主日礼拝

聖霊の賜物

「聖霊の賜物」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第42章1-4節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙一 第12章1-11節
・ 讃美歌:336、343

命の霊、真理の霊、子とする霊
 毎週の礼拝で告白している使徒信条に基づいてみ言葉に聞いておりまして、今はその第三の部分の冒頭の「我は聖霊を信ず」というところです。父なる神と、その独り子主イエス・キリストと並んで、私たちは聖霊なる神を信じているのです。その聖霊とはどのようなお方なのかについて、これまで三回、いろいろな聖書箇所から聞いてきました。これまでに示されてきたのは、聖霊は私たちに命を与え、新しく生かして下さる「命の霊」であること、また私たちに神による救いの真理を悟らせて下さる「真理の霊」であること、そして先週の礼拝においては、聖霊は私たちを神の子として下さる、「子とする霊」であることが示されました。これらのことは全て繋がっています。つまり聖霊は、神がその独り子主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神に背いている罪のゆえに滅びるはずの私たちを赦し、救って下さるという救いの真理を私たちに示し、悟らせ、信じさせて下さるのです。そのようにして聖霊は私たちを神の子として新しく生かして下さいます。永遠の命を生き始めさせて下さるのです。要するに私たちは聖霊のお働きによってこそ、主イエス・キリストによる救いにあずかって、神の子とされて新しく生きることができるのです。ですから「我は聖霊を信ず」ということなしには、私たちは主イエス・キリストによる救いにあずかって生きることはできません。聖霊は、私たちが神による救いを信じて生きていく日々の歩みにおいて常に共にいて下さり、導いて下さっている、最も身近な存在なのです。本日は、その聖霊が私たちの日々の歩みにおいて、どのように働いて、何をもたらして下さっているのか、ということを聖書から聞きたいと思います。これまでは、聖霊とはどのようなお方か、ということに目を向けてきましたが、本日は、その聖霊が私たちの内で具体的に何をして下さっているのかを見つめよう、ということです。

聖霊は信仰をもたらして下さる
 先ほど、コリントの信徒への手紙一の第12章1節以下が朗読されました。その冒頭の1節に「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい」とありました。「霊的な賜物」と訳されていますが、「賜物」という言葉は原文にはありません。原文通りに訳せば「霊的なものについては」となります。それは要するに、聖霊が私たちにもたらしてくれる事柄については、ということです。聖霊が私たちの内に働いてもたらしてくれるものについて、「このことはぜひ知っておいてほしい」とパウロは言っているのです。2節には「あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとにつれて行かれたことを覚えているでしょう」とあります。ここでパウロは先ず、この手紙の宛先であるコリント教会の人々に、まだ聖霊のお働きを受ける前のこと、信仰を与えられる前のことを思い起こさせています。コリントはギリシアの町であり、人々はギリシア、ローマの文明の中を生きていました。ギリシア、ローマは、多くの神々が祀られる多神教の世界です。日本の社会もそれと似ていますから私たちにはその感じがよく分かります。多くの神々にそれぞれ役割分担があって、与えるご利益が違うのです。こういう時にはこの神さまにお願いする、ということで、沢山の神々が祀られているのです。そしてそれらの神々の像が至る所にありました。そういう多神教の世界に、ただ一人の神を信じ、しかも神の像を拝まないキリスト教が入って来たために、いろいろ軋轢、衝突が起りました。それは日本の社会において今も起っていることです。コリント教会の人々は、多くの神々を拝んでいた生活から、主イエス・キリストを救い主と信じ、主イエスの父である唯一の神を信じる信仰へと、生き方の大きな転換を体験したのです。その転換をもたらしたのが聖霊なる神なのだ、聖霊があなたがたの内で働いて下さったことによって、あなたがたは主イエスを信じる者とされたのだ、とパウロは語っているのです。それが3節です。「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」。「イエスは主である」というのが、最も簡潔な信仰告白です。イエス・キリストこそが主である、つまり神の独り子であり救い主である、と信じて、その信仰を言い表したことによって、異教徒であり多くの神々の下にいた人々が、キリストを信じる者、教会に連なる者となったのです。その信仰告白をあなたがたに与えたのは聖霊なのだ、聖霊が働いて下さっていなければ、あなたがたが「イエスは主である」という信仰を言い表すことは起こらなかったのだ、とパウロは言っているのです。

信仰者は聖霊の働きを受けている
 ここには「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わない」ともあります。「イエスは神から見捨てられよ」というのは私たちにはピンと来ない言葉ですが、これは要するに「イエスは呪われよ」ということであり、自分はイエスなど信じていない、つまり自分はキリスト信者ではない、ということです。多くの神々を信じている人たちの社会の中で、キリスト信者が変わり者としてつまはじきにされ、迫害を受け始めている中で、このように語ることによって、キリスト信者ではないかという疑いを晴らそうとする、ということがあったのでしょう。あるいは、ユダヤ人たちの間では、イエスを救い主メシアと信じる者たちへの迫害がもう始まっていましたから、その中でこのような言い方がなされたのかもしれません。いずれにせよ、聖霊の働きを受けている人は、自分がイエスを主と信じていることを否定するようなことは言わない、むしろ「イエスは主である」とはっきり告白するのだ、と言っているのです。つまり聖霊は私たちに、主イエス・キリストを信じる信仰を与え、「イエスは主である」と告白する者として下さる、そのようにして私たちをキリスト信者として生かして下さるのです。逆に言えば、「イエスは主である」と告白して洗礼を受け、教会に連なって生きている者は、聖霊のお働きを既に受け、聖霊によって導かれているのです。

ものの言えない偶像
 ところでここに、「ものの言えない偶像」とあります。聖霊によって「イエスは主である」という信仰を与えられる前には、私たちは、「ものの言えない偶像のもとに連れて行かれた」のです。ここに、多くの神々を拝む信仰と、主イエス・キリストの父である神を信じる信仰との違いの根本が示されています。それは、神は複数いるのか、お一人なのかということではないし、目に見える像を拝むかどうかでもありません。多くの神々が拝まれているところでは、その神々はたいてい目に見える像として拝まれています。多神教の世界は偶像に満ちた世界です。しかし目に見える像が祀られていようといまいと、そこで拝まれている神々に共通しているのは「ものの言えない」ということです。人間はそれらの神々に、様々なご利益を求めて語りかけ、願い求めます。しかしその神々から私たちに語りかけて来ることはないのです。その神々からの語りかけによって私たちの思いが変えられる、つまり悔い改めることは起こらないのです。自分の願いの実現を求めて神々に語りかける時、私たちは、その願いが叶えられる、という以外の応答を期待してはいません。つまりその神が自分に語りかけ、それによって自分の思いが変えられるとか、願い求めていたこととは違うことが示される、などとは思っていないし期待してもいないのです。つまりその神々との間には対話は成り立っていません。一方的に人間が願い求めているだけです。「ものの言えない偶像」とはそういうことです。

神との交わりをもたらす聖霊
 しかし、主イエス・キリストの父である神は「ものの言えない」方ではありません。私たちに語りかけて来られる方です。私たちと、本当の意味で関係を持ち、双方向の交わりを持とうとしておられる方です。そもそも神がこの世界を造り、人間に命を与えて下さったのは、私たちをそのような交わりの相手として下さるためでした。そのことも含め、神の語りかけは聖書を通してなされています。そして聖書における神の語りかけの中心は、主イエス・キリストです。神はその独り子主イエスをこの世に遣わして下さったことによって、私たちに決定的に語りかけておられるのです。その主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことも、神がその主イエスを復活させて下さったことも、神の私たちへの愛による語りかけです。私たちは毎週の礼拝で、聖書の説き明かしである説教を聞くことによって、神からの語りかけを受けているのです。それによって私たちは、神がその独り子を与えて下さったほどに私たちを愛して下さっていることを知らされています。神は大きな愛をもって語りかけ、私たちとの間に愛の関係を築こうとしておられるのです。この神の語りかけによって私たちは変えられます。悔い改めを与えられます。自分の思いや願いばかりを追い求め、自分が主人となって生きていた私たちが、神の方に向きを変えて、神との交わりに生きる者となるのです。「イエスは主である」と告白するとはそういうことです。主イエス・キリストによる救いの恵みによる神の語りかけに応えて、私たちも「イエスは主である」と信じ告白して、神との交わりに生きていくのです。神との間のそのよう双方向の交わりに生きることが聖書の信仰です。「もの言わぬ偶像」との間にはそういう関係は生まれません。だから私たちが自分の願いを一方的に語りかけているだけだとしたら、その相手は、たとえ目に見える像ではなくても「もの言わぬ偶像」です。そこには私たちを本当に新しく生かす交わりは生まれません。生きて語りかけて下さり、独り子主イエスの十字架と復活による救いを与えて下さっている神との、双方向の交わりに生きることによってこそ、私たちは本当に新しく生きることができるのです。そしてその神との交わりを私たちにもたらし、新しく生かして下さるのが聖霊なのです。
 このように聖霊は私たちに、主イエス・キリストを信じる信仰を与え、神の独り子主イエス・キリストによる救いにあずからせて下さいます。神に愛され、私たちも神を愛して生きるという神との交わりをもたらして下さるのです。これが、聖霊が私たちの内で働いてもたらして下さる事柄の第一のものであり中心です。しかしこの第一のものに続いて、聖霊は様々なものを私たちにもたらして下さいます。中心が与えられる時に、それに伴って周辺のものも与えられるのです。そのことが4節以下に語られています。

神の賜物を与えて下さる聖霊
 4節には「賜物はいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です」とあります。この4節以下には、聖霊が私たちに与えて下さるいろいろな賜物のことが語られているのです。ここには「賜物」という言葉があるわけですが、それは原文では「カリスマ」です。聖霊によっていろいろなカリスマが与えられている、と言われているのです。カリスマという言葉は日本語にもなっていて、特別に優れた能力のある人をカリスマ何とか、と言ったりします。なのでこの言葉には「優れた能力」というイメージがあります。しかしこの言葉は「カリス」から来ており、その意味は「恵み」です。「カリスマ」とは、「恵みによって与えられたもの」という意味なのです。恵みによって特別に優れた能力が与えられている、という場合には優れた能力を意味することにもなりますが、この言葉が本来見つめているのは、優れているということではなくて、神の恵みによって与えられたということなのです。「恵みによって」与えられたということは、元々持っていたのではないし、自分の力や努力によって獲得したのでもない、ということです。つまりカリスマは、元々備わっている能力ではないし、努力や精進によって獲得するスキルでもありません。元々能力などないし、努力をしたわけでもないのに、神が恵みによって与えて下さったもの、それがカリスマなのです。ですからそれを「賜物」と訳すのは相応しいことです。神から賜わったのであって、自分が持っていたのでも、努力して得たのでもない、まさに神の恵み(カリス)の現れ、それがカリスマです。その賜物を私たちに与えて下さっているのが聖霊なのです。

いろいろな賜物、働き、務め
 その「賜物」が5節では「務め」、6節では「働き」と言い換えられています。聖霊が私たちにいろいろな賜物を与えて下さる、それはいろいろな務めを与えて下さるということであり、いろいろな働きを与えて下さるということなのです。その「賜物」「務め」「働き」とは具体的にはどのようなものかが8節以下に並べられています。それは「知恵の言葉」「知識の言葉」「信仰」「病気をいやす力」「奇跡を行う力」「種々の異言を語る力」「異言を解釈する力」です。これらが、聖霊によって与えられる賜物なのです。ここに並べられている賜物はどれも、主イエス・キリストを信じて、教会に連なって生きることの中で発揮され、用いられる賜物であり務めであり働きです。「知恵の言葉」「知識の言葉」とあるのは、信仰における知恵や知識です。それが語られることによって、主イエスを信じる信仰に生きている仲間たちが正しい信仰の知識を得ることができ、またその信仰をもってこの世を生きていくための適切な知恵を授けられるのです。教会の兄弟姉妹の信仰生活を力づけ、支えていくような言葉、それが「知恵の言葉、知識の言葉」です。次に「信仰」とあるのはちょっと不思議です。聖霊の賜物は全て、信仰をもって生きていく中で与えられるのですから、信仰は全ての賜物の前提であると言えます。その信仰そのものが聖霊の賜物なのだ、ということは、先ほど、「イエスは主である」という告白が聖霊によって与えられると語られていたことからも言えることです。あるいはこの「信仰」は、何らかの「務め、働き」のために必要な特別な信仰のことかもしれません。具体的なことはよく分かりませんが、とにかく信仰をもって生きるための聖霊の賜物が見つめられているのです。「病気をいやす力」も聖霊の賜物とされています。今ならそれは医学的知識や技術ということになりますが、ここで見つめられているのは、教会の兄弟姉妹の間で、病気の人のための祈りがなされ、神が癒しを与えて下さることです。次の「奇跡を行う力」もそうですが、人間の力や常識を超えた神の恵みのみ業がなされることが見つめられているのです。私たちがそれを自分の能力やスキルのようにコントロールすることはできません。そこで働いて下さるのは聖霊です。人間の力では不可能な恵みが聖霊のお働きによってもたらされるのです。「種々の異言を語る力」、「異言を解釈する力」とあります。異言は先ほどの知恵の言葉、知識の言葉とは違って、他の人には意味の分からない言葉です。聖霊に満たされてそういう異言を語るということがありました。しかしパウロは、その異言は必ず解釈され、人々に分かる言葉に翻訳されなければならないと語っています。そうでないと、異言は語った本人にしか意味のない、つまり一人よがりな言葉になってしまうのです。異言が意味あるものとなるためには、解釈され、周りの人々にも恵みが与えられるようにならなければなりません。だから、異言を語る力という賜物と共に、異言を解釈する力という賜物が見つめられているのです。

聖霊によって教会が築かれる
 今の異言のことが象徴的ですが、これらの賜物はどれも、共に信仰をもって生きている兄弟姉妹のために用いられるものであって、自分一人がその賜物を楽しむとか、それによって快適な生活を送るためのものではありません。聖霊の賜物は、教会に共に連なって生きている信仰者が、お互いのために用いていくべきものなのです。そのことが7節にこう語られています。「一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」。一人一人に聖霊の賜物、務め、働きが与えられるのは、全体の益となるため、教会に連なる者たち皆が恵みにあずかり、神の恵みと導きを受けて共に歩んでいくためです。一人一人に賜物が与えられ、それが発揮されていくことによって、教会全体に恵みが注がれ、主イエス・キリストに共に連なる群れである教会が築かれ、成長していくのです。このように聖霊は、私たち一人ひとりに賜物を与えて下さることによって、キリストの体である教会を築いていって下さるのです。
 11節には、「これらすべてのことは、同じ唯一の霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです」とあります。このことは、聖霊が私たちの内に宿り、働いて下さる時に私たちは、みんな同じに画一化されてしまうことはない、ということを意味しています。同じ聖霊が、私たち一人一人に、み心のままに違う賜物を分け与えて下さっているのです。それぞれに与えられている賜物はみんな違うのです。自分の賜物だけが聖霊の賜物なのではありません。他の人には、同じ聖霊によって違う賜物が与えられているのです。だから私たちは、自分に与えられている賜物を大事にすると同時に、他の人に与えられている賜物も大事にしなければなりません。お互いが、お互いに与えられている賜物を生かして、それが十分に発揮されるようにしていくことが求められているのです。そうすることによって、自分の賜物も他の人の賜物も、「全体の益となる」ために生かされていくのです。
 聖霊のお働きの中心は、主イエスを信じる信仰を与え、神との交わりに生かして下さることです。それと共に聖霊は、私たち一人ひとりに、それぞれ違った仕方で、様々な賜物を与えて下さっています。聖霊を信じる私たちは、お互いに与えられている賜物を喜び合い、生かし合いつつ、それを全体の益となるために、教会を築いていくために用いていくことができるのです。聖霊のお働きによって、お互いの違い、個性が生かされ、大切にされると共に、全体がしっかり結び合わされている、キリストの体である教会が築かれていくのです。

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