週日聖餐礼拝

喜びに満たされるために

「喜びに満たされるために」 牧師 藤掛順一

・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第2章1-11節

共に喜びに満たされるために
 本日の聖書の箇所、フィリピの信徒への手紙第2章の冒頭の1、2節にこうあります。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」。ここに語られていることは、本日この週日聖餐礼拝が行われている、その目的でもあります。この礼拝は、普段日曜日の礼拝に様々な事情によってなかなか出席できない方々をお迎えして、共にみ言葉に聞き、聖餐の恵みにあずかることによって、私たち教会に連なる者たちが「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに」するためになされています。パウロはここでフィリピの教会の人々に、そうすることによって「わたしの喜びを満たしてください」と言っていますが、それはパウロだけが喜ぼうということではなくて、教会に連なる全ての者たちがその喜びを分かち合い、喜びに満たされていくのです。この週日聖餐礼拝に、普段来られない方々が出席できることは、その方々にとっての喜びであるだけでなく、教会に連なる私たち皆の大きな喜びです。その喜びを分かち合い、その喜びに共に満たされるためにこの礼拝が営まれているのです。

父と子と聖霊によって
 そして私たちのこの喜びの土台となっているのは、「キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心」です。ここは以前の口語訳聖書では、「キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら」となっていました。今は「励まし」と訳されている言葉が以前は「勧め」であり、「慰め」と訳されているのが「励まし」だったのです。原文におけるこの二つの言葉はほぼ同じ意味であり、「励まし」とも「勧め」とも「慰め」とも訳すことができます。それらが、キリストによって、また愛において与えられているのです。「愛において」というところは、「キリストにおいて示された父なる神の愛において」と捉えることができるでしょう。私たちは、父なる神の愛によって、独り子イエス・キリストによる救いにあずかり、慰め、励まし、勧めを与えられつつ、聖霊による交わりに生きるのです。つまりここには、父と子と聖霊なる三位一体の神によって与えられる恵みが見つめられていると言えるでしょう。私たちは、父なる神の愛によって、キリストによる救いにあずかり、慰めと励ましと勧めを与えられて、聖霊による交わりに生きるのです。聖霊によって与えられる「交わり」。それは主イエスとの、そして父なる神との交わりであるだけでなく、共にキリストの救いにあずかっている教会の兄弟姉妹との交わりでもあります。聖霊の導きの中で私たちはお互いに「慈しみや憐れみの心」を持ち、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」、良い交わりを築いていくのです。そこに、私たちの喜びが満たされていくのです。

互いに相手を自分より優れた者と考える
 「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」いくために大切にするべきことが3節以下に教えられています。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」とあります。これは要するに、自分のことばかりを考え、自分の思いを通そうとするのでなく、他の人のことを考え、他の人の益となるように努めなさい、ということですが、その中に「互いに相手を自分よりも優れた者と考え」とあることに注目したいと思います。この教えは私たち日本人は少し気をつけて読まなければなりません。なぜならこれは下手をすると、人と自分とをいつも見比べていて、そして自分なんかあなたに比べたら全然だめです、できません、と言ってお互いに謙遜を競い合う中で結局誰も何も引き受けようとしない、背負おうとしないという、日本人の間によく見られる間違った謙遜と混同されるからです。しかしここには、「自分なんかだめです」と言えとは一言も語られていません。「相手を自分よりすぐれた者と考え」なさいと言われているのです。つまり相手の良さ、良い点、優れたところをきちんと見つめ、それを尊重し、尊敬しなさい、ということです。しかもそれを「お互いに」しなさいと言っているのです。だからこれは、お互いを比較してどちらの方が優れているのかをはっきりさせようということでもありません。どちらの方が優れているかではなくて、お互いが相手の優れた所、長所、相手に与えられている賜物を喜んで認め、受け入れ、尊敬し、大切にするという姿勢で交わりを築いていくことが教えられているのです。それが本当の意味での「へりくだり、謙遜」です。本当のへりくだりとは、自分はダメですと言うことではなくて、相手の良さ、優れた所を認め、喜ぶことができることなのです。「他人のことにも注意を払いなさい」と言われているのも、他人の欠点や失敗の粗捜しをするのではなく、その人の良い所、長所を見出し、それを喜びなさいということです。そういうことによってこそ、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」、良い交わりを築いていくことができるのです。

キリスト・イエスの心
 そしてここには、私たちがそのような思いをもってお互いを見つめ、交わりを築いていくための根拠、土台が示されています。それが5節以下です。5節に、「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」とあります。ここは口語訳聖書では「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい」となっていました。さらにその前の文語訳聖書では「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」と訳されていました。この文語訳が一番単純で分かりやすいと言えるでしょう。キリスト・イエスの心を心とする、つまり主イエス・キリストと、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」いくことが求められているのです。その「キリスト・イエスの心」とはどのような心だったのか。それが6節以下に語られています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。つまり神の独り子であられた主イエス・キリストが、私たち罪人の救いのために人間となってこの世に来て下さり、そして罪人が裁かれて殺される十字架の死を引き受けて下さった、つまり自分を無にして、徹底的にへりくだって下さったのです。それこそが、私たちに向けられているキリスト・イエスの心です。キリストはご自分の命を投げ出して、私たち罪人の身代わりとなって十字架にかかって死んで下さることによって、私たちを救って下さったのです。神に背き逆らっている罪人である私たちをなお愛して下さり、私たちのためにご自身を徹底的に低くして下さり、苦しみと死を引き受けて下さったのです。それは、神の栄光を汚し、み心に背いてばかりいるどうしようもない罪人であるこの私のことを、主イエス・キリストは、どうしようもないダメな奴、とは思っておらず、ご自分の命を引き換えに救うに値するかけがえのない大切な者と思って下さっている、ということです。自分の罪や弱さによって落ち込んでおり、自分なんて生きていても仕方がないのではないか、と思ってしまう私たちに、主イエス・キリストは、「私はあなたを愛している。あなたが私の愛の中で生きることを私は望んでいる。私はあなたはに生きていって欲しいのだ」と宣言して下さっているのです。さらに主イエスは、これからあずかる聖餐によって、その愛を、パンと杯によって私たちに具体的に味わわせて下さっています。キリストが十字架にかかって肉を裂き、血を流して死んで下さり、その命と引き換えに私たちの救いを実現して下さったその恵みを私たちは聖餐によって体験し、この体をもってその救いの恵みにあずかるのです。

キリストの愛で満たされて
 み言葉と聖餐によってキリストの救いのみ心を知らされる時に、私たちの心はキリストの愛で満たされます。キリストの愛のみ心が私たちの心を一杯にします。キリストの心を心とする、ということはそこに起るのです。私たちがキリストの愛の心を私たちも自分の心としなければ、と思って努力しているうちは、それはキリストの心ではなくて私たちの心です。そのような私たちの努力ではなくて、神の独り子である主イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さるほどに自分を愛し、大切にして下さっている、その愛を受け、味わい、その喜びに満たされることによって、私たちもその主イエスと「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」いくようになるのです。そして「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払う」者となることができるのです。本当のへりくだり、謙遜は、私たちの努力によって得られるものではなくて、主イエスによる救いの恵みを本当に受けることによってこそ与えられるのです。そしてそこに、神の愛の中でキリストによる励ましと愛の慰めに満たされた、聖霊による交わりが築かれていくのです。

主イエス・キリストのもとで
 私たちを救うために人間となり、十字架の死に至るまで神に従順に歩まれた主イエスを、父なる神は復活させ、天へと高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。イエス・キリストは今や、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべてそのみ名の前にひざまずき、「イエス・キリストは主である」と告白して、父である神を礼拝するべき方となっておられるのです。「キリスト・イエスの心を心として」生きることは、この「イエス・キリストは主である」という信仰を告白しつつ生きることによってこそ現実となります。毎週の主の日の礼拝は、主イエス・キリストの前にひざまずき、「イエス・キリストは主である」という信仰を告白して、父である神をほめたたえる時です。普段その礼拝になかなか集うことができない方々も、この週日聖餐礼拝においてみ言葉と聖餐にあずかり、「イエス・キリストは主である」と告白して生きている教会の兄弟姉妹の皆と「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」歩んでいくことができる。そのことによって私たちは、主イエス・キリストの下で兄弟姉妹なのです。

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