「福音の真理に従って」 伝道師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:ヨシュア記 第1章5-9節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第2章11-14節
・ 讃美歌260、271、517
真理を問う
2019年最後の主の日を迎えました。私たちは先週22日にクリスマス礼拝を守り、神の独り子である主イエス・キリストが私たちの救いのために、この世へと、私たちのところへと来てくださったことを喜び祝いました。また24日にはクリスマス讃美夕礼拝を守り、多くの方々と共にクリスマスの恵みと喜びを分かち合いました。私たちはクリスマスの豊かな恵みの中を歩みつつこの年最後の主の日を迎えているのです。またクリスマス礼拝では、受洗者が与えられ私たちの群れへとお迎えすることができました。洗礼によって、私たちは罪の赦しに与り、古い自分に死にキリストに結ばれて新しい自分に生き始めます。この世に生を受けた誕生日があるように、キリスト者として新しく生き始めた誕生日があります。クリスマス礼拝で洗礼を授かった方々は、この日がキリスト者としての誕生日であり、それゆえキリスト者として生まれたばかりと言うことができるでしょう。しかし生まれたばかりだからといって不安になる必要はありません。この新しい歩みはキリストが共にいてくださる歩みであり、キリストに結ばれることによって与えられた神の家族の交わりの中にある歩みだからです。クリスマス礼拝後の愛餐会では受洗50周年を迎える方々を覚えましたが、この方々はキリスト者として50歳の誕生日を迎えたと言えます。先にキリスト者として歩み始めた人たちは、それぞれにキリスト者としての誕生日を重ねてきていますが、先週の洗礼式を見守りつつ、自分が洗礼を授かったときのことを想い起こしていたのではないでしょうか。それは、自分の人生が決定的に変わった出来事であり、新しい人生を歩み始めた出来事だったからです。しかし一方で、洗礼を授かる前と後で、自分の人生が大きく変わったという方は少ないと思います。多くの方は新しい人生を歩み始めたというよりも、それまでの人生の延長線上を歩んでいたとお感じになっているのではないでしょうか。けれども確かに洗礼において決定的なことが起こったのです。洗礼において起こる決定的なのこととは何でしょうか。本日お読みしたガラテヤの信徒への手紙第2章11~14節は、このことを問うていると言うことができます。ここでは「福音の真理」が問われているのです。私たちの「救いの真理」が問われているとも言えます。
共同の食事
この箇所でパウロは、最初の教会の歩みにおいて起こったある事件について語っています。それは、ケファと呼ばれているペトロとパウロが衝突した事件であり、しばしば「アンティオキアの衝突」と呼ばれます。この衝突そのものに目を向ける前に、この事件が起こった背景を見ておきたいと思います。
ペンテコステに最初の教会が誕生しましたが、最初にキリスト者になったのはユダヤ人たちでした。ペトロとパウロもそのような人たちであり、キリスト教はユダヤ教の中から生まれてきたのです。しかし次第に異邦人の中からもキリスト者になる人たちが生まれてきました。パウロは特にその異邦人への伝道のために神さまに用いられたのです。私たちは異邦人と聞くと、自分たちにとっての異邦人、国が異なる人たちを思い浮かべがちですが、聖書で言う異邦人はユダヤ人ではない人のことであり、私たちもまた異邦人です。異邦人への伝道によって福音が世界へと広がっていき、私たちは今その先端にいるのです。ですから最初の教会において始まった異邦人への伝道は私たちと無関係なのではなくむしろ深く結びついているのです。このようにして、ユダヤ人から、そして異邦人からキリスト者が生まれてきました。そのような中で、中心的な教会の一つであったアンティオキア教会では、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が混ざっていました。ユダヤ人と異邦人が共に一つの教会を形作っていたのです。この教会の指導的立場にいたのがパウロとバルナバです。そしてそこでは、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が共に食事をしていました。共に食事をすることは一体感の現れであり、同じ信仰による交わりのしるしです。私たちも教会の様々な営みの中で共に食事をすることを大切にしています。しかし初期の教会では、ユダヤ人と異邦人が共に食事をすることには大きな妨げがありました。それは、ユダヤ教の戒めにおいては異邦人と一緒に食事をすることが禁じられていた、ということです。しかしアンティオキア教会はこの大きな妨げを乗り越えて、ユダヤ人と異邦人が共に食事をしていたのです。それはパウロたちが、キリスト者となり教会のメンバーとなるために、ユダヤ教の戒めを守る必要はない、という信仰に立っていたからです。
パウロとペトロの衝突
11節に「ケファがアンティオキアに来たとき」とあります。ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が共に食事をしているアンティオキア教会に、ケファ、つまりペトロがやって来たのです。その理由はなにも書かれていませんが、大きな妨げを乗り越えてユダヤ人と異邦人が共に食事をしているアンティオキア教会の様子を見に来たのかもしれません。12節から分かるように、アンティオキア教会に来たペトロは、異邦人と共に食事をしていました。ですからペトロも、キリスト者となり教会のメンバーとなるためにユダヤ教の戒めを守る必要はない、というパウロと同じ信仰に立っていたのです。しかし彼は、ヤコブのところからある人々がやって来ると、割礼を受けている者たち、つまりユダヤ人キリスト者を恐れて、異邦人と共に食事をすることから離れていったのです。ヤコブは、もう一つの中心的な教会であったエルサレム教会の指導者であり、キリスト者もユダヤ教の戒めを厳格に守るべきだという信仰に立っていました。このヤコブのところにいたある人々がアンティオキア教会にやって来たのです。おそらくヤコブを中心とするエルサレム教会の人たちは、ユダヤ教の戒めを守らずにユダヤ人と異邦人が共に食事をしているアンティオキア教会を警戒して、実情を調べに来たのです。ペトロが恐れたのは、彼が異邦人と食事をしていることがほかのユダヤ人キリスト者に知られて批判されることでした。またヤコブのところから来た人々と揉めることによって生じる悪影響を恐れたのかもしれません。「しり込みし、身を引こうとしだした」とありますが、これは「次第に身を引いて離れていった」とも訳せます。ペトロはそれまでパウロと一致した信仰に立っていたにもかかわらず、ある人たちが来ると異邦人と食事をすることから「次第に身を引いて離れていった」のです。「次第に」からも分かるように、それは信仰に立った確固とした行動というより、状況に合わせて徐々にとった場当たり的な行動でした。このようなペトロの行動はアンティオキア教会に大きな影響をもたらしたのです。13節に「ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずりこまれてしまいました」とあります。彼の行動は、彼一人にとどまらずアンティオキア教会のほかのユダヤ人キリスト者にまで及んだのです。彼らもペトロと同じように異邦人キリスト者と共に食事をしていました。しかしペトロに引きずられるようにしてそこから身を引いたのです。「一緒にこのような心にもないことを行う」とは「一緒に偽りを行う」ということです。それは、本心に背いて首尾一貫しない行動を取ることを意味します。彼らは、本心では戒めを守ることによって救われるのではないと思いつつも、現実的な判断によって妥協し、ユダヤ教の戒めにしたがって異邦人キリスト教徒と共に食事をすることから離れるという行動を取ったのです。パウロと共にアンティオキア教会の指導者であったバルナバですら、この偽りの行いに引きずり込まれてしまいました。このようなペトロの首尾一貫しない行動、偽りの行いに対して、パウロは11節にあるように「面と向かって反対した」のです。「面と向かって」という言葉は、軍隊用語でもあり、間近で互いに向き合ってはっきり強く抵抗することを意味します。また「反対した」は文字通りには「反対して立つ」ことを意味します。これらの言葉から分かるように、ペトロの行動に対してパウロは明確にNOを突きつけて反対したのです。
なぜパウロはここまで厳しく反対したのでしょうか。それは、ユダヤ人キリスト教徒が異邦人キリスト教徒と共に食事をすることから離れていけば、異邦人キリスト教徒は教会の交わりから締め出されてしまうからです。交わりから締め出されないためには、彼らは割礼を受けてユダヤ人になるしかありません。割礼を受けることによって教会の交わりに加えられるということは、割礼を受け律法を守ることによって救われるということにほかなりません。14節で、パウロはこのことを非難して皆の前でペトロに「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」と言っています。これは、単にペトロがアンティオキア教会で異邦人キリスト教徒と共に食事をしたことを言っているのではなく、彼が元々は、ユダヤ教の戒めを守ることによって救われるのではないという信仰に立った生活を、つまり「異邦人のような生活」をしていたことを言っているのです。パウロだけでなくペトロも元々は律法なき福音に生きる生活をしていました。それなのに、ペトロが異邦人と共に食事をすることから離れることによって、異邦人キリスト者は教会の交わりから締め出されてしまい、割礼を受けることを強要されるようになったのです。「異邦人にユダヤ人のように生活をすることを強要する」とは、彼らに割礼を強要するということです。自分は割礼によらない救いに与って歩んでいるのに、異邦人には救いに与るために割礼を強要する。それは、首尾一貫しない、偽りの行いなのです。
あなたの人生には意味がある
パウロはこのことを決して見過ごすことができませんでした。彼にとって、救いは割礼を受けることによってではなく、つまり律法を守ることによってではなく、ただ神さまの一方的な恵みによって与えられるものだからです。割礼を受け律法を守ることによって救われるのではなく、神の恵みによって救われることこそ「福音の真理」です。ペトロの行動は、この「福音の真理」を破壊してしまうことになるのです。
「福音の真理」と言われると、頭の中だけで考える思想のようなものに思えるかもしれません。しかしこの真理は、まさに私たちを生かし、私たちの日々の歩みを支えるのです。私たちは、割礼を受けたか受けていないかについて問題にすることはありませんし、割礼を受け律法を守ることによって救われるとも考えていません。しかしパウロが見過ごすことができなかったこの問題は、形を変えて現代を生きる私たちにも突きつけられているのです。なぜなら割礼を受け律法を守ることによって救われるとは、行いによって救われることにほかならないからです。この行いによる救いという誘惑に私たちは絶えずさらされています。そしてこの誘惑は決して小さいものではないのです。それは、行いを積み重ねることによって得る救いのほうが、行いによらない救いよりも私たちの感覚に合っているからです。どれだけ行ったのかという「ものさし」は、私たちの感覚に合っています。この「ものさし」によって私たちの社会の実に多くのことが計られているのです。私たちは日々この「ものさし」によって自分自身に問いかけています。自分はどれだけ成し遂げられたのだろうか? どれだけ得ることができたのだろうか? 自分自身で問うだけではありません。周りからも、あなたはどれだけ成し遂げたのか? どれだけ得られたのか? と問う声が投げかけられているのです。この「ものさし」によって生きている私たちが求めるのは、失敗することより成功することのほうが多い人生、失うことより得ることのほうが多い人生です。私たちが生きる意味は、どれだけ成し遂げたか、どれだけ得られたかにかかっているのです。しかし生きる意味がこのことだけにかかっているならば、絶えずなにかを成し遂げ、得るために生きなくてはなりません。なにも成し遂げられないならば、得られないならば、生きる意味を失ってしまうからです。生きる意味を失うことを恐れ、私たちは成果や業績を積み重ねようとするのです。そのような恐れによって私たちは、ほかの人をかえりみることなく自分の成果や業績を追い求めるのです。けれどもパウロが告げ知らせている「福音の真理」は、この「ものさし」とはまったく異なる「ものさし」を持っています。それは、神の一方的な恵みによる救いという「ものさし」です。恵みによる救いにおいて、私たちがどれだけ成し遂げたのか、どれだけ得られたのかが問われることはありません。「福音の真理」は、私たちがどれだけ成し遂げたか、得られたかに関わりなく、神さまが「あなたの人生には意味がある、あなたの人生は決して無駄ではない」と語ってくださっていることです。それは、私たちの生きる意味が行いにかかっていないということです。順境のときも逆境のときも、いついかなるときも恵みによる救いこそが私たちに生きる意味を与え、私たちを生かし、私たちの日々を支えているのです。
労苦を担う
しかしここで一つの疑問が思い浮かぶかもしれません。行いが私たちの救いに関係なく、私たちの人生の意味が行いによらないのであれば、私たちは無気力になって頑張らなくなるのではないか、という疑問です。あるいは、行いによらないと言われても、実際人生においては、頑張らなくてはいけないことがたくさんあるのではないか、という疑問です。しかし私たちの救いが行いによるのではなく神の恵みによるということは、私たちを無気力にさせるのでも、頑張る意欲を失わせるのでもなく、むしろ安心して頑張ることへと私たちを導くのではないでしょうか。もし救いが行いにかかっているとしたら、どんなに頑張っても、その頑張りは安心から生まれたものではなく恐れから生まれたものです。恐れから生まれた頑張りは、自分は救われるだろうかという不安から私たちを解放することはありませんし、恐れに駆られた頑張りは、隣人を傷つけ追い落とすことにためらいがありません。けれども救いが、私たちの成果や業績や功績によらないとき、私たちは恐れからではなく、救いによって与えられているまことの平安によって、安心して頑張ることができるのです。安心して、今自分に与えられている務めを、責任を果たすことができるのです。それは同時に、頑張れなくなったとき、責任を果たせなくなったとき、安心してその務めを終えることができるということでもあるのです。ペトロを面と向かって非難したパウロは、救いは行いによらないということを、「福音の真理」を決して譲りませんでした。しかしだからといって彼は無気力であったわけでも頑張る意欲を失っていたわけでもありません。むしろ彼は異邦人に福音を伝えるために多くの労苦を担ったのです。コリントの信徒への手紙二11・23節でパウロは「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした」と自分が担った労苦を語り始めます。「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」と語っています。しかしこれらの苦労はパウロが救われるための苦労ではありません。これだけ苦労をしたから自分は救われたと、パウロは語っているのではないのです。そうではなく神さまの一方的な恵みによって救われたパウロが、その救いに感謝し神さまにお応えして生きていくときに担った労苦が語られているのです。パウロは「主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」とも言っています。私たちは自分の労苦や頑張りを誇るのではなく、主イエス・キリストの十字架を誇るのです。なぜなら主イエス・キリストの十字架による救いこそ、私たちに生きる意味を与えるからです。私たちは行いを積み重ねることによって救いを得ることから本当に自由にされるとき、自分は救われるだろうかという恐れから本当に自由にされるとき、安心して労苦を担うことができます。人と比べるのではなく、それぞれに神さまから与えられている賜物を用いて、神さまにお応えして与えられた労苦を担って歩んでいくことができるのです。
「福音の真理」に従って
14節でパウロは、ペトロやほかのユダヤ人キリスト教徒が「福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていない」のを見たと言っています。「まっすぐ歩く」とは、「よろめかないでしっかりと歩く」ことです。ペトロは「福音の真理」に立っていなかったわけではありません。元々「福音の真理」に立っていたのに、人間の思いによって妥協し右に左によろめいたのです。もちろん妥協することがいつも間違っているということではありません。自分の考えばかり押し通すのではなく、相手の考えも聞き折り合いをつける柔軟さも必要です。パウロもそのような柔軟さを持ち合わせていました。彼は割礼そのものを必ずしも悪いと言っていたわけではありません。弟子のテモテには、ユダヤ人を躓かせないために割礼を授けました。けれども彼は、割礼によっては救われないということ、つまり「福音の真理」については決して譲らなかったのです。パウロがガラテヤ教会の人たちに書いた手紙で、「アンティオキアの衝突」について語っているのは、ただ歴史的事実としてこの衝突について伝えたかったからではありません。ガラテヤ教会の人たちが、「アンティオキアの衝突」におけるペトロのように、元々「福音の真理」に立っていたのにぐらぐらとよろめいて、この真理を譲ろうとしていたからです。パウロは、ガラテヤ教会の人たちに「福音の真理にのっとってまっすぐ歩きなさい」と伝えているのです。そうであるならば私たちも「福音の真理」を譲ってはなりません。私たちはこの真理に立って、右にも左にもよろめくことなくしっかり歩んで行くのです。
「福音の真理にのっとってまっすぐ歩く」とは、「福音の真理」に向かってまっすぐ歩くことでもあります。福音に生きるというのは、どんなときでも「福音の真理」に向かってまっすぐ歩くことなのです。ですから福音に生きるとはシンプルなことです。私たちの救いは行いではなく神の恵みによるという「福音の真理」に向かって、ただひたすらまっすぐ歩き続けるのです。洗礼によって、私たちは「福音の真理」に従って歩み始め、「福音の真理」に向かって歩き始めます。洗礼において与る主イエス・キリストの十字架の死による救いは、私たちの人生に意味を与えます。私たちは人生の意味を自分で見いだす必要はありません。人生の意味を見失って不安になる必要もないのです。「福音の真理」こそ、私たちの人生を根本から支えています。成果や功績や業績に関係なく、神さまが私たちに「あなたの人生には意味がある。あなたの人生は決して無駄ではない」と語ってくださっていること。この「福音の真理」が、今日も私たちを生かし、支えているのです。この「福音の真理」に従って、新しい年も私たちは揺らぐことなくまっすぐ歩んで行きたいと願います。