「天に栄光、地に平和」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編 第98編1―9節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第2章1―21節
・ 讃美歌:260、271、262、267、261
天の栄光と地の平和
皆さん、教会のクリスマス讃美夕礼拝にようこそおいで下さいました。今宵皆さんとご一緒に、クリスマスの喜びを深く味わいたいと願っています。今日の私のクリスマス・メッセージの題は「天に栄光、地に平和」です。これは先程朗読されたルカによる福音書第2章におけるイエス・キリストの誕生の物語において、羊飼いたちに救い主の誕生を告げた天使たちが、神様を賛美して歌った歌からこの題は取られています。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と天の大軍が賛美を歌ったのです。この天の大軍こそ、クリスマスを祝って讃美歌を歌い、神様を礼拝した最初の者たちでした。今宵私たちが集っている賛美夕礼拝の起源がここにあるのです。
いと高きところつまり天の栄光と、地の平和とが結び合うところにクリスマスの喜びがあります。天とは神のおられる所ですから、天の栄光とは神の栄光です。そして地とは人間が生きている所です。天の神の栄光と、地を生きる人間たちの平和を天使たちは歌ったのです。しかし人間が生きている地の現実はこの時どうだったのでしょうか。
ローマの平和
ルカ福音書2章の1節に「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」とあります。イエス・キリストがお生まれになったのは、アウグストゥスがローマ帝国の皇帝であった時代でした。このアウグストゥスはローマの初代の皇帝と言われています。彼が皇帝と呼ばれる地位に着いたのは、それまで国内で長く続いてきた戦いに勝利し、内乱状態を収拾したことによってでした。彼の勝利によって、地中海沿岸の全域に及んでいたローマの支配体制が安定し、戦いの時代が終わり、平和が訪れたのです。そのようにしていわゆる「ローマの平和」(パックス・ロマーナ)を確立したのがこのアウグストゥスです。その平和は、ローマの圧倒的な軍事力を背景としたものでした。地の平和がローマによって訪れた、それが主イエスのお生まれになった時代だったのです。
ローマの平和の陰で
しかしそのローマの平和は、そこに暮らす人々にとって本当に喜ばしいものであったのかどうか。確かに、戦いが止み平和になって人やモノの行き来は盛んになり、経済的繁栄がもたらされ、人々の暮らしは豊かになり、安定していきました。ローマ帝国はその絶頂期を迎えようとしていたのです。しかしその陰で起っていたことを、このクリスマスの物語は語っています。全領土の住民に登録をせよとの勅令が皇帝から出た。住民登録の命令です。それは今の国勢調査とは違って、人々から税金を取るため、つまりローマの支配をより固めるためになされる登録です。その登録のために人々はそれぞれ自分の先祖の町へ行かなければならず、そのためにヨセフも、身ごもっていたいいなずけのマリアと共に、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムへと旅をしなければならなかったのです。直線距離でも百キロ以上ある道のりを、歩いてかせいぜいろばに乗って旅することは、身重の体であったマリアにとっても、彼女を守り支えるヨセフにとってもとてもつらいことだったでしょう。そしてその旅先のベツレヘムでマリアは月が満ち、初めての子を産んだのです。その子を「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とあります。泊まる場所がなかったために、生まれたばかりの赤ん坊を飼い葉桶に寝かせることになった、そこから、イエス・キリストは馬小屋で生まれたと言われるようになりました。馬小屋とはっきり語られてはいませんが、少なくとも、マリアは人が安心して寝泊まりできる場所で出産をすることが出来なかった、ということだけは確かです。それはとてもつらい、苦しい、惨めなことだったでしょう。皇帝の命令によって、支配されている民がこのようなつらい思いをしなければならない、しかも本当に苦しい思いをするのはいつも貧しい者たちです。支配者の命令に翻弄される貧しい人々の悲惨さがここに描かれているのです。皇帝アウグストゥスがもたらした地の平和、力によって維持される平和は、その陰でこのような苦しみ悲しみを人々にもたらしていたのです。その悲惨さのただ中で、イエス・キリストは生まれたのです。
力による平和を求める中で
私たちが今生きているこの地、この世界はどうでしょうか。戦後日本は、東西冷戦の中でアメリカの支配の下での平和(パックス・アメリカーナ)を享受し、その中でひたすら経済の発展に力を注ぎ、豊かな国になりました。しかしもはや時代は変わり、アメリカの一国支配の下で平和が守られるようなことはなくなりました。そういう変化の中で、わが国はアメリカの同盟国としてアジアの平和と安定に積極的に寄与する強い国にならなければならない、ということが盛んに語られています。現政権はその路線を強力におし進めており、先ごろ成立した「国家秘密法」もその一環であると言えるでしょう。これは要するに力によって平和を維持しようということであり、皇帝アウグストゥスの下での「ローマの平和」と本質において同じ平和を追い求めているのです。そのように力を求める歩みの中で、今この社会においては貧富の格差が広がり、弱い者、貧しい者がますます苦しみを受けるようなことになっています。クリスマスの物語に語られているのと同じことが、今私たちが生きているこの地においても起っているのです。
羊飼いたちの苦しみ
さて主イエスがお生まれになったその日に、羊飼いたちに天使が現れて、救い主の誕生を告げました。野宿しながら夜通し羊の群れの番をしていたこの羊飼いたちはやはり貧しい人々でした。これは私の勝手な想像ですが、彼らは自分たちが世話している羊の群れの所有者ではなくて、雇われてこの仕事をしていたのではないでしょうか。羊の群れを所有し、それによる利益を得ている人は別におり、その人は野宿しながら群れの番などせずに自分の家で温かい布団にくるまって眠っていたのではないでしょうか。つまり彼らは今日で言えば、下請けの労働者なのではないかと思うのです。さらに、羊というのは当時の社会に欠かすことのできない商品です。食料でもあり、皮製品の原料であり、宗教的儀式においても不可欠なものです。ですから牧畜は当時の主要な産業です。その産業を現場で支えているのは下請けの労働者たちであり、彼らが、野宿しながら夜通し羊の群れの番をするというつらい働きを負うことによってこの産業は成り立っている、羊飼いたちとはそのような人々なのだと考えることができるのではないでしょうか。これもまた、今日の私たちの社会において起っていることです。今特に思い起こされるのは、東京電力福島第一原発の事故において、その収拾のための作業に現場で直接携わっているのは、下請け、孫請け、さらにもっと五次六次に及ぶ下請けの作業員であるという事実です。責任者である東京電力もその実態を把握できていない状況の中で、下請けの人々が被爆の危険の中で、いや実際はどこまでの被爆なら許容できるかという現実の中で作業をしているのです。そのような、誰も本当はやりたくない作業をしているのはやはり貧しい人々です。原発事故によって生活が成り立たなくなった地元の人々も多く働いています。そういう弱い立場の人々の危険な作業に支えられて事故の収拾が行なわれているのです。そして私もあの事故以来いろいろな本を読んで原発の問題を学びましたが、原発というのはたとえ事故が起らなくても、いつも現場の作業員の被爆の危険なしには運転できないものなのです。そういう現場の労働者たちのつらい危険な労働によって、私たちが何げなく使っている電気が作られている、現代の社会が持っているそのような構造を、この羊飼いたちの姿に重ね合わせることができるのではないかと思うのです。
本当の平和とは
ヨセフとマリアが体験している苦しみも、この羊飼いたちが置かれている現実も、そこに本当の平和があるとはとても言えないものです。本当の平和とは、戦争がない、というだけのことではありません。聖書においてそれは、単に争いがないことではなくて、神様の恵み、祝福が満ち溢れている状態のことです。お互いの間に疑心暗鬼がある中で力の均衡によって平和が保たれているというのは、本当の平和ではないのです。たとえ戦争がなくても、憎しみがあり、争いがあり、分裂があり、相手への疑いがあるなら、また弱い者、貧しい者が苦しめられる現実があるなら、そこにあるのは平和ではなくて闇の支配、悲しみと絶望の支配です。それに対して本当の平和とは、そこに愛があり、赦しがあり、一致があり、信頼があることです。闇の中にいる者が光に照らされ、悲しむ者に喜びが与えられ、絶望ではなく希望に生きることができる、それこそが本当の平和なのです。天の大軍が歌った「平和」とはそのような平和です。しかし当時も今も、地を覆っているのはその平和とは違う見かけだけの平和、平和とは呼べないような平和なのです。
神の栄光によってもたらされる本当の平和
地に生きる私たちに本当の平和が確立するのは、天において神の栄光が確立することによってです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」という天使の賛美はそのことを語っています。天における神の栄光と、地における人間の本当の平和とは不可分の関係にあるのです。それは別の言い方をすると、地の平和は私たち人間の努力によって打ち立てられるものではなくて、天の神の栄光によってこそ実現する、ということです。憎しみがあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、分裂があるところに一致を、疑いがあるところに信頼をもたらし、闇を光で照らし、悲しみを喜びに変え、絶望から希望への転換をもたらすのは、私たちの力ではなくて、神の栄光、その力、お働きなのです。神の栄光が現されること、つまり神が神であられることが明らかになり、あがめられ礼拝される所でこそ、その神の栄光こそが地に平和をもたらすのです。私たちが自分の力で愛や赦しや一致や信頼を築き、平和を実現しようとしても、その試みは必ず挫折し、より深い絶望をもたらすでしょう。なぜなら、私たち人間には罪があるからです。私たちは生まれつき、神を崇め従うことなく、自分が主人となって、自分の思いによって生きようとしています。それが私たちの罪です。そのように神を大切にせず、自分中心に生きている私たちは、他の人々をも大切にすることができず、良い関係を築くよりもむしろそれを破壊してしまうのです。神に対しても隣人に対しても、愛するよりも憎み敵対する思いを持ってしまう、それが私たちの罪の現実です。その罪が、愛や赦しや一致や信頼を築き、平和を実現しようとする私たちをも支配しているのです。主イエス・キリストがこの地上にお生まれになったのは、そのような罪の支配の下にある私たちに、神の栄光を現し、その栄光の力によって救いを与え、私たちに本当の平和をもたらして下さるためでした。まさに天の栄光と地の平和とを結びつける方として、イエス・キリストはお生まれになったのです。だからクリスマスの夜に天使たちは、「天には栄光、地には平和」と歌ったのです。
平和の器とされて
イエス・キリストにおいて天の栄光と地の平和とはどのようにして結びつけられたのでしょうか。それを知るためにはイエスのご生涯の全体を見つめなければなりません。ベツレヘムの馬小屋で生まれたイエスは、最後は十字架につけられて殺されました。死刑に処せられてしまったのです。それはご自身が何か罪を犯したからではありません。イエス・キリストは、罪を犯すことのない神の子であられたのに、私たち人間の罪を全て背負って、私たちの身代わりとなって十字架の死刑を受けて下さったのだ、と聖書は語っています。神の独り子である主イエスが、私たちの罪を代りに背負って下さるために人となってこの世に生まれ、地上を人間として生きることによって私たちの弱さや苦しみ悲しみを味わい、そして私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪の赦しを実現して下さったのです。ここにこそ、神の本当の栄光が現されています。馬小屋での誕生から十字架の死に至るイエス・キリストのご生涯の全体において、神はご自身の栄光を現わして下さったのです。その栄光は、力による勝利を誇る皇帝の栄光とは全く違うものです。敵を打ち破るのではなく自分が犠牲になって他の人の苦しみや悲しみを担い、人の罪を赦し、殺すのではなくて新しく生かす栄光です。つまりイエス・キリストのご生涯を通して神は、栄光とは何かについての人間の常識を打ち砕き、全く新しい、神のまことの栄光をお示しになったのです。神はそのことによって、力を求め、勝利を求め、人よりも立派になることを求めている私たちの価値観を逆転させようとしておられるのです。ベツレヘムの馬小屋での主イエスの誕生は、この常識の転換、価値観の逆転のためのみ業の始まりでした。そして馬小屋での誕生から始まり十字架の死に至る主イエスの歩みによって神が示して下さったこのまことの栄光によって、地には本当の平和がもたらされるのです。その平和は、皇帝アウグストゥスの支配の下での「ローマの平和」の延長上にあるものではありません。人間の支配者に代って神が世界の国々を支配することによってもたらされるものでもありません。そのような、力による支配によってもたらされる平和ではなくて、この平和は、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったイエス・キリストを自分の主として信じ、心の中にお迎えした私たちが、主イエスによって示された神のまことの栄光に支えられて、平和の器となることによって実現していくのです。私たちが、憎しみがあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、分裂があるところに一致を、疑いがあるところに信仰と信頼を、誤りがあるところに真理を、絶望があるところに希望を、闇があるところに光を、悲しみがあるところに喜びを示し、もたらす者として、神によって用いられていくところに、この本当の平和は実現していくのです。それは私たちの努力によって成し遂げられることではありません。クリスマスにお生まれになった主イエス・キリストが、慰められるよりも慰めることを、理解されるよりも理解することを、愛されるよりも愛することを求めてこの世を歩み、そして十字架にかかって自らの命を与えて死んで下さり、それによって復活と永遠の命を生きる者となられた、その主イエスの下で、主イエスに従って生きていくことによって、主イエス・キリストに輝く神のまことの栄光の力が私たちに働いて、私たちを、地にまことの平和をもたらすための器として用いて下さるのです。天の栄光を信じる者が、地において平和の器として生きる、そのことを実現するために、主イエス・キリストは今宵お生まれになりました。天使の賛美に声を合わせ、私たちも今宵「天に栄光、地に平和」と歌いたいと思います。