「人の子が来るのを見る」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; ダニエル書 第7章13-14節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第14章53-65節
・ 讃美歌 ; 202、481
最高法院での裁判
本日与えられた箇所には、主イエスが裁判を受けたことが記されています。弟子の一人であるユダの裏切りによって祭司長、律法学者、長老たちによって逮捕された主イエスは、そのすぐ後で、最高法院で裁判を受けることになるのです。「人々は、イエスを大祭司のところに連れて行った」とあります。この大祭司と、祭司長、長老、律法学者たちによって、最高法院が構成されていたのです。これは、国会と裁判所を併せたような最高の政治的決定機関です。しかし、この最高法院において、主イエスを十字架に付けるということが決められたのではありません。当時、ユダヤはローマの属国で、自分たちで犯罪人を死刑にすることが出来ませんでした。ですから、主イエスを十字架に付ける決定は、この後、ユダヤを支配していたローマの総督ポンテオ・ピラトの下でなされるのです。この最高法院での裁判はローマ総督ピラトに引き渡す前に、主イエスの罪がどのようなものなのかを確定するために開かれたのです。しかし、これは主イエスを殺そうと企む人々によって開かれた裁判です。最初から、主イエスを死刑にするという目的があり、その目的を実現するために必要な証言を得るために開かれているのです。しかし、この時、最高法院の全員は、人々にいくら求めても、主イエスを死刑にするための証言を得ることは出来ませんでした。55節には、「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが得られなかった」とあります。主イエスは、死刑に当たるような罪を犯して来た訳ではありません。ですから、証言が得られないのも当然なのです。「多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである」とあります。人々は主イエスを引き渡すために偽証をしたのです。皆、それぞれに主イエスを陥れようとして勝手に偽って証言をするのですから、偽証は食い違ってしまうのです。当時、裁判において信頼し得る証言とされるためには複数の人によってなされたものでなければなりませんでした。ですから、ここでの証言はどれも、死刑にするための証言として認められるようなものではなかったのです。
神殿を建て直す
多くの偽証がなされる中、福音書は、一つの証言に注目しています。「すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした」。とあります。ようやく、複数の人々による証言が出てきたのです。その証言は次のようなものです。「この男が『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました」。確かに、主イエスは、神殿について、これと似ていることをお語りになっています。ヨハネによる福音書第2章19節で、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とお語りになっているのです。当時、神殿とは、神様が臨在される場所とされていました。ですから、神殿を壊し、建て直すというのは神に対する冒涜となるのです。しかし、この証言が死刑のための確かな証言となったかと言えば、そうではありませんでした。「しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。」とある通りです。何故、食い違ったのでしょうか。そもそも、ヨハネによる福音書で主イエスは、文字通りエルサレム神殿を建て直すとおっしゃったのではありません。そのすぐ後の所で、「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」と言葉の説明が記されています。つまり、ここで、主イエスは、ご自身が、十字架に付けられ殺されて三日後に神様によって甦えらされる。そのことによって神様の栄光が表され、現在の神殿での礼拝とは全く異なる、救い主キリストの十字架と復活を根拠にして捧げられる真の礼拝の群れが造られるということをお語りになったのです。彼らは主イエスのお語りになる言葉の真意を理解していませんでした。それぞれが、主イエスの言葉を自分の尺度で捉えて適当に解釈していたために、その証言は食い違ってしまうのです。
祭司長たちにとっての神殿
神殿について主イエスがお語りになったことは、主イエスが言おうとされていた意味において理解されることはありませんでした。しかし、この神殿についての発言は、主イエスを陥れる人々にとって、聞き捨てならない言葉としてしっかりと記憶されたのです。彼らは、それを神への冒涜だと取ったのです。その背後には、この人々が、神殿を偶像にしていたということがあると言って良いでしょう。そもそも、神様は人間が造った神殿に拘束されるような方ではありません。ソロモンがエルサレム神殿を建てた時、次のように語っています。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができましょうか。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」。神殿を建設した当時、神様は、神殿などに拘束される方ではないという信仰があったのです。しかし、主イエスの時代、最高法院を構成する人々にとって、神殿は神がおられる場所であったのです。神がおられると言えば聞こえは良いですが、それが意味することは、神様を自分の範疇に納めて、神様の権威を用いて、自分たちの権威を確立するための手段としていたということです。主イエスを殺そうと企む、急先鋒である最高法院を構成する、祭司長、長老、律法学者たちの権威は、この神殿によって支えられていました。彼らは、当時の社会の政治的な権力者でありつつ宗教的な指導者でもありました。そのような社会の上層部にいる人ほど、激しく、主イエスに対する殺意を抱いたのは、神殿について軽々しく語る主イエスが自分たちの権威を揺さぶる者であると感じたからです。神殿を壊し建て直すというのは、神殿によって、自分たちの権威を保っている人々に取っては自分たちの権威を脅かすような発言なのなのです。最高法院を構成する人々にとって、それは、自分の現在の地位、価値観、さらには生活までもが脅かされるということになります。そのことを避けようとする時、真の救い主である主イエスを殺そうとするのです。
神様の自由を侵す
つまり、神殿とは人間が、神を自分の尺度で測って、自ら神のおられる場所を定めることによって、神を地上に拘束し、自分の用いたいように利用することの象徴なのです。それは一言で言ってしまえば、神の自由を人間が侵し、神を利用して、自分の権威を主張することに他なりません。私たちは、当時の最高法院を構成する人々と同じ立場にある訳ではありません。しかし、この神の自由を侵すということは、しばしば行われることであると言って良いでしょう。自分の尺度をもって捉えられる範囲で神様のことを捉え、自分の理解出来る範囲に神様を押し込めてしまう。そのような時に、神様の自由を侵して、自分たちの都合の良いように利用していることがあるのです。自分の都合のよい偶像を造り上げて拝んでいるのです。そして、そのような態度こそ、真の神の子である主イエスを死刑にするということに結びつくのです。神殿を偶像とし、その神殿の崩壊を告げる主イエスの言葉を神の冒涜としてしまう。そこで自らの思いとは異なる、それを遙かに越えた主イエスを認めることが出来ず、命を奪おうとするのです。
ほむべき方の子
決定的な証言が得られない中、大祭司は、最終的に、主イエスに尋ねます。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」。人々に聞いても埒があかないと判断し、主イエス本人に尋ねたのです。「ほむべき方」と言われていますが、当時の人々は、直接主なる神を呼ぶことをしなかったのです。ですから、ここで、主イエスに対して、お前は神の子なのかと尋ねているのです。もし、それを認めれば、それは神に対する冒涜となります。大祭司は主イエスが肯定するとは思っていなかったはずです。だから、偽りの証人まで建てて、証言を得ようとしたのです。しかし、大祭司の問いかけに対して、主イエスは「そうです」と答えます。これまで自分を陥れようと人々が口々に偽証をしている間、主イエスは沈黙しておられました。しかし、それによって自らの死刑が決まるような大祭司の決定的な質問に対しては、自らが神の子であることを肯定されたのです。主イエスは、私たちが人々の偽証の前に立たされた時にするであろうように、躍起になってそれに反論し、自らを弁護することはなさらないのです。主イエスは、自分を守ろうとしていたのでも、自分の無実や自分の正しさを論証することによって、人々に神の子としての権威を主張しようとしたのでもありません。ただ、神様の救いの御業のためにのみ歩まれていたのです。そして、十字架に付けられることこそ、主イエスの目的であり、父なる神様の御心だからこそ大祭司の問いに対して「そうです」と肯定したのです。この「そうです」という言葉は、「わたしはある」という言葉です。主イエスが、神の子として自らを啓示なさる時の表現です。ここで決定的に主イエスの神の子としてのお姿が示されていると言うことが出来るでしょう。マルコはこれまで、人々の前で様々な御業をなさると同時に、ご自身の身を隠す主イエスのお姿を描いて来ました。時に群衆の前から退かれ、時に、ご自身のことを人に話さないようにと注意なさいました。それは、人々を驚愕させ、人々を引きつけるような御業をすることが、主イエスが世に来られた目的ではないからです。人々に感心され、崇拝され、弟子たちによって慕われるような主イエスの姿が、真の救い主の姿ではないのです。むしろ、弟子たちに裏切られ、人々から侮辱され、十字架で裁かれることにこそ、主イエスが真の救い主、キリストであることが示されているのです。
主イエスの栄光を告げる御言葉
更に、主イエスは、ここで「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」とおっしゃっています。「人の子」という言葉は、真の人という意味と共に「救い主」を意味する言葉でもあります。本日お読みした旧約聖書、ダニエル書第7章13節に次のようにあります。「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り/『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み/権威、威光、王権を受けた。諸国、諸属、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない」。「人の子」、つまり、真の人として来られる救い主が、神の栄光を受けて、その支配が確立することが、旧約聖書の預言として語られていたのです。この預言を受けて、主イエスご自身がそのような救い主であることをお語りになられたのです。真の人である主イエスが、神様の栄光をお受けになるという預言は、神殿に固執し、自分の尺度で御言葉に聞いている人々にとっては神に対する冒涜としか捉えることが出来ないことです。しかし、人の子として世に来られた神の子が栄光をお受けになるということに人間にとっての大きな救いが示された御言葉なのです。
この主イエスの言葉に対する人々の反応はどのようなものだったのでしょうか。人々は、主イエスの言葉を、神に対する冒涜の言葉と受けとめ、死刑にすべきだと主張します。そして、主イエスを侮辱するのです。「ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ『言い当ててみろ』と言い始めた」とあります。ここで、「言い当ててみろ」と言われている言葉は「預言をしてみろ」とも訳せる言葉です。ここにも、自分の尺度で救い主を捉える人々の、自分の思いに従って御言葉に聞く姿が表されていると言って良いでしょう。目隠しした状態で誰が殴ったかを言い当てさせようとするというのは、要するに、人間には出来ないようなことをしてみろと言うことです。主イエスを殺そうとする人々にとって、預言をする、神の言葉を語るということは、せいぜい、目隠しをした状態で誰が殴ったかを言い当てて、自分を納得させるような神の御業を見せてみろということでしかないのです。人の子が栄光を受けるという真の預言を神に対する冒涜とし、自分の納得の出来るようなことを語って見ろというのが人々の姿勢であったのです。つまり、自分の納得する形で、神の子の栄光の姿を見せてみろということです。預言を語る、神様の救いの御言葉を語るということも、そのような真に人間本意のものとしてしか捉えていないのです。
栄光の主イエスを待ち望んで
最高法院を構成する人々、又、ユダヤの人々の姿は私たちの姿でもあります。私たちも、それぞれに、神殿を建てていると言って良いのではないでしょうか。私たちは、既に十字架に付けられたキリストが救い主であるということを、聖書を通して知らされ受け入れているから、自分は当時の最高法院の人々の態度とは無縁であると考えることは出来ません。やはり、私たち自身も、自分の理解に従って、主イエスや主なる神様のお姿を自分の理解に出来る範囲で捉え、それを一つの偶像にしてしまうことがあるのです。そこで、自らの建てた神殿を壊すことが出来ず、自分の思いをはるかに超えている神様の姿を受け入れていないのです。自分が主イエス・キリストによって示された救いの恵を自分の尺度で捉えられるだけのものにしてしまうのです。自分なりの神殿を偶像にし、自らの思いによって、神様を捉えようとしているということにおいて、私たち自身も、まさに真の神の子である主イエスを殺す者の一人であるということが言えるのです。そのようにして、自ら偶像を刻む背後で、私たちが真の救い主を死に引き渡してしまっている所に、真のキリストの苦しみがあるのです。
しかし、そのように主イエスを死に引き渡してしまう私たちのために、主イエスは十字架に赴き、真に人々の罪を贖うという形で救いを成し遂げて下さっているのです。私たちは、この救いの事実の前で、本当に神の子であったことを告白し、この主イエス・キリストを礼拝する者とされます。その時に、キリストのからだの枝とされて、全く新しい、キリストのからだという神殿に加えられて、頭であるキリストが世に来られる日を待ち望みつつ、神様を礼拝して行くのです。
わたしたちはこの世にあって、絶えず、自分の神殿、自分の尺度の範囲で神様を捉えようとしていると言って良いでしょう。しかし、その苦しみの中で死なれた真のキリストにこそ、真の救い主としての姿があり、このキリストが、今、十字架の死を克服して復活し、天に挙げられて神の右に座におられるということによって神様の栄光を受けておられるのです。そして、その栄光の主が終わりの日に再び世に来られるという形ではっきりと示されるのです。私たちは、この世にあって、絶えず、裁判の場で主イエスが語られたの御言葉に聞いて行くのです。「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」。人の子として世に来て、自分の神殿を守ろうとする人々によって十字架で殺してしまった方が、真の救い主として、神の栄光を受けつつ、来て下さる。そのことの確信を与えられつつ神様を礼拝して歩むのです。