことの主であるイエス・キリストと出会い、身を委ねることこそが救いなのです。「そうすれば、あなたも家族も救われます」。この救いは、信じる私たちのみに与えられるのではなく、私たちの家族にも及んでいきます。それは、一人が信じれば家族も自動的に救われていく、ということではありません。主イエスを信じ、主イエスに身を委ねるとは、自分の一番大切なものを委ねるということです。自分にとってどうでもよい、二の次三の次でしかないものを委ねても、自分を委ねたことにはなりません。自分にとって一番大切なもの、そこには愛する妻や夫、子供、家族が当然含まれます。家族との関係という一番大切なものを、主イエスに委ねるのです。そこに聖霊が働いて下さり、み業を行って下さることを祈り求め、そのための機会を整えるのです。この看守がしたのはまさにそういうことでした。彼はパウロらを自分の家に招き、32節にあるように、自分と家族の者たち全部が、パウロらの語る主の言葉を聞く時を、真夜中であるにもかかわらず持ったのです。そのことによって、彼と家族の者たち皆が、洗礼を受け、主イエス・キリストの救いにあずかる者となったのです。

聖霊による自由  
本日私たちの群れにおいても、これと同じことが起ろうとしています。一つのご家族が、その全員が、共に洗礼を受けるのです。このご家族が教会の礼拝に来られたきっかけは、一家の柱だったご主人、お父さんが病気で倒れ、まさに生死の淵をさまよう状態になられたことです。奥さんと娘さんが、紹介を受けてこの教会の礼拝に来られ、神様の救いを求めて必死に祈られたのです。神様はその祈りを聞いて下さり、ご主人に回復を与え、そしてご主人も一緒に家族揃って礼拝を守るようになりました。そして今日、家族揃って洗礼をお受けになることになったのです。ここにまさに、聖霊のお働きによる救いのみ業があります。聖霊の働きによって与えられる救いは、病気からの回復、癒しではありません。それも勿論大きな恵みですけれども、聖霊のお働きのほんの序の口に過ぎないのです。ご一家が、主イエス・キリストを信じ、主イエスのものとされ、その体である教会の一員となり、主イエスに身を委ねて歩む信仰を与えられたこと、そこにこそ、聖霊のお働きによる神様の救いのみ業があるのです。聖霊はこの信仰によて本当の自由を与えて下さいます。病気やその他の様々な苦しみも、そして死も、もはや私たちを支配しないのです。私たちのために十字架の苦しみと死を引き受け、そして復活して下さった主イエス・キリストが、私たちを支配し、共にいて下さるからです。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は、燃え盛る炉に投げ込まれましたが、何の害も受けませんでした。ネブカドネツァル王は、彼らが火の中を自由に歩いているのを見たのです。王はこう言っています。「わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている」。神の子のような姿をしている四人目とは誰か。それは私たちの信仰においては、主イエス・キリストです。燃え盛る炉の中でも、主イエス・キリストが私たちと共にいて下さるのです。それゆえに私たちは、賛美を歌い、祈ることができます。聖霊はそのような自由を私たちに与えて下さるのです。

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