主日礼拝

待っている信仰

「待っている信仰」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第123編1-4節
・ 新約聖書:使徒言行録 第1章3-11節
・ 讃美歌:8、346

聖霊を待つ信仰
 本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。弟子たちに聖霊が降ったことによって、彼らは主イエス・キリストによる救いを力強く語り始めました。それを聞いた人々が洗礼を受け、教会が誕生したのです。私たちは本日そのことを記念してこの礼拝を守っています。このペンテコステの出来事は、使徒言行録第2章に語られていますが、本日ご一緒に読むのは、その前の所、第1章3?11節です。ここには、復活なさった主イエスが弟子たちに、聖霊が降ることを予告なさり、それに備えているようにとお命じになったことが語られています。主イエスの命令によってペンテコステの出来事への準備がなされているのです。ここにも、聖霊が降ることの意味と、それによって何が実現するのかが語られていますから、ペンテコステの礼拝において読むのに相応しい箇所だと言えます。しかし本日この箇所を読もうと思ったのは、ここには、聖霊が降ることに備えて待つことが教えられているからです。私たちは、ペンテコステの出来事を、昔こういうことがあった、という過去の出来事としてただ記念しているのではありません。聖霊はその後も降り続け、働き続けて下さっています。教会の歴史はその聖霊のお働きによって導かれているのです。私たちの教会も、聖霊のお働きによって生まれ、歩んでいるのです。私たちがペンテコステを祝うのは、そのことが自分たちに新たに起ることを願い、そのことに備え、待つためです。ペンテコステの日になれば自動的に聖霊が降るわけではありません。聖霊は神が遣わし、与えて下さるのです。私たちはそのことを信じて、聖霊が降るのを待つのです。聖霊を待つ、という信仰のあり方を、本日の箇所から教えられたいのです。
 聖霊が降ることに備えるように主イエスが命じておられるのは4、5節です。こう語られています。「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである』」。「父の約束されたもの」それが聖霊です。その聖霊が間もなく彼ら弟子たちに降り、彼らは聖霊による洗礼を授けられる、つまり聖霊に満たされて新しく生かされるのです。そのことを皆で待っていなさい、と主イエスはおっしゃいました。弟子たちはこの主イエスのお言葉の通りに、共に集まって祈りつつ待っていました。2章の冒頭の1節には「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」とありますが、五旬祭つまりペンテコステの日に弟子たちは、一つになって集まって、主イエスの命令の通りに聖霊を待っていたのです。そこに聖霊が降りました。聖霊を待っていたこの弟子たちの姿に私たちも倣いたいのです。

弟子たちが期待したこと
 それにはどうしたらよいのでしょうか。聖霊を待つとはどういうことなのでしょうか。本日の箇所の6節以下から、それについていろいろなことを知ることができます。そこには先ず、弟子たちが主イエスに質問をしたことが語られています。彼らは「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と問うたのです。復活なさった主イエスが、聖霊が降ると約束して下さった、聖霊が降ることによって、いよいよ主イエスがイスラエルの国を立て直して下さるのではないか、と弟子たちは期待したのです。イスラエルの国が立て直されるというのは、今は異邦人であるローマに支配されてしまっているこの国が、そこから解放されて、主なる神こそが支配しておられる国になる、つまりイスラエルが神の国となり、神による救いが完成する、ということです。約束されている聖霊が降ることによっていよいよ神による救いが完成するのではないか、と彼らは思い、それを期待して待つことが聖霊を待つことなのですか、と尋ねたのです。この弟子たちの思いを今の私たちにあてはめるなら、聖霊が降ることによって、今私たちを苦しめている新型コロナウイルスのパンデミックが終息し、感染の恐れや不安から解放された平穏な生活を取り戻すことができる、そういう神の救いのみ業を期待するということだと言えるでしょう。終息の兆しが見えないコロナ禍の中で今私たちは、神さま、私たちを、この世界を、このウイルスから救い守って下さい、と切実に祈り願っています。聖霊が降り、神の力が発揮されることによって、コロナウイルスからの解放という救いが実現することを期待する思いが私たちにもあります。弟子たちがこの時抱いたのと同じような期待を私たちも抱いているのです。しかし主イエスは弟子たちのこの問いに対して、神による救いはいつか必ず完成するが、それがいつであるかは父なる神がお決めになることで、あなたがたはそれを知ることはできない、とお答えになりました。そして、聖霊が降ることによって実現するのは、そういう救いの完成とは別のことだ、とお語りになったのです。

主イエスの証人となる
 その「別のこと」とは何かを語っているのが8節です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。つまり聖霊が降ることによって実現するのは、神に敵対する力による苦しみや悲しみが取り除かれて、平和で安心な理想的な世界になることではないのです。神はそういう救いをいつか実現して下さるけれども、聖霊が降ることによって先ず実現するのはそのことではなくて、聖霊を受けた者が、地の果てに至るまで、つまり全世界へと、主イエスの証人として遣わされ、主イエスによる救いを証しし、宣べ伝えていくということなのです。私たちが主イエスの証人となる、このことに備えることが、聖霊を待つことなのです。つまり聖霊を待つとは、自分が願い求めている救いを神が聖霊によって実現して下さる、と期待して待つことではなくて、神がなさろうとしている救いのみ業のために自分が用いられるようになることに備えることです。具体的には、私たち一人ひとりが、主イエスによる救いを証しする者として遣わされて、伝道をしていく、そういう聖霊のお働きを信じて待つことなのです。

主のみ業に仕える者となる
 それは苦しみ悲しみを取り除かれて平穏な日々が与えられることではありません。聖霊を受けて主イエスによる救いを地の果てにまで証ししていく者は、神の救いのみ業に仕えるために労苦を負う者となるのです。ペンテコステに起ったのはそういうことでした。聖霊が降ったことによって弟子たちは伝道の労苦を負う者となり、彼らによって主イエス・キリストが宣べ伝えられ、それによって洗礼を受ける人々が生まれ、そこに教会が誕生したのです。主イエス・キリストの教会はそのようにして生まれ、今日まで存続して来たのです。教会の誕生も存続も、人間の力や努力によって実現することではありません。しかし聖霊が人々に降ったことによって、人間の力では到底不可能と思われることに敢えて挑戦していく力が、そのために労苦を負っていこうという志が与えられたのです。聖霊によって主イエスの証人とされた人々が次から次へとおこされてきたことによって、教会の歴史は刻まれてきました。その聖霊は、今この礼拝に集っている私たち一人ひとりにも降ります。聖霊によって私たちも、主イエスの証人として、それぞれの家族のもとへと、社会における同僚のもとへと、地域の人々のもとへと遣わされていくのです。この社会において、主イエスによる救いを証ししていくことにはいろいろな困難があります。語っても受け入れてもらえない、変な人だと思われてしまう、ということが起ります。そういう困難は私たちの力で乗り越えることができるものではありません。聖霊がそれを乗り越えてみ業を行って下さるのです。そういうことが起るのを信じて待つことが、聖霊を待つということなのです。

主イエスの昇天
 本日の箇所の9節以下には、聖霊が降ることをお告げになった主イエスが、弟子たちの見ている前で天に上げられたこと、いわゆる主イエスの昇天が語られています。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」とあります。聖霊が降ることによって弟子たちが主イエスの証人となり、地の果てにまで遣わされていく、とお語りになった直後に、主イエスは弟子たちが見ている前で天に上げられたのです。この主イエスの昇天において大事なことは、9節の最後のところの「彼らの目から見えなくなった」ということです。昇天の結果主イエスのお姿は見えなくなったのです。主イエスは肉体をもって復活し、弟子たちに、目に見える姿で現れ、語りかけ、ご自分が確かに復活したことを示して下さいました。しかし天に昇られたことによって、弟子たちは、主イエスのお姿を見ることができなくなったのです。私たちは、この主イエスの昇天の後の時を生きています。だから今私たちも、主イエスのお姿をこの目で見ることができず、手で触れることもできないのです。主イエスは天に昇り、全能の父なる神の右に坐しておられるので、地上を生きている私たちは主イエスをこの目で見ることはできないのです。
 ここに私たちの信仰の困難さがあります。昇天後の時を生きている私たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることなしに、つまり目に見える証拠なしに、神の子、救い主と信じて生きるのです。そこには当然、疑いや迷いが生じます。主イエスが神の独り子であり救い主であるというのは本当だろうか、主イエスは本当に今も生きて共にいて下さるのだろうか、目に見えない主イエスを信じて歩む中でそういう疑いや迷いを抱かない人はいないでしょう。特に苦しみ悲しみがあり、恐れや不安に捕えられる時に私たちは、主イエスによる救いの恵みを見失いがちになるのです。新型コロナウイルスによる恐れと不安に支配されている今はまさにそのような時だと言えるでしょう。このウイルスによって、世界中の多くの人々が苦しみ、命を失っています。そういう目に見える苦しみの現実の中で、目に見えない主イエスを信じて生きていくのはまことに困難なことです。

聖霊によって、目に見えない主イエスを信じる
 このように目に見えない主イエスを信じて生きていく弟子たちのもとに、天に昇った主イエスから、聖霊が遣わされたのです。それは地上を生きていく弟子たちが、天に昇りこの目で見ることができなくなった主イエスを信じて、主イエスと共に生きることができるようにして下さるためです。聖霊は、天に昇られた主イエスと、地上を生きている弟子たちとの間にある、天と地という大きな隔たりを越えて、主イエスと弟子たちを結び合わせ、彼らが、目には見えない主イエスと共に生きることができるようにして下さるのです。この聖霊が私たちにも降るのです。いや私たちはその聖霊を既に受けているのです。私たちが、この目で見ることができなくても主イエスを信じているのは、聖霊が私たちに降り、働いて下さっているからです。主イエスの昇天の後の時を生きている私たちは、聖霊のお働きによってこそ、主イエスを信じることができるのです。そしてその聖霊はこれから私たちに働いて下さり、私たちを主イエスの証人として立て、遣わして下さいます。目に見えない主イエスを証しし、その主イエスによる救いを宣べ伝えていくのは、これまたとても困難なことです。目に見える証拠によって主イエスこそ救い主だと証明して見せることはできないのです。しかし、聖霊が降ったことによって弟子たちは、天に昇り、目に見えなくなった主イエスを証しする言葉を与えられ、語り出しました。彼らの証言によって、目に見えない主イエスを信じて洗礼を受ける者たちがおこされ、教会が生まれたのです。それがペンテコステの出来事でした。同じことが私たちにおいても起こります。私たちも、聖霊のお働きによって、自分自身が先ず目に見えない主イエスを信じる信仰を与えられ、そしてその主イエスの証人として遣わさていくのです。その私たちの伝道によって、新たな人々が信仰を与えられ、主の教会に加えられていくのです。教会の歴史はそのようにして続いてきました。私たちも、聖霊によって主イエスの証人として遣わされた人々を通して導かれ、信仰を与えられ、教会に連なる者となりました。今度は私たちが、聖霊によって力を与えられて、主イエスの証人として遣わされていくのです。

主イエスの再臨による救いの完成を待ち望む
 主イエスのお姿が見えなくなってもなお天を見上げていた弟子たちの傍に、「白い服を着た二人の人」が立っていました。それは天使でしょう。天使は弟子たちにこう告げたのです。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」。ここで天使が告げたのは、昇天によってお姿を見ることができなくなった主イエスが、目に見えるお姿で「またおいでになる」時が必ず来る、ということです。天に昇り、今は父なる神の右に坐しておられる主イエスは、いつか「またおいでになる」のです。その時には、主イエスが神の子であられることが誰の目にもはっきりと示され、神のご支配が確立し、神に敵対する全ての力は滅ぼされるのです。その時、主イエスと結び合わされている者たちは、復活して永遠の命を与えられるのです。天使は、そういう救いの完成の時が必ず来るのだから、それを信じて待ち望みつつ、主イエスの昇天の後の時を、希望をもって歩むようにと弟子たちを励ましたのです。
 主イエスが天に昇り、そのお姿を見ることができなくなった、まさにその時に、主イエスがもう一度来られることによる救いの完成がこのように告げられました。主イエスのお姿を見ることなしにこの世を歩み始める信仰者たちに、希望が示されたのです。主イエスを信じる信仰者たちは、世の終わりに主イエスがもう一度来て下さり、救いを完成して下さることを待ち望みつつ、目に見えない主イエスを信じて生きていくのです。私たちをそのような信仰によって新しく生かして下さるのが聖霊です。聖霊は私たちを、目に見えない主イエスを信じて生きる者とすると共に、主イエスがもう一度来られる時に実現する救いの完成を待ち望む希望に生きる者として下さるのです。

聖霊を信じて待つ
 ペンテコステに弟子たちに降り、彼らを新しく生かした聖霊は、今私たちにも降り、新たに生かして下さいます。ペンテコステの出来事を覚え、記念する私たちは、この聖霊が自分にも降り、目に見えない主イエスを信じ、主イエスがもう一度来て下さることによる救いの完成を待ち望む者とされることを待ち望むのです。つまり私たちは、待ち望む者としていただくために聖霊を待ち望むのです。聖霊を待つ私たちは、待ち望む者として生きることができるようになることを待ち望むという、二重の意味で「待ち望む」信仰に生きるのです。この「待ち望む」ことこそ、今私たちが最も必要としていることです。「コロナ禍」が長引き、さらに深まる中で、私たちは今その終息を待ち望んでいます。ワクチンが多くの人に行き渡って、以前のような生活に戻れることを待ち望んでいます。教会においても、以前のようにみんなが共に集って礼拝をささげ、聖餐にあずかり、大きな声で讃美歌を歌うことができる日を、そしていろいろな集会において親しい交わりの時を持てるようになることを待ち望んでいます。そのことをもう一年以上待っていますが、まだその実現の見通しは立ちません。トンネルの出口はまだ見えない、その中で今私たちは主の救いをひたすら待ち望んでいるのです。先が見えない中で待ち望むのはしんどいことです。ともすれば希望を失い、絶望しそうになります。しかし本日のみ言葉から示されるのは、今は見えていない救いを信じて待ち望むことこそ、私たちの信仰の根本なのだ、ということです。そして、その待ち望む信仰を、聖霊が私たちに与えて下さるのだ、ということです。聖霊によって私たちは、目に見えない主イエスを救い主と信じて、その主イエスがもう一度来て下さることによって救いが完成することを待ち望みつつ生きる者となるのです。待ち望みつつ生きることができるとは、希望を与えられているということです。聖霊のお働きによって私たちは、希望を与えられ、忍耐して待ち望むことができるようになるのです。ペンテコステを記念し祝う私たちは、その聖霊が私たち一人ひとりに、そしてこの群れに降り、新しく生かして下さることを信じて待つのです。聖霊よ来て下さい、と祈りつつ、今のこの苦しみと試練の時を歩むのです。主がその祈りに応えて聖霊を私たちに、この群れに注いで下さるなら、私たちは力を受け、主イエスの証人として立てられ、遣わされていきます。主イエス・キリストの十字架と復活による救いによって慰めと平安と喜びを与えられ、神の恵みによる救いを宣べ伝え、主を待ち望む者に与えられている希望を証ししていくことができるようになるのです。聖霊を信じて待つことを、主イエスは今私たちに求めておられます。信じて待つところに、ペンテコステの出来事が新たに起り、私たちは聖霊によって力を与えられ、新しく生かされていくのです。

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