「生きている者の神」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:出エジプト記 第3章1-12節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第12章18-27節
・ 讃美歌:
召天者記念礼拝
横浜指路教会では、毎年9月第三主日に、既に天に召された方々のことを覚えて召天者記念礼拝を行っています。お手もとに召天者のリストをお配りしました。1989年度以降、この教会の教会員として天に召された方々、またこの教会で葬儀が行われた方々のリストです。亡くなった方々のことを覚える礼拝を、この9月第三主日に行うことには特に理由はありません。このような礼拝を行うのに一番相応しいのは、主イエスの復活の記念日であるイースターです。現にイースターの礼拝には、前の年のイースター以降に天に召された方々のご遺族をお招きしており、午後には教会墓地で墓前礼拝を行っています。今年はイースターの礼拝自体を皆で集まって行うことができなかったわけですが、例年はそうしてきました。それと並んで秋にもこの召天者記念礼拝を、数年前から行うことにしたのです。今は秋のお彼岸のシーズンです。多くの人々がお墓参りに行く、そういう時期に教会で召天者記念礼拝が行われることにも意味があると思います。
復活と永遠の命を待ち望んで生きるために
お彼岸に先祖のお墓参りに行って人々は何をしているのでしょうか。それは先祖の供養であり、亡くなった方の冥福を、つまり死後の世界での幸福を祈ることでしょう。では私たちは、この召天者記念礼拝において何をしているのでしょうか。亡くなった方々が天国で幸せに暮しているようにと祈っているのでしょうか。そうではありません。私たちは、主イエス・キリストを信じて天に召された方々が、この世の歩みにおける全ての苦しみや悲しみや痛みから解放されて、主イエスのもとで平安を与えられていると信じています。それは主が恵みによって確かに与えて下さっている平安なのであって、私たちが供養をしたり冥福を祈らなければ無くなってしまうような不確かなものではありません。しかし、主イエスのもとで与えられているその平安が救いの完成なのではありません。私たちの救いの完成は、これは先週の創立146周年記念礼拝においてもお話ししましたが、この世の終わりに主イエス・キリストが戻って来て下さり、私たちを父なる神のもとに迎え、そこで主イエスと共に復活の命、永遠の命にあずからせて下さることにおいて完成するのです。私たちはその救いの完成を待ち望みつつ生きているのであって、そのことは天に召された方々も同じです。その方々は、主イエスのもとで与えられている平安の中で、世の終わりの救いの完成を、復活と永遠の命を待ち望んでいるのです。復活と永遠の命を待ち望んでいる、ということにおいて、私たちと召天者の方々は同じです。今この世を生きている私たちには様々な苦しみ悲しみがありますが、この礼拝において、同じ信仰をもってこの世を歩み、今や平安の内に復活の時を待っている召天者の方々のことを覚え、それによって、復活と永遠の命を待ち望む信仰への励ましを与えられるのです。つまり召天者記念礼拝は、既に天に召された方々のためと言うよりも、今ここに集っている私たちが、この方々の後に続いて、復活と永遠の命を待ち望む信仰に生きていくためになされているのです。
このように私たちは復活と永遠の命を待ち望んでいます。復活とは「からだのよみがえり」です。救いの完成において神が約束して下さっているのは、魂が永遠に生きるようになることではなくて、永遠の命を生きる新しいからだ、復活のからだを与えられることです。地上の肉体が既に滅んだ召天者の方々も、その新しいからだ、復活のからだを待ち望んでいるのです。聖書が語る救いは、死んだ後天国で魂が幸せを得ることではありません。死の力が滅ぼされ、神のご支配が完成する世の終わりに、復活のからだを与えられて、父なる神のもとで、主イエス・キリストと共に永遠の命を生きる者とされる、その「からだのよみがえり」を私たちは信じ、待ち望んでいるのです。
復活を否定するサドカイ派
しかし私たちはこの「からだのよみがえり」をにわかには信じられません。死んだら魂が天国に行ってそこで幸せになる、という教えならそれなりに受け止めることができますが、肉体が復活して永遠の命を生きる者となるというのは、余りにも荒唐無稽なことのように感じられるのです。科学が発達した現代だからそうなのではありません。主イエスがこの地上を歩んでおられた二千年前も同じでした。復活などないと考えていた人々がその時代にもいたのです。そのことが本日の聖書の箇所、マルコによる福音書第12章18節以下に語られています。18節の冒頭に「復活はないと言っているサドカイ派の人々が」とあります。サドカイ派は当時のユダヤ教において、ファリサイ派と並ぶ党派であり、ファリサイ派とは対立していました。その対立点の一つが、死者の復活があるかないかということでした。ファリサイ派は復活を信じていましたが、サドカイ派は信じていなかったのです。そういう違いが生じた事情についてはここでは触れません。大事なのは、主イエスの当時も復活を信じない人々がいた、ということです。つまりからだのよみがえりというのは、聖書が書かれた当時の人々はまだ科学的知識が乏しかったのでそんなことを信じていた、というものではないのです。サドカイ派の人たちは科学的知識があったわけではありませんが、復活を信じていなかったのです。それは、彼らが何を大切に思い、何を見つめて生きていたのか、あるいは何を救いとして求めていたのか、によることです。彼らが大切に思い、見つめていたことは何だったのか。そのことを、彼ら自身の言葉から見ていきたいと思います。
復活についての疑問
彼らは、復活はない、ということを示すための根拠として、モーセの律法を持ち出しています。19節「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と」。これは申命記25章5節以下にある結婚についての掟です。イスラエルの民にとっては、子孫を遺し、家系を絶やさないことが神の祝福の印でした。そのためにこのような掟が定められていたのです。彼らはこの掟を確認した上で、一つの極端な例をあげています。20-23節です。「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」。このように語ることによって彼らは、死者の復活がもしあるとしたら、一人の女性に七人の夫がいることになってしまう、それでは、一人の夫と一人の妻という神がお定めになった結婚の秩序が破壊されてしまうではないか、だから復活などないのだ、と言ったのです。これは余りにも極端なケースですが、復活についてこのような疑問を抱くことは私たちにもあります。配偶者と死別して再婚するということは私たちの間でもあるわけで、復活したらどちらの人が自分の妻あるいは夫となるのだろうか、両者の間が気まずくなることはないのだろうか、などと考えてしまうのです。そうすると、復活というのはやはり無理がある教えだと思えてくるのです。
この世の人生の延長、再開?
けれども、まさにこのようなことを考えるところに、サドカイ派の人々が何を大切にし、何を見つめて生きているのかがはっきりと現れているのです。結婚することも、その相手と死に別れて再婚することも、皆この世の人生の中でのことです。そう、彼らが見つめているのは、この世の人生のこと、そこにおける人間の営みのことなのです。しかし復活というのは、この世の人生が終わり、そこにおける人間の営みが全て終わって死んだ後のことです。復活とは、この世の人生の外に与えられる神による救いなのです。つまり復活を信じるというのは、この世の人生を超えたところで働く神の力を信じ、その力によって与えられる救いを信じることです。しかしサドカイ派の人々は、復活を、この世の人生の延長として、あるいはそれが一旦中断されて再開することとして捉えています。神の業である復活を、この世の人生における人間の営みから捉えようとしているのです。つまり彼らは、この世のことしか見つめておらず、この世のことにしか関心がないのです。だから彼らには、復活ということを受け止めるアンテナがそもそもないのです。復活したら誰がこの女の夫となるのか、という問いは、この世の人生の再開として復活を捉えていることから生じている的外れな問いなのです。
私たちの抱く疑問
それはサドカイ派の人々だけの話ではありません。私たちが「からだのよみがえり」に対して抱く疑問も皆この類いなのではないでしょうか。私たちも、復活ということを、この世の人生の延長ないしその再開としてしか捉えていないことが多いのではないでしょうか。そうするといろいろな問いが当然起ってきます。例えば、死んだ時の姿のままで復活するのか、それとももっと若くて元気な時の姿にしてもらえるのか、とか、さらには、この世の人生で何らかの病気や障がいを負っていた人が復活したらその病気や障がいはどうなるのか、などという問いです。この問いはさらに広がりを持っています。この世の人生において、私たちの間にはいろいろな違いがあります。持って生まれた能力の違いもあるし、生まれ育った環境や時代の違いもあります。そのような様々な違いのゆえに私たちのこの世の人生にはいわゆる格差があります。お金持ちの人もいれば貧しい人もいる。社会的地位の高い人もいれば低い人もいる。そういうこの世における違い、格差は、復活したらどうなるのか、という問いがあるのです。そのように問う私たちは、復活してもなお格差が続くなら、そんな復活は、信じられないと言うより信じたくない、と思っているのです。しかしこれらの問いは全て、サドカイ派の人々の問いと同じように的外れなものです。このような疑問を抱く私たちは、サドカイ派の人々と同じように、復活をこの世の人生の延長、再開としてしか捉えていないのです。それは私たちも、この世の人生のことしか考えておらず、人間の営みをはるかに超えて大きい神の力を見つめておらず、その神による救いを信じていない、ということを意味しているのです。
聖書も神の力も知らない
主イエスはサドカイ派の人々に「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」とおっしゃいました。聖書も神の力も知らない、それは、聖書に語られている神の力が分かっておらず、それによる救いを信じていない、ということです。サドカイ派の人々は聖書を読んでいなかったのではありません。しかし彼らは聖書を、自分たちがこの世の人生をどう生きるかという教えとしてしか読んでおらず、人間の力をはるかに超える神の力をそこに読み取ってはいなかったのです。彼らは神の力を信じていなかったのではありません。しかし彼らはその力を、自分のこの世の人生を支え助けてくれるものとしてしか受け止めていなかったのです。神の力がこの世の人生が終わった後にまで及び、死の力に勝利して救いを与えて下さることを彼らは信じていなかったので、復活などないと言っていたのです。私たちも同じ間違いに陥っていないでしょうか。神の力を、この世の人生とそこにおける人間の営みの中でしか、つまり人間の可能性の中でしか捉えていないなら、私たちも、「聖書も神の力も知らない」ということになっているのです。
天使のようになる
彼らが語った結婚についての例への答えとして主イエスは25節で、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」とおっしゃいました。復活においては、めとることも嫁ぐこともなくなる、それはどういうことなのでしょうか。この世で幸せな夫婦関係に生きている人は、この言葉を聞いて寂しく感じるかもしれません。他方、この世ではなんとか我慢しているが、復活してまであの人と一緒なのはご免被りたいと思っている人にとっては、これは喜ばしい解放の言葉に感じられるかもしれません。しかしどちらの感想もやはり、復活をこの世の人生の延長として捉えていることから生じるものです。主イエスはここで、復活はこの世の人生における人間の営みを超えて、神が与えて下さる新しい命なのだと語っておられるのです。そこで大事なのはむしろ「天使のようになるのだ」ということです。聖書において天使は人間と同じく神に造られた被造物です。しかし人間が、神によって造られ、恵みによって生かされていることをしばしば忘れ、見失っているのに対して、天使はそれを常にはっきりと知っており、神と共にいる喜びの内に生きています。復活において私たちはその天使のようになるのです。神の愛をはっきりと知り、神と共にいる喜びの中で永遠の命を生きる者とされるのです。そこにおいて私たちの人間関係も、神の愛の中に置かれ、新しくされ、完成されるのです。「めとることも嫁ぐこともない」というのはそういうことを言っているのでしょう。この世の人生における私たちの夫婦関係が、復活において、神の恵みの中に置かれて新しくされ、完成されるのです。この世の人生においては、良い夫婦関係をもって生きている幸いな人もいれば、そうでない人もいます。そもそも結婚せずに独身で生きている人もいるし、相手と死に別れたり離婚することもあります。夫婦の関係だけではありません。私たちのこの世におけるあらゆる人間関係には、人間の罪や弱さがつきまとっており、相思相愛のような場合もあれば、あんな奴顔も見たくない、ということもあります。復活においては、そのような現在の人間関係がそのまま継続、延長されるのでもなければ、全てご破算になって赤の他人になるのでもありません。復活においては、この世の人生における関係が、神の力によって新しくなり、完成されるのです。人間の罪や弱さのゆえに生じている問題やトラブルは全て解消、克服されて、新しい、祝福された関係が与えられるのです。この世の人生においては決して完全なものとはなり得ない私たちの人間関係の全てが、復活において神の恵みの内に置かれ、新しくなり、完全なものとなるのです。復活とはこのように、様々な罪や弱さ、苦しみや悲しみをかかえてこの世の人生を歩み、そして死んでいく私たちが、この世の人生の外で、神の恵みの力によって新しく生かされ、全ての罪を赦され、弱さから解放され、全ての苦しみ悲しみ、病気や障がい、格差などをぬぐい去られて、神のもとで主イエスと共に永遠の命を喜んで生きる者とされるということです。この世の人生の外において与えられるこの救いを信じて待ち望むことこそが、復活を信じて待ち望むことなのです。
生きている者の神
主イエスは26節以下で、復活が確かに与えられるのだということを、「モーセの書の『柴』の箇所」によって語られました。それは本日共に読まれた、出エジプト記第3章の始めの所、モーセが神の山ホレブで、燃え上がる柴の中から語りかける主なる神と出会った時の話です。そこにおいて主なる神様はご自分のことを「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と語られました。このみ言葉が、死者が復活することを語っていると主イエスはおっしゃったのです。それはどういうことでしょうか。主イエスはこの言葉に、神の自己紹介を越えた深い意味を読み取っておられます。それを知るためのヒントが27節の「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」という言葉です。生きている者の神が、「わたしはアブラハムの神である」とアブラハムの名を呼ばれたなら、アブラハムは神のみ前に生きている者とされるのです。神が名前を呼んで、私はこの人の神だと言って下さるなら、その人は神の恵みによって生かされるのです。たとえその肉体が死んで滅びてしまったとしても、神はその恵みの力によってその人に新しい体を与え、生きている者として下さるのです。それが復活です。復活とは、神が私たちの名前を呼んで「私はあなたの神だ」と言って下さることによって、私たちが死を越えて新しい命に生かされ、新しい体を与えられるということです。そのことを最初に体験して下さったのが主イエス・キリストです。父なる神は主イエスの名を呼び、「あなたは私の子、私はあなたの父である神だ」と宣言して下さいました。その神のみ言葉には、死の力も打ち勝つことはできません。肉体の死は主イエスを一旦捕えましたが、神がその死を打ち破り、永遠の命を生きる新しい体を主イエスに与えて下さったのです。そして神はこの主イエスの後に続く者たちの名前を呼んで、主イエスを信じる者とし、教会に連なる者として下さっています。今日私たちが覚えている召天者の方々もそうです。神は彼ら一人ひとりの名前を呼んで信仰を与え、主イエスと共に歩ませ、そしてみもとに迎えて下さいました。「生きている者の神」によって名前を呼ばれた彼らは、神の恵みの力によって必ず復活し、永遠の命を生きる者とされるのです。そして神は彼らに続いて私たち一人ひとりの名前を呼んで下さっています。この礼拝へと招かれた私たちも、「生きている者の神」によって名前を呼ばれているのです。だから私たちも、復活と永遠の命を信じて待ち望むことができます。この礼拝において私たちは、その恵みと希望を召天者の方々と分かち合っているのです。