「神の霊が内に宿る」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; エゼキエル書 第37章1-14節
・ 新約聖書; ローマの信徒への手紙 第8章1-11節
・ 讃美歌;341、348、361
教会の誕生日
本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。この日は、教会の誕生日とも言われます。聖霊が弟子たちに降り、この世にキリスト教会が誕生した日だからです。
十字架につけられて死なれた主イエス・キリストは、三日目の日曜日に復活されました。そして四十日に渉って弟子たちにご自身を示され、それから天に昇られました。それをキリストの昇天と言います。「天に昇る」と書いて「昇天」です。この言葉は死ぬという意味で使われることがありますが、キリストの昇天は、「また死んでしまった」ということではありません。肉体をもって復活された主イエスが、生きておられるままで、この地上を去って天に昇られたのです。昇天によって、主イエスはこの地上にはおられなくなりました。主イエスのお姿をこの目で見たり、手で触れたりすることはできなくなったのです。しかしその代わりに天から与えられたのが聖霊でした。主イエスは弟子たちに、聖霊が与えられるのを待っていなさいとお命じになりました。その約束を信じて祈りつつ待っていた弟子たちに聖霊が降ったのが、昇天から十日後、復活から五十日目のこのペンテコステの日だったのです。ペンテコステとは「五十日目」という意味であって、日本語に訳すと「五旬節」となります。「旬」は「上旬、中旬、下旬」の「旬」で、十日間という意味です。主イエスの復活から五十日目のこの日に、弟子たちの群れに聖霊が降り、弟子たちは力を与えられて、主イエスこそキリスト、救い主であると宣べ伝え始めたのです。それが、教会の誕生の出来事でした。
聖霊を受けた人々の群れ
キリスト教会はこのように、ペンテコステに、聖霊が弟子たちに降ったことによって生まれました。教会は、聖霊を受けた人々の群れだったのです。ペンテコステの日に生まれた最初の教会だけがそうだったのではありません。その後の教会の歩みは全て、この聖霊のお働きによることです。聖霊なる神は、教会の誕生の時に働いて下さっただけではなく、その後の教会の歩みの全てにおいて働き続けて下さっているのです。教会は、今に至るまで常に、聖霊を受けた者たちの群れであり続けているのです。
本日は、ローマの信徒への手紙の第8章1~11節よりみ言葉に聞くのですが、パウロがここでローマの教会の人々に語りかけているのもそのことです。9節にこう語られています。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます」。神の霊が、つまり聖霊が、あなたがたの内に宿っている。あなたがたも、あのペンテコステの出来事において生まれた最初の教会と同じように、聖霊を受けた者たちの群れなのだ、と言っているのです。どうしてそんなことが言えるのでしょうか。ローマの教会の人々は、いったいいつ聖霊を受けたのでしょうか。
そのことは、2節から分かってきます。「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」とあります。ここで「法則」と言われているのは、私たちを支配しているもの、というような意味です。つまり、あなたは罪と死の支配から解放されて、霊の支配のもとに置かれた、と言っているのです。その霊というのは、人間の霊、魂のことではなくて、神様の霊、聖霊のことです。ローマの教会の人々は、罪と死の支配から解放されて、聖霊の支配下に置かれたのです。彼らが聖霊を受けたのはその時です。それは具体的にはいつ、どのようにして起ったのでしょうか。この2節は、1節の理由として語られています。1節には、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」とあります。これを受けて、「なぜならば、その者たちは罪と死の支配から解放されて霊の支配下に置かれたからです」、と言っているのです。つまり、罪と死の支配から聖霊の支配の下に置かれたというのは、キリスト・イエスに結ばれて、もはや罪に定められることがなくなったということなのです。ローマの教会の人々は、キリスト・イエスに結ばれる者となった、その時に聖霊を受けたのです。
洗礼によって
「キリスト・イエスに結ばれている者」と訳されている言葉は、直訳すれば、「キリスト・イエスの中にいる者」となります。英語で言えばinに当たる言葉が使われているのです。キリスト・イエスの中に入れられることによって私たちは、キリストによって成し遂げられた救いにあずかります。その救いは3節に「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」と言い表されています。つまり一言で言えば神様が御子イエス・キリストによって、私たちの罪を取り除き滅ぼして下さったということです。だから、もう罪に定められることがないのです。この救いにあずかるために、私たちはキリストに結ばれ、キリストの中に入れられなければなりません。それは、洗礼を受けるということです。洗礼とは、主イエス・キリストの中に入れられること、キリストと結び合わされ、一体とされることなのです。この手紙の第6章3節には、「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち」という言葉があります。ここも直訳すれば、「キリスト・イエスの中へと洗礼を受けた私たち」です。パウロはローマの教会の人々に、あなたがたはキリストの中に入れられる洗礼を受けた、その時、神の霊があなたがたの内に宿って下さり、罪と死の支配から解放され、聖霊のご支配の下に置かれたのだ、と言っているのです。それはローマの教会の人々だけのことではありません。私たちも、洗礼を受けたことによって、聖霊を受け、神の霊が内に宿る者とされているのです。ペンテコステの出来事において弟子たちに降り、教会を誕生させた聖霊は、洗礼において、私たち一人一人にも降り、教会を、聖霊を受けた者たちの群れとして下さっているのです。そして今日、このペンテコステを記念する礼拝において、新たに一人の姉妹が洗礼を受け、聖霊を注がれて、教会に加えられようとしています。聖霊を受けた者たちの群れに、一人の仲間が加えられようとしているのです。
聖霊の実感?
このように言いますと、洗礼を受けようとしている姉妹は、そんな大それたことをするつもりはなかった、とびっくりして尻込みしてしまうかもしれません。それだけでなく、既に洗礼を受けて教会員となっている方々の間にも、とまどいの思いが生じるのではないでしょうか。私は確かに洗礼は受けたけれども、聖霊を受けたとは思えない、教会は聖霊を受けた者たちの群れだ、などと言われると、自分のような者はそこに連なっている資格がないのではないかという気持ちになる、という人は結構多いのではないでしょうか。しかしここははっきりさせておかなければなりません。洗礼を受けるとは、聖霊を注がれ、聖霊が内に宿っている者となることです。私たちはそのことをしっかりと受け止めなければなりません。神様は、ペンテコステの時にだけ聖霊を注いで教会を誕生させ、後はただ人間の営みに任せておられる、というのではないのです。もしそうだったら、教会はとっくの昔に歴史の波に呑み込まれて滅び去っていたでしょう。教会が二千年にわたって存続してきたのは、それが聖霊を受けた者の群れだからです。洗礼を受け、教会に連なる者とされたキリスト者は一人残らず、聖霊を受け、聖霊が内に宿っていて下さる者なのです。しかしそこで私たちは、聖霊が私たちに宿っているとはどういうことなのかを正しく知っておかなければなりません。「自分は聖霊を受けたようには思えない」というのは、「そういう実感がない」ということでしょう。聖霊を受け、聖霊が内に宿っているということを、自分の何らかの感覚によって実感しようとすると、なかなかそういう実感が得られない、だから自分は聖霊を受けてはいないのではないか、ということになるのです。しかし、聖霊を受けることは、私たちがそういう実感を持つこととは別のことです。教会は聖霊を受けた者たちの群れだ、というのは、そういう実感を持っている人の群れだ、ということではありません。そこを間違えないようにしなければなりません。聖霊を受けていることは、そういう実感があるということとは実は関係がないのです。ですからこれは洗礼を受ける方に前もって知っておいていただきたいのですが、洗礼を受けた時に、「あっ、今聖霊が自分の中に入った」という感じがするかどうか、という問題ではありません。そういう感じがしなかったら聖霊を受けることが出来なかった、この洗礼は失敗だった、などというものでは決してないのです。キリスト教の教派の中には、水の洗礼と聖霊の洗礼というのを分けて考え、水が用いられる儀式としての洗礼よりも、「今聖霊を受けた」という実感を伴う聖霊の洗礼をより重んじるところもあります。しかし私たちはそのような考え方をしません。洗礼にそのような区別はないのであって、水による洗礼がなされる所に聖霊もまた働いて下さっていることを信じるのです。それは言い換えれば、聖霊の働きを、私たちの実感において捉えることをしない、ということです。聖霊を受けたという実感があるかどうかが問題ではないのです。それでは私たちは、聖霊が私たちの内に宿って下さることを、どのように捉えたらよいのでしょうか。
人間の実感と神の恵み
パウロがここで語っていることの全体が、その問いへの答えであると言うことができます。1節で彼は、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」と高らかに宣言していますが、これがそもそも、私たちの実感とは違うことです。それは私たちの実感と使徒パウロの実感とが違う、ということではなくて、これを書いているパウロ自身においても、これは自分の実感とは違うことなのです。ここの前の第7章においてパウロは、自分の中には善が住んでおらず、むしろ自分が望んでいない悪が宿っていることを嘆いています。善をなそうという意志はあるのに、罪の力が自分を支配していて、望まない悪を行ってしまうという現実があるのです。それで彼は、「わたしは何と惨めな人間なのでしょう」と嘆いています。それがパウロの実感です。そのパウロが、しかし主イエス・キリストを信じて、キリストによる罪の赦しの恵みにあずかったことを7章の最後で感謝しています。そして8章の冒頭で、洗礼を受けてキリスト・イエスに結ばれた者はもはや罪に定められることはない、と宣言しているのです。この7章から8章にかけての変化は、彼の実感が惨めさから救いの喜びへと変わったということではありません。彼は救いを実感したのではなくて、信じたのです。もっと正確に言えば、自分の実感より確かな、神様の救いのみ業を信じて受け入れたのです。自分で自分のことを冷静に、客観的に見つめるならば、「罪に定められることはない」などと言うことは決してできません。そこで実感されるのは、自分はむしろ罪と死の法則の下にとりこになっており、肉の弱さの中にいるということです。5~9節に肉と霊とが対比されてこのように語られています。「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます」。この「肉と霊」というのは、人間の肉体と精神のことではありません。神様に敵対して生きている人間のあり方が肉であり、霊とは神の霊、聖霊のことです。そしてこの対比は、キリストによる救いにあずかる前とあずかった後の対比と言うよりも、キリストの救いにあずかった自分の中に今なおある、自分自身の実感と神様による救いのみ業の対比なのです。そのことは10節を読むことによってよりはっきりします。「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています」と語られています。「体は罪によって死んでいるにもかかわらず、霊は義によって命となっている」、それが、キリストの救いにあずかったパウロの姿なのです。人間の実感としては、「体は罪によって死んでいる」のです。洗礼を受けたからといって、もう罪が全くなくなって新しい命に生かされている、などとはとても言えないのです。しかし、その罪の実感、肉の弱さの実感とは別に、いやその実感にもかかわらず、自分の中の「霊」が義によって命となっているのです。その「霊」は先程も言ったように人間の魂のことではなくて、神の霊、聖霊です。聖霊が自分の内に宿ってくださり、主イエス・キリストによって打ち立てられた義、罪の赦しの恵みをもたらし、新しい命となって下さっているのです。このことを信じることが私たちの信仰です。ですから信仰に生きる私たちにおいて、「体は罪によって死んでいる」ということと、「霊は義によって命となっている」ということが同時に存在するのです。実感においては死んでいる私たちが、聖霊によって生かされているのです。
キリストの霊
このことから分かるように、聖霊は私たちに、主イエス・キリストによる救いをもたらし、それにあずからせて下さるのです。それが聖霊の働きです。聖霊が自分の内に宿っているということを、何か神秘的な特別な体験をすることとか、何かの霊につかれて本来の自分とは違う者になること、と考える必要はないし、そのように考えるべきでもありません。聖霊は、私たちを主イエス・キリストと結びつけ、主イエスが十字架の死と復活によって成し遂げて下さった救いにあずからせて下さるのです。だから9節では、「神の霊」が「キリストの霊」と言い換えられているのです。9節から10節にかけて語られているのは、神の霊が宿っているというのは言い換えればキリストの霊を持っているということであり、つまりキリストが内にいて下さるということだ、そのことによって、神の霊はあなたがたの命となっているのだ、ということです。要するに神の霊とはキリストの霊であり、その働きによってキリストの救いが私たちに実現しているのです。ペンテコステに弟子たちが受けたのはこのキリストの霊です。天に昇り、地上を去られたキリストに代わって、聖霊が降り、宿って下さったことによって、弟子たちは主イエス・キリストの恵みを受け、主イエスと共に歩むことができるようになったのです。もしも復活した主イエスが天に昇らず、そのままのお姿で地上にずっとおられたなら、その主イエスは、ある場所にいる時には他の場所にはいない、ということになります。時々お目にかかることはできるとしても、いつも共にいて下さるわけにはいかないのです。しかし主イエスが天に昇り、キリストの霊である聖霊を送って下さったことによって、主イエスは、いつでも、どこでも、すべての人々と共にいて下さるのです。マタイによる福音書の一番最後のところ、28章20節には、主イエスが弟子たちに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束された言葉が記されていますが、その約束はこのペンテコステに、聖霊が降ることによって実現したのです。弟子たちは、キリストの霊を受け、共にいて下さる主イエスに力づけられて、伝道を始めたのです。主イエスのこの約束は私たち一人一人にも実現しています。私たちが洗礼を受け、聖霊が内に宿る者とされることによってです。主イエス・キリストは、私たちの内に宿って下さる聖霊の働きによって、世の終わりまで、いつも私たち一人一人と共にいて下さるのです。
キリストを復活させた方の霊
このように聖霊は一方で、私たちをキリストによる救いにあずからせて下さるキリストの霊です。しかし聖霊は他方ではやはり神の霊、聖霊であることに意味があるのです。その意味は11節を読むことによってはっきりします。このように語られています。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。聖霊は、「キリストを死者の中から復活させた方の霊」だと言われています。そういう意味で聖霊は、復活させられたキリストの霊ではなくて、キリストを復活させた父なる神様の霊なのです。聖霊が宿って下さることによって、私たちは、主イエス・キリストが共にいて下さるという恵みにあずかるだけでなく、主イエスを死者の中から復活させて下さった父なる神様の恵みにあずかるのです。それは、私たちの死ぬはずの体をも生かして下さる、という恵みです。死の力を打ち破って主イエスを復活させて下さった神様は、聖霊の働きによって、私たちをも死の支配から解放し、新しく生かして下さるのです。神の霊は死者を復活させ、新しい命を与えます。そのことは本日共に読まれた旧約聖書の箇所、エゼキエル書37章に語られていたことでもあります。神の霊が吹き来ると、枯れた骨が生き返るのです。私たちの内に宿る聖霊もそういう働きをして下さるのです。
終末における救いの完成
私たちはこの恵みに、洗礼を受けることによってあずかります。洗礼において、生まれつきの、罪と死とに支配された古い自分が死んで、主イエスを復活させて下さった神様の霊によって、私たちも新しい命を与えられ、神様の祝福を受けて生きる神の民とされるのです。しかし、洗礼において与えられる新しい命は、まだほんの序の口です。キリストを復活させた方が、私たちの死ぬべき体をも生かして下さる、という言葉が見つめている恵みは、この世の終わりに、死の力が完全に滅ぼされて、死者は復活し、永遠の命を生きる新しい体が与えられる、その救いの完成にまで及ぶのです。父なる神様は、主イエス・キリストを捕えた死の力を滅ぼして、復活の命と体を主イエスにお与えになりました。それと同じ恵みを、私たちにも約束して下さっているのです。私たちは、遅かれ早かれ誰もが皆、死の力に捕えられていきます。それを免れることのできる人は一人もいません。しかし神様は世の終わりにその死の力を滅ぼして、私たちに、主イエスと同じ新しい命と体を与えて下さるのです。主イエスの復活はその約束であり、保証なのです。
このこともまた、私たちが自分の実感として捉えようとすると、分からない、イメージがつかめない、ということになるでしょう。世の終わりに、私たち自身が復活し、永遠の命を生きる新しい体を与えられるということも、実感するべきことではなくて、信じるべきことです。私たちが実感し、考え、予想したり期待することの全てをはるかに超えた仕方で、神様が救いのみ業を成し遂げて下さるのです。その神様の救いのみ業を、自分の実感よりも確かなことと信じて受け入れるのが私たちの信仰です。その信仰によって私たちは、自分の実感をはるかに超えた神様の大いなる恵みにあずかることができるのです。
洗礼と聖餐の印
神の霊が内に宿り、与えて下さる救いは、私たちの実感になってしまわないもの、人間の感覚の中に収まり切れないものです。けれども神様は私たちに、その救いが確かに与えられていることを示す印を与えて下さっています。その一つが洗礼です。父と子と聖霊の名によって洗礼を受けることは、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みにあずかり、神様が約束して下さっている復活の命の希望にあずかる者とされていることの、目に見える印です。もう一つの印は、この後共にあずかる聖餐です。聖餐のパンと杯にあずかることは、主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって肉を裂き、血を流して成し遂げて下さった恵みを味わうための印であり、また同時に、世の終わりに与えられる復活の体において主のもとであずかる喜びの食事の試食でもあります。洗礼を受け、聖餐にあずかりつつ歩む私たちは、ペンテコステに弟子たちに降り、教会を誕生させ、今も導いている聖霊が、今この自分にも与えられ、私たちの内に宿っていて下さり、私たちの実感をはるかに超えた救いのみ業を成し遂げて下さることを、確かに示されつつ歩むことができるのです。神様はこの歩みへと、ここに集う全ての者たちを招いておられます。一人の姉妹が今日その招きに応えて洗礼を受け、聖餐にあずかる者とされます。このことを通して、既に洗礼の恵みにあずかっている一人一人が、神の霊が自分の内に宿っていることを改めて受け止め直したいと思います。また、まだ洗礼を受けておられない方々お一人お一人も、神様の招きのみ声をはっきりと聞くことができますように。