「善をもって悪に勝つ」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:イザヤ書第11章1-10節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第12章9-21節
・ 讃美歌:248、237、529
イザヤが預言した平和
アドベントの第三週を迎えました。先週に続いて本日も、「平和」を主題とするみ言葉に聞きたいと思います。
旧約聖書、イザヤ書第11章1~10節が朗読されました。最初の1節に「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」とあります。エッサイはダビデ王の父の名ですから、これはダビデ王の子孫として生まれる救い主のことを語っている預言です。その救い主には、主の霊が豊かに宿ると語られています。その霊とは、知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊です。そのような霊に満たされた救い主がいつか来て、弱い人のために正当な裁きを行い、貧しい人々を公平に弁護して下さるのです。この救い主が来る時、「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」。また「乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる」。つまり、「わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」とあるように、傷つけ合い、殺し合い、滅ぼし合う争いや戦いがやみ、完全な平和が訪れるのです。ダビデ王の子孫として生まれる救い主によってこのような平和が実現することをイザヤは預言し、旧約聖書の人々はその救い主を待ち望んでいました。この預言の成就としてお生まれになったのが主イエス・キリストです。イザヤの預言が成就し、平和を実現する救い主イエス・キリストが誕生したことを喜び祝うクリスマスを、私たちは間もなく迎えようとしているのです。
主イエスによる救いは失敗だったのか?
しかし、その主イエス・キリストの誕生からおよそ二千年経った今も、未だに平和は実現していません。この世界の現実においては今なお、狼が小羊を食らい、豹は子山羊を攻撃し、熊は牛を襲い、人がお互いに傷つけ合い、害を与え合い、滅ぼし合っています。しかも人間の技術の進歩によって、その度合いは昔よりもはるかに大きくなっています。先週はノーベル賞ウイークでしたが、ノーベルが発明したダイナマイトは、人類の生活の進歩にも大いに貢献しましたが、憎しみの道具としても用いられ、実に多くの人々の命を奪ってきたのです。その憎しみが今、世界全体に広がっています。あちこちで爆弾が爆発して多くの人が殺され、その報復として空爆が行なわれ、いずれにおいても無辜の人々が傷つき殺されています。イザヤが預言した救い主によってもたらされるはずの平和はいっこうに実現せず、むしろ遠のいているように感じられるのです。あの預言は何だったのでしょうか。主イエスはイザヤの預言した救い主ではなかったのでしょうか。クリスマスに私たちが祝う主イエスの誕生には何の意味もなかったのでしょうか。主イエスによる救いの業は失敗だったのでしょうか。そんなことはありません。主イエス・キリストこそ、神がこの世に遣わして下さった独り子であられ、イザヤが預言した救い主です。主イエスは、神から遣わされた救い主としてのみ業を確かに行なわれたのです。それはどのようにしてだったのでしょうか。
主イエスが切り開かれた平和への道
主イエスは公の活動を始めるに際して、悪魔の誘惑を受けました。その時悪魔は主イエスに、「私を拝めばこの世界を全て与えよう」と言いました。つまり、あなたを世界の支配者にしてあげる、ということです。主イエスが世界の支配者になる、それは素晴らしいことであるように思われます。世界の全ての人々が、またどの国も、民族も、団体も結社も、皆主イエスの命令に従わなければならなくなるのです。そうなれば世界から争いや戦いはなくなり、平和になることでしょう。私たち人間は平和を実現しようとしてしばしばそういうことを考えます。世界全体とまでは行かなくても、自分たちがこの地域を支配し、いわゆる覇権を握れば、この地域を平和にすることができると考え、そういう理屈で戦争を始め、他の国や民族を侵略していくのです。大東亜共栄圏というのはそういう発想だったわけです。しかしこのような考えは悪魔のささやきです。悪魔に魂を売り渡すことによってしか、人間はこの世の支配者となることは出来ないのです。そのことを知っておられた主イエスは、この誘惑をきっぱりと退けられました。そして主イエスが歩んでいかれたのは、十字架の死への道でした。世界の支配者になることによってではなく、人々の罪を全て背負って十字架にかかって死ぬことによって、主イエスは救い主としてのみ業をなさったのです。主イエスによってもたらされる平和も、この十字架の死によってこそ実現するのです。十字架の死への道こそが平和をもたらす道であることを、主イエスは身をもってお示しになったのです。この道は、世界の支配者となって全ての人を服従させることによって平和を実現するような、目に見える、分かりやすい、また手っ取り早い道ではありません。主イエスはこの世の権力者によって捕えられ、十字架にかけられて殺されてしまったのですから、主イエスによる救いの業は失敗だったとしか見えないのです。しかし実はそこにこそ、真実の平和への道が築かれ、開かれたのです。その道は目に見えてすぐに分かるようなものではありません。ここに平和への道があるなどとはとても思えないような道なのです。だから悪魔は、もっと分かりやすくて目に見える手っ取り早い道を歩んだ方がいいではないか、と語りかけて来るのです。しかし主イエスはその誘惑を退けて、失敗、敗北にしか見えない、十字架の死への道を歩まれました。そのように歩むことによって、救い主としてのみ業をなさったのです。真実の平和への道がそこに切り開かれたのです。この主イエスによる救いを信じて、主イエスが歩まれた真実の平和への道を歩んでいこうとしているのが、キリスト信者、クリスチャンなのです。
自分で復讐せず、神の怒りに任せる
主イエスが切り開いて下さった真実の平和への道を歩むためには具体的にどのようにしたらよいのでしょうか。使徒パウロがそのことを語っている新約聖書の箇所を本日はご一緒に味わいたいと思います。ローマの信徒への手紙第12章の9節以下です。ここにはパウロの「このようにしなさい」という教えが数多く語られています。これらは全て、真実な平和への道を歩むためにはこうしなさい、という教えです。そのことは18節に明確に示されています。18節に「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」とあります。「すべての人と平和に暮らす」ことを目指して、そのための道を歩みなさいと言われているのです。しかしそこには「できれば、せめてあなたがたは」とあります。この世の現実において、すべての人と平和に暮らすことがいかに困難なことであるかをパウロは見つめているのです。「せめてあなたがたは」は、せめてキリストを信じているあなたがたは、ということです。争い、戦いへと走ろうとするこの世の現実の中で、キリストを信じるあなたがただけでも、平和に暮らすための道を歩みなさいと言っているのです。そのためには何が必要なのか、それが19節に語られています。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります」。これはまことに具体的な勧めです。自分が攻撃され、傷つけられ、不当な苦しみを受けた時に、相手に対して自分で復讐せず、神にお任せするのです。「神の怒りに任せる」というのは、神が相手に対して怒り、罰を与えて下さることを期待して待つ、ということではなくて、自分で復讐することをやめることにこそ中心があります。復讐は神がなさることなのだから自分ではしない、それは自分は苦しみを受けたままで我慢する、その恨みを晴らそうとしない、ということです。神がその相手に復讐をなさるかどうかは分かりません。なさらないかもしれない。たとえそうであっても、神のそのご意志に従うのです。「それではやられただけ損ではないか」という反発が当然起りますが、その通り、やられただけ損を引き受けるのです。それこそが、キリストを信じるあなたがたが歩むべき平和への道だ、というのです。これは主イエスがマタイによる福音書第5章の「山上の説教」でお語りになったことと同じです。主イエスは、「目には目を、歯には歯を」と律法にあるが、しかし私は言っておく、悪人に手向かうな、右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい、とおっしゃいました。「やられたらやり返す」ことが常識であるこの世において、これは理不尽な教えのようにも思われます。しかし現在世界で起こっていることは、この教えこそが平和をもたらすための最も具体的かつ有効な道であることを示しているのではないでしょうか。9・11の同時多発テロ以来、アメリカを中心とする強大な軍事力を持つ国々が、「テロとの戦い」に突入しました。その結果生じたのは新たなテロであり、テロによって大国の軍事力と対抗することを世界に呼びかける組織が生まれ育って来ました。彼らにしてみれば、圧倒的な軍事力による攻撃を受ければ受けるほど、テロを行なうことの正当性が増し、それをやりやすくなるのです。世界を憎しみがより深く覆っていくことによってこそ、テロ組織はその存在意義を獲得していきます。報復が報復を生み、憎しみが憎しみを増幅していくことこそ、彼らが願っていることなのです。そこに平和をもたらすためには、報復が報復を、憎しみが憎しみを生む悪循環をどこかで断ち切らなければなりません。それは、「自分で復讐せず、神の怒りに任せる」ということによってこそ可能となるのです。現に今、今年のフランスにおける同時多発テロに対してそのような動きが起こっています。このテロで大切な人を失った人が、テロを行なった人々に対して「あなたがたに憎しみを返すことはしない、なぜならそれはあなたがたの思う壷だからだ」と発言したことが伝えられています。復讐しない、という聖書の教えは、今日の世界の状況の中で、平和をもたらすための具体的かつ有効な道として注目されつつあるのです。
敵をも愛する
しかし聖書が語っていることは、復讐をしないことに留まるものではありません。20節にはこう語られています。「『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』」。これはやはりマタイ福音書5章の「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」という主イエスの教えを受けています。復讐をしないというだけでなく、むしろ積極的に敵を愛し、敵のために良いことをしていくことを、主イエスもパウロも教えているのです。先程の「あなたがたに憎しみを返すことはしない、なぜならそれはあなたがたの思う壷だからだ」という言葉は、「その手には乗らないぞ」ということであり、そこにはなお敵に対する憎しみ、恨みがあります。肉親を殺された人にそういう思いがあるのは当然のことかもしれませんが、しかし聖書が教えているのは、その憎しみを乗り越えて、敵を愛していくことなのです。この20節で、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませることによって、燃える炭火を彼の頭に積むことになる、と言われていることについて考えておかなければなりません。「燃える炭火を彼の頭に積む」というのを、敵に対して親切にすることによって、敵が良心の呵責に苦しむようにする、というふうに読むことは間違いです。そこにはなお敵に対する恨みがあり、別の形で復讐しているようなものです。「燃える炭火を頭に積む」という言い方が何を意味しているのかははっきりしませんが、ここに語られていることの中心は、恨みや憎しみを乗り越えて敵をも愛していくことです。それこそが、真実の平和への道なのだということが教えられているのです。
このことは、14節の「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」という教えとも通じるものです。また17節の「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」ともつながります。迫害する者を呪うのではなくて、むしろその人々のために神の祝福を祈る、悪に対して悪をもって仕返しをするのでなく、善をこそ行なっていく、そういうことこそが真実の平和への道なのです。しかしこれはまことに困難な道であると言わざるを得ません。その道を歩むためにはどうすればよいのでしょうか。
平和への道を歩むとは
今読んだ14節と17節の間の、15、16節にはこうあります。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません」。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」、それは人の気持ちに同感し、人に寄り添うことです。それはなかなか難しいことで、私たちは人のことを理解しているつもりで、実はその人の気持ちに寄り添いそれを本当に分かろうとしているのではなくて、自分の思いや考えや主張の中でその人のことを理解したつもりになり、同情しているつもりで実は自分の思いを相手に押しつけているだけ、ということが多々あります。だから本当に喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くためには、自分の思いや主張を脇に置いて白紙にならなければなりません。「互いに思いを一つにし」ということはそのようにしてこそ出来るのです。どちらが正しいかを議論して相手を論破することによっては、つまり相手に勝つことによっては、思いを一つにすることはできないことを私たちは知らなければなりません。このように自分の思いや主張から自由になって人と思いを一つにしていこうとすることによってこそ私たちは、迫害する者のために祝福を祈り、悪に悪を返さずむしろ善を行なっていくことができるようになるのでしょう。復讐をせず、敵をも愛して生きる者となることができるのでしょう。つまり真実の平和への道を歩むことができるのです。そしてそれは言い換えれば、高ぶらず、自分を賢い者とうぬぼれないで歩むということです。人の気持ちに寄り添い、思いを一つにしていくことを妨げているのは、私たちの高ぶりでありうぬぼれです。自分はものが分かっている、正しいことを語り、行なっている、と思う時に私たちは、それを人に押しつけるようになり、人の気持ちに寄り添うことが出来なくなります。そして人を裁き、軽蔑するようになるのです。「身分の低い人々と交わりなさい」というのは、人を低く見て軽蔑し、あんな人とは付き合いたくない、という思いを乗り越えなさい、という教えです。そしてこのことは10節の「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」という教えとつながります。人を軽蔑する思いを乗り越えることは、むしろ積極的に人を尊敬し、優れた者と思うことにおいてこそ実現するのです。高ぶりやうぬぼれに陥っている者は、人を尊敬することができず、人の優れたところを見つめることができません。それは言い換えれば、人を兄弟として愛することができないということです。高ぶりやうぬぼれから解放されることによってこそ私たちは兄弟を愛することができるようになるのです。相手を尊敬し、その優れたところを見つめて喜ぶことこそ、兄弟を愛することです。そのように兄弟を愛して生きるところには、13節にあるように「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい」という勧めが生きてきます。「聖なる者たち」とはキリストの救いにあずかっている信仰者のことです。信仰者どうしの間で、貧しい人、困っている人を助け、支えを必要としている旅人を温かく迎えてもてなすという兄弟愛に生きるのです。共に主イエス・キリストを信じて生きている兄弟姉妹の間に、高ぶりやうぬぼれから解放され、相手を尊敬し、優れたところを喜ぶ愛の関係が築かれていくなら、その愛は信仰者どうしの間で留まるものではなく、迫害する者のために祝福を祈り、悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行っていくという実を結んでいくのです。そのようにして私たちは、すべての人と平和に暮らしていくための平和への道を歩んでいくのです。
善をもって悪に勝つ
主イエスに従って真実の平和への道を歩むためのこれらの教えの全体を一言でまとめているのが最後の21節です。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。悪に負けるとは、敵を憎み、呪い、復讐をしていくこと、高ぶりとうぬぼれに陥って人を軽蔑していくこと、兄弟を兄弟として愛することができないことです。その反対に、憎しみを乗り越えて敵を愛し、迫害する者のために祝福を祈り、兄弟姉妹を尊敬し優れたところを喜び合い、相手の気持ちに寄り添い思いを一つにしていこうとすることによって互いに愛し合う関係を築いていくことが、善をもって悪に勝つことです。善をもって悪に打ち勝っていくことこそが、真実な平和への道を歩むことなのです。しかし私たちが、自分の力や努力で善をもって悪に勝つことができるなどと思うとしたら、それこそ自分を賢い者とうぬぼれています。私たち自身の中にそのような力はありません。私たちがこの平和への道を歩むことができるとしたらそれは、主イエス・キリストが既にその道を歩んで下さり、善をもって悪に勝って下さったからです。主イエス・キリストは、神の独り子でありながら、人間となってこの世に生まれて下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪に打ち勝ち、赦しを与えて下さったのです。また主イエスはご自分を徹底的に低くして下さって、十字架の苦しみと死を味わって下さったことによって、私たちの苦しみや悲しみ、虚しさや孤独を受け止め、思いやり、私たちと共に喜び、共に泣いて下さる方となって下さったのです。十字架の苦しみと死への道を歩むことによって、悪に負けることなく、善をもって悪に勝って下さった主イエス・キリストが私たちの救い主です。この主イエスが、真実の平和への道を切り開いて下さったのです。この主イエスと共に歩むことによってこそ私たちは、真実の平和への道を、善をもって悪に打ち勝っていく道を、たどたどしい歩みながらも歩いていくことができるのです。11、12節に「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」とあります。善をもって悪に勝って下さった主イエスは、聖霊の働きによって共にいて下さいます。私たちはたゆまず祈ることによってその聖霊の力を受け、怠らず励み、霊に燃え、主に仕えていくことができます。希望を失わずに、主による喜びに支えられて、苦難の中で忍耐していくことができるのです。
主の再臨によって実現する平和を待ち望みつつ
復活して天に昇られた主イエスは、いつかもう一度来て下さり、今私たちはまだこの目で見ることはできないけれども、天において既に確立している主イエスのご支配を、つまり救いを、誰の目にも明らかに現して下さると約束して下さっています。その時にこそ、イザヤが語っていたあの完全な平和が実現するのです。「わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる」。主イエスの再臨において、この救いの完成が与えられるのです。クリスマスに備えるアドベントは、この主イエスの再臨による救いの完成を待ち望む信仰を新たにする時でもあります。二千年前にこの世に来られ、私たちの悪に負けることなく、善をもって悪に勝ち、私たちの罪の赦しのみ業を成し遂げて下さった主イエスが、いつかもう一度来て下さって真実の平和を完成して下さることを待ち望みつつ、私たちも、主イエスが切り開いて下さった平和への道を、忍耐と希望をもって歩み、たゆまず祈って聖霊の働きを受け、私たちの内にも外にも渦巻いている罪の力に善をもって打ち勝っていきたいのです。