「時がせまっているから」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; イザヤ書 第40章6-8節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第7章25-31節
・ 讃美歌 ; 309、310、569
現状に留まれ
本日は、コリントの信徒への手紙一の第7章25節以下からみ言葉に聞きたいと思います。
その冒頭に「未婚の人たちについて」とあります。この「~について」という言い方は、質問に答えていく時の語り方です。7章の1節に、「そちらから書いてよこしたことについて言えば」とありました。次の8章の1節にも、「偶像に供えられた肉について言えば」とあります。このようにこのあたりは、パウロがコリント教会から寄せられたいくつかの質問に順次答えていく、というところなのです。
7章でとりあげられている質問は、結婚に関することでした。主イエス・キリストを信じる信仰に生きる上で、結婚ということをどう考えたらよいか、信仰者が結婚することはよいことなのだろうか、結婚せずに、独身のままでいる方が、信仰者として相応しいことなのではないか、そうだとすれば既に結婚している者はどうしたらよいのか、そういう問いがパウロのところに寄せられたのです。その問いに対してパウロは今答えているわけですが、これまで読んできたところに既に、パウロのこの問題についての基本的な姿勢が示されていました。それは本日のところの26節の後半に語られていることです。「人は現状にとどまっているのがよいのです」。それは具体的に言えば次の27節の、「妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない」ということです。このことをパウロはこれまで繰り返し語ってきました。本日のところは特に、未婚の人たち、独身である人たちに対する勧めです。これから結婚をするかしないかという決断、選択の前に立たされている人に対して、やはりこの「人は現状にとどまっているのがよい」という前提に立って、結婚せず、独身のままでいた方がよい、と勧められているのです。
このことはある意味では、今日の社会の傾向、トレンドを先取りしたような教えであると言えるかもしれません。今日、若い人々が、結婚することをあまり切実に求めなくなっています。特に女性たちにおいて、社会進出が進み、自立して生きることが可能になったために、結婚という束縛を嫌い、独身で自由に生きることを望む傾向が強くなってきているようです。まあ昔から「結婚は人生の墓場だ」などということがあるあきらめをもって語られていましたが、今はそれが、「だから墓場には入らず、自由に生き続ける」という意志をもって語られるようになったわけです。しかし勿論パウロは、そういう思いでこれを語っているわけではありません。結婚は人生の墓場だから、そういう束縛を受けずに自由に生きる方がよい、と言っているのではありません。そもそもパウロが独身でいる方がよいと言っているのは、結婚に価値を認めないからでもないし、結婚することが信仰者として相応しくないからでもありません。彼はむしろ結婚を、神様から与えられている祝福として大事にしています。「妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとするな」という教えがそれを表しています。このことが、これまで読んできた7章前半に語られていたわけです。結婚を信仰にそぐわない無価値なことと考える人々が、信仰のゆえに離婚しようとしたり、あるいは相手を遠ざけたりしていたのに対してパウロは、結婚を、夫婦の関係を、たとえ相手が信仰者でなくても、大事にするべきことを教えたのです。つまりパウロは、結婚そのものを否定したり、無価値な、しない方がよいものと考えているのではないのです。彼の教えのポイントは、繰り返し申しているように、「現状に留まっているのがよい」ということです。信仰を与えられた時に結婚しているなら、その結婚を大事にして生きるのがよいし、信仰を与えられた時に独身であったなら、独身のままでいるのがよいのです。
結婚の苦労
本日のところは先程申しましたように、未婚の人に対して、現状に留まっているのがよい、つまり独身のままでいるのがよい、という教えです。結婚に価値がないのではなく、ましてや信仰において避けるべき罪ではないのであれば、どうして独身のままでいる方がよいのでしょうか。結婚が罪ではないことは、28節に強調されています。独身が勧められているのは、結婚するべきでないからではないのです。そういう理由ではなくて、28節の後半にこう言われています。「ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです」。結婚する者はその身に苦労を負う、だから、むしろ独身でいた方がよい、とパウロは考えているのです。結婚する者は苦労を負う、これは、ある意味では結婚している者の誰もが感じる実感でしょう。結婚生活というのは決してバラ色のものではない。そもそも、生まれも育ちも違う二人が、生活を共にしていくということ一つをとっても、そう簡単なことではありません。さらに、一つの家庭を築き守っていくことは、独身で、自分一人の生活のことだけ考えていればよかった時とは比べものにならない負担を背負うことです。子供が生まれれば、子育ての苦労が加わります。結婚するというのは、本来そういう苦労を背負うことなのです。しかし、パウロがここで見つめているのは、そのような結婚に伴う苦労のことではありません。もしそうであるなら、このパウロの結婚に対する見方は偏っていると言わなければならないでしょう。何故なら、結婚にはそのような苦労が伴うことは事実ですが、そこには同時に共に生きる喜びや慰めもあるということもまた事実だからです。その喜びの面を見つめないで、苦労の面だけを見て、独身のままの方がよいと言うのでは、これは偏った意見、偏見のそしりを免れないでしょう。パウロも以前結婚したことがあり、奥さんとの間がうまく行かなくて苦労したのだろうか、などと勘ぐりたくなったりするのです。しかしパウロが、「結婚する人たちはその身に苦労を負う」と言っているのは、そういうことではないのです。
時は迫っている
それでは彼が言っている苦労とは何でしょうか。それを考えるヒントになるのは、29節の「定められた時は迫っています」という言葉です。それと同じようなことが語られていたのが、26節の「今危機が迫っている状態にあるので」というところです。パウロは、危機が迫っている、時が迫っている、という意識を持っており、それが、「現状に留まっているのがよい」という彼の勧めの根拠なのです。時が迫っている、危機が迫っているとはどういうことでしょうか。それは、この世の終わり、終末が迫っているということです。パウロは、世の終わりが迫っているという信仰に基づいて語っているのです。
世の終わりとは
この、世の終わり、終末についての聖書の教えを私たちは正しく理解しなければなりません。そうしないと、世の終わりに恐ろしい破局が来て、地球が、人類が滅びるというような断片的なことだけが独り歩きして、例えばヨハネの黙示録に出てくる「ハルマゲドン」などという言葉がいかがわしい宗教に利用されたりすることが起こるのです。世の終わり、終末については、聖書の基本的な歴史認識、あるいはこの世界についての理解から出発して考えなければなりません。それは、この世界は、神様のみ心によって造られて始まったのだから、同じ神様のみ心によって終わるのだ、ということです。それが聖書の基本的な歴史理解なのです。聖書はこの世界の歴史を、天地創造から終末に至る直線として理解しています。始めがあり、終わりがあるのです。この始めと終わり、つまり天地創造と終末はセットであり、切り離すことはできないのです。ですから、天地創造について考える時には終末を、終末について考える時には天地創造を、共に視野に置く必要があります。いずれにおいても見つめられるべき本質は、神様のご意志、あるいはご支配の実現ということです。天地創造は神様のご意志によることです。この世界は神様のみ心に従って造られ、保たれているのです。天地創造を信じるとは、何千年か前に聖書に書かれている通りのことが起ったと信じるということであるよりも、今のこの世界がこのように存在し、自分や他の全ての人々がこのように生きている、それが偶然の産物ではなくて、神様のご意志によることだと信じることなのです。それと同じように終末を信じるとは、何年後にどのような破局がやって来て世界が滅びると考えることではなくて、今は隠されており、信仰の目によってしか見ることのできない事実である神様のご支配が、誰の目にも顕わになり、確立する時がいつか来ると信じることです。その確信を私たちに与えて下さるのが、主イエス・キリストなのです。
最後の審判
神様のご支配とは、言い変えれば神の国です。神の国の実現が終末です。その神の国、神様のご支配を私たちに示して下さったのが主イエス・キリストです。主イエス・キリストが来られて、神の国の福音を宣べ伝え、そして私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、さらに復活して下さったことによって、この世界は既に神の国の実現へと、即ち終末へと、決定的な一歩を踏み出しているのです。終末が既に始まっていると言ってもよいのです。ただそれは、信仰によってしか見ることができない、隠された事実です。主イエス・キリストによって既に隠された仕方で始まっている終末が、顕わになり、完成するのが世の終わりです。その時には、復活して天に昇り、全能の父なる神様の右に座しておられる主イエス・キリストが、まことの主、支配者、裁き手としてもう一度来られるのです。全ての者が、生きている者も既に死んだ者も、この再臨の主の裁きを受ける、それがいわゆる「最後の審判」です。そこで、神に敵対する者が滅ぼされ、主イエスを信じる者は永遠の命を与えられる、その審判を経て、神の国、神のご支配が完成するのです。この終末における審判、裁きは、私たちに恐れを抱かせます。自分はその裁きにおいてどうなってしまうのだろうと不安になります。しかし私たちに示されているのは、そこでの裁き主は、私たちのために、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストだということです。他ならぬこの主イエスが裁き主として来て下さるところに、私たちの救いの希望があるのです。それゆえに、主イエスを信じて洗礼を受け、教会に連なって生きている者は、主イエスの再臨と最後の審判によるこの世の終わりを、びくびくして、なるべく来ない方がよいと願うのではなくて、むしろ希望をもって待ち望むことができるのです。
苦しみの中で
しかし主イエスはまた同時に、この終末が迫ってくる時には、あなたがたに大きな苦しみが襲ってくる、と予告なさいました。神様のご支配が確立しようとする時、逆らう罪の力の抵抗もまた強まるのです。その罪の力は、私たちの外にもあり、私たちを苦しめたり迫害したりします。またその力は私たちの内側にも働いて、信仰を揺さぶり、神様への信頼から引き離そうとします。それらの罪の力によって私たちは苦しめられるのです。その苦しみの中で、主イエスのご支配を信じて忍耐し、希望を持ち続けることによってこそ、私たちは終わりの日の救いの完成にあずかることができるのです。このように、聖書の教える信仰において、世の終わり、終末は、大きな苦しみの時であると同時に、私たちの救いの完成の時なのです。
この世の営みの終わり
定められた時が迫っている、というのは、この終末が近づいているということです。それは、恐ろしい破局が迫っている、ということではなくて、根本的には、私たちの救いの完成、神様の恵みのご支配の完成の時が近づいている、ということです。しかしそのことが同時に、危機が迫っている、とも言われているのは、この救いの完成に伴う苦しみが見つめられているからです。世の終わりの救いの完成に向かっていく私たちの歩みには、しかし苦しみが伴います。それは、罪の力の抵抗によるというだけではありません。その苦しみの根本は、終末とは、この世と、そこにおける私たちの全ての営みの終わりである、ということにあります。終末において救いが完成するというのは、言い換えれば、この世の営みの中では救いは完成しない、ということです。この世とそこにおける私たちの営みが終わらなければ、救いは完成しないのです。私たちの救いは、この世の歩み、私たちの業や働きが次第に進歩向上していって、ついに完成に達する、という仕方で実現するものではありません。それは丁度、ロケットに乗ってどこまでも飛んでいけばそのうち神の国に着けるわけではないのと同じです。神の国は、この世の延長線上にはないのです。この世と神の国の間には、断絶があるのです。神の国の実現のためには、この世は終わらなければならないのです。救いの完成のためには、私たちの営みは終わらなければならないのです。終わるというのは、否定されることです。この世が、私たちの業や働きが神様によって否定されるところに、神様のみ業としての救いが、神の国が実現するのです。なぜならば、私たちの業や働きは、たとえ最も優れた、最も信仰深いものであっても、神様の栄光を完全に表すものではないし、救いを実現するようなものではないからです。ましてこの世を生きる私たちには、神様に逆らい、敵対する力が働いています。この世と、そこにおける私たちの業や働きは、神様のご支配の前では、否定され、終わらなければならないのです。もっとわかりやすく言うならば、自分は精一杯努力して誠実に生きている、ということは、この世においては尊いことだけれども、それで救いを得ることはできないということです。神様の救いは、そのような私たちの持つ自負や拠り所がすべて否定され、奪い去られるところにこそ与えられるのです。それゆえにそれは私たちにとって苦しみを伴う危機なのです。
終末を意識して生きる
主イエス・キリストを信じる信仰者は、この終末における救いの完成を常に意識しつつ、それに備えて生きるのです。つまり、この世とそこにおける自分の営みの終わりを見つめつつ、そこにこそ希望を置いて生きるのです。結婚する人たちはその身に苦労を負う、とパウロが言う時、彼は、このような信仰の生活と、結婚し、家庭を持って生きることとの間に起ってくるあるジレンマを見つめているのです。結婚することによって、人は妻を持ち、夫を持ち、家庭を持つことになります。さらにはそこには子供も与えられていく。そのように、この世における人間の営みが広がり、深まっていくのです。しかし信仰者は、この世の営みにどっぷりと浸って、それに心を奪われ、その終わりを見失ってはならないのです。それらの人間の営みが終わるところにこそ与えられる救いを見つめて歩むのです。ですから信仰者は、夫婦や家族の交わりの喜びを深く知れば知るほど、同時にその終わりを意識せざるを得ないのです。この世の営みに深く関われば関わるほど、常にそこで、その終わりを見つめなければならないのです。そこには戦いがあります。葛藤があります。結婚する人たちがその身に負う苦労とはこの戦い、葛藤です。結婚し、家庭を持つことによって、ともすれば、この終わりを見失ってしまい、この世の生活に心が完全に奪われてしまって、目に見えない主イエスのご支配を信じて、世の終わりの救いの完成を待ち望みつつ主イエスに仕え従っていくということがおろそかになってしまうことがあるのを、パウロは感じているのです。そのことは次の32節以下に語られていくので、次回に譲りたいと思います。本日の箇所において私たちが確認しておくべきことは、この世と、そこにおける私たちの営みは、終わるものだ、ということです。そのことを見失って、この世の営みに心を奪われ、そこに埋没してしまってはならないのです。29節の後半から31節に語られているのはそのことです。「今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」。「妻のある人はない人のように」、それは、妻があっても無視して、関わりを持たずに生きよということではありません。妻との関係、夫婦、家庭の営みはとても大事なものであり、神様からの祝福です。神様が与えて下さった家族、家庭を大切にしていかなければなりません。しかしそれと同時に信仰者は、それらのものが自分を救うのではないことを知っていなければならないのです。それらの全ては終わっていくものであり、その終わりを通して神様の救いが完成されるのだということを常に覚えて歩まなければならないのです。夫婦の関係は終わっていく、それは、この世の終わりを待たなくても、私たちの死において起ることです。どんなに仲の良い、常に共に歩んでいる夫婦であっても、どちらかが先に死ぬということが起こる。人間の営みとしての夫婦、家庭はそのように終わっていくのです。しかしそれは私たちの絶望ではない。人間の営みが終わるところに、神様のみ業としての救いが完成することを信じる私たちは、夫婦の関係、家族の交わりを感謝しつつ、それに埋没してしまうことなく、その終わりを受け入れることができるのです。終わっていくのは夫婦の関係だけではありません。「泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように」と言われています。私たちは、この世における営みの中で、悲しみにうちひしがれて泣くことがあるし、喜びに有頂天になることもあります。しかしどのような悲しみも絶望ではないし、どのような喜びも救いの完成ではありません。それらは皆、終わっていくものです。それらが終わるところに、神様が与えて下さる救いが実現するのです。また、「物を買う人は持たない人のように」とも言われています。買うとか持つという人間の経済的な営み、所有、それらも、この世と共に終わるのです。この世でどんなすばらしものを持っていても、それが私たちの救いにはなりません。それもまた、私たちの死を見つめるときにはっきりとわかることです。私たちがこの世で持っているもので、あの世にまで持っていけるものは何もないのです。私たちは死においてこの世の全てを失うのです。しかしそのように私たちの一切の所有が失われるところに、神様の救いのみ業が実現するのです。そこでは私たちが何かを所有するのではなく、神様が私たちをご自分のものとして所有して下さるのです。
世とのかかわり
これらのことをまとめて、「世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです」と言われています。これだけを読むと、パウロは、信仰者はこの世の事にはできるだけかかわるな、と言っているように思えますが、そういうわけではありません。結婚している人に、夫婦の関係を大事にするように教え、奴隷である者に、主人に忠実に仕えることを勧めているパウロは、この世の事柄はどうでもよいと言っているのではないのです。ただ、それに埋没してしまって、そのことしか目に入らなくなってしまってはいけない、「この世の有様は過ぎ去るからです」ということを、即ちこの世の事柄は終わるものだということをいつも覚えていなければならない、それが「世とかかわりのない人のようにすべきです」ということの意味です。信仰者も、この世を生きる限り、この世の事柄と関わりを持って生きるのです。しかし信仰者は、そこに救いがあるのではないことを知っているのです。この世の事柄が終わるところにこそ、救いの完成があることを見つめる目を持っているのが信仰者なのです。
本日共に読まれた旧約聖書の箇所は、イザヤ書40章6節以下ですが、そこには、人間の虚しさ、うつろいやすさが語られています。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」。野の草や花が、熱風によってしぼみ、枯れていくように、人間とその営みはいとも簡単に終わっていくのです。しかしこの預言者が見つめているのはそのことではありません。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。人間とその営みが終わる所に、しかしとこしえに立つものがある。それは主なる神のみ言葉です。このみ言葉こそが、過ぎ去っていくこの世を生きる、草や花のように弱くうつろいやすい私たちを支え、救ってくれるものなのです。この神の言葉が人となってこの世に来て下さったのが主イエス・キリストです。主イエス・キリストと結び合うことによってこそ私たちは、うつろいやすいこの世を歩みつつ、しかしこの世の事柄に埋没してしまわずに、とこしえに立つみ言葉に支えられて歩むことができるのです。
従って事は、結婚するかしないか、という問題ではありません。結婚していようと独身であろうと、私たちは、この世の事柄、人間の営みに埋没してしまうことなく、常にその終わりを見つめ、そこに与えられる神様の救いを待ち望みつつ生きるのです。パウロは、独身である方がそのような生き方がしやすい、と考えました。しかしそれは、25節に言われているように、主の指示ではなくて彼の意見です。絶対的な教えではありません。独身でいればこの世の事柄に埋没せずに生きることができる、と簡単に言うことはできません。大事なことは私たちそれぞれが、この世の営みには救いがないことを醒めた目で見つめつつ、世の終わりにおける救いの完成を待ち望む確かな希望をもって、自分に与えられているこの世の生活を精一杯生きていくことなのです。
受難週を生きる
本日は棕櫚の主日、今週は受難週です。主イエス・キリストの苦しみと十字架の死を特に深く覚える週です。主イエスの苦しみを覚えるとは、主イエスが、この世を生きる私たち罪人の歩みに、深く関わって下さったことを覚えるということです。神様の独り子であられ、まことの神であられる主イエスが、私たち人間の罪を、天の高みから見下ろしているのではなくて、この地上に降って来られ、私たちの罪を背負って下さり、私たちに代って十字架にかかって死んで下さったのです。そこまでして、主イエスは私たちと深く関わって下さり、救い主となって下さったのです。その主イエスが、世の終わりにもう一度来て下さり、私たちの救いを完成して下さることを待ち望みつつ生きる私たちは、それぞれに与えられているこの世の事柄としっかり関わりつつ、しかしそれらに埋没してしまうことなく、この世の有り様がどのように変わっていっても希望を失うことなく歩み続けることができるのです。