夕礼拝

すべての人の祈りの家

「すべての人の祈りの家」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第56章1-8節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第11章12-26節
・ 讃美歌 ; 51、494

 
いちじくの木を呪う
 本日朗読された箇所の前半、12節~14節には、主イエスがいちじくの木を呪うという出来事が記されています。この出来事の一日前、主イエスと一行は、初めてエルサレムに入城したのです。主イエスは神殿を見回り、夕方になってベタニアに出て行かれました。このベタニアで一夜を過ごし、再びエルサレムに向かう時のことです。空腹を覚えられた主イエスは、葉の茂ったいちじくの木の側に近寄って実をお探しになります。しかし、いちじくの実のなる季節ではなかったために、葉のほかは何もないのです。そこで主イエスは、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われたのです。このことの結果が20節以下に記されています。翌朝、一行は通りがかりに、いちじくの木が根本から枯れているのを見たのです。この出来事は、私たちを戸惑わせます。主イエスの振る舞いがあまりにも我が儘で、自分勝手に思えるからです。たまたま通りがかった所に生えていたいちじくの木に、実のなる季節ではなかったために実がついていなかったという理由で、叱りつけたのです。自分の空腹が満たされないことに怒って、植物に対してしかりつける姿は、欲望のために感情的になっているとしか思えません。又、実を実らせる時期ではないにもかかわらず、実をつけていないことに怒る姿も子供じみています。あまりにも無茶な要求をなさっているとしか思えないのです。このようなことで呪われてしまったらいちじくの方もたまったものではありません。

宮きよめ
 この出来事を、いちじくの記述だけで読んでも、不可解なままです。主イエスが実を実らせていないいちじくをお叱りになり、いちじくが枯れてしまったということは、これらの記述の間に挟まれた出来事と密接に関係しています。12節~14節までと、20節から25節の間に挟まれて語られているのは、いわゆる、「宮きよめ」という出来事です。主イエスは、エルサレムにお入りになって最初に神殿から商人や両替人を追い出されたのです。
15節には次のようにあります。「それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」。両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返す。ここには、感情的に怒りを表す主イエスの姿が記されています。怒りの原因は、17節以下に記されています。「そして人々に教えて言われた。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」。人々がエルサレム神殿を強盗の巣にしてしまっていたというのです。人間の貪る思いによって、神殿は本来あるべき姿とはかけ離れた状態であったのです。

商売をする人々
 「すべての人の祈りの家」であるはずの神殿を「強盗の巣」にしてしまうとはどういうことでしょうか。主イエスは、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返されました。この時、エルサレム神殿では、過越の祭が近づいていました。当時、ユダヤ人たちは、大きな祭の度に、エルサレム神殿に巡礼にやって来ました。神殿は、各地から巡礼に来た人々でごった返していたことでしょう。神殿の境内には、このような巡礼者相手に、鳩を売り両替をする人々がいたのです。鳩というのは神殿で捧げる犠牲の動物です。遠路はるばるエルサレムまで旅をする巡礼者が、犠牲に捧げる羊や鳩等の動物を持ったまま旅をするのは大変なことです。更に、神殿に捧げるのはどのような動物でも良かったわけではありません。神殿に捧げるに相応しい、清く、傷の無い動物でなければなりません。そのような動物を調達することは簡単なことではありませんでした。そのため、巡礼者は、どうしても神殿の境内で、それ専用に高価な犠牲の動物を買い求めることになったのです。又、両替人がいたことが記されています。両替というのは、巡礼者が使っている貨幣を、神殿奉納に指定されていた昔のイスラエル貨幣、シェケルに両替することです。通常、人々が用いていたローマの貨幣には、大抵ローマ皇帝の肖像が彫り込まれていました。そのような通貨を神殿に捧げることは許されていなかったのです。このような、鳩を売る人や両替人は、自らの手間賃や儲けを上乗せして取引をしていたのです。神殿は、祭儀律法の規定を守るために発達した慣例によって、祈りの場が商売の場になっていたのです。神殿が、いつの間にか人々の私利私欲を満たすための手段として利用されてしまっていたのです。

神殿の境内
この時、主イエスの怒りは、両替をしている人や鳩を売っている人々に向けられました。しかし、主イエスがお怒りになったことの本質は、商売をしていたということにあるのではありません。鳩を売り、両替をすることは当時の巡礼者にとっては必要不可欠なものであったのです。この時の主イエスの怒りを理解するためには、ここで鳩が売られ、両替がされていた、神殿の境内と言われている場所について知っておかなくてはなりません。この境内というのは、「異邦人の庭」と言われる場所です。これは、神殿の最も外側にある庭です。当時の神殿には中央に大祭司が年に一度だけ入れる、「至聖所」がありました。その周りに祭司だけが入れる「聖所」があり、その周りにユダヤ人の男性だけが入れる「イスラエル男子の庭」、その周りにはユダヤ人の婦人だけが入れる「イスラエル婦人の庭」、そして、その外側に異邦人が入れる「異邦人の庭」があったのです。そして、最も外側に位置する「異邦人の庭」とそれより内側のユダヤ人たちの庭を結ぶ門は、柵で仕切られ、そこには大きくギリシャ語とラテン語で、すなわち外国人に分かるように「異民族の者は、何人であっても、聖所の周囲の柵及び垣根の内部に立ち入ることを許されない。もしそれに背いて捕らえられることがあれば、その人は、その結果として、自らに死罪を招くものである」と記された警告の板が大きく掲げられていたようです。神殿が、このように、ユダヤ人が異邦人かということで区切られており、更には、ユダヤ人の中で男か女かに区切られ、祭司か信徒かで区切られていたのです。そして、神殿がそのような区別を前提に建てられていた上で、異邦人が祈りを捧げるための「異邦人の庭」で、鳩が売られ、両替が行われていたのです。鳩を買い、両替をするのは、異邦人だけではありません。ユダヤ人も含めた全ての人が利用するのです。ですから、この時、神殿では、ユダヤ人たちの礼拝を整えるために、異邦人たちのための場所が使われていたのです。主イエスが、鳩を売る人や両替人を追い出しになられたのには、このような背景があります。主イエスは、ここで『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』とお語りになりました。しかし、すべての国の人の祈りの家であるはずの神殿が、すべての国の人のものではなくなっていたのです。主イエスは、そのような神殿の姿を批判されたのです。

神殿を自分の家にする
 このような事態が起こることの根本的な原因はどこにあるのでしょうか。それは、神殿が真に神の家として建てられていないということにあります。主イエスがお語りになった「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」という言葉は、イザヤ書56章からの引用です。イザヤ書の文脈の中では、「わたし」とは父なる神のことであり、神殿は神の家であることが語られているのです。又、主イエスによってこの言葉が語られる時、「わたし」というのは、神の一人子である主イエスご自身のことであり、神殿とは主イエス・キリストの家であることが語られているのです。神殿は神の家であり、又神の一人子であられる主イエス・キリストの家なのです。しかし、人々は、神殿を神の家ではなく、自分たちの家にしてしまっているのです。主イエスは、神殿を「強盗の巣」とおっしゃいます。強盗というのは、力づくで、他人の利益を貪る者のことです。強引に家に押し入って、家自体を占有してしまうこともあるでしょう。さらに「強盗」は、自らの思いや欲望を満たすためには手段を選びません。暴力によって自らの思いを実現しようとするのです。この時、神殿は、強盗が家に押し入るように、人々によって占有され、自分勝手に荒らされていたのです。神の家を、自分たちの思いを実現する場所にしてしまっていたのです。事実、神殿の中で、異邦人の祈りの場は、ユダヤ人たちの礼拝を整えるための場にすり替わっていたのです。そこでは、真の礼拝が捧げられるはずはありません。神の家が、人々の家となる時、そこは、すべての人の祈りの家ではなくなってしまうのです。ですから、主イエスが、鳩を売る人や両替人を追い出されたということの根本にあるのは、人々が、神の家に押し入り、そこを勝手に自分達の家にしてしまっているということなのです。境内で売り買いし両替をするというのは、そのことが具体的に一つの形として現れた事態なのです。

主イエスを殺そうと謀る
主イエスが神殿の境内から商人や両替人を追放された時の、強盗の姿が18節に記されています。「祭司長や律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」。この時、神殿を自分の家としていた中心人物は、神殿の中央に入ることが出来た祭司長たちであり、又、宗教的指導者である律法学者たちでした。この人々は、主イエスの行動が、自分たちを非難しているのが分かったのでしょう。主イエスが自分たちを強盗呼ばわりしていることは許せないことであったのだと思います。この人々は、主イエスを殺そうとしました。自分たちが占有している家に、本来の家の主人が入って来たために殺そうとしたのです。「謀った」と言われています。この時、すぐに主イエスを殺すことは出来ませんでした。群衆が皆、主イエスの教えに打たれていたため、主イエスを恐れていたのです。そこで彼らは謀をしたのです。もっともらしい自分たちの正当性を主張して、主イエスを死においやることが出来るような方法を考えたのです。主イエスを殺すことが正しいと判断されるように策を労するのです。神殿において、自分が主人となって、自分勝手に振る舞っている時、人々は、真の神を殺すための謀を始めるのです。自分がその家の主人としてあり続けるために、真の主人を殺す正当な方法を考え、自分たちの正しさを主張しながら、主イエスを殺すのです。しかし、人間が主張する正しさとは所詮、人間が自らの思いに従って造り上げたものに過ぎません。それは神様の正しさとは異なるのです。しかし、神の家を我が物顔で占有する者たちにとって、いつしか自分たちの正しさが真の正しさとなり常識となってしまうのです。自分たちが強盗であり、神を殺し、その家の主人となっているにもかかわらず、そこが真の神の家であるかのような錯覚に陥ってしまうのです。そこで、神殿の主である主イエスを殺してしまうのです。

神殿礼拝の終わり
主イエスは、ここで、神殿を良いものにしようとしたのではありません。ただ、商売人を追い出して、神殿改革をしようとしたのではないのです。むしろ、人間が自分の家としてしまっている神殿での礼拝の終わりを告げられたのです。この後、律法学者やファリサイ派の人々は、この時謀った通りに、主イエスを殺してしまいます。この、神殿を自分の家とする強盗たちの手によって引き起こされた主イエスの十字架の死は、神殿を自分の家にしてしまう人々の罪を贖うための犠牲でした。この主イエスの犠牲によって、もはや、神殿で犠牲を捧げる礼拝は必要なくなったのです。私たちが思い起こしたいことは、イエスが十字架上で息を引き取られた瞬間の出来事です。マルコによる福音書15章には次のようなみ言葉が記されています。「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」神殿の垂れ幕とは、神殿の最深部である至聖所と聖所を隔てていた垂れ幕です。それがイエスの死と共に、「上から下まで真っ二つに裂けた」のです。主イエスの死は、何重にも隔てられた神殿における礼拝の終わりを告げる出来事だったのです。
主イエスを信じる者は、神殿で礼拝をすることはありません。主イエスを受け入れ、罪赦された者として、教会を建てる者とされるのです。そこでは、私たち自身が、神の家を建てる者として用いられ、神の栄光を現すものとされるのです。これは、神の家を自分の家にして、自分の思いを実現することとは異なります。主イエスの体の部分とされ、そのことによって、神に栄光を現す者とされるのです。このような神の家こそ教会です。そこでは、十字架で死なれ、三日目に復活された主イエスの下に人々が集められ、人々が自分の罪を悔い改め、自分が占有してる場所を本来の主人である主イエスに明け渡すのです。主イエスの救いに皆が与り、キリストを頭とした、一つの家が建てられるのです。
そこでは、人々の間に区別はありません。パウロはガラテヤの信徒への手紙3章26-28節で次のように語るのです。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」。すべての人が等しく、主イエスの十字架と復活によって実現した救いの出来事に招かれているのです。ですから、主イエスの下ですべての人が礼拝し祈りを捧げるのです。私たちは、このすべての人の救いである主イエスの十字架を受け入れて、その下に集められる時、真の神殿としてのキリストの教会が建てられるのであり、すべての人の祈りの家として多くの実りを実らせるのです。

教会が強盗の巣に
 私たちは、教会につながることによって真の神の家を整えます。しかし、一方で、主イエスの時代に神殿を建てていた人々のことを他人事とすることは出来ません。これは、当時のユダヤ人たち、中でも祭司長や律法学者たちの問題であると言って片づけてしまうことは出来ないのです。もし、私たちが、キリストを家の主人とせずに教会を自分の思いを実現しようとしてしまっていたら、私たちは皆、主イエス・キリストの家に押し入る強盗になってしまいます。皆が、教会が自分の家であるかのように振る舞い始めます。そこで、人間的に見て、力強く、人々を引きつける言葉が語られ、自分が理想とする素晴らしい交わり形作られていたとしても、そこは、決してすべての人の祈りの家にはなりません。一部の人々の礼拝の場になってしまったり、親しい者たちだけの交わりの場になってしまうこともあるでしょう。そこでは、すべての人が、神に愛されているものとして、等しく神の前に立ち、神を礼拝するという教会の実らせるべき豊かな実りは実らないのです。教会が「すべての人の祈りの家」となっているのか「強盗の巣」となっているのかは、二つに一つです。必ずどちらかなのです。もし「すべての人の祈りの家」となっているのであれば、そこは「強盗の巣」ではありません。しかし、もしそこが「強盗の巣」であれば、「すべての人の祈りの家」ではありません。つまり、ここでは、神を礼拝する神の家を、神が支配しているか、それとも人間が支配しているかが問題なのです。

常に実りを実らせる
 主イエスは、実りの季節でないのにもかかわらず、実を実らせていないいちじくの木を呪いました。この実らない木というのは、強盗の巣となった神の家を表しているということが出来ます。私たちは、いちじくが、季節でもないのに実がついてないのは当然であると考えます。しかし、主の家において、そのような主張は成り立ちません。今は季節ではないからと言って、主の神殿である教会が、すべての人の祈りの家としての実りがなっていないことに安穏としていることは出来ません。主の神殿において結ばれる実は、今は季節であるかどうかは関係ないのです。信仰者は、どのような時も信仰の実りがなくてはなりません。なぜなら、主イエスが再び、私たちの下に来られるのはいつであるか、私たちは知ることが出来ないからです。主が来られる終わりの時を待ち望みつつ、私たちは、つねに、主イエス・キリストを主人とする神の家を建て続けるのです。私たちは、いつも教会をキリストの家として建てる。いやむしろ、私たち自身が主イエスの救いの下に集められることによって、家を建てる者の一人とされていくのです。ただ、そのような家が建てられるのであれば、そこには常に、すべての人の祈りの家としての実りがあり、その家は、主イエスが再び来られる時にも枯れることがないものとなっているのです。

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