主日礼拝

祝福を受ける

「祝福を受ける」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 創世記、第12章 1節-3節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第3章 11節-26節

 
ペンテコステ
 本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。ペンテコステという言葉は、訳せば五旬祭となります。「旬」は上旬中旬下旬の旬で、十日間という意味です。ですから五旬祭というのは、五十日目の祭りという意味になります。何から五十日目かというと、過越の祭りからです。新共同訳聖書の後ろの用語解説で「五旬祭」を見ていただけば簡単な説明がなされていますが、ユダヤ教における三大祝祭の一つで、もともとは麦の収穫を祝う祭りだったようです。このユダヤ教の祭りが、キリスト教会においても大切な祭りとして祝われているのです。しかし私たちがペンテコステを祝うのは、麦の収穫を感謝してではありません。また、今申しました用語解説にあるように、シナイ山においてモーセが律法を与えられたことを記念してでもありません。この日は、イースター、即ち主イエスの復活から五十日目であり、その日に、弟子たちに聖霊が降り、力強い伝道が開始されたのです。キリストの教会の活動が開始されたのです。ですからペンテコステは、教会の誕生日であるとも言われます。このペンテコステに、エルサレムで、聖霊の働きによって始まったキリスト教会の歩みが、約二千年に亘って連綿と続いてきて、ヨーロッパに伝わり、アメリカに伝わり、そして日本にまで伝えられて、今私たちのこの教会においても継続されているのです。そのルーツが、ペンテコステの出来事にあるのです。

足の不自由な人の癒し
 ペンテコステの出来事が語られているのは、使徒言行録の第2章です。私たちはこの3月から、礼拝において使徒言行録を連続して読み始めておりまして、第2章は3月の終わりにもう読みました。ですから今年は、イースターよりも前にペンテコステが来てしまったように感じておられる方もいるかもしれません。本日ご一緒に読みますのは、第3章の後半です。ここには、ペンテコステに誕生した教会の最初の日々において起った出来事が語られています。3章から4章にかけて語られていく一連の出来事の発端となったのは、3章1節以下にある、ペトロとヨハネがエルサレムの神殿に祈るために上った時に、生まれつき足が不自由で立つことも歩くこともできず、毎日神殿の門のところに運ばれてきて、そこで物乞いをしていた一人の男を癒し、彼が立ち上がり、歩いたり躍ったりできるようになった、という癒しの奇跡でした。その癒しは多くの人々が出入りしている神殿の門のところで行われ、また癒された男は11節にあるように、ペトロとヨハネに付きまとっていた、8節の描写によれば、「歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」のです。生まれてから一度も立ったり歩いたりしたことのなかったこの人が、自由に立って歩くことができるようになった喜び、感謝を爆発させて、自分を癒してくれたペトロとヨハネの周りを踊り回っている、それはとても目立つ光景です。この出来事に驚いた多くの人々が、彼らのところに一斉に集まって来たのです。その人々を見て、ペトロが口を開き、語った説教が本日の箇所に語られているわけです。

2章と3章の共通点
 この場面は、第2章のペンテコステの出来事と、いろいろな点で共通点があります。第2章でも、弟子たちに聖霊が降り、彼らがいろいろな国の言葉で、神の偉大な業、即ち主イエス・キリストによる救いの出来事を語り始めたという奇跡的な出来事が起っています。そしてそれに驚いた多くの人々が彼らの周りに集まって来ました。その人々に対してペトロが語った説教が後半に記されています。つまり、2章と3章は、話の構造が全く同じなのです。まず、聖霊の働きによって驚くべき奇跡が行われます。3章の、足の不自由な人の癒しも、聖霊の働きによることです。ペトロは12節で、この癒しは私たちが自分の力や信心によってなしたことではない、と言っています。彼らは、ペンテコステの出来事において、聖霊を受け、聖霊の力に導かれて主イエスを宣べ伝えているのです。その歩みの中でこの癒しも行われたのですから、この癒しの業も聖霊のお働きによることです。聖霊は、ペンテコステの日にだけ、一度限り働いたのではありません。その後も継続的に、常に働き続けて下さっているのです。その聖霊の働きによって、この癒しの奇跡が行われました。そして、それに驚いた多くの人々が、弟子たちのところに集まって来ます。その人々に対して、ペトロが教えを、説教を語っていく、そういう共通した構造が2章と3章にあるのです。そういう意味では、本日の箇所はペンテコステの出来事の繰り返しであると言うことができます。それはさらに言えば、教会の歩みというのは、日々、ペンテコステの出来事の繰り返しである、ということです。聖霊のお働きによって生まれ、聖霊のお働きによって歩む教会は、ペンテコステの出来事を、日々、様々な違った状況の中で体験していくのです。私たちの歩みもそうです。使徒言行録第2章を読む時だけではなく、毎週毎週の主の日の礼拝において、ペンテコステの出来事と本質的に同じことが繰り返されていくのです。
 本日の箇所のペトロの説教と、2章後半の説教とは、内容的にも共通しています。彼はまず、聖霊のお働きによって起った不思議な出来事に対する人々の誤解を解こうとしています。2章においては、弟子たちがいろいろな国の言葉で福音を語っているのを、酒に酔ってろれつが回らなくなっているのだと思った人々がいました。ペトロはそのような誤解に対して、これは聖霊の働きによることで、預言者ヨエルが既に語っていたことの実現なのだ、と言っています。本日の箇所では、ペトロやヨハネが魔術的な力や信心によって足が不自由だったこの人が癒したと思い、彼らの力に感嘆して見つめている人々に対して、これは私たちの力によることではない、神様のお働き、聖霊のお働きなのだ、と言っているのです。そしてそれに続いて彼が語っていくのは、イエス・キリストのことです。イエスこそ、神様が遣わして下さった救い主だったことが、2章22節には「ナザレのイエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました」とあります。3章では13節に、「わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました」とあり、14節には、イエスは「聖なる正しい方」だったとあり、15節には「命への導き手」だった、と語られています。それを受けて、そのイエスを、あなたがたは十字架につけて殺してしまったのだ、とユダヤ人たちの罪を指摘していくことも両者に共通しています。そしてどちらの説教も、そのイエスを神様が死者の中から復活させられたことを語り、私たちはそのことの証人である、と続いていくのです。そして、このことを受けて、今あなたがたは何をすべきか、ということが最後に語られていきます。2章においては、人々が大いに心を打たれ、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と問うたのに答えて、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と勧めています。3章では19節に「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」とあります。この二つの説教はいずれも、聞く人々に悔い改めること、神様に立ち帰ることを求めているのです。こうして見ると、2章のペンテコステの日における説教と、3章の説教とは全く同じ内容だと言ってもよいくらいです。先程、教会の歩みは、日々、ペンテコステの出来事の繰り返しであると申しましたが、それは、このような説教が繰り返し語られていく歩みである、ということでもあるのです。神様が遣わして下さった救い主イエス・キリストを受け入れずに十字架につけて殺してしまう人間の罪が指摘され、断罪され、しかし神様がその人間の罪の力を打ち破って主イエスを復活させて下さったこと、神様の恵みの力の方が、人間の罪の力よりも強いこと、私たちは既に、この神様の恵みの勝利の下に置かれていることが宣言され、それゆえに、悔い改めること、神様に背を向けている心と生活の向きを転換して、主イエスの父なる神様のもとに立ち帰り、神様を信じ、従って生きる者となることが求められていく、そういう説教が繰り返し語られていくところが、聖霊のお働きによって歩む教会なのです。

イエスの名
 しかし、2章の説教と3章の説教では違うところもあります。その違いは第一には、3章の説教は、足の不自由だった人の癒しの出来事を受けて語られているということから来ています。その癒しをもたらしたのは何か、が16節に語られているのです。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」。「イエスの名」が彼を強くした、「イエスの名を信じる信仰」によって彼は癒された、その信仰は「イエスによる信仰」とも言い換えられています。「イエスの名」と、「その名を信じる信仰」と、「イエスによる信仰」とは同じことを言っています。いずれにしても、この癒しの業は、主イエス・キリストの力によってなされたのだということが強調されているのです。教会において起る救いの業、私たちが、また救いを求めて教会に来る人々があずかる恵みは、主イエス・キリストによる救いであり恵みであって、それ以外ではありません。礼拝において私たちがあずかるのは、主イエス・キリストによる救いの恵みなのです。それ以外の救いや恵みを求めて来ても、それはお門違いであって、その期待は叶えられません。主イエス・キリストとの関わりを抜きにして救いや恵みをいただくことはできないのです。けれどもこの足の不自由だった人がそうであったように、主イエス・キリストの名によってこそ、本当に必要な、根本的な救いが与えられるのです。彼はペトロたちに施しを求めました。その日の生活を満たすためのお金を求めたのです。しかし主イエスのみ名によって与えられたのは、立ち上がり、歩けるようになること、つまり彼の苦しみの根本的な解決でした。ペンテコステの出来事が教会の歩みにおいて繰り返され、聖霊の力が注がれるところに、この主イエスのみ名による根本的な救いが、私たち一人一人に、それぞれの置かれた状況の中で起るのです。

神の民イスラエル
 もう一つ、この第3章の説教に特徴的なのは、20節以下に語られていることです。ここに語られていることは、少しややこしくて、何を言おうとしているのかすぐには分からないかもしれません。そこで、少し順序を入れ替えて、ここに語られていることを整理してみたいと思います。先ず、25節に注目して下さい。「あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です」とあります。ペトロはここで、この説教を聞いているユダヤ人たちに、「あなたがたは特別な民なのだ」と語りかけているのです。「あなたがたは預言者の子孫だ」。その「預言者」とは、24節に「預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています」とあるように、「今の時」について、つまり主イエス・キリストによる救いの実現について告げていた人々です。その預言者の子孫であるということは、あなたがたは先祖が預言した主イエス・キリストによる救いを信じて受け入れ、それに従うべき者たちだということです。22節には、モーセが「あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者が立てられるから、彼が語ることは何でも聞き従え」と言っていたことが語られていますが、その「モーセのような預言者」が主イエス・キリストです。モーセが予告し、あなたがたの先祖の預言者たちが語ったイエス・キリストによる救いが、主イエスの十字架と復活によって、そして聖霊が降って教会が誕生した今この時に実現した、それをあなたがたが信じて受け入れるのは当然だろう、とペトロは言っているのです。25節後半に、あなたがたは「神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です」とあるのもそれと同じことを言っています。「契約の子」とは、神様がご自分の民との間に結んで下さった契約の恵みを受け継ぎ、神様の民として生きる者、ということです。あなたがたは、神様と特別な関係を与えられている、神に選ばれた民なのだ、とペトロは言っているのです。その契約の民の使命は何かがその後に語られています。神様はイスラエルの民の先祖アブラハムに、「地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける」と約束して下さったのです。全ての人々が神様の祝福を受けること、それが預言者の子孫であり契約の子であるイスラエルの民に与えられた約束です。この約束が語られたのが本日共に読まれた旧約聖書の箇所、創世記第12章の始めのところなのですが、その3節には、地上の氏族はすべて「あなたによって」祝福に入る、とあります。しかし本日の箇所では、「あなたから生まれる者によって」となっています。「あなたから生まれる者」とは主イエス・キリストのことです。それゆえに次の26節で、「それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした」と語られていくのです。つまりペトロはここで、あなたがたイスラエルの民は神様の特別な恵みを受けている、その恵みは先ずあなたがたのもとに主イエス・キリストが遣わされたことによって実現した、この主イエスによって、すべての人々が神様の祝福を受けるようになるのだ、と言っているのです。イスラエルが神様の民として立てられていることの意味をペトロはこのように示しているのです。このことは第2章の説教にはなかった、新しい事柄です。

悔い改めて立ち帰る
 しかしその主イエスを、ユダヤ人たちは受け入れず、十字架につけて殺してしまいました。神様が与えて下さった特別な恵みを拒否し、神様の民としての光栄を自分からどぶに捨ててしまったのです。そこに彼らのとてつもない罪があるのです。けれども17、18節には、そのことは無知のゆえになされたことであり、神様はそのことをも救いのご計画の内に置いて下さっていたのだ、主イエスの十字架の苦しみと死を、人間の罪の赦しのために救い主メシアが受ける苦しみとして下さったのだ、と語られています。人間のとてつもない罪をもご計画の内に置いて、その赦しの恵みを実現して下さる神様の救いのご計画が、主イエスの十字架と復活において実現したのです。それゆえに、今私たちに求められているのは、19節にあるように「自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」ということです。主イエス・キリストの十字架と復活によって実現した神様の救いの恵みにあずかるために私たちに求められているのは、悔い改めて、神様のもとに立ち帰ることなのです。そのことによってのみ、私たちは、アブラハムに与えられた神様の祝福の約束を受け継ぐ者となることができ、預言者の子孫、契約の子となることができ、神様の民イスラエルの一員となることができるのです。ユダヤ民族がその血筋によって神の民である時代は、彼らが主イエスを拒んだことによって終わりを告げました。今や、神様の民イスラエルとは、悔い改めて神様のもとに立ち帰る者たちの群れなのです。それが即ち教会です。ペンテコステは、聖霊のお働きによってこの教会が生まれた日、新しい神の民が、悔い改めて神様に立ち帰る者の群れとして誕生した日です。本日も、一人の姉妹が洗礼を受けて教会に加えられます。それは、悔い改めて神様に立ち帰り、神様の民に加えられるということです。悔い改めて神様に立ち帰る印としての洗礼を受けることによって私たちは、神様の祝福を受け継ぐ者となり、またすべての人々にその祝福を伝えていく使命に生きる者となるのです。

祝福を受ける
 神様の祝福は、主イエス・キリストによる祝福です。神様の民とは、主イエス・キリストによる救いの恵みにあずかる者の群れです。私たちは悔い改めて神様のもとに立ち帰ることによって、主イエス・キリストの十字架と復活の恵みにあずかるのです。あの足の不自由だった人に起ったこともそれでした。イエスの名が彼を強くした、その名を信じる信仰が、イエスによる信仰が彼を癒したというのは、主イエスの十字架と復活の恵みが彼に与えられたということです。彼も、悔い改めて神様のもとに立ち帰ったのです。癒された彼が神様を賛美しながら、ペトロとヨハネと共に神殿に入り、彼らに付きまとっていたことがそれを現わしています。主イエスによる救いは、それをいただいたらもう主イエスが用ずみになって、後は自分の思い通りに生きて行く、というものではないのです。自分の思いや願いばかりを見つめ、苦しみや悲しみの解決だけを望んでいた私たちが、その心の向きをがらりと変えられて、つまり悔い改めて、主イエスの方を向き、主イエスのもとで、神様を礼拝しながら生きる者となる、つまり神様に立ち帰り、神様の民の一員として、つまり教会の一員として歩む、そこに、神様の祝福を受ける者の人生があるのです。

究極の希望
 そこには、祝福のみでなく究極の希望が与えられています。20、21節に語られているのはその希望です。21節には、主が、メシアであるイエスを遣わしてくださるとあります。それは二千年前に主イエスが地上に来られたことではありません。これから、将来に約束されている、主イエスが再び来られる日のことです。21節には、「このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています」とあります。それは、今復活して天に昇られ、父なる神様の右に座しておられる主イエスが、「万物が新しくなるその時」、つまり世の終わりまで「天にとどまる」、裏を返せばその終わりの日には天から再びこの地上に来られる、ということです。主イエスの再臨によって、この世は終わるのです。その終末の到来がここに語られています。そしてペトロはそれを「主のもとから慰めの時が訪れ」と言っています。世の終わり、主イエスの再臨は、「慰めの時」の到来なのです。つまりそこで私たちの救いが完成するのです。神様の祝福が完成するのです。そこに私たちに与えられている究極の希望があります。その希望を見つめながらこの世を歩むのが私たちの、教会の信仰の歩みです。この世を生きる限り、私たちの歩みは不完全なものであり、欠けが多く、罪がそこにからみついています。それゆえにこの世を生きる私たちの信仰の歩みは、常に悔い改めの連続であり、その都度神様のもとに立ち帰り続ける歩みです。私たちはいつも悔い改めて神様に立ち帰りながら、主イエスの再臨における慰めの時、救いの完成の時を待ち望みつつ、忍耐と希望に生きるのです。それが、洗礼を受け、教会の一員となった者の歩みです。そのような私たちの信仰の歩みを支え導いて下さるのが聖霊です。ペンテコステに弟子たちに降り、教会を誕生させ、そして今も変わらずに働いて私たちを教会へと導いて下さっている聖霊のもとで、私たちは悔い改めて神様に立ち帰りつつ、主イエスの再臨に希望を置いて忍耐に生きるのです。そこにこそ、神様の祝福に豊かにあずかる歩みがあるのです。

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