主日礼拝

生き生きとした希望

「生き生きとした希望」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第66編10-12節
・ 新約聖書:ペトロの手紙一 第1章1-9節
・ 讃美歌:17、73

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指路教会の歴史における試練
 本日の礼拝は、この教会の創立148周年の記念礼拝です。1874年、明治7年の9月13日にこの教会は誕生しました。現在のこの場所に教会堂が建ったのは1892年、明治25年です。この教会の生みの親とも言えるヘボンが、この年に引退してアメリカに帰りましたが、置き土産として立派な赤煉瓦造りの教会堂を遺してくれたのです。しかしその教会堂は1923年、大正12年の関東大震災で全壊してしまいました。現在の教会堂はその3年後の1926年、大正15年、暮れに昭和元年となった年に再建されました。震災から3年という速さで再建できたのは、若い頃ヘボン塾で初代牧師ヘンリー・ルーミスから学び、13歳で洗礼を受け、東洋貿易会社の社長となっていた教会員、成毛金次郎が、ヘボン先生の遺してくれた教会堂を再建しようという思いで多額の献金をしたことによってです。つまり、今年96年目である現在のこの教会堂も、ヘボンのおかげで建っていると言うことができます。
 太平洋戦争の末期、1945年、昭和20年5月の横浜大空襲の時には、周りから火が入ってこの教会堂は全焼し、屋根も落ちて空が見える状態となりました。しかし建物そのものは残ったので、戦後何度も修理と改修を重ね、また耐震補強などもして今日までこの建物を維持してきています。またこの教会は戦後、1951年に分裂を体験しています。牧師が辞任し、教会員のおよそ半分が牧師と共に出て行ってしまったのです。その事情については『横浜指路教会百二十五年史』に記されていますからお読みいただきたいと思います。それはこの教会だけに起った問題ではなくて、日本のプロテスタント・キリスト教の、特に長老教会の歴史を受け継ぐ諸教会の歴史において重要な意味のある出来事の一環でした。今大きな出来事だけを述べましたが、この教会の148年の歴史には、様々な困難があり、危機がありました。主なる神様が守り導いて下さって、今日に至らせて下さったのです。教会創立148周年を記念するとは、その神様の守りと導きを覚えて感謝し、み名をほめたたえるということです。

コロナ禍という新たな試練
 しかし今現在もまた、私たちの教会は、新しい、大きな困難、危機の中にあります。新型コロナウイルスによる「コロナ禍」です。この危機も、この群れだけの問題ではなくて、世界中の人々、そして教会が直面しているものです。このウイルスのために私たちは、しばらくは皆が共に集まる主日礼拝を休止せざるを得ませんでした。それは148年の歴史の中で未曾有のことでした。二ヶ月余りで礼拝を再開しましたが、当初は三回、現在もなお二回に分かれての主日礼拝となっています。高齢であったり、病気をかかえている人の中には、礼拝に集うこと自体がリスクを伴うので、それを控えている人がいます。また症状は出ていなくても、人に移してしまうことを避けるために出席を控えなければならない、ということも起っています。このウイルスは私たちが教会に集うことを妨げているのです。また礼拝が何回かに分かれているために、教会員どうし顔を合わせることができない、ということが起っているし、教会総会も対面でできず、いろいろな集会も中止となっています。教会は、主イエス・キリストのもとに集められて共に生きる者の群れですが、その基本である「集まる」ことが妨げられているのです。そのことは教会の営みと私たちの信仰の生活に様々な悪影響を及ぼしています。さらに、この社会全体に、人が集まることへの警戒感が生まれていて、礼拝に新たに来る人も減っています。伝道礼拝などをして、多くの人を集めることが今はとてもしにくいです。教会に与えられている大切な使命である伝道が停滞しています。そしてそれがもう3年目となっており、いつまで続くのか、まだ終わりが見えません。これまでこの教会が体験してきたいろいろな困難、危機とは全く違う、新しい、そしてとてもやっかいな危機に今私たちは直面しており、その中で創立148周年の時を迎えているのです。

試練の中にいる信仰者に宛てられた手紙
 本日この礼拝で読む聖書の箇所、ペトロの手紙一の最初のところは、このような危機を意識しつつ選びました。この箇所の6節の後半に、「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」とあります。まさに今私たちは、厳しい試練に直面しており、しかも「今しばらくの間」それに悩まなければならない時が続くようです。そういう中にある私たちへの、神様からの語りかけを、この箇所から聞き取っていきたいのです。
 このペトロの手紙は、いろいろな試練に悩んでいる信仰者たちに対して書き送られていますが、そのことは冒頭の1節にも示されています。「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」。ここにいくつかの地名が並べられていますが、それらの広い地域に離ればなれになって住んでいる信仰者たちに宛ててこの手紙は書かれているのです。「離散して仮住まいをしている」とありますが、それは、元々は同じ所に住んでいたが、今はあちこちに散らされて仮設住宅で生活している、という意味ではありません。彼らはもともとこれらそれぞれの所に住んでいて、そこでキリストの福音に触れて信仰者となったのです。一緒にいた人たちが散らされたわけではありません。また、仮住まいをしている、というのも、キリストを信じてその救いにあずかり、神の民となった人々は、神のみもと、天にこそ故郷があることを示され、その故郷へと旅をする者とされているので、この世においてはどこにあっても旅人であり、仮住まいをしている者だ、ということです。ですからこの「離散して仮住まいをしている」ということ自体が、何か特別な試練や苦しみにあっていることを意味しているわけではありません。しかし「離散して」という言葉には、共に主イエス・キリストを信じて神の民とされている者たちが、あちこちに分かれて生活していて、お互いに顔を合わせて交わりを持つことができず、直接に励まし合い、支え合うことができずにいるのは残念なことだ、という思いが込められています。そしてそれは、コロナ禍によって互いに顔を合わせての交わりを妨げられている私たちが今体験していることです。私たちは今、同じ教会に連なりながら離散してしまっている、という試練の中にいるのです。そういう私たちへの語りかけとしてこの箇所を読むことができるのです。

あなたがたは心から喜んでいる
 このように信仰者たちがいろいろな試練の中にあることを見つめつつ、この手紙はしかし6節おいて、「あなたがたは、心から喜んでいるのです」と語っています。いろいろな試練に悩んではいるけれども、あなたがたは基本的に喜んでいるのだ、と言っているのです。そしてそれゆえに、7節にはこうあります。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」。あなたがたが受けている試練は、金が火の中で精錬されてその純度が高まっていくように、あなたがたの信仰を精錬していく。試練によって信仰がだめになり、失われてしまうのではなくて、むしろそれが本物であることが証明されていく。そして主イエス・キリストがもう一度来られる終わりの日には、あなたがたに称賛と光栄と誉れをもたらすのだ、と言われているのです。試練は、あなたがたの信仰を、よりしっかりとした本物の信仰へと鍛え上げていくのだ、ということをこの手紙は語っているのです。
 これは、試練を信仰の訓練として受け止めなさい、そして試練に負けずに信仰に励むことによって、自分の信仰をさらに純粋なものへと高めていきなさい、という勧めではありません。そのように努力しなさい、と言っているのではなくて、試練によってあなたがたの信仰は本物であることが明らかになり、そして称賛と光栄と誉れをあなたがたにもたらすのだ、確かにそうなるのだ、と語られているのです。どうしてそのように言うことができるのでしょうか。それは、彼らがしゃかりきになって頑張っているからではありません。心から喜んでいるからです。あなたがたは心から喜んでいる、その喜びのゆえに、試練によって信仰が失われるのではなくて、より高められ、本物となっていくのです。私たちもそのように歩みたいと願います。そのために私たちも、彼らと同じ喜びを与えられたいのです。その喜びは何によって与えられるのでしょうか。

洗礼を受けた信仰者の喜び
 6節は「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです」となっています。つまりその前のところに語られていることが、彼らが心から喜んでいることの理由です。その前のところに何が語られているのでしょうか。3?5節を読みます。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に表されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」。このことのゆえに、彼らは心から喜んでいるのです。
 この喜びは、神が豊かな憐れみによって新たに生まれさせて下さったことによって、つまり洗礼を受けたことによって与えられています。洗礼において私たちは、主イエス・キリストの十字架の死と復活にあずかって、罪に支配された古い自分が死んで、神の子として新たに生まれさせていただくのです。そして洗礼において新たに生まれた者は、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えられています。つまり自分も、主イエスと共に復活して永遠の命を生きる者とされるという希望です。「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」というのはそのことを言っています。復活して天に昇られた主イエスのもとに、私たちに約束されている復活と永遠の命という朽ちず、汚れず、しぼまない財産が蓄えられているのです。そしてその財産が、主イエスが天からもう一度来て下さる終わりの時に表され、私たちに与えられるのです。洗礼を受けた信仰者にはそういう希望が与えられているのです。そしてさらにここには、「あなたがたは、終わりの時に表されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」とも語られています。終わりの時、主イエスの再臨の時に、復活と永遠の命という救いの希望が与えられているだけではなくて、その救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られている、それは今現在のことです。洗礼を受けてキリスト信者となった者は、この世を生きている今現在も、神の力により、信仰によって守られているのです。つまり私たちが、復活と永遠の命を受け継ぐ約束を信じて希望をもって生きることを、神がそのみ力によって支え守って下さっているのです。私たちが生き生きとした希望を持ち続け、その喜びに生きることができるように、神が私たちの信仰を支え守って下さっているのです。それゆえに、あなたがたは心から喜んでいるのだ、と6節に続いていくのです。
 つまり、彼らが心から喜んでいるのは、頑張って努力して信仰深い生活を送っているからでもなければ、特別な素晴らしい信仰的体験をしたことによってでもありません。主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、キリストの十字架の死にあずかって古い自分が死んで、キリストの復活にあずかって新しく生かされている、そしてその信仰の歩みを神の力によって守られている、そのことによってこの喜びが与えられているのです。つまり6節の「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです」という言葉は、そのまま私たちにも語られているのです。主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、教会に連なっている者は誰もが皆、心から喜んで生きることができるのです。

励ましと力づけの言葉
 でも、自分の現実はそうなっていない、心から喜んで生きているとは言えない、自分は信仰が足りないんだ、と思うかもしれません。この手紙を受け取った人々も実はそうだったのです。心から喜んで生きているとは言えず、むしろいろいろな試練の中で悩み苦しんでいたのです。だからこそ使徒ペトロは、あるいはペトロの名によってこの手紙を書いた人は、「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです」と書いたのです。いろいろな試練に悩んでおり、しかもその試練がなおしばらくの間続いていくことが予想されているその人々に、だからこそ、「しかしあなたがたは心から喜んでいるのだ」と語り、この試練を通してあなたがたの信仰は本物と証明されるのだ、と書いたのです。さらに、神は豊かな憐れみによって私たちを新たに生まれさせ、生き生きとした希望を与えて下さっている、私たちは天に蓄えられている朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者とされているのだ、その救いを受けるために神の力により、信仰によって守られているのだ、と語ったのです。洗礼を受けて教会に連なる者とされたことによって、あなたがたにはそういう恵みが与えられている、ということを彼らに示すためです。あなたがたが主イエスを信じて、洗礼を受けて教会に連なっていることは、こんなに大きな恵みなのだ、ということを示して、彼らを励まし力づけるためです。その励ましのみ言葉が今私たちにも語りかけられているのです。

神の選びの恵みを記念する
 その励ましと力づけは、1、2節にもあります。先ほど見たように1節はこの手紙が、各地に離散して仮住まいをしている人たちに宛てられていることを語っていますが、そこに「離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」とあります。あなたがたは神に選ばれているのだ、と語っているのです。そして2節に、その「神に選ばれた」とはどういうことかが語られています。「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊“によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです」。父である神がその御計画によってあなたがたを選び、聖なる者つまりご自分の民として下さっている。あなたがたはイエス・キリストの血を注ぎかけていただくために、つまり主イエスが十字架の上で流して下さった血による罪の赦しにあずかるために、神に選ばれているのだ。この神の選びの恵みによってあなたがたはイエス・キリストに従う信仰者とされているのだ。そのようにこの手紙は、試練の中にいる信仰者たちに語りかけ、励ましと力づけを与えているのです。
 教会の創立を記念するというのは、この神の選びの恵みを覚え記念することです。父なる神が、その御計画に基づいて選び、招いて下さった人々に、キリストの血を注ぎかけて救いを与え、聖なる者として、ご自分の民を築いて下さったのです。そういう神のみ業によってこの教会は誕生したのです。その後の148年の歩みも、神によって選ばれて神の民とされた人々の歩みを神が守り導いてきて下さった歴史です。そこには様々な試練、困難、危機がありましたが、この群れをご自分の民として選び、集めて下さった神が、試練の中でもこの群れを守り導いてきて下さったのです。その神が、今私たちを選び、集めて、ご自分の民として下さっていることを、この創立記念の礼拝において私たちは確認するのです。私たちが自分たちの努力や力や信心深さによってこの教会を守り支えているのではなくて、神の御計画による選びと導きによってこの群れは守られ、支えられている、そのことを覚えることによって、今また新たな試練の中にいる私たちも、励ましと力づけを受け、心から喜んで歩むことができるのです。

聖餐において与えられる喜び
 8節には「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」とあります。この言葉を読むと私たちはやはり、自分はこんなすばらしい喜びに満たされてはいない、自分の信仰はダメなんだ、と思ってしまうかもしれません。しかし、主イエス・キリストのお姿をこの目で見たことがないのは、私たちも、この手紙の宛先の人々も同じです。主イエスを見たことはないけれども、洗礼を受けて主イエスによる救いにあずかり、新しく生かされている、ということも、彼らと私たちと、全く同じです。そのような彼らが、見たことのないキリストを愛し、信じて、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに生きているのは、そのために主が与えて下さっているものがあるからです。そしてそれは私たちにも与えられています。それが、本日これから共にあずかる聖餐です。彼らは聖餐において、この目で見たことのない主イエス・キリストが、確かに共にいて下さり、十字架にかかって、肉を裂き、血を流して救いを実現して下さった、その恵みを体験し、それによって主イエスを愛し、信じることのすばらしい喜びを与えられていたのです。同じように私たちも、聖餐において、私たちのために十字架と復活による救いを実現して下さった主イエス・キリストの恵みを味わい、主イエスが共にいて下さることを体験します。それによって私たちも、主イエスを愛し、信じて、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満たされるのです。主なる神がこの教会を築き、148年の歴史を導いてきて下さったのは、このすばらしい喜びに満たされて生きる群れをこの地に築き、148年にわたって守り導いてきて下さったということです。そして神は今私たちを選んで、招いてい下さり、洗礼によって新しく生まれさせ、聖餐において、主イエスの恵を味わわせて下さっているのです。今また新たな厳しい試練に悩んでいる私たちですが、神の選びによって、主イエス・キリストを愛し、信じる者とされたところに与えられている、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びのゆえに、生き生きとした希望をもって歩むことができるのです。

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