主日礼拝

愛は滅びない

「愛は滅びない」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; サムエル記上 第16章5b-7節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第12章31-13章13節
・ 讃美歌; 241、243、201

 
聖霊の最高の賜物
 先週と今週、つまりアドベントの第一と第二主日に、コリントの信徒への手紙一の第13章からみ言葉に聞くことにしました。この第13章は、「愛の賛歌」とも呼ばれており、「愛」をテーマとしている所です。クリスマスに備えていくこの時、この箇所が読まれるのは相応しいことであると思うのです。
 先週も申しましたように、この13章は、12章からのつながりの中にあります。12章には、聖霊が与えて下さる賜物のことが語られていました。聖霊の賜物は人によって異なっています。聖霊の賜物を受けることによって私たちは、規格品のように画一化されるのではなく、それぞれの個性を生かされ、多様性をもって生きるようになるのです。しかし同時に、多様な個性を持つ私たちが、ばらばらになってしまうのではなく、統一のとれた一つの体の部分として生かされていく、それも聖霊の働きによることです。聖霊の働きによって私たちは、キリストの体である教会の部分とされ、それぞれに与えられている賜物をもって、互いに支え合い、いたわり合いつつ、一つの体を形造っていくのです。
 そのように語ってきたことを受けて、12章31節前半でパウロは、「あなたがたはもっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と言っています。今与えられている賜物だけで満足してしまわないで、聖霊によってもっと大きな賜物をいただけるように願い求めなさいというのです。そして31節後半では、そのための最高の道を教えます、と言って13章に入ります。12章と13章はこのように途切れることなくつながっているのです。13章は最初に申しましたように愛をテーマとしていますが、「愛とは何か」という一般論を語っているのではありません。聖霊によって与えられる最高の賜物としての愛について語っているのです。

愛は忍耐
 この13章の7節までを先週の礼拝において読みました。その4~7節には、愛とはどのようなものかが語られていました。そこに語られていることは、私たちが愛とはこのようなものだと通常考えることとはかなり違っていました。最初の「愛は忍耐強い」ということだけをとりあげてもそれがわかります。愛するとは、相手のことを忍耐することだというのです。私たちは愛するというと、自分の好きな人、気の合う人、友達を積極的に愛することとして考えがちですが、ここで教えられている愛は、むしろ気に入らない相手、対立する相手に対する忍耐であり寛容なのです。最後の7節にもそれが現れています。「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。「忍び」と「耐える」を合わせれば「忍耐」です。それにはさまれて、「信じる」と「望む」があります。この「信じる」は神様を信じることではなくて、相手を信頼し続けることであり、「望む」も神様に望みをかけるのではなくて相手との関係に希望を抱き続けることです。愛とはそのように、相手のことを忍耐し、信頼し続け、希望を失わないことだと教えられているのです。私たちはこのような愛をもともと自然に持ってはいません。それは聖霊によって与えられる最高の賜物です。聖霊がこのような愛を与えて下さるように、私たちは祈り求めていくのです。

永続するものと廃れるもの
 聖霊の最高の賜物は愛であると申しましたが、聖霊の与える様々な賜物の中で最高のものが愛だ、と言われているのかというと、それは少し違います。愛は、他の様々な賜物と並べて比較することができるようなものではなくて、他の賜物とは本質的に異なるものなのです。そのことが8節以下に語られています。8節に「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」とあります。預言、異言、知識というのは、12章で見つめられてきた聖霊の賜物です。それらと愛とは本質的に違うのだということがここに語られています。その違いは、それらの賜物は廃れていくものであるのに対して、愛は決して滅びない、永続するものだということです。この「廃れていく」と「永続する」という違いが、他の様々な賜物と愛との間にはある。そこに、愛という賜物の特殊性があるのです。

廃れていく賜物
 私たちは、自分にはどんな賜物が与えられているか、ということをいつも気にしています。自分にはどんな力、才能があるか、何ができるか、そしてその賜物をどれくらい発揮することができているか、それが私たちの主要な関心事であると言えるでしょう。そして12章に語られていたように、私たちはその自分の賜物を人の賜物と比較して、誇り高ぶったり、僻んでいじけたりします。そのように自分の賜物のことで一喜一憂しているのが私たちの毎日なのではないでしょうか。コリント教会の人々もまさにそうでした。彼らは、預言を語ることができる、異言を語ることができる、信仰における知識を持っているという賜物を喜び、誇り、それらにこだわっていたのです。しかしパウロはここで、コリントの人々が、また私たちが気にしている賜物は全て、滅び廃れていくものであって、永続するものではない、と言っています。自分に何ができるか、どんな力があるか、という賜物は、時が経つにつれて失われていくのです。そのことが一番はっきりするのは老いにおいてでしょう。若い頃にはできたことが、年をとるにつれてできなくなっていく、ということを誰でも感じるのです。自分に残されている賜物はもう僅かしかないという寂しさ、焦りを覚えておられる方も多いことと思います。何ができる、どんな力がある、という賜物は、必ず失われていくものなのです。

完全なものが来る
 けれども、パウロがここで、様々な賜物は廃れていくと言う時に見つめているのは、時を経て古くなっていくとか、年老いて力が失われていく、ということとは違います。9、10節にこうあります。「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」。知識や預言という賜物が廃れていくのは、それが「部分的なもの」だからなのです。何ができる、どんな能力がある、という賜物は全て「部分的なもの」であって、「完全なもの」ではないのです。私たちはそのことをよく知っているつもりです。自分は何かを完全にできる、などと思っている人はいないでしょう。私たちが出来ることや知っていることは部分的であって完全ではないのは、今さら言われる必要もない常識です。しかし、だからそれが「廃れていく」というのはどうなのでしょうか。私たちは、自分の賜物が完全でなく部分的であることを知っています。そこで私たちが普通考えることは、そういう不完全な賜物を少しでも完全に近づけていく努力が大事だ、ということです。また、一人の賜物は部分的でも、多くの人の賜物を集めれば、より完全に近づくことができる、ということです。つまり部分的だからといって「廃れる」わけではない。部分的なものが、より完全なものを目指して努力していくことが大事なのだ、と私たちは普通考えるのではないでしょうか。しかしパウロは、部分的なものは廃れる、と言っています。そこでパウロが見つめているのは、「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れる」ということです。部分的なものが廃れるのは、完全なものが来たときなのです。次第に古くなって廃れるのでも、私たちが年老いて廃れるのでもなくて、完全なものが来ることによってそれらは廃れるのです。それは譬えて言えば、夜の暗闇の中では懐中電灯は役に立つけれども、太陽が昇ればもういらなくなるようなものです。私たちが様々な形で与えられている賜物は、その懐中電灯のようなもので、日が昇ることによってそれは不要になるのだとパウロ言っているのです。つまりパウロが「私たちに与えられている賜物は部分的なものだ」と言うことによって語ろうとしているのは、「だから完全を目指して努力していこう」ということではなくて、「完全なものが来る」ということなのです。先程の譬えを用いるならば、私たちが通常考えることは、懐中電灯の電池をより強力なものにしたり、みんなの懐中電灯を集めて、できるだけ明るい光を得よう、ということであるのに対して、パウロが言っているのは、「もうすぐ日が昇る」ということなのです。懐中電灯は、夜の闇の中ではとても役に立つものです。そのことはパウロも認めています。預言、異言、知識などの賜物はそれなりに意味があるし、そういう賜物が結集されて、教会はキリストの体として整えられていくのです。けれども、そういう賜物が磨かれ、さらに結集されることによって、キリストの体が完成するのではありません。懐中電灯を何万本集めても太陽にはならないのです。キリストの体は、太陽が昇ることによってこそ完成します。その時には、私たちが持っている懐中電灯はもういらなくなるのです。キリストの体が完成する時、即ち私たちの救いが完成し、神の国が来る時には、私たちに与えられている様々な賜物は用済みになるのです。いらなくなるのです。自分はあれができる、こういう能力がある、という賜物にこだわっている人々に向かってパウロはこのことを語りかけています。あなたがたがこだわっている賜物は、この世における歩みにおいてのみ意味があるのであって、救いが完成し、神の国が来る時には、それらのものは全て脱ぎ捨てて、裸になって神の国に入るのだ、と言っているのです。

「今」と「そのとき」
 様々な賜物は、今この時、地上を歩む私たちにとっては意味のあるものだが、完全なものが来た時にはそれらはいらなくなる、廃れる、そのことをパウロは、二つの譬えを用いて語ります。一つは11節の「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた」ということです。この言葉を、「幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない」という主イエスのみ言葉と結びつけて、「成人した今は幼子のことを棄てて不純になってしまった」と読んでしまってはなりません。そうではなくてこれは、大人になれば当然大人としての生き方があるのであって、いつまでも子どものままではいけない、と言っているのです。そのことが、今のこの地上での様々な賜物による歩みと、完全なものが来た時との対比に用いられているのです。つまり私たちが、自分の賜物にいつまでもこだわり、固執するのは、いつまでたっても子どものままで大人になろうとしないのと同じだということです。12節には、鏡の譬えが用いられています。当時の鏡は現在の鏡のように物をクリアーに映すものではなかったようで、「鏡におぼろに映ったものを見ている」と言われています。おぼろげにしか見えていないのが今の私たちの歩みだ、しかし完全なものが来る時には、顔と顔とを合わせて、真近に、はっきりと見るようになるのだ、というのです。このようにパウロは、「今は」と「そのときには」という対比をしています。今のこの地上における歩みは、それぞれに与えられている様々な賜物による歩みです。しかし、「そのとき」つまり完全なものが来る時、神の国が来る時、即ち世の終わりには、それらの賜物は用済みになり、廃れるのです。

愛は滅びない
 そしてこのように、私たちが持っている様々な賜物が部分的であり廃れていくものであることを力をこめて語っているのは、それらの賜物と愛という賜物との違いを強調するためです。全ての賜物が廃れていく中で、愛だけは、決して滅びない、廃れることはないのです。
 しかし、愛は決して滅びないというのは本当でしょうか。「必ず最後に愛は勝つ」という歌がありますけれども、そんなこと簡単に言えるのでしょうか。私たちの経験は、それとは反対のことを教えているのではないでしょうか。自分の愛はいつまでも滅びない、などと言うことができる人などいないでしょう。私たちの愛はいかにうつろいやすく、失われやすいものであるかということを私たちはいやという程知らされています。私たちが持っている愛に関して、「愛は決して滅びない」などと言うことはとうていできないのです。しかし先程から申していますように、この愛は私たちがもともと自分の内に持っている愛ではありません。聖霊の賜物である愛です。聖霊が与えて下さる愛です。その愛は滅びることがないと言われているのです。その愛はなぜ滅びることがないのでしょうか。それを考える上で大事なのは12節の後半です。「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」と言われています。今は一部しか知らない、それは、私たちの知識は部分的なものでしかない、ということです。しかしその時には、はっきり知ることになる。完全なものが来た時には、全き知識が与えられるのです。これは私たちの知識が完全なものになるという話のように思われます。しかしそこに、「はっきり知られているように」とあることが大事です。私たちの知識のことなら、それは私たちがいろいろなことをどこまで知っているか、ということが問題なのです。しかしパウロはここで、私たちは「知られている、しかもはっきりと、(これは前の口語訳聖書では「完全に」と訳されていました)知られている」ということを見つめているのです。本日共に読まれた旧約聖書のサムエル記上16章7節に「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」とありました。目に映ることだけでなく心によって人を見る神様は、私たちの心の中まで全てを知っておられるのです。私たちが人には見せずに隠している全ての罪をも、神様は知っておられるのです。それらを全て知っておられる神様が、独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの罪を、人には隠していても神様には全てお見通しであるその罪の全てを、赦して下さったのです。ですから、神様が私たちをはっきりと完全に知っておられるというのは、言い換えるならば神様が私たちを愛しておられるということです。神様にはっきり、完全に知られているというのは、神様にはっきり、完全に愛されているということなのです。聖霊が与えて下さる賜物である、滅びることのない愛とは、この主イエス・キリストにおける神様の愛です。聖霊によって私たちは、この神様の、独り子イエス・キリストにおける滅びることのない完全な愛を知らされるのです。自分が、この完全な愛によって愛されていることを知らされるのです。それこそが、聖霊の与えて下さる最高の賜物なのです。

神と隣人を愛して生きる
 神様に愛されていることを知らされた私たちは、自分も神様を知り、愛して生きる者となります。そして神様を愛するなら、神様が愛しておられる人間を、隣人を愛する者となっていくのです。それが信仰者となることです。しかし私たちが神様を知る知識も、神様と人を愛する愛も、まことに部分的であり、不完全なものです。この地上を生きる限り、私たちが神様を知ることは全く不完全であり、愛することも全く不完全なのです。しかしそのことは、私たちと神様との関係において何の妨げにもなりません。私たちがどれほど不完全な、不十分な者であっても、神様は私たちのことを完全に知っていて下さり、完全な愛をもって愛していて下さるのです。だから私たちは安心して、まことに不十分な、不完全な愛だけれども、神様を愛し、人を愛していくことができるのです。それが私たちの信仰者としての歩みなのです。

信仰、希望、愛
 様々な賜物は滅び廃れていくが、愛だけは決して滅びない、というのは、愛と他の賜物とを比べてどちらが優れているか、という話ではありません。愛は、神様が主イエス・キリストにおいて私たちを完全に知っていて下さり、愛していて下さる、そのことに支えられた、私たちと神様との滅びることのない関係なのです。他の全ての賜物は、この関係の中でこそ生かされます。私たちが持っている賜物、私たちの力、私たちに出来ることというのは、どんなに優れているとしても、不完全な、部分的な、廃れていくものでしかありません。「愛する」ということにしても、私たちが神様と人をどれだけ愛することができるか、という意味では、それも一つの不完全な、部分的な、廃れていく賜物でしかありません。見つめるべきことはその私たちの愛ではなくて、神様が、独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、その十字架の死と復活とによって私たちの罪を全て赦して下さっているということ、つまり神様が私たちを完全に知っておられ、その上で徹底的に愛していて下さるということです。聖霊の働きによって私たちはそのことを知らされ、信じる者となります。信仰も聖霊が与えて下さる賜物なのです。そして信仰は私たちに希望を与えます。今は、神様のことをまことに不十分にしか知らず、愛することにおいても欠けだらけの者だけれども、完全なものが来る世の終わりの日には、「はっきり知られているようにはっきり知ることになる」、つまり、神様が今私たちのことを完全に知っていて下さるのと同じように、私たちも神様のことを完全に知り、愛するようになることが約束されているのです。今は神様の側の恵みによってのみ支えられている私たちと神様との交わりが、完全なものになるのです。私たちはそのことを待ち望みつつ生きています。その希望も聖霊の賜物です。そしてそれらすべての中心にあるのが、主イエス・キリストによって私たちに注がれている神の愛です。「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。聖霊は私たちに、この信仰と希望と愛を与えてくれます。その恵みの中で私たちは、私たちの不完全さ、欠け、罪にもかかわらず、最も大いなるものである愛に生きる者とされていくのです。主イエス・キリストが私たちの救い主としてこの世に来て下さって、決して滅びることのない神様の愛を示し与えて下さったことを喜び、記念するクリスマスに向けて備えつつ歩む今、聖霊の賜物である愛を熱心に祈り求めていきたいのです。

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