主日礼拝

分かち合う群れ

「分かち合う群れ」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編、第23編 1節-6節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第4章 32節-第5章 11節
・ 讃美歌 ; 2、120、567

 
復活の証人
 使徒言行録には、生まれたばかりの教会の様子が生き生きと語られています。それを読んでいく中で私たちは、いろいろな発見をします。教会について、新しい気付きを与えられるのです。その一つに、最初の教会が何を宣べ伝えていたか、ということがあると思います。使徒言行録によれば、教会が宣べ伝えたことの中心は、主イエス・キリストの復活だったのです。4章の始めに、神殿の境内で説教をしていたペトロとヨハネとが、神殿の責任者たちによって逮捕されたことが語られていましたが、そこで彼らが宣べ伝えていたことは、2節によれば、「イエスに起こった死者の中からの復活」でした。3章にその説教の内容が記されていますが、その15節にこうあります。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」。ペトロは、自分たちは主イエスの復活の証人だと言っているのです。同じことは2章の、ペンテコステの日の説教にもあります。2章32節です。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」。さらにそのことは、1章の21、22節において、イスカリオテのユダに代わる新しい使徒を選び出すところにも語られています。「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです」。使徒とは、「主の復活の証人」であり、教会が宣べ伝えていることの中心は主イエスの復活なのです。このことは、私たちにとって、ある意味で新鮮な発見なのではないでしょうか。勿論私たちは、主イエス・キリストの十字架の死と復活による罪の赦しの恵みを信じています。主イエスの復活は私たちの信仰の大切な要素です。けれどもそれが私たちの信仰の、また宣べ伝えていくことの中心となっているでしょうか。「教会は何を宣べ伝えているのですか」と訊ねられた時私たちは躊躇なく、「主イエスの復活です」と答えるでしょうか。もしそうでないとしたらそれは、私たちの信仰が、ペンテコステに誕生した最初の教会とは違ってきてしまっている、ということなのではないか、使徒言行録から私たちはそういうことを考えさせられるのです。
 教会が主イエスの復活を宣べ伝えていたことが本日の箇所にも語られています。33節です。「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた」。主イエスの復活を証しすることこそ、使徒たちが聖霊によって与えられた大いなる力をもってしていったことだったのです。先週読んだこの前のところで、教会の人々は、「思い切って大胆にみ言葉を語ることができるようにしてください」と祈りました。その祈りはかなえられ、彼らは聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした、と31節にあります。つまり彼らに聖霊によって大いなる力が与えられたのです。この大いなる力によって、使徒たちが思い切って大胆に語っていった神の言葉とは、主イエスの復活を証しする言葉だったのです。

新しい命を生きる
 最初の教会は主イエスの復活をこそ宣べ伝えていた、このことは、単に彼らが何を証しし、語っていたか、という問題ではありません。彼らが何によって生きていたか、あるいは教会は何によって結び合う群れであったか、ということです。復活を宣べ伝えていたと言ってもそれは、主イエスは復活した、という奇跡が起ったことだけを語ったということではありません。復活の前提には、十字架の死があります。ペトロは復活を語る前に、主イエスは神様が遣わされたメシア、救い主であったのに、あなたがたはその主イエスを十字架につけて殺してしまった、と人間の罪を指摘しています。神様に敵対する人間の罪が勝利したかに見える十字架の死において、実は神様の深い救いのご計画が実現したのだ、十字架の死は神様の敗北ではなくて実は勝利だった、その勝利の現れとして、神様は主イエスを死者の中から復活させられたのだ、とペトロは語ったのです。復活を語ることはこのように十字架の死を語ること、神様の救いのご計画の実現を語ることと結びついています。つまり本当に復活を語ることは復活だけを語っていてはできないのです。それにもかかわらず、使徒たちが自らを「主イエスの復活の証人」と呼び、教会が主イエスの復活を宣べ伝えたと語られているのは、彼らの信仰が、さらには命が、主イエスの復活によって生かされ、導かれ、力を与えられ、規定されていたからです。復活された主イエス・キリストとの交わりこそが彼らの信仰であり、その信仰が彼らの生き方、生活を規定し、方向づけていたのです。主イエスの復活の意味は何かと問われれば、先程のように、十字架の死との関係、また神様の救いのご計画の中での位置づけ、というような説明になります。しかしそういうことより前に、彼らは、復活された主イエス・キリストと出会い、その主イエスと共に生きる者とされたのです。そしてそのことによって、それまでとは全く違う新しい生活、新しい人生、新しい命に生かされることを体験したのです。復活された主イエスと結ばれることによって変えられたのです。新しくなったのです。ある意味で、彼ら自身も自分の復活を体験したのです。復活された主イエスと結ばれて自分自身も復活し、新しく生かされた者たちの群れが教会です。聖霊が降って教会が生まれたというのは、教会という組織、集団が結成されたということであるよりも、聖霊によって、復活された主イエスと結び合わされ、それによって新しい命を生き始めた人々の群れが誕生したという出来事だったのです。
 教会の人々が、復活された主イエスと結び合わされ、新しい命を生き始めた、その新しい命は、変な言い方ですが、本当に新しかったのです。それまでにはなかったようなものだったのです。だから、人々から驚きの目をもって見られるようなものだったのです。33節の後半に、「人々から非常に好意を持たれていた」とあります。同じようなことは2章の47節にも語られていました。46節から読んでみます。「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」。教会の人々が、復活された主イエスと結ばれることによって与えられた新しい命に生きる新しい生活は、周囲の人々の目を引くような、驚きを与えるような、本当に新しい生き方だったのです。しかもそれは「驚きあきれられる」のではなくて、「好意を寄せられる」、すばらしいものだと思われる、そういう新しさだったのです。

持ち物の共有
 何がそんなにすばらしいと思われたのでしょうか。それは、本日のところの32節に語られていること、「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」ということでしょう。このことは、2章において教会が人々から好意を寄せられていたと語られているところにも出て来ることです。2章44、45節です。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」。このように、教会の人々は持ち物を共有にし、財産や持ち物を売って、それをお互いの必要に応じて分配する、という生活をしていた、そのことが、人々の目に驚きと好意をもって受け止められたのです。そこに、彼らが新しい命を生き始めていることの具体的な現れがあったのです。復活された主イエスと結び合わされて新しい命を生き始める、その新しい命は、このような具体的な姿をとって現れていたのです。

心も思いも一つにし
 持ち物を共有する、という彼らの新しい生活について、さらに詳しく見ていきたいと思います。32節には先ず、「信じた人々の群れは心も思いも一つにし」とあります。「心も思いも一つにし」ということが、全ての前提です。持ち物を共有する前に、まず心と思いが共有されていたのです。彼らはどういう心と思いを、つまりどういう信仰を共有したのでしょうか。それは、主イエスの復活の恵みに共にあずかる信仰です。そしてそれは、先程申しましたように、主イエスの十字架の死において実現した神様の救いのご計画に共にあずかることでもあります。神様の独り子であられる主イエスが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪を贖い、赦しの恵みを与えて下さった、その恵みに共にあずかる信仰を共有したのです。それはさらに言えば、自分も、またあの人この人も、主イエスの十字架によって赦されなければならない罪人であることを受け入れた、ということでもあります。お互いが罪人であり、神様に赦していただかなければ生きられない者だということにおいて、心と思いが一つになったのです。そしてその罪人であるお互いが、主イエスの十字架と復活によって、赦しの恵みと、新しい命を与えられている、そういう恵みを共有したのです。そこから、持ち物の共有という新しい生活が生まれたのです。

原始共産制?
 彼らは「すべてを共有していた」とあります。そのことをさらに具体的に語っているのが34、35節です。「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」。財産、土地や家を持っている者がそれを売り、その代金が教会に献げられ、その金が必要に応じてそれぞれに分配された、それが「すべてを共有していた」ことの内容です。このことはよく、「初代教会における原始共産制」などと言い表されます。しかしこれは、信者となった者は一切の私有財産を放棄して売り払い、教会に献金する、そして教会による分配によって生活していく、という決まりや制度が最初の教会にあった、ということではありません。ここに語られている最初の教会の人々の姿は、そのような厳しい規則に縛られた姿ではありません。32節に「独りとして持ち物を自分のものだと言う者はなく」とあります。これは、自分の持ち物や財産があってはいけない、すべて教会に献げなさい、という教会の指導があってそれに従ったということではありません。自分の持ち物は自分のものなのです。そのことが否定されてはいません。しかしそれを、「これは自分のものだ」と主張する者はいなかった、と言っているのです。それは信仰者の自発的な思いから出たことです。自分のものを、自分のものだと主張しない、それは、それを人のために、兄弟姉妹のために喜んで用いる用意がある、ということです。自分のものは自分のために使うのだ、人のためなどに使うのは嫌だ、という思いを持っていないのです。自分のものは自分のもの、という自分の権利に固執していないのです。そういう権利の主張や、損得にこだわる思いから解放されているのです。そこに、復活された主イエスと結び合わされて新しい命を生きる信仰者の新しさがあるのです。

権利の主張からの解放
34、35節にある、土地や家を売ってその代金を持ち寄り、献金したというのも、そういうことが規則として義務化されていた、というのではなくて、今申しましたように信仰者一人一人の自発的な意志によることです。34節の冒頭には「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」とあります。おやおや、最初の教会の信者たちは皆裕福な人たちだったのかな、と思いきや、その理由の説明として、財産のある者がそれを売って、その代金が献げられ、それが必要な人に分配されていたからだ、と語られているわけです。つまり、財産を売って献金することは、教会の仲間たちの間に貧しい人、支えや助けを必要とする人がいるので、その人々のために、財産のある者が自発的に行なったことです。「それを売っては代金を持ち寄り」とあるように、必要が生じたら、その都度、自分の財産を売って献げたのです。そうすることが義務だったからではなく、心と思いを一つにし、共に主イエスの復活の恵みにあずかり新しくされている兄弟姉妹、神様の家族を支えることを喜んで、出し惜しみをせずにしたのです。26節以下には、バルナバと呼ばれていたヨセフが、自分の畑を売ってその代金を使徒たちの足もとに置いた、ということが語られています。このことが語られているのは、それが特別に記憶されるに値するすばらしい出来事だったからです。そこから逆に、信者たちの誰もが皆土地や家を売って献金していたわけではないことが分かります。それは義務ではなく、そういう志を与えられた人は喜んでそうしたし、そうしないからといって責められることはなかったのです。あるいはそのような献金をした人がしない人に、「私はこんな献金をしたのにあなたは何故しないのか、不公平だ」などと言うこともなかったのです。このように、ここには最初の教会の人々が、自分のものを自分のものだと主張する思いから解放されて、全く自発的に、仲間たち、兄弟姉妹のために喜んで自分の財産をささげ、分かち合って生きている、そういう姿が描かれています。そこに、復活された主イエスと結ばれて与えられた新しい命を生きる、全く新しい生き方が現れ出ているのです。

新しい命を生きているか?
 それゆえに私たちはここから、教会の信者は自分の財産を持つべきではなく、全てを教会に献金すべきだ、それが教会の本来の姿だ、などということを導き出す必要はありません。今日、一部のカルト宗教が金集めのためにそういうことを教えていますが、教会はそういう集団ではないのです。けれどもそれと同時に私たちは、自分たちが主イエスを信じる信仰によってどのように新しくされているのか、を振り返って見なければなりません。私たちは、主イエスの復活を信じています。それはただ主イエスが復活したということを事実として信じているのではなくて、復活して今も生きておられる主イエスとの交わりに、聖霊のお働きによって導き入れられ、主イエスと結び合わされて生きているのです。そのことは、私たちを新しくするのです。生まれ変わらせるのです。その新しさは、私たちの具体的な生活に現れ出るはずのものです。私たちが、教会の仲間たち、兄弟姉妹の間で、心と思いを一つにして、すべてを共有し、分かち合っていく、自分のものを自分のものとする権利の主張から解放されて、自分のものを人のために、困難や苦しみを負っている兄弟姉妹のために、自発的に、喜んで献げていく、そういう生活が私たちの間には当然起ってくるはずなのです。それは決まりや規則ではありません。自発的にそうしていくことです。そういう思いがもしないとしたら、それは私たちが、復活された主イエスとの交わりに生きていない、主イエスによって与えられているはずの新しい命を生きていない、ということです。復活された主イエスの新しい命に生きる新しい生活、つまり信仰の生活は具体的なものです。それが最もはっきりと現れるのは、私たちが自分の物やお金をどう用いるか、という場面なのです。

貧しい人がいない
 私たちは、信仰と物やお金の問題は別、と考えてはなりません。持ち物やお金の共有、分かち合いは、神様の恵みが私たちの間に具体的に実現していくための大切な道すじなのです。もう一度、34節の「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」という言葉に注目したいと思います。これは先程も申しましたように、「みんな裕福だった」ということではありません。教会には貧しい人もいたのです。しかし物やお金の分かち合いによって皆が支えられたのです。それを「貧しい人がいなかった」と言い表すのはおかしなことだとも思います。実はこれは、旧約聖書、申命記第15章4節を意識した言葉なのです。そこに、「あなたの神、主は、あなたに嗣業として与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなるが」とあります。神様が約束の地を与えて下さり、祝福して下さるときに、つまり神様の救いが実現する時に、あなたがたの間に貧しい者はいなくなる、というのです。「貧しい者がいない」というのは、神様の救いの恵みの実現を意味しているのです。そのことが、最初の教会において起った、と使徒言行録は語っているのです。そしてそれは、主イエスを信じ、復活の恵みにあずかった信者たちが、新しくされ、自分の権利の主張から解放されて、自分に与えられているものを他の人のためにささげ、分かち合い、共有していく、という新しい生き方をしていったことによって実現したのです。ですからここには、単にお金の問題、あるいは貧しい人への福祉の問題が語られているのではなく、まさに神様の救いの恵みがどう実現していくか、ということが語られているのです。

わたしには何も欠けることがない
 人々が自発的に献げたものが、必要に応じて分配されたと35節にあります。この「必要」という言葉は、欠乏、欠け、乏しさという意味です。様々なものを分かち合うことにおいて、欠乏、欠けが補われ、乏しさを覚える人がなくなる、貧しい人がいなくなるのです。このことは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、有名な詩編23編とつながってきます。詩編23編は、「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」と歌っています。前の口語訳聖書では、「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」となっていました。神様が羊飼いとして養い、守って下さるから、何も欠けることがない、乏しいことがない、という恵みの内に生かされるのです。この神様の恵みはどのようにして実現するのか、その一つの大事なすじ道が、本日のこの箇所に示されているのです。欠けることがない、乏しいことがない、貧しい者がいない、という神様の恵みは、私たちの分かち合いによってこそ実現していくのです。私たちが、復活された主イエスによって新しい命を与えられ、自分のものを他者のために献げ、分かち合っていくという具体的な新しい生活を生きていくことによって、詩編23編に歌われている、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」とい恵みが実現していくのです。

アナニアとサフィラ
 第5章に入ると、アナニアとサフィラという夫婦が登場します。彼らも、自分たちの土地を売りその代金を使徒たちのもとに持って来て献げたのです。しかしそれは代金の一部でした。彼らはそれを、土地を打った代金の全部だと偽って、残りの分を自分たちの懐に入れたのです。既に述べたように、土地を売って献金することは義務ではありません。4節でペトロが「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか」と言っているように、売らずに自分たちのものにしておくこともできたし、売った代金の一部を、一部です、と言って献金することもできたのです。しかし彼らは一部を全部と偽ってささげました。それは、人間を欺くことではなく、神様を欺くことでした。彼も妻も、その場に倒れて息絶えたのです。神様を欺き、あるいは欺くことができるとあなどることは恐ろしいことです。私たちも、同じ誤ちに陥らないように気をつけなければなりません。繰り返しますが、彼らは、土地を売って献金しなかったから打ち倒されたのではありません。代金を全部献金しなかったからでもありません。一部を全部と偽ったことが神様の怒りを招いたのです。

見比べる思い
 彼らは何故このような偽りをしたのでしょうか。彼らはおそらく、バルナバの向こうを張ろうとしたのでしょう。バルナバが畑を売った代金の全額を献金し、それが評判になったのを見て、自分たちも同じ名声を得ようとしたのです。つまり彼らの献金は、他の人と見比べての献金だったのです。あの人はいくらしたから自分もこれくらい…、という思いがそこには働いているのです。それは、心から喜んで他の人と分かち合おうという思いではありません。分かち合うことによって、貧しい人、欠乏している人が支えられ、一人も貧しい人がいなくなる、まことの羊飼いとしての神様の恵みがこの群れに実現する、そういうことを目指しているのではなくて、自分が名誉や評判を得ることが目的になっているのです。そこでは、主イエス・キリストの十字架と復活による神様の恵みが共有されていません。復活された主イエスから与えられる新しい命がそこにはないし、その命を生きる新しい生活もないのです。あるのは、人間の欲と権利の主張に基づく、古くさい、陳腐な、何の魅力もない生き方です。私たちは、このアナニアとサフィラのような古い生き方から、主イエスの復活の命によって新しく生かされる、神様の恵みに満たされた本当に魅力ある生き方へと、その具体的な現れである分かち合う交わりへと、招かれているのです。

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