「主の名によって来られる方」 伝道師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:ゼカリヤ書 第9章9-10節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第21章1-11節
・ 讃美歌:203、309
<棕梠の主日>
受難節最後の日曜日を迎えました。この主の日を教会の暦では棕梠の主日と呼び、主イエスがエルサムへ入られた日として覚えてきました。なぜ棕梠の主日かといいますと、ヨハネによる福音書12:13にエルサレムへ来られる主イエスを大勢の群衆が「しゅろの枝」を手にとり迎えたと記されていることにちなみます。もっとも「しゅろの枝」と訳されているのは口語訳聖書だけで、新共同訳聖書や聖書協会共同訳聖書では「なつめやしの枝」と訳されています。聖書の研究が進んで口語訳聖書で「しゅろ」と訳されていた原文の単語は「なつやめし」のことであることが明らかになり「しゅろの枝」ではなく「なつやめしの枝」と訳されるようになりました。またマタイやマルコによる福音書ではただ「木の枝」「葉の付いた枝」とのみ記されています。しかしいずれにしましても教会は受難節最後の日曜日を棕梠の主日として記念してきたのです。
そして棕梠の主日から始まる一週間が受難週になります。木曜日には主イエスは最後の食事を弟子たちと共に食し、その後ゲツセマネで祈られ、そして金曜日には十字架に架けられ死なれたのです。本日読まれましたマタイによる福音書に限らずどの福音書も主イエスのエルサレム入場から十字架の死にいたる一週間の出来事を記すために多くの分量を割いています。マタイによる福音書でいえば、本日の箇所である21章で主イエスのエルサレム入場が語られ27章で十字架の死が語られていますので、一週間の出来事が実に7章に渡って記されていることになります。それだけ福音書の著者が主イエスの十字架へといたる一週間の歩みを重んじたといえるでしょう。私たちもまた主イエスの十字架への歩みに心を向けてこの受難週を過ごしていきたいのです。本日の礼拝では受難週最初の日の出来事についてマタイによる福音書21:1-11のみ言葉に共に聴きたいと思います。
<ベトファゲにて>
1節に「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき」とあります。この「一行」とは誰のことでしょうか。前後の文脈からまず主イエスと弟子たちを指していることは明らかです。主イエスと弟子たちはエルサレムへと向かっていました。16:21に「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」とあります。エルサレムは主イエスの旅の目的地、ゴールでした。主イエスの目的、それは神さまのみ心通りご自身がエルサレムで苦しみを受け十字架で死なれ三日目に復活されることです。ですから主イエスはエルサレムへ行かなければなりませんでした。主イエスと弟子たちだけでなく主イエスに従った大勢の群衆たちも「一行」に含まれているかもしれません。本日の箇所の直前の20:29に「一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った」とあるからです。本日の箇所では8節以降でイエスと弟子たちのみならず大勢の群衆が重要な役割を担うことになります。
彼らはオリーブ山沿いのベトファゲに着きました。ベトファゲはエルサレムからエリコへいたる道の途中にある町で、聖書の巻末付録聖書地図の6「新約時代のパレスチナ」を見ますと、ベトファゲとエルサレムがほぼ横に並ぶように記されています。地図の縮尺から考えますとほんの2-3kmの距離ですから、彼らはエルサレムと目と鼻の先の町までやってきたことになります。そして彼らはこのベトファゲにしばし立ち止まるのです。主イエスの目的地はエルサレムですからベトファゲは通過してゴールを目指しても良いように思えますが、彼らはゴールを目前にして立ち止まったことになります。エルサレムに入る前に少し休憩を取ることにしたということでしょうか。そうではないと思います。主イエスはベトファゲで立ち止まる必要がありました。主イエスには必要としているものがあったのです。
<主が必要としている>
主イエスが必要としているものはろばと子ろばでした。ですからベトファゲに着くと主は二人の弟子に言われます。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
もしかすると二人の弟子は不安を感じたかもしれません。つながれているろばを勝手にほどいて連れて来て良いのだろうか。持ち主に咎められるのではないだろうか。そのように思っても不思議ではありません。ですから主は弟子たちに誰かがなにか言ってきたときに語るべき言葉をお与えになったのです。それが「主がお入り用なのです」という言葉です。
「主がお入り用なのです」という言葉によって、持ち主はろばと子ろばを主に差し出しました。持ち主はなぜ主がろばと子ろばを必要としているのか分からなかったに違いありません。しかし彼は「主がお入り用なのです」という言葉が与えられると「すぐ」ろばと子ろばをささげたのです。そして主はこのろばと子ろばを用いられます。ろばと子ろばは救い主を背中に乗せてエルサレムへと入っていくのです。
私たちもまた「主がお入り用なのです」という言葉が与えられることがあるのではないでしょうか。なぜ主が必要としているかは分からないとしても、この言葉への応答を求められることがあるのではないかと思うのです。そのようなとき私たちはどのように用いられるのか分かっていてささげるのではありません。ただ主が用いてくださることに信頼しておささげするのです。そして主は私たちがささげたものを用いてくださいます。私たちは日々の歩みの中で、「主がお入り用なのです」という言葉を幾度となく聞いているに違いないのです。
<救いの前進>
さてなぜ主イエスはろばと子ろばを必要としていたのでしょうか。4節に「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった」とあります。つまり主がろばと子ろばを必要としていたのは預言者の言葉が実現するためです。そして5節で預言者の言葉が引用されています。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」本日の旧約聖書箇所としてゼカリヤ書9:9のみ言葉を聴きました。ですからゼカリヤ書からの引用だとお気づきの方もあるかもしれません。しかしよく読んでみますとゼカリヤ書9:9からの引用とそうではない言葉があることに気づかされます。5節の「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」はゼカリヤ書9:9の引用です。すべて同じかといえばそうではないのですがそのことは後ほど述べることにします。ここではまず5節最初の「シオンの娘に告げよ」という言葉がゼカリヤ書9:9にはないということに注目したいのです。ゼカリヤ書9:9は「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ」という言葉で始まりますから、マタイによる福音書21:5の「シオンの娘に告げよ」という言葉はゼカリヤ書9:9からの引用ではありません。ではこの「シオンの娘に告げよ」という言葉はどこから来たのでしょうか。それはイザヤ書62:11にある「娘シオンに言え」という言葉です。つまりマタイによる福音書21:5はイザヤ書62:11とゼカリヤ書9:9を組み合わせた言葉だということになります。これは偶然ではありません。福音書の著者は意図を持ってイザヤ書62:11のみ言葉を引用したのです。このことはイザヤ書62:11で「娘シオンに言え」に続く言葉を見てみますと分かります。そこでは「娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る」と言われているのです。「見よ、あなたの救いが進んで来る。」つまりマタイによる福音書の著者はイザヤ書62:11の「娘シオンに言え」というみ言葉を引用することで、主イエスがエルサレムに入られることは神の救いが進んで来ることなのだというのです。主イエスがエルサレムに入られることは神の救いの前進にほかならない、そのことを本日の聖書箇所は私たちに告げています。
<へりくだった方>
また5節のゼカリヤ書からの引用は「王」がエルサレムへ来られるということを告げています。しかしその王は勝利の王ではないということも示されているのです。そのことは先ほど申し上げた5節のゼカリヤ書からの引用がゼカリヤ書9:9の言葉とすべて同じでないことから分かります。5節にはゼカリヤ書9:9の「彼は神に従い、勝利を与えられた者」に対応する言葉がありません。この一文だけ抜けてしまっているのです。このこともまた偶然ではありません。著者はゼカリヤ書9:9から引用する際に意図的にこの一文を取り除いたといえます。それは主イエスがエルサレムに入られることにおいて、神の勝利はまだ明らかにされていないということを示すためです。主イエスのエルサレム入場において神の救いの前進を見て取ることができるとしても、神の勝利はまだ隠されている。なぜなら主イエスの十字架と復活の後にのみ神の勝利は明らかになるからです。
エルサレムへと入って来られる主イエスは勝利の王ではありません。「柔和な方」であり、ろばに乗って来る王です。新共同訳聖書で「柔和な」と訳されている言葉は聖書協会共同訳聖書では「へりくだって」と訳されています。ここでは「へりくだる」という訳のほうが良いように思います。柔和というのはものやさしく、おとなしい性質や態度を意味しますが、この箇所では主イエスがやさしい、おとなしい方だというのではなく、主イエスがへりくだった方、つまり高ぶらない方であることを伝えているからです。
主イエスの時代、ローマ軍の司令官は戦争に勝つと凱旋パレードを行いました。凱旋将軍は軍隊を率いてローマの町へと入っていくわけですが、このパレードは司令官にとってとても名誉なことであり意気揚々と高ぶって良い場面でした。けれども主イエスのエルサレム入場はそうではありません。主イエスはろばにのってへりくだってエルサレムへと入って来られます。この主イエスのお姿は人々が期待していた救い主とは異なります。人々が期待していたのは力を用いて勝利する救い主、高められた救い主だからです。ですから人々はこれから主イエスがエルサレムへ入られることによってなにが起こるのか分かりませんでした。エルサレムへと足を踏み入れることの先に十字架があることが分からなかったのです。
<歓呼と激震>
弟子たちが、主イエスが命じられた通りにろばと子ろばを引いて来てその上に服をかけると、主イエスはそれにお乗りになりました。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、またほかの人々は木の枝を切って道に敷きます。自分の服を道に敷くことは王や高い身分の人に対する尊敬を表すものでしたし、王がやって来るときには木の枝で道を覆う習慣もあったようです。ですからここで描かれているのはこの世の王、この世の支配者が町へと入ってくるときの歓迎の様子であるといえます。主イエスの周りにいた群衆は、主イエスをこの世の王と見なしていたのです。この世の王が町へ入るときには歓呼の声がともなったように、群衆は主イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも叫びました。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に。祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
10節にダビデの子、すなわち主の名によって来られる方がエルサレムに入られると「都中の者が、『いったい、これはどういう人だ』と言って騒いだ」とあります。「騒いだ」という言葉は直訳すれば「揺さぶられた」となります。つまり主イエスがエルサレムへ入られると、エルサレムにいた人たちがみな揺さぶられたのです。同じ「揺さぶられた」という言葉が主イエスの十字架の死においても使われています。27:51, 52に、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」とありますが、「地震が起こり」という言葉は直訳すれば「地が揺さぶられた」となります。主イエスが十字架で死なれたとき地が揺さぶられたのと同じように、主イエスがエレサレムに入られたときそこにいる人たちはみな揺さぶられたのです。人々は騒いだどころではありません。激震が走ったといえます。人々は喜びによってではなく恐れによって揺さぶられたのです。
エルサレムの人々は「いったい、これはどういう人だ」と言いました。これは恐れから出る言葉です。この人はエルサレムに来ていったいなにをしようとしているのか。我々に迷惑が及ぶのではないか。そのことに対する恐れです。それに対して主イエスと共にエルサレムに入った群衆は「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言いました。エルサレムの人々が主イエスを恐れ、動揺したのに対して、群衆は主イエスに期待しています。エルサレムの人たちが、主イエスはエルサレムに来て力を振るうのではないかと恐れたのに対して、群衆は主イエスに力を振るって欲しいと期待しています。力で救いを実現して欲しいと願っているのです。
<真の賛美が響き渡るとき>
エルサレムの人々の激しく揺さぶられるような主イエスに対する恐れも、群衆の歓呼の叫び声をともなう主イエスに対する期待も、どちらも主イエスのエルサレム入場を誤解していたという点では同じです。そしてこの誤解が主イエスを十字架へと歩ませます。エルサレムの人々の恐れは主イエスに対する殺意を生み出しました。とりわけ指導的立場にいた祭司長や律法学者たちは主イエスの言動に怒り、主イエスを捕らえ殺そうとします。そしてついに主イエスは捕らえられ死刑の判決を受けるのです。また群衆は「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と歓呼の叫びをあげていました。しかしその叫び声は、主イエスの裁判において「十字架につけろ」という激しい叫びへと変わります。主イエスに対する期待は失望へと変わるのです。群衆は、自分たちが思い描いた主に期待しました。自分の思い通りになる主に期待したのです。しかしそのような期待は失望へと変わります。なぜなら主は人の思いを越えるお方だからです。私たちもどこかで自分の思い通りに主を動かしたいと思っているのではないでしょうか。そして自分の期待した答えや結果が得られないとひどく失望するのです。
私たちは主イエスがエルサレムへ入ってくることへの人々の恐れや期待に目を向けてきました。この人々の恐れや期待は私たちの恐れであり期待でもあるのです。私たちは主イエスが来られるのを恐れてはいないでしょうか。エルサレムの人たちは自分たちに迷惑が及ぶのではないかと恐れました。それは変えられることへの恐れです。自分たちの日常が変えられてしまうのではないかと恐れたのです。私たちも主イエスが来られると、自分が変えられてしまうのではないかと恐れているのです。主は、私たちの抱えている暗闇を暴かれるのではないだろうか、私たちの目を覆いたくなる罪を裁かれるのではないかと恐れ、主イエスを締め出そうとするのです。
しかし主イエスは人々の恐れと期待の中を歩まれていかれます。私たちの的外れな恐れや期待を裁くために歩まれるのではありません。力で打ち砕こうとされるのではありません。主イエスは戦車に乗って勇ましく進まれたのではなく、心もとないろばに乗って進まれました。それは私たちを裁くための歩みではなく、私たちを救うための歩みだからです。力を奮うことによってではなく、力を失うことによって、高ぶることではなくへりくだることで成し遂げられる救いです。
私たちは今日、エルサレムへ入ってこられる主イエスを見つめます。そして今週、主の苦難と死を見つめつつ歩みます。主は私たちの的外れな恐れや期待をすべて背負って、十字架の死へと歩まれるのです。私たちの救いを成し遂げるために。私たちの罪の赦しのために。そして主の十字架と復活において、主イエスこそ私たちの真の救い主であることが示されるとき、私たちの内にも、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」という真の賛美が響き渡るのです。