主日礼拝

死ぬことがない命

「死ぬことがない命」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第26章16―19節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第1章17-27節
・ 讃美歌 ; 202、321、579

 
ラザロと主イエスの愛の交わり
ヨハネによる福音書第11章に記された、主イエスがマルタとマリアの兄弟ラザロを甦らせる物語を読んでいます。1~16節には、 ラザロが病気であることが、使いの者によって主イエスに告げられた時のことが記されていました。その時、主イエスは、すぐに駆けつけることなく、 ラザロが死ぬのを待つかのように、時間をおいてから、ラザロのもとに向かうのです。主イエスはラザロの病が重いことを知ってお見捨てになったので はありません。5節には、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」とあります。又、4節には、この姉妹が、使いに、「主よ、あなた の愛しておられる者が病気なのです」と言わせたことが記されています。主イエスに、「兄弟ラザロの病を癒して下さい」とか、「早く来て下さい」 というのではなく、主イエスがラザロを愛していることに信頼して、主イエスに全てを委ねたのです。主イエスと、マルタ、マリア、ラザロの間には 愛の交わりがあるのです。主イエスは、愛をもって、ラザロを救おうとされているのです。しかし、それは、急いで駆けつけて病を癒すことによっ てではありません。4節には、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」とあり ます。主イエスは、ラザロを死から甦らせ、ラザロを捕らえている死の力から救い出すことによって、父の一人子としての栄光を示そうとされてい るのです。そして、この救いの出来事に示された栄光にこそ、神の、ラザロ、マルタ、マリアをはじめ、信じる者に対する救いが示されているのです。

慰めに来たユダヤ人たち
17節には、「さて、イエスが行ってご覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」とあります。当時の習慣では、人が死ぬとすぐに 墓におさめたそうです。ですから、葬られて四日というのは、ラザロが死んで四日経っていたということです。この四日というのは特別な意味があり ます。当時の人々は、死んで三日の間は体を離れた霊魂がまた戻ってくる可能性があると考えていたようです。当時の習慣に従えば、死後、四日たっ て体が腐敗してくると、もう生き返ることはあり得ないと判断されたのです。ですから、この時、ラザロは、肉体的にも霊的にも、完全に死んでいて、 甦る可能性が無い状態にあったのです。 この時、「多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」ことが記されています。当時は、現代よりも、遙かに丁重に弔いをしたようです。
死後3日間は、泣く日として過ごし、その後4日間は、嘆く日として過ごしたのです。ベタニアはエルサレムから近い位置にあります。15スタディオン
というのは3キロ程度の距離です。エルサレムのユダヤ人たちも、ラザロの死を嘆き、又、マルタとマリアを慰めるために、この場に来ていたのです。しかし、
ここでのユダヤ人たちの慰めは、真の慰めと言えるようなものではありません。この箇所を、「悔やみを言おうとして彼らのところに来ていた」と訳す人がいます。
ユダヤ人たちの慰めは、死の力を克服することによる真の慰めを示すものではありません。ただ、ラザロの死を前にして、それを惜しみ、悔やむことだけだった
のです。そのような慰めは、愛する者の死に直面して苦しむ人の悲しみを紛らわすことにはなるかもしれませんが、真の慰めを与えるものにはならないのです。
しかし、これが、私たち人間がすることが出来る慰めの姿です。

マルタとマリアの態度
人々の語る慰めの中、マルタやマリアは、悲しみに暮れていました。そのことは、マリアの態度に表れています。主イエスが来られた時、マルタは、 それを聞いて主イエスを迎えに行きました。しかし、マリアは、家の中に座っていたのです。マルタを迎えに行かせておいて、自分は暢気に休んでい たというのではありません。マリアは、地べたに座り込んで悲しみにくれていたのです。ここには死の前で、どうすることも出来ずに座り込む人間の 姿が示されています。愛するものが取り去られ、人々の語るお悔やみの言葉も耳に入らずに、ただただ、絶望しているのです。私たちが、経験する苦 しみは、日々歩む中で、与えられていたものが取り去られていくことにあると言っても良いと思います。私たちは、日々、取り去られて行くことに抵抗しま す。しかし、死においては、私たちの抵抗はもはや無駄になり、全てが失われてしまうのです。その力の前では、もはや、なすべきこともなく、ただ絶望 の中に座り込むことしか出来なくなるのです。
 一方で、主イエスを出迎えに行ったマルタは、主イエスに次のように語ります。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死なな かったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でもかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。ここでマルタは、主イエス を責め、不満を漏らしているようにも聞こえます。しかし、そうではありません。マルタは、主イエスさえ共にいて下さったらならば、ラザロは死なずに すんだと悔やんでいるのです。その上で、悔やむ思いと共に、主イエスが神に願えば何でもかなえられると信じているというのです。ここには、マルタの 信仰が示されています。主イエスの到着が遅かったためにラザロが死んでしまったことで、主イエスを信じる思いが無くなってしまったというのではあり ません。マルタは素直に主イエスの祈りの力に信頼しているのです。しかし、ここで、「何でもかなえられる」と言ったマルタは、主イエスがラザロを 襲った死の力を克服出来るとまでは思ってはいませんでした。生きている時に一緒にいて、祈って下さっていたならば、ラザロは死なずにすんだだろう。 しかし死んでしまった今はもうどうしようもないと思っているのです。38~39節に語られていることですが、主イエスが、墓に来られて「その石を 取りのけなさい」と言われた時、マルタは、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と答えます。マルタは、ここで主イエスがラザロを 甦らせるということに思いを向けていないのです。主イエスが父に願うことによって、何でもかなえて下さる方であることは信じていると語りつつも、 主イエスが死の力をも克服する方であるとは信じていないのです。マルタにとっても、ラザロの死は、どうすることも出来ず、ただ諦めるしかない 出来事なのです。マルタがこの時、主イエスについて「承知して」いたことは、主イエスが、生きている人の不幸や病を取り除くために、力ある祈り をしてくれる方ということだったのです。主イエスが、父なる神の下から来られた神の子で、死の力を克服される方だとは信じていないのです。その限り、 ここでは、マルタも又、マリアと同じ絶望の中にあるのです。

終わりの日の復活
 このようなマルタに対して、主イエスはっきりと、「あなたの兄弟は復活する」と語ります。しかし、この言葉に対してマルタは、「終わりの日の 復活の時に復活することは存じております」と言うのです。当時、終わりの日の復活を信じていないサドカイ派という人々がいたものの、多くのユダ ヤ人たちは、地上の生の彼方にある、終わりの日の復活を信じていました。死んだ人は、この世が終わる終末が来るまで眠っていて、その終わりの時に 死人の復活と神の審判あると信じられていたのです。マルタも、そのような当時の一般的な信仰の理解を心得ているという意味で、「存じております」と 語ったのです。しかし、そのような信仰上の一般的な理解も、死の力を前にしたマルタを本当に慰めるものではありませんでした。ここには、「そのこと なら言われなくても知っている。でも、それが何になるのか、そんな終わりの日のことを言われても、今、愛するラザロを失った悲しみは埋まらない」と いうマルタの思いが表れているのではないでしょうか。
ここで「存じております」と訳されている言葉は、22節で「承知しています」と訳されている言葉と同じ言葉で、「知る、認識する」という意味 があります。この言葉は主に理論的に知っているという時に使われます。マルタは、主イエスが父に願うことは何でも聞かれるということ、そし て、終わりの日の復活の命ということについて、自分の頭で整理し自分なりに、こういうことだと理解しているのです。しかし、そこでは、主イエス が語る復活の命は分からないのです。聖書が語る、「永遠の命」、「死んでも生きる命」というのは、人間が、理論的に把握しようとして分かることではないのです。

「死んでも生きる」
 「終わりの日の復活の時に復活することは存じていると」語る、マルタに対して、主イエスは、真っ向から対立する言葉を語ります。「わたしは復活 であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるも者はだれも、決して死ぬことはない」。ここで、主イエスは、 マルタが、「存じております」と語っている復活について、「わたしこそ、その復活である」と言われているのです。 主イエスが復活であり命であるとはどういうことでしょうか。それは、主イエスに結ばれて生きることにこそ死を越える真の命があるということです。 このことは、主イエスによって示された、救いの御業の全体から捉える必要があります。主イエスは、人間の罪のために、十字架で死に、その死から復 活することによって、罪と死の力に勝利されました。罪というのは、一言で言うならば、私たち人間が、神様を離れ、神様と隣人を愛することにおいて 破れがあることです。そして、死というのは、根本的に、人間が罪によって神様に背いているが故にもたらされるものなのです。主イエスの十字架の死 と復活は、神の子がご自身の命を捨てることによって、罪に対する裁きを私たちに変わって負って下さり、その罪による死を克服された出来事なのです。 それによって、神様との関係が回復され、罪による死をこえた命が与えられるのです。そして、もし、罪による死が克服されているのであれば、神様と の関係が結ばれているが故に肉体の死は絶望ではなくなるのです。
主イエスが、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われているのは、十字架と復活による救いを受け入れて、主イエスを信じて歩む者は、地上に おいて肉体の死を経験しつつも、主イエスによって神様と結び合わされている故に、罪の裁きとしての死から解放されているということなのです。そして、 「生きていてわたしを信じる者はだれも死ぬことはない」というのは、この世で死ぬことがないというのではなく、主イエスによって与えられる永遠の命 に生かされているのであれば、私たちを支配する死の力は根本的には克服されているということなのです。十字架と復活によって、永遠の命を約束して下 さった、主イエスを受け入れる者は、復活の命が与えられているが故に、罪の結果としての死、滅びを経験しないのです。そしてこの命を与えられて生 きることにこそ、真の慰めがあるのです。

このことを信じるか
主イエスは、さらに、マルタに対して、「このことを信じるか」と問いかけます。復活の命が分からずに、死の力の前でどうすることも出来ずに、諦め、 絶望の中にある者に対する問いかけです。マルタは、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と 答えます。ここで、マルタは、主イエスが神の子であり、自らの救い主だと受け入れているのです。マルタは、復活の命のことを論理的に認識したので はありません。主イエスが「わたしは復活であり、命である」と語ってご自身を示して下さり、その御言葉に触れることで、ただ信仰において、主イエ スを神の子と受け入れたのです。

死ぬことがない命に生きる慰め
この後、ラザロは主イエスによって、甦らされます。しかし、聖書が語る、復活によって永遠の命に生きるというのは、墓に埋葬した人が生き返って もう一度生きるということではありません。罪赦された者として、罪の裁きとしての死の力から自由にされて歩むことです。この時甦ったラザロは、 今も地上のどこかで生きているというのではありません。ラザロは地上をずっと生き続けたというのではなく、やはり、ラザロは、この地上の歩みを 終えて死んだのです。主イエスは、この時、ラザロを甦らせることによって、主イエスの救いが死者に及ぶということを示されたのです。それは、死 の力の前で、主が全能であることを信じることが出来ないでいる、マルタやマリアをはじめ、ラザロの死の前で、真の命の希望に根ざしていない慰め しか語ることが出来ないユダヤ人たちに神の栄光を現すためだったのです。そして、この出来事は、主イエス・キリストご自身の復活によって示される 神の独り子としての栄光を先取りして現すものだったのです。私たちは、この世で死を経験します。ラザロの身に起こったように、そこから生き返る こともありません。しかし、ラザロを甦らせることによって示して下さった神の栄光、そして、主イエスを十字架の死から復活させることを通して示さ れた神の栄光が示されています。この栄光を示されて、神の子として、死から復活された主イエスを信じて歩む時に、死は支配するものではなくなるのです。 ヨハネによる福音書は、その最後の部分20:31において、この福音書が書かれた目的を記します。「本書が書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の 子メシアであると信じるためであり、また信じてイエスの名により命を受けるためである」。私たちが、主イエスの問いかけに対してマルタのように、主 イエスを神の子と告白しつつ、この世で、死ぬことがない命を生き始めることこそ、ヨハネによる福音書が書かれた目的なのです。
そして、その命に与って生きるところに、死を越えた真の慰めがあるのです。ハイデルベルク信仰問答の第一問は、「生きるにも死ぬにも、あなた のただ一つの慰めは何ですか」と問いかけます。それに対する答えは、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わ たしの真実な救い主/イエス・キリストのものであることです。」とあります。生きるにも、死ぬにも、イエス・キリストのものとされ、その命に 与って生きることこそ、真の慰めなのです。

主イエスの語る復活の命を知らされる時に、星野富弘さんの次のような歌を思い出します。

いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった

私たちは、この世での肉体の命が一番大切だと思って歩む時、その命が取り去られていくことに絶望します。その力に抵抗し続ける日々の歩みが 苦しみにしか思えないこともあるのです。しかし、主イエス・キリストの救いに与ることによって与えられる復活の命を知らされ、その命に生きる時、 様々な苦しみを経験し、肉において与えられているものが取り去られていくとしても、日々の歩みは喜びとなります。真の慰めによって支えられているからです。

おわりに
 私たちは、依然として、死の力に翻弄され続けます。愛する者の死、そして自らの死に直面し、マリアのように座り込み、又、マルタの ようにその死の力に勝利する復活の命が分からなくなります。しかし、そのような者たちに、主は、礼拝の中で繰り返し御言葉を語って下さ っているのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるも者はだれも、決して死 ぬことはない。このことを信じるか」。この問いかけに対して、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信 じております」と答え続けて行くなかで、主イエスによって与えられる死ぬことのない命を生きていくのです。

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