「魔術からの解放」 牧師 藤掛 順一
・ 旧約聖書; 詩編、第24篇 1節-10節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第8章 1節-13節
・ 讃美歌 ; 6、470、509、72
創立130周年
今日は、この横浜指路教会の誕生を記念する日、つまり教会のお誕生日です。本当のお誕生日は明日、9月13日なのですが、それに一番近いこの日曜日の礼拝でそのことを覚えているのです。お誕生日が来ると、皆さんも一つ年を増えるわけですが、この教会は今年で130歳になりました。130歳!。人間なら、ものすごくお年寄りですね。でも、教会としては、これくらい、そんなに長いわけではありません。この日本では、130年というと一番古いいくつかの教会の中の一つということになりますが、世界には、もっと古い教会は沢山あります。ヨーロッパの方へ行けば、何百年も経っている教会があります。中には、千数百年という教会もあります。千何百歳の教会です。そういうのに比べれば、130年なんて、大したことはありません。まだまだ若い方です。何しろ教会は、最初にこの世に生まれてから、もう1900年以上経っているのです。もうじき2000年になります。2000年なんて、ちょっと想像できないくらい昔のことですね。日本の歴史を習った人は、邪馬台国とか、女王卑弥呼なんていう名前を聞いたことがあると思いますが、教会が生まれたのはそれよりも何百年も昔なのです。最初に教会が生まれてから1800年以上も経って、ようやくこの横浜に教会ができて、それから130年が経ったのです。
ステファノの殉教
1900年以上前に、イエス様を信じる人たちの群れである教会が最初に生まれた場所はエルサレムでした。最初は、イエス様のお弟子さんたちを中心とする、一つの部屋に入り切るぐらいの小さな群れでした。今この教会に集まっている人の数よりも少なかったのです。でもその人たちがイエス様のことを信じて、神様から聖霊の力をいただいて周りの人たちにイエス様のことを伝えていったことによって、教会はどんどん大きくなっていきました。沢山の人がイエス様を信じて教会に集まるようになっていきました。そうやって教会は大きくなっていったのですが、でも順調なことばかりではありませんでした。イエス様を信じようとしない人たちも沢山いて、特にエルサレムで人々を指導していた偉い人たちは、教会に人が沢山集まるようになるのを見て、こんな教えはけしからん、教会なんてつぶしてしまえ、と思って邪魔をし始めました。そして、イエス様のことを一生懸命人々に伝えていたステファノという人を捕まえて、石を投げつけて撃ち殺してしまったのです。ステファノは、イエス様を信じたために殺された最初の人になりました。そしてこのことをきっかけにして、エルサレムの町で、イエスを信じている人を捕まえて殺してしまおう、という大きな騒ぎが起こりました。教会に集まっていた人たちは、エルサレムにいることができなくなって、逃げ出さなければならなくなったのです。せっかく順調に成長してきた教会が、散り散りばらばらになってしまったのです。
聖霊の働きによる教会の成長
でも、それで教会はなくなってはしまいませんでした。4節には、「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」とあります。エルサレムからあちこちに散らされていった人たちは、行った先々で、「福音を告げ知らせ」たのです。福音というのは、イエス様によって神様が私たちに与えて下さっている救いの恵みのことです。散らされていった人たちは、イエス様のことを伝えていったのです。それによって、あっちの町にもこっちの町にも、イエス様を信じる人たちが起こされていきました。それまではエルサレムだけにあった教会が、このことによって、かえって沢山の町へと広がっていったのです。これはとても不思議なことですね。イエスなんか信じているやつはけしからん、教会なんてつぶしてしまえ、という反対や攻撃を受けて、エルサレムにいられなくなってしまった、ということがきっかけになって、かえって広い地域の人たちがイエス様のことを知るようになり、教会があちこちに広がっていったのです。普通なら、そういう反対や攻撃を受けると、元気がなくなり、力も弱って、集まる人も減ってしまう、ということが起こります。そして下手をすればそのまま消えてなくなってしまうかもしれません。教会も、この世から消えてなくなってしまっても不思議ではなかったのです。ところが逆に、このことによって教会はかえって成長していきました。イエス様を信じる信仰が広められていきました。それはもう、人間の力によることではありません。神様がそこに働いて下さったということです。神様の力は聖霊によって働いています。教会は、聖霊のお働きによって生まれました。そして聖霊のお働きによって守られ、導かれています。聖霊が働いて下さるところでは、私たち人間の思いを超えた、普通では考えられないようなことが起るのです。この時もそうでした。殺されそうになってエルサレムを逃げ出した人たちが、行く先々でイエス様のことを告げ広めて、教会を成長させていったのは、聖霊のお働きによることだったのです。
指路教会の130年
教会の、もうじき2000年になる歩みは、この神様の力、聖霊のお働きによって支えられ、導かれてきました。その間にはいろいろな大変なこと、危機がありました。人間の思いや感じでは、いったいどうなってしまうのだろう、もうだめだ、と思うようなことがいくつもあったのです。でもそのたびに、神様は聖霊のお働きによって教会を守り、支えて下さいました。それはこの横浜指路教会の130年の歩みも同じです。この教会も、この130年の間に、いろいろな大変なことがありました。80年前の関東大震災では、教会堂が完全にくずれてしまいました。今のこの建物は、その後、1926年に建て直されたものです。ですからこの建物は今年で78歳になります。この建物も、太平洋戦争の時には、1945年、昭和20年5月の横浜大空襲で、内部が全部焼けてしまいました。そういう建物の面での危機もさることながら、戦争が終った後の昭和26年、1951年には、教会の行き方をめぐる意見の違いから、この教会は真っ二つに分裂してしまいました。当時の牧師を始め半分以上の人がこの教会を出ていってしまったのです。このことは、私たちの教会の歩みの中で一番大きな危機、悲しみの出来事でした。130年の歴史を振り返れば、その他にもいろいろなことがあります。いったいどうなってしまうのだろう、と思わずにはおれなかったことが沢山あるのです。けれども、教会はやはり神様が、聖霊によって守り導いていて下さっているものです。数々の危機や苦しみがあったけれども、今こうして創立130周年の記念礼拝を、これだけの人々が集まって捧げることができていることは、ただただ神様の恵みとして感謝するしかありません。
フィリポと魔術師シモン
さて、話を使徒言行録の8章に戻しますが、エルサレムから散らされていった人々の中に、フィリポという人がいました。この人が、サマリアの町でイエス様のことを伝えました。聖霊が共に働いて下さったので、フィリポは、汚れた霊につかれた人や病気の人を癒すというすばらしい働きをすることができました。町の人たちはとても喜んで彼の語るイエス様のお話しを聞くようになったのです。
このサマリアの町に、シモンという魔術師がいました。この人は、9節にあるように、「魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称して」いました。魔術というのは、要するにいろいろと不思議なことをする力です。手を触れないで物を動かしたり、見えないはずのものが見えたり、知らないはずのことを言い当てたり、あるいは、死んでしまったはずの人の声を語ったり、その他いろいろなことがあります。そういうことは、テレビなどでよくやっていますから、誰でも見たことがあるでしょう。普通には出来ないようなことをして見せることで、みんなを驚かせて、この人は特別な力を持っている、と思わせていく、それが魔術師というものです。この日本にもそういう人は沢山いるのです。
フィリポも、今言いましたように、病気を癒したりという不思議なことをしていました。だから魔術師と同じだったのでは、と思うかもしれません。でもフィリポは魔術師ではありません。どこが違うのでしょうか。それは、フィリポは、イエス様の父である神様の力、聖霊のお働きによってそういうことをしていたのに対して、魔術師たちは、神様の力ではなく、自分の持っている力で不思議なことをしていたということです。フィリポはあくまでも、12節にもあるように、「神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせ」ていたのであって、その神様とイエス・キリストのみ名によって不思議な業をしたのです。だから彼は、「私は病気をなおす大きな力を持っているんだ」などとは言わなかったのです。しかしシモンは、不思議な業をすることによって、自分は偉大な人物なのだと言っていたのです。つまりシモンは神様の力を現わすのではなく、自分の持っている魔術の力を示して、人々を驚かせ、従わせていたのです。
神の国とキリストの名
町の人々はそれまで、シモンの魔術に驚き、この人はすごい、と思って彼の言うことを聞いていました。ところが、フィリポが来てイエス様のことを伝え、神様の力によってすばらしい働きをするのを見ると、目が覚めたのです。今まですごいと思って感心していたシモンの魔術が、急に色あせて見えるようになったのです。何故でしょうか。それは、フィリポの方がシモンよりももっとすごいことを、びっくりするような奇跡をしたからではありません。そうではなくて、シモンの魔術は自分の力を示して人々を驚かせて従わせようとしていたのに対して、フィリポは、「神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせ」たからです。神の国というのは、神様がこの世界と私たちの歩みの全てを支配し、導いておられる王様だ、ということです。そしてその神様の力、ご支配は、イエス・キリストの名によって私たちに与えられています。つまり、イエス様が、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったこと、そして父なる神様がそのイエス様を復活させて、死の力を打ち破り、私たちにも新しい命、永遠の命を約束して下さったこと、このイエス様による救いの恵みによってこそ、神様は私たちを、この世界を、そして教会を支配し、導いて下さっているのです。これが、福音、つまりよい知らせ、喜びの知らせです。フィリポはこの喜びの知らせを人々に伝えたのです。それはただびっくりするような奇跡を行なって人々を自分に従わせようとするような教えではありません。むしろ、神様がどんなに私たちを愛して下さっているか、恵みのみ力によって守り、導いていて下さるのかを示すことによって、人々が本当に喜んで、神様に信頼して生きることができるようにする教えなのです。
魔術からの解放
このフィリポの教えを聞いた人たちは、男も女も洗礼を受けました。洗礼を受けるというのは、イエス様を信じる者になって、教会に加わるということです。シモン自身すらも、「フィリポにはとてもかなわない」と思って洗礼を受けました。このことは、イエス様の福音が告げ知らせられ、教会が生まれるところには、魔術からの解放が起こる、ということを示しています。私たちは、イエス様によって与えられる神様の救いの恵みにふれる時には、人を驚かせて自分を偉い者であるように思い込ませる魔術にもう引きずられることがなくなるのです。魔術に似たものは私たちの周りにいろいろな形であります。一番身近にあるのはいろいろな占いのたぐいです。皆さんは、自分の星座は何座で、その今週の、あるいは今日の運勢はどうだ、という星占いを気にすることはありませんか。あるいは手相を見てもらうとか、姓名判断と言って、名前によってその人の運命が決まるとか、また方角によって、よいことが起る方角と悪いことが起る方角がある、などということを聞いたことがありませんか。あるいは、よくテレビでやっていますが、おかしなものが写っている心霊写真というのを見せて、ここにはこんな霊がとりついているからこうした方がいい、などと勝手なことを言っている、霊能者と呼ばれている人がいます。そういうのは全て、魔術の仲間です。私たちは、イエス様を信じて洗礼を受ける時に、もうそれらのものにふりまわされることはなくなるのです。どうしてかというと、イエス様の父なる神様こそが、この世界と、私たちの人生の全てを、愛をもって支配し、守り、導いていて下さることを知らされるからです。星座などというのは、生まれた日が何月何日だというだけのことです。そんなことが私たちの運命を決めるのではありません。名前だって、親が私たちの幸せを願ってつけてくれたものです。それが不幸をもたらしたりすることはないのです。この世界には、私たちのわからない、不思議なことが確かにいろいろあります。けれども、この世界と私たちの歩みを本当に支配しておられるのは、イエス様の父なる神様なのです。神様は、独り子のイエス様を十字架の死に渡して下さるほどの大きな愛をもってこの世界を、私たちを、導いていて下さるのです。そのことを信じるならば、もう、星占いも、手相も、姓名判断も、あるいは霊能者がどんなことを言っても、そんなものに振り回されることはなくなります。イエス様の父なる神様を信頼して、自分の歩みを、人生を、委ねることができるのです。
教会は、2000年にわたって、このイエス様の父なる神様の、聖霊によるご支配によって、守られ、導かれてきました。いろいろな危機、もうだめじゃないか、と思われるようなことがいくつもありましたが、この世界の全てを支配しておられる神様が愛によって守り導いて下さったから、今日まで歩み続けることができたのです。この横浜指路教会の130年の歩みも同じです。私たちは、今も、天地の全てを造り、み子イエス・キリストを十字架につけてまで私たちを愛して下さっている神様のご支配と守りと導きの下にいるのです。
詩編24編
今日は、詩編の24編も共に朗読されました。そこには、「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの」と歌われています。この世界とそこに住む全てのものは神様が造り、支配し、守っていて下さるものです。その神様の恵みのご支配を証ししているのが、主イエス・キリストの教会です。私たちは今、教会に集められ、み言葉によって、独り子のイエス様を与えて下さるほどの神様の愛を示されています。その愛を信じるなら、私たちはもはや、その他の、わけのわからないこの世の力、人々が恐れている様々な魔術的な力から解き放たれるのです。24編3節以下にこうあります。「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人。主はそのような人を祝福し、救いの神は恵みをお与えになる。それは主を求める人。ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人」。私たちは、この世にはびこっている様々なむなしいものに魂を奪われることなく、力を持っているように見えるが結局は私たちを欺き、本当の慰めや支えを与えはしないものによって誓うことをせずに、ただひたすら、主イエスの父なる神様の御顔を尋ね求めていきたいのです。そこには、2000年の教会の歴史を導き、この教会の130年の歩みを守り支えて下さった、栄光に輝く王、万軍の主が、これからも私たちと共にいて下さるのです。