「命を与える霊」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:創世記 第2章7節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第8章9-11節
・ 讃美歌:333、347
我は聖霊を信ず
棕櫚の主日とイースターを経て、本日より再び「使徒信条」に基づく説教に戻りたいと思います。礼拝において毎週告白している使徒信条は、千数百年前に成立したもので、キリスト教会の信仰の根本を語っています。教会はその歴史の中で様々な教派に枝分かれしてきましたが、その枝分かれが起る前の古代の教会のいくつかの信条を、どの教派も受け継いでいます。その代表が使徒信条です。およそキリスト教であれば、このことを信じている、という基本的な内容がそこに語られているのです。ですから使徒信条に告白されていることを信じていないとしたら、それはもはやキリスト教だとは言えません。そういう集団がたとえキリスト教を名乗っていたとしてもそれは「異端」つまり間違ったキリスト教だ、と言わなければならないのです。
その使徒信条は三つの部分から成っていることを繰り返し確認してきました。第一の部分には父なる神への信仰が、第二の部分には子なる神イエス・キリストへの信仰が、そして第三の部分には聖霊なる神への信仰が語られています。本日からは、その第三の部分、聖霊を信じる信仰が語られているところに入ります。「我は聖霊を信ず」からが第三の部分です。その後に語られていること全てが聖霊を信じることの中に位置づけられているのです。そのことについては改めて考えたいと思いますが、先ずは、「我は聖霊を信ず」です。5月の主日礼拝はこの一言に集中してみ言葉に聞いていきたいと思っています。
聖霊を信じるとは何を信じているのか
使徒信条の原文には、「我は信ず」という言葉が二回出てきます。まず冒頭にそれがあり、その信じることの内容として、父なる神のことが、次に子なる神イエス・キリストのことが語られているのです。そして第三の部分の冒頭にもう一度、「我は信ず」とあり、聖霊を信じることが語られていきます。つまりこの第三の部分、聖霊を信じるところに入るのに際して改めて「我は信ず」と告白されているのです。そのことに元々特別な意味が込められていたのかどうかは分かりませんが、私たちの信仰においてこのことには大事な意味があると思います。つまり、父なる神とその独り子イエス・キリストとを信じることと並んで、聖霊をも神として信じることが教会の信仰なのだ、ということが、ここにはっきりと示されているのです。私たちは聖霊なる神をも信じて生きるのです。聖霊を信じることなしには、私たちの信仰は不十分であり不完全なのです。
しかし多くの方々がこうおっしゃいます。天地を創造された父なる神と、人間としてこの世を生きた独り子イエス・キリストについてはあるイメージを持つことができるけれども、聖霊は漠然としていてイメージしにくい、聖霊を信じるってどういうことなのかよく分からない。「我は聖霊を信ず」と毎週告白しているけれども、そこでいったい何を信じているのか、それは私たちにとって大きな問いです。この5月にそのことをご一緒に考えていこう、というわけです。と言っても、私たちが無い頭を絞っていくら考えても聖霊のことが分かるわけではありません。信仰は私たちの頭や心から始まるのではなくて、聖書に聞くことから始まります。ですからこの5月には、聖霊について語られている聖書のいろいろな箇所を読みつつ、み言葉から、聖霊について教えられていきたいのです。
神が与えて下さった命の息である霊
本日の説教の題を「命を与える霊」としました。聖霊は私たちに命を与えて下さる方である、と聖書は語っているのです。本日はそのことを確かめていきたいのですが、そこで先ず最初に読みたいのは、先ほど朗読された旧約聖書の箇所、創世記第2章7節です。天地創造のみ業において、神が人間を造り、命を与えて下さったことがこのように語られています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。人間は土の塵の塊に過ぎないけれども、主なる神が命の息を吹き入れて下さったことによって命を与えられ、生きている、そういう人間理解がここに語られています。息をしていることは生きているしるしであり、死んだら息をしなくなります。「まだ息がある」とは「まだ生きている」という意味なのです。その息は神が吹き入れて下さったものだ、つまり命は神が与えて下さったものであり、その息、命が取り去られれば、人間は死んで元の土の塵に戻っていくのだ、と語られているのです。その「息」という言葉には「霊」という意味もあります。神が霊を吹き入れて下さったことによって人は生きる者となった、とも読めるのです。私たちは、神が吹き入れて下さった息である霊によって生きているのです。このように、聖書において「息」と「霊」とは結びついています。聖書における霊は、そこらをふわふわと漂っている何かではなくて、「息、息吹」と表現される存在なのです。そのことは、聖書における霊が、私たちが生きること、命と結びついていることを意味しています。神が与えて下さった霊によって私たちは生きているのだし、生きているとは、神からの息吹である霊が私たちの内に働いていることなのです。私たちは神が与えて下さった命の息である霊によって生かされている、とうことがこの創世記2章7節に語られているのです。
「息」「霊」を意味する二つの言葉
ただし、この霊をただちに神の霊、聖霊と考えてしまうわけにはいきません。2章7節の「霊」とも訳すことができる「息」という言葉はヘブライ語で「ネシャマー」ですが、通常「神の霊」を表す言葉は別にあって、それは「ルーアハ」です。創世記の1章2節にそれが出てきます。神が最初に天地を創造されたとき、「神の霊が水の面を動いていた」とある、この「霊」が「ルーアハ」です。神の霊(ルーアハ)はこのように天地創造の始めから登場しており、創造の働きを担っていたわけですが、先ほどの2章7節の、人間に与えられた命の息である霊はネシャマーですから、神の霊であるルーアハが土の塵である人間に吹き入れられて、それによって命が与えられた、と簡単には言えないのです。
ところがややこしいことに、ルーアハという言葉にも「息」という意味があります。つまりこの言葉においても、霊と息は結びついているのです。そしてこのルーアハが人間に与えられているということも語られています。いわゆる「ノアの洪水」のことが語られていく創世記6章の3節には「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから」という主の言葉があります。この霊はルーアハです。ルーアハが人の中にとどまっていることによって人は生きているのです。そして6章17節には、「見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべての肉なるものを天の下から滅ぼす」とあります。この「命の霊」もルーアハであり、それは「命の息」と言い換えることができます。こうしてみると、2章7節で土の塵である人に吹き入れられた「命の息」である霊ネシャマーと、神の霊ルーアハは同じものであると言うこともできそうです。そして現に、この二つが同じ意味で使われている箇所があります。ヨブ記第27章3節です。「神の息吹がまだわたしの鼻にあり、わたしの息がまだ残っているかぎり」。神の息吹の「息吹」がルーアハです。そしてわたしの「息」がネシャマーです。どちらも、「私が生きている限り」という意味で使われているわけです。このように、二つの言葉が使われているのでややこしいことを語ってきましたが、要するに、神の霊が命の息として私たちに与えられており、それによって土の塵に過ぎない私たちに命を与えられ、生かされていると聖書は語っていると考えてよいのです。神の霊、すなわち聖霊は漠然としていて捉えどころがない、と感じますけれども、実は私たちが生きているということ自体が、神の霊、聖霊のお働きによることなのです。
将来の希望 枯れた骨の復活
そしてこのことは、今生きているのは聖霊なる神さまのおかげだ、というだけのことを意味しているのではありません。神の霊こそが私たちに命を与え、私たちを生かして下さる、そのことは私たちに、将来への希望を与えるのです。その希望を最もはっきりと描いているのがエゼキエル書の第37章です。預言者エゼキエルが見た幻がそこに語られています。エゼキエルは、神の霊によって、枯れた骨が満ちている谷へと導かれました。それは殺された人々の骨です。虐殺された人々の干からびた骨が満ちている谷の真ん中にエゼキエルは立ったのです。11節にこうあります。「主はわたしに言われた。『人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と』」。枯れた骨に満ちているこの谷は、イスラエルの民の絶望の現実を表しています。それは具体的には、バビロニアによって国を滅ぼされ、敵国の首都であるバビロンに捕囚として連れて行かれたという苦しみ、絶望です。その現実の中で、「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」という絶望の中にイスラエルの人々はいるのです。こういうことは旧約聖書の時代、紀元前の話で、現代にはあり得ない、などと思ったら大間違いです。今まさに、これと同じようなことがこの世界で起っていることを私たちは見つめさせられています。そういう絶望の中にいるイスラエルの人々にこう語れと主はエゼキエルにお命じになりました。9、10節を読みます。「主はわたしに言われた。『霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。』わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」。殺された人々の骨の上に霊が吹きつけると、彼らは生き返り、滅ぼされたイスラエルの人々が再び神の民として興された、そういう幻をエゼキエルは見たのです。この霊はルーアハですが、以前の口語訳聖書では「息」と訳されていました。枯れた骨に息が吹き来たることによって生き返ったのです。14節に「また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」とあります。これは先ほどの創世記2章7節を意識しての言葉だと言えるでしょう。土の塵の塊に過ぎない人間に、神が命の息である霊を吹き入れて下さることによって、人は生きた者となった。天地創造におけるそのみ業が、神による救いにおいてもなされるのです。「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と言わざるを得ないような苦しみ、悲しみ、絶望の現実の中に、神が霊を、命の息を、吹き来らせて下さる時、私たちは新しく生きる者とされる、苦しみ悲しみ絶望から解放されて、神が与えて下さる新しい命を生き始めることができる、旧約聖書はそういう希望を語っているのです。創世記2章7節の「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」というみ言葉は、私たちは神によって命を与えられて生きているのだ、という事実を語っているだけではなくて、神がこのようにして私たちに命の息を、ご自身の霊を吹き入れて下さることによってこそ、私たちは救われ、神の民として新しく生きることができるのだ、という希望を語っているのです。
神の霊によってこそ、キリストによる救いが実現する
神の霊、すなわち聖霊はこのように私たちを救って下さり、命を与えて下さる、そういう預言を旧約聖書は語っていました。その預言の実現、成就を語っているのが新約聖書です。命の息である聖霊が私たちにも吹き入れられ、それによって私たちが、「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」という苦しみ、絶望から解放されて、神の民として新しく生かされる、そういう救いが、神の独り子主イエス・キリストによって実現したのです。その救いが、神の霊、聖霊のお働きによってこそ実現することが、先ほど読まれた新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第8章9節以下に語られています。もう一度その9?11節を朗読します。
「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、〝霊〟は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。
ここには、主イエス・キリストによる救いと、そこに与えられている希望が凝縮されて語られています。この9?11節がしっかり分かれば、キリストによる救いの全体が分かる、と言ってもよいくらいです。そのキリストによる救いは、「神の霊があなたがたの内に宿る」ことによって実現する、と語られていることが先ず何よりも大事です。神の霊、聖霊が私たちの内に宿って下さり、み業を行なって下さることによってこそ、キリストによる救いが私たちの現実となるのです。新約聖書は神の独り子イエス・キリストによる救いを告げていますが、その救いは神の霊、聖霊の働きによってこそ実現するのです。だから「我は聖霊を信ず」ということなしには、キリストによる救いにあずかることはできないのです。
神の霊はキリストの霊
そして「神の霊」はここで「キリストの霊」と言い換えられています。私たちの内に宿って下さる神の霊、聖霊はキリストの霊でもあるのです。そのキリストの霊を待たない者はキリストに属していません、と語られています。キリストの霊でもある神の霊、聖霊が宿って下さることによってこそ私たちはキリストに属する者となるのです。10節には「キリストがあなたがたの内におられるならば」ともあります。キリストに属するとは、キリストが私たちの内におられるということです。私たちがキリストに属する者となり、キリストが私たちの内にいて下さる、そのようにキリストと一つとされ、キリストと共に生きる者とされることが、神の霊、聖霊の働きによって実現するのです。つまり聖霊は私たちの内に宿って下さることによって、私たちを主イエス・キリストと結び合わせ、キリストによる救いにあずからせて下さるのです。聖霊は漠然としていてイメージしにくい、と感じる時にはこのことをこそ見つめるべきです。つまり私たちが主イエス・キリストを神の子、救い主と信じて、その救いが自分にも与えられていると信じるなら、そこには既に聖霊が力強く働いて下さっているのです。キリストを信じる信仰を言い表して洗礼を受け、教会に連なって生きている者の内には、既に神の霊、聖霊が宿り、み業を行なって下さっているのです。
聖霊によって新しく生かされる
その聖霊のお働きによって、キリストによる救いが与えられ、私たちは新しく生かされています。10節に「体は罪によって死んでいても、〝霊〟は義によって命となっています」とあることがそれを語っています。肉体をもって生きている私たちは罪に支配されており、神に逆らい、神との良い関係を失っています。「体は罪によって死んでいても」とはそういうことであり、そこから様々な苦しみ悲しみが生じるのです。しかし主イエス・キリストの十字架の死によって、神は私たちの罪を赦して下さり、義として下さいました。つまり私たちとの良い関係を回復して下さって、神の子として生きる新しい命を与えて下さったのです。聖霊が私たちの内に宿って下さり、キリストと結び合わせて下さることによって、この新しい命が与えられています。「〝霊〟は義によって命となっています」はそのことを語っています。この世を生きている限り私たちは、罪に支配された体を生きており、そのために苦しみ悲しみを味わいますが、しかしその現実の中でも、聖霊が内に宿って下さるなら、主イエス・キリストによって罪を赦され義とされた者として新しい命を生きることができるのです。
聖霊によって、復活と永遠の命の希望が与えられる
それだけではありません。私たちの内に宿って下さっている神の霊は、11節においては、「イエスを死者の中から復活させた方の霊」と言われています。十字架にかかって死んだ主イエスを、父なる神が死者の中から復活させて下さったのです。その神の霊である聖霊が私たちの内に宿って下さっている。そこに、将来への大きな希望があります。「キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」という希望です。主イエス・キリストを復活させて下さった神が、私たちの死ぬはずの体、罪と死に支配されており、いつか必ず死んで葬られていくこの体をも、将来復活させ、キリストと同じように、もはや死ぬことのない永遠の命を与えて下さるのです。主イエス・キリストによる救いは、罪の赦しだけでなく、この復活と永遠の命をも私たちにもたらすのです。私たちは、この世の人生の終わりである肉体の死を越えた先に、この復活と永遠の命の希望を見つめて生きることができるのです。その希望は、私たちの内に宿って下さっている神の霊、聖霊が与えて下さるものです。聖霊を信じることによってこそ、私たちは主イエス・キリストによる救いにあずかり、主イエスと共に、神に愛されている子として今のこの人生を生きることができます。そして同じく聖霊を信じることによってこそ、その神の愛が肉体の死を越えて与えられており、復活と永遠の命が約束されている、という希望に生きることができるのです。「我は聖霊を信ず」。その聖霊は、「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」という絶望の現実の中にいる私たちに命を与える神の息吹なのです。