新約聖書:コリントの信徒への手紙二第4章7-11節
不安、心配、懸念の中での新年
主の2023年を迎えました。私たちは、新しい年を迎えると、「明けましておめでとうございます」と挨拶します。新しい年を迎えることはそれ自体喜ばしいことであり、それを共にお祝いして、喜びと希望をもってこの年を歩み出したいという願いがそこに現れています。しかし私たちが生きているこの社会は、喜びや希望など少しも見えない、むしろ1月の聖句にあるように「四方から苦しめられて行き詰まり、途方に暮れて失望している」ような状況です。丸三年になろうとしている「コロナ禍」はなお収まらず、感染者数は多い状態が続いています。年末には過去最高を更新し、死者の数も記録を更新しましたが、以前のような「緊急事態宣言」はもう出ないし、行動制限もかかりません。しかし高齢者を中心に重症化する人は増えており、医療体制もかなり逼迫しています。ワクチン接種が進んできており、経済を回すためにインフルエンザと同じ扱いにしようとの動きもありいます。危機感が薄れている分、より深刻な状況なのかもしれません。また新たな変異株への置き換わりが起っているとのことで、今後の感染状況には十分注意する必要があります。こんなことの繰り返しがいつまで続くのでしょうか。いいかげんうんざりだし、慣れによる油断も生じているように思います。
それに加えて、昨年は2月にロシアによるウクライナ侵攻が起こり、昨年は戦争のニュースで持ちきりでした。戦いは新年になってもなお続いているし、春になるとまた激しくなるとの予想もなされています。ウクライナとロシア両国の多くの人が傷つき、命を失い、町を破壊されて厳しい生活を強いられているだけでなく、この戦争の影響は政治的にも経済的にも世界中に及んでいます。私たちは今、東西「冷戦」の時代には起こらなかった「熱い戦争」が起り得る新しい時代に突入しているのです。中国と台湾の間も一触即発となっており、北朝鮮の動向も気掛かりです。この新しい時代にどう対処し、世界の秩序をどう保ったらよいのか、暗中模索の状況です。その中で私たちはまさに「途方に暮れて失望」しています。2023年がどのような年になるのか、明るい希望よりも、不安、心配、懸念の中での新年です。
2023年度に向けて
そのような状況を意識しつつ、1月の聖句をコリントの信徒への手紙二の第4章8節「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」としました。2021年の10月にもこの箇所を月間聖句としました。再びこの聖句を取り上げるのは、ここ数年、1月の聖句を、4月以降の新年度の年間聖句としてきたからです。2023年度の年間聖句をこの箇所にしたらどうだろうか、と考えています。そのことはこれから長老会に諮るので、まだ決定ではありませんが、世界全体が不安、心配、懸念の中にあり、教会においても、まだ当分は礼拝を二回に分けて行わざるを得ないと思われ、そのためにいろいろな集会も十分に再開できず、交わりが損なわれている状況が続いていくであろうと思われる2023年度の私たちの歩みにおいて、この聖句は支えと励ましを与えてくれると思います。
「行き詰まらず、失望しない」と言える私たち
「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」。それはとても勇ましい、力強い言葉です。でもそこには、四方から苦しめられて行き詰まり、途方に暮れて失望している現実があることが前提となっています。私たちの置かれている目に見える現実はとても厳しくて、その中で私たちは行き詰まり、途方に暮れ、失望しているのです。その現実の中で、私たち自身には、勇ましさも力強さもどこにもありません。しかしその私たちが、「行き詰まらず、失望しない」と言うことができる、とこの聖句は告げています。それは私たち自身が持っている何らかの力によることではありません。「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(7節)。それが、「行き詰まらず、失望しない」と言える理由なのです。
土の器
私たちは「土の器」です。そのことは二つの意味を持っています。一つには「土の」器であって、金や銀の器のように光輝く、高価なものではない、無価値で、みすぼらしく、また壊れやすくはかないものだ、ということです。四方から苦しめられて行き詰まり、途方に暮れて失望してしまっていることに、私たちが「土の器」であること、「土の器」でしかないことが現れているのです。
しかしそこにはもう一つの意味があります。それは、私たちは「器」だということです。器は、何かを入れるためのものです。何かがその中に納められることによって、器はその役割を果たし始めるのです。何が納められるかは器自身が決めることではありません。外から、誰かが、私たちという器の中に何かを入れるのです。器である私たちはそれを待つしかありません。入れられるものがゴミだったら、器はゴミ箱でしかありません。しかし高価な宝石や宝が納められたら、器は宝石箱や宝箱となるのです。外から入れられるものによって意味や価値が変わる。私たちが器であるということにはそういう意味があります。器である私たちの歩みは、その中に納められるものによって大きく左右されるのです。
このような宝が納められている
器である私たちの中に「このような宝」が納められている、とパウロは語っています。私たちは、ゴミ箱ではなくて宝の箱なのだ、と言っているのです。それは私たちの頑張りによって実現していることではありません。私たちという土の器に「このような宝」を納めて下さった方がおられるのです。高価な宝は普通「土の器」には入れません。みすぼらしく壊れやすい土の器は、宝を入れるには相応しくないのです。しかしその方は、土の器である私たちに「このような宝」を納めて下さった、だから私たちは「宝の箱」とされている。そのことをパウロは驚きをもって見つめているのです。私たちの中に納められているこの「宝」のゆえに、四方から苦しめられ、途方に暮れて失望するしかない土の器である私たちが、行き詰まらず、失望しない、と言うことができるのです。
並外れて偉大が神の力
その宝とは「並外れて偉大な力」であって、それは「神のもの」です。この宝を私たちの中に納めて下さったのは神なのです。神がご自身の並外れて偉大な力を私たちに注ぎ入れて下さったのです。それによって私たちは、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」と言うことができるのです。しかしその「並外れて偉大な神の力」はどのように発揮されるのでしょうか。この力によって私たちが「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望しない」ということはどのように実現するのでしょうか。力強い神がいつも共にいて守り、支えていてくれるから、何があっても大丈夫、どんな苦しみもへっちゃらだ、ということでしょうか。そういうことを私たちは体験していません。まさに今、2023年を歩み出している私たちは、苦しみの中にあり、行き詰まりを覚え、途方に暮れ、希望が見えない失望の中にいるのです。私たちの感覚においては、並外れて偉大な神の力に守られ、支えられているなどと言える状況ではないのです。
イエスの死とイエスの命
1月の聖句は8節であり、9節の「虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」は8節の続きだと言えます。しかし本日は11節までを読みました。それは、8、9節を読む時には、10、11節をも共に読む必要があるからです。そこに、並外れて偉大な神の力が私たちにどのように働いているのかが示されているのです。10節には「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために」とあります。並外れて偉大な神の力を受けている私たちは、「いつもイエスの死を体にまとっている」のです。それは、主イエスが十字架にかかって、苦しみを受け、死んで下さった、その主イエスの死を私たちも身にまとっているということです。主イエスは十字架の上で、苦しんで死なれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という絶望の叫びをあげて死なれたのです。私たちもその主イエスの苦しみ、絶望そして死をこの身に受けるのです。並外れて偉大な神の力によって実現するのはそういうことです。神の力は私たちを、「どんな苦しみもへっちゃらだ」と言えるようにするのではなくて、私たちを主イエスの十字架の苦しみにあずかる者とし、主イエスの死を身にまとう者とするのです。それによってこそ「イエスの命がこの体に現れる」からです。イエスの命、それは父なる神によって復活して永遠の命を生きておられる、その主イエスの命です。主イエスの復活の命が、私たちの体に現れるのです。私たちも主イエスの復活の命を生き始めるのです。主イエスの十字架の苦しみにあずかり、その絶望と死をこの身に受けることを通して、主イエスの復活の命によって生かされていくのです。11節の「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」もそれと同じことを語っています。主イエスの十字架の死にあずかることによって、主イエスの復活の命が私たちの身に現れていくのです。並外れて偉大な神の力は私たちにそのように働くのです。つまり私たちが、四方から苦しめられて行き詰まり、途方に暮れて失望し、虐げられて見捨てられ、打ち倒されて滅ぼされることは、並外れて偉大な神の力によって、主イエスの死を体にまとうこと、イエスのために死にさらされていることであり、そのことを通して、これも並外れて偉大な神の力によって、イエスの命がこの体に現れるのです。私たちが「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と言うことができるというのはそういうことなのです。
洗礼によって与えられている恵み
私たちは神によってこのような宝を注ぎ与えられています。主イエスの十字架の死にあずかり、それによって主イエスの復活の命にあずかる者とされているのです。その宝が私たちの中に注がれたのは、洗礼においてです。洗礼を受けるとは、主イエスの十字架の死にあずかって、古い、罪に支配された自分が死に、さらに主イエスの復活にあずかって、私たちも、神が与えて下さる新しい命、永遠の命を生き始めることです。私たちは、そのような救いには全く相応しくない、罪に満ちている「土の器」です。しかし神は、並外れて偉大な力によって私たちを教会へと導いて下さり、主イエス・キリストを信じる信仰を与え、洗礼において、イエスの死を体にまとい、それによってイエスの命がこの体に現れる者として下さっているのです。この神の恵みを注がれているから、私たちは、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」に歩むことができるのです。
洗礼への招き
2023年、この世界と私たちの人生に、どんなことが起って来るのか分かりません。喜ばしい平和な年になることを心から願っています。しかしそうはならずに、いろいろなつらいこと、悲しいことが起こることもあるでしょう。自分も含めて、人間の罪深さを思い知らされることがあるでしょう。希望を失って失望し、絶望に陥ってしまうことがあるかもしれません。しかしそうであっても、私たちは、並外れて偉大な神の力の中に置かれているのです。神が、独り子イエス・キリストの十字架と復活による救いという宝を、土の器である私たちの中に注いで下さっているのです。洗礼を受けている私たちはそのことを信じることができます。洗礼を受けているというのは、神に認めてもらえるような清く正しく立派な人になっているということではありません。みすぼらしい土の器に過ぎない自分に、神が、並外れて偉大な力によって、主イエスによる救いの恵みを注ぎ入れて下さっていることを認め、自分が神によって「宝の箱」とされていることを信じて、そのことを感謝して生きていく、それが洗礼を受けることです。まだ洗礼を受けておられずに、礼拝や祈祷会を守っておられる方々を、神はこの洗礼へと招いておられるのです。それによって、独り子イエス・キリストの十字架と復活による救いという宝を、注ぎ入れて下さろうとしておられる、いや、その宝が既に注がれていることに気づかせようとしておられるのです。この宝を注がれて生きるなら、私たちはこの新しい年、苦しみの中で行き詰まり、途方に暮れて失望してしまうことがあっても、主イエスがそこに共にいて下さり、十字架の死による救いを与え、復活の希望に生かして下さることを体験していくことができるのです。