「献金の信仰」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; エレミヤ書 第22章13ー16節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第16章1ー4節
・ 讃美歌; 337、113、512
募金についての教え
コリントの信徒への手紙一を読み進めてまいりまして、いよいよ最後の第16章に入りました。この16章でパウロは、これからコリントを訪れようとしている計画を語り、先にコリントへと遣わしたテモテのことをよろしく頼み、またコリント教会からパウロのもとを訪問してくれた人々への感謝を述べ、そして今自分がいるエフェソとその周辺の教会の者たちからの挨拶を伝えています。そのようにしてこの手紙をしめくくっているわけですが、そのしめくくりに入る前に、最後にもう一つ、コリント教会の人々への教えを語っているのが本日の1~4節です。ここに語られているのは、1節の冒頭にあるように、「聖なる者たちのための募金について」です。募金という言葉は「集める」という言葉から来ており、「集められたもの、集められたお金」ということです。何かの目的のために特別にお金を集めるのです。パウロはそういう募金の活動をこれまでにも各地の教会で興し、指導してきました。そのことは1節後半に「わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい」とあることによって分かります。この手紙における教えの最後に、パウロはこの募金の問題をとりあげているのです。
復活の信仰と募金
ところで、先週まで読んできた第15章には、死者の復活の信仰が語られていました。世の終わりに、私たちも、主イエス・キリストの復活にあずかって、新しい、朽ちることのない、復活の体を与えられる。その時、今私たちを脅かしている死の力は滅ぼされ、神様の恵みの勝利が完成する、そういう信仰者の究極の希望について語られてきたのです。そのような話から突然今度は募金の話になることに大きな落差を感じるかもしれません。世の終わり、永遠を見つめていた目が、突然まことに卑近な、即物的な、お金の話に引き戻される、それはちょっとガクッとくるようなことかもしれません。だからこの手紙は15章まででおしまいにした方がよかったのではないか、15章の終わりで、「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」と語って信仰的に最高潮に盛り上がったのだから、あとは短い挨拶と祝福の言葉をもって終った方が効果的だったのではないか、などと考えることもあるかもしれません。しかしパウロはそうしなかった。世の終わりの復活の希望についての壮大な記述にすぐ続いて、彼はこの募金の問題を同じ口調で語っているのです。このことの意味を考えなければなりません。つまりパウロにとっては、ここには落差はないのです。彼はちっともガクッときていないのです。パウロにとって、世の終わりの復活の希望に生きることは、今のこの世の現実の生活とかけ離れた、別世界の話ではありません。勿論彼は15章50節で言っていたように、「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできない」ということを知っています。つまり、この世の営みは過ぎ去っていき、朽ちていくものであって、その延長上に救いがあるわけではないのです。しかし世の終わりの復活の希望に生きる信仰者は、この世の歩みにおいて、15章58節に語られていたように、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励む」者となるのです。それは「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っている」からです。つまり復活の希望に生きる者は、この世の具体的、即物的な現実の中で、それらが朽ちていくものであることをはっきりと知りつつ、なおそこで、朽ちないものにつながる希望をもって「主の業」に励むのです。復活の希望に生きる時に私たちは、この世の事柄を軽んじたり、無視するようになるのではなくて、むしろ本当に責任をもってこの世の事柄に関わるようになるのです。そして本当に責任をもってこの世の事柄に関わるとは、それらを、無駄になってしまわないように用いることです。この世の事柄を無駄になってしまわないように用いるためには、それらを朽ちることのためではなく、朽ちないことのために用いなければなりません。朽ちないことのために用いるとは、この世と私たちをみ手の内に支配しておられ、復活によって朽ちることのない命と体を与えて下さる主なる神様にそれらをささげ、「主の業」のために用いていくことです。自分に与えられている様々なもの、能力、時間、そしてお金を「主の業」のために用いる時にこそ、その私たちの歩み、そこでする苦労は決して無駄にならず、本当に生かされていくのです。募金の教えは、復活の希望に支えられて、この世の事柄を用いて主の業に励むことの具体的な事例として語られています。ですからここには15章との落差はないのです。復活の希望に生きるというのは、未来を夢のように思い浮かべながら、この世の現実から遊離して生きることではなくて、今与えられている生活の中で、与えられているこの世のもの、たとえばお金、財産を、主の業のためにしっかりと用いていくことなのです。ですから、15章と16章の間に落差を感じてしまうとしたら、それは私たちの復活についての理解がまだ不十分だということなのです。
献金
またこの募金が主の業に励むことの中に位置づけられているがゆえに、これは単なる「慈善のための募金」ではなくて、むしろ「献金」です。本日の説教の題を「献金の信仰」としたのはそのためです。私たちも教会においていろいろな募金をします。災害にあった人々への救援の募金であったり、昨年は前の伝道師矢澤美佐子先生がアメリカで病気になられたことを覚え、その医療費支援のための募金も集めました。これらは、困難の中にいる人々のための募金ですが、私たちはそれを、単なる慈善活動としてではなくて、主に仕える業として、つまり神様にお捧げする献金として行うのです。
聖なる者たちのために
さてここでは「聖なる者たちのための募金」が勧められていますが、この「聖なる者たち」というのは、小見出しにもありますように「エルサレム教会の信徒」のことです。「聖なる者たち」という言葉は、エルサレム教会の人々だけに用いられるわけではありません。パウロはこの手紙の冒頭の挨拶において、コリント教会の人々のことを「聖なる者とされた人々」と呼んでいます。「聖なる」という言葉は聖書においては、「神様のものとして聖別された」という意味です。ですから神様の導きによってイエス・キリストを信じ、その救いにあずかった人々の全てが「聖なる者たち」なのです。その人々の中で特にこの時献金をして援助する必要があったのは、エルサレムの教会の人々でした。エルサレムは、教会が最初に誕生した所ですが、ユダヤ教の本拠地、お膝元であり、キリスト教とユダヤ教との違いが鮮明になるにつれ、ユダヤ人たちから激しい迫害を受けるようになったのです。また、飢饉の影響もあって苦しんでいたということが使徒言行録には書かれています。そのような苦しみと迫害の下にあるエルサレム教会の人々のために、各地の教会で献金を集めて送るという運動をパウロはしていました。つまりこの献金活動は、同じ主イエス・キリストを信じて教会に連なっている主にある兄弟姉妹の間で、苦しみにあっている教会を支え、助けていこうという働きです。そしてそこで私たちが思いを致さなければならないのは、例えばコリントの人々にとって、エルサレム教会の人々というのは、会ったこともない、顔も見たことのない人々だったということです。ギリシャのコリントとユダヤのエルサレムは、距離的にも民族的にも全くかけ離れています。この当時は同じローマ帝国の支配下にありましたが、本来は全くの外国どうしです。そういう、人間的には全くつながりや関係のない、会ったこともない、名前も知らない人々の間に、主イエス・キリストの救いにあずかり、教会に連なっている、つまり「聖なる者」とされているというただ一つの絆、つながりのゆえに、自分の財産を捧げて相手を支え助けるという「主の業」が行われていく、パウロが行っていた献金の活動とはそういうものだったのです。
献身の印
パウロは、キリストの福音を宣べ伝え、教会を築くという伝道と同時に、この献金の業を熱心に教え、勧めていました。教会が大きく成長して余裕が出てきたなら、こういう献金をもしていこう、と言っていたのではありません。福音を伝えると共に、彼はこの献金の信仰をも教え、この業を勧めていったのです。コリントの信徒への手紙一では、献金のことにふれているのは本日のここだけですが、第二の手紙では、8、9章においてもっぱらこのことについて語っています。8章の始めのところを読んでみましょう。「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」。ここにマケドニア州の諸教会のことが紹介されていますが、彼らは決して豊かな、余裕のある教会ではありません。むしろ「苦しみによる激しい試練を受けていた」教会が、その「極度の貧しさ」の中から、「人に惜しまず施す豊かさ」を示したのです。献金は、「余裕があればする」というものではありません。必要なのは、今の5節にあったように、「まず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた」という、主イエス・キリストに自分自身を献げる献身の志です。自分に与えられているものを、主の御業のために捧げ用いていこうという熱意です。それは「余裕」とは関係ありません。「余裕がない」というのは実は「志がない、熱意がない」ということなのです。
献金の信仰とその実り
主イエス・キリストに自分自身を捧げる志と熱意はどこから生まれるのか。そのことをパウロはその次の8節以下で語っています。「わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。主イエス・キリストが私たちのために貧しくなって下さった。そのことによって私たちは豊かな者とされた。それが、私たちがキリストに自分自身を捧げる志と熱意の原点です。まことの神であられる主イエスが、人間となり、しかも私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。ご自身の豊かさを私たちのために放棄し、進んで最も貧しい者となって下さったのです。そのことによって私たちは、神様による救いの恵みを豊かに与えられたのです。主イエス・キリストによる救いはこのように、豊かな者が貧しい者のためにその豊かさを捨てて貧しくなる、それによって貧しい者が豊かにされる、という構造を持っています。その救いにあずかった私たちが、同じことを人間どうしの間でしていこうというのがここに語られている献金の信仰です。それはパウロが言っているように命令ではありません。主イエス・キリストの十字架の死による救いの恵みへの応答として、自発的になされることです。そしてこのような献金は豊かな実りを生みます。そのことが、第二の手紙9章11節以下に語られています。「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」。主イエスの恵みへの応答として自発的になされる献金は、それによって支えられる者から支える者への感謝を生むだけではなくて、このような働きを生み出して下さった神様への感謝を生み、神様をほめたたえる声が高らかにあげられていくのです。献金によって支える者も支えられる者も、共に神様に感謝し、神様をほめたたえ、そして一人の主イエス・キリストに共に連なる兄弟姉妹としての信仰における交わりが、人間的な絆を越えて、会ったことのない、名前も知らない人々との間に生まれ広がっていく、パウロはそういう実りを見つめているのです。パウロがそこで大切なこととして意識しているのは、主イエス・キリストの体である教会の全世界的広がりです。私たちはとかく、自分が知っている親しい人々の間だけの交わりに閉じこもってしまいがちです。しかし主イエス・キリストを頭と仰ぐ教会は、私たちが直接知り得る範囲をはるかに越えて全世界に広がっているのです。その教会を一つに結びつけている絆は、主イエス・キリストによる救いであり、その印である洗礼と聖餐です。私たちが、自分の知ることのできる範囲のみに意識を狭めてしまう時に、そこでは、教会の絆は主イエス・キリストではなくて私たちの人間関係になっています。しかしキリストの体である教会は人間関係によっては生まれません。キリストの体である教会に連なる者であろうとするならば、私たちは、顔も名前も知らなくても、主イエス・キリストの救いにあずかる洗礼を受けた人々を、キリストの体に共に連なる兄弟姉妹として認め、支えていくという信仰を養われていかなければなりません。献金は、その信仰を養われていく具体的な機会なのです。
ユダヤ人と異邦人
コリント教会からエルサレム教会に献金が送られるということは、異邦人の教会からユダヤ人の教会へと援助の手が差し伸べられるということでもあります。パウロはそのことにも深い意味を見出しています。当時、エルサレムを中心とするユダヤ人たちの教会と、パウロの伝道によって生まれた異邦人を中心とする教会との関係は微妙にして深刻な問題をかかえていました。律法を中心とするユダヤ的な伝統を守ることが救いのために不可欠なのかどうか、という問題です。パウロは、割礼を受けることに象徴される、ユダヤ的伝統を受け継ぐことによってではなく、ユダヤ人であれ異邦人であれ、主イエス・キリストによって神が成し遂げて下さった救いを信じ、受け入れることによってこそ救われるということをはっきりと主張していました。それゆえに、異邦人への伝道を積極的におし進めていたのです。しかしパウロは同時に、主イエス・キリストによる救いは、旧約聖書以来の、神の民イスラエルの歴史を受け継ぐものであって、そこから切り離されてはならないということをも強く主張していました。もしも異邦人の教会とユダヤ人の教会とが対立し、分裂してしまうなら、異邦人の教会は、神様の救いの歴史に根ざすことのない、根無し草のようになって、歴史の荒波の中でどこかへ流されていってしまうことになるでしょう。またそうなったらユダヤ人の教会も、結局ユダヤ教の一分派に止まり、神様の救いのご計画を担うことはできなくなってしまうでしょう。それゆえにパウロは、異邦人教会とユダヤ人教会の一致のために心を砕き、そのために献金の活動をしているのです。この献金は、異邦人の教会が、ユダヤ人からの信仰的遺産に感謝しつつ、その現在の苦しみを支えていくという意味を持っています。それによって、ユダヤ人の教会と異邦人の教会が主イエス・キリストおいて一つとなること、それがパウロの切なる願いなのです。
礼拝において
本日の16章2節には、「わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい」とあります。パウロが来てからあわてて集めるようなことにならないように、毎週少しずつ集めておきなさいという実際的な指示です。しかしここから読み取るべきことはそれだけではありません。「週の初めの日」というのは日曜日のことです。主イエス・キリストの復活の記念日である日曜日に、教会の者たちは集まって礼拝を守るのです。その礼拝において、この募金は集められるのです。それゆえにこの募金は、礼拝において神様にささげられる献金です。それは慈善を施す思いによってではなく、神様への献身の思いによって献げられるのです。慈善のためのお金や義捐金と献金とを区別は、この礼拝との関わりにあります。私たちが、自分のお金、財産を隣人のためにどう生かして有効に用いるか、と考えてするのが慈善のための義捐金です。それに対して、私たちが神様を礼拝し、自分自身を神様にお献げすることの中で、自分のお金、財産を神様に献げ、それを神様によって生かして用いていただこうというのが献金の信仰なのです。
他の群れ、人々のために
この献金は、自分たちの群れのために、自分たちの信仰生活の維持のために集められたものではない、ということがもう一つ大事なことです。自分たちの群れを自分たちが献げたもので維持していくのは当然のことです。それは常になされていました。ここでは、それに加えて、他の群れ、見たことも会ったこともない、しかし今苦しみの中にある、共にキリストに連なる兄弟姉妹のための献金がなされているのです。初代の教会が、コリントとエルサレムという、今日よりもはるかに大きかったであろう物理的、精神的距離にもかかわらず、このような具体的な交わりに歩んだその姿に、私たちも倣っていきたいものです。私たちが今献げている献金も、私たちのこの群れのためにだけではなく、多くの他の教会の会堂建築などのために、また地震などで被害を受けた教会の復興のために、そして伝道者の養成のために、また信仰に基づいて愛の業、奉仕の活動を行っている諸団体の活動を支えるためになど、直接この群れのためでなない様々なことのために用いられています。それらの献金が、具体的にどのような人によってどのように用いられているのかを私たちはいちいち細かく知ることはできません。しかし顔も名前も知らなくても、そこには確実に、主イエス・キリストに共に連なっている兄弟姉妹がいます。それらの兄弟姉妹によって行われている主の業に、私たちも献金をささげることによって参加することができるのです。自分に与えられているものをそのように主の業にためにささげることこそ、本当に無駄にならない、有効な用い方です。それこそが、復活の希望に支えられて主の業に常に励んでいく私たちにふさわしい歩みなのです。逆に、自分のものを主にお献げすることを惜しみ、名前も知らない、顔も見たこともない者を兄弟姉妹として覚え支えていくことを拒むならば、私たちはエレミヤ書22章13節以下と同じお叱りを主から受けることになるでしょう。「災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を、正義を行わずに高殿を建て、同胞をただで働かせ、賃金を払わない者は。彼は言う。『自分のために広い宮殿を建て、大きな高殿を造ろう』と。彼は窓を大きく開け、レバノン杉で覆い、朱色に塗り上げる。あなたは、レバノン杉を多く得れば立派な王だと思うのか。あなたの父は、質素な生活をし、正義と恵みの業を行ったではないか。そのころ、彼には幸いがあった。彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き、そのころ、人々は幸いであった。こうすることこそわたしを知ることではないか、と主は言われる」。