主日礼拝

私たちを救うために

「私たちを救うために」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:イザヤ書 第52章13-53章12節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第1章1-5節
・ 讃美歌:151、326、474

<前書き>
 ガラテヤの信徒への手紙に限らず、パウロの手紙はどの手紙も前書きの部分を持っています。その前書きには、手紙の差出人と受取人、そして挨拶の言葉が記されています。このことは私たちが手紙を書いたり、メールを送ったりするときも同じですから、コミュニケーションツールが大幅に進歩しても基本的には2000年前と変わらないことがあるのだと思わされます。1、2節によれば、ガラテヤの信徒への手紙の差出人はパウロであり、また彼と一緒にいる兄弟一同も含まれます。一方、受取人はガラテヤ地方の諸教会です。私たちの手紙やメールがある特定の人に向けて書かれるのと同じように、ガラテヤの信徒への手紙も特定の人々、つまり紀元50年代に特定の状況にあったガラテヤ地方の諸教会の人々に向けられたものです。しかし一方でガラテヤの信徒への手紙は、キリスト教会の歴史の中で、その時代その時代を生きる人々に向けて語られたみ言葉として読まれてきました。たとえばこの手紙は、ルターの宗教改革のきっかけの一つであり、また宗教改革を進めていく力となりました。ですから私たちもこの手紙を、今を生きる私たちへ語られているみ言葉として、私たちの歩みを導き、力づけ、慰めるみ言葉として聴いていきたいと願います。
 先ほど申しました通り、1-5節は手紙の前書きにあたり、本文は6節から始まります。しかし前書きなので決まりきったことしか書かれていないかといいますと、そうではありません。すでに前書きにおいて、差出人や受取人、挨拶の言葉と組み合わされて、パウロがガラテヤ教会の人々に伝えたいことが織り込まれています。つまり本文で詳しく述べられる重要な事柄が先取りされているのです。

<使徒パウロ>
 1節に「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」とあります。原文の順序では、最初に「使徒パウロ」とあり、その後に「人々からでもなく、人を通してでもなく」と続き、さらに「イエス・キリストと父なる神によって」と文章が続きます。ですからこの手紙の冒頭には「使徒パウロ」と書かれているのです。私たちもまず使徒パウロへと目を向けたいと思います。パウロはかつてサウロという名で教会を迫害していました。しかし劇的な回心によって伝道者となりました。異邦人に福音を告げ知らせるために伝道の旅に出かけ、小アジアやギリシャに教会を建てました。それらの教会に宛ててパウロは手紙を書いていて、その多くは冒頭に「使徒パウロ」と記されているのです。この「使徒」という言葉は、もともとはある人の代理として遣わされた者、つまり使者という意味です。パウロもコリントの信徒への手紙二8・23やフィリピの信徒への手紙2・25では、そのような意味で「使徒」という言葉を用いています。しかしキリスト教会において、「使徒」という言葉は特別な意味を持つようになりました。「使徒」とは、イエス・キリストの使者であると考えられるようになったのです。つまりイエス・キリストによって任命され伝道のために遣わされた者が、「使徒」なのです。パウロが使徒であるということについて、私たちはあまり疑問を持ちませんが、ガラテヤ教会の人たちはパウロが本物の使徒なのか疑いを持っていました。その疑いを晴らすことが、パウロがこの手紙を書いた一つの動機であったのです。

<使徒であることの根拠>
 本物の使徒であるとはどういうことか。言い換えれば、使徒であることの根拠が問われていたのです。パウロは、使徒であることの根拠は復活した主イエスが出会ってくださったことにあると理解していました。コリントの信徒への手紙一15:5以下でパウロは「ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」と述べています。このように、復活した主イエスが自分に出会ってくださり、自分を使徒として立ててくださったのだとパウロは言っているのです。このことはパウロだけの理解ではなく、ガラテヤの教会の人たちも共有していた理解です。彼らはパウロが復活した主イエスに出会っていないと考え、本物の使徒ではないと疑った、というのではありません。そうではなく彼らは復活した主イエスに出会うことに加えて、本物の使徒であるためにはエルサレム教会の指導者の権威によって認められる必要もあると考えていたのです。
 そのようなガラテヤ教会の人たちの考えに対してパウロは反論しています。それが「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」という文章です。「人々から」というのは、主イエスではなく別の人(々)によって「使徒」と任命されたということで、「人を通して」というのは、主イエスから直接ではなく、誰か橋渡しする人を通して「使徒」として任命されたということであると考えられます。いずれも、エルサレム教会の指導者たちのことを意識して語っているのです。しかしここでパウロが「人々からでもなく、人を通してでもなく」と二重に否定しているのは、なによりも彼が使徒であることの根拠が一切人間の権威に依らないことをはっきりさせるためです。彼が使徒であることの根拠は、人間にではなく、「イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神」にのみあるのです。

<イエス・キリストと父なる神>
 もう一度原文の順序に目を向けますと、「イエス・キリストによる」に続いて「父なる神による」とあり、「イエス・キリスト」と「父なる神」が並べられています。ですからパウロは、彼が使徒であることの根拠が「イエス・キリスト」にあると同時に「父なる神」にあるのだと述べているのです。さらに、この「イエス・キリスト」と「父なる神」は単に並べられているのではありません。両者の間には関係があります。それが、父なる神とは「キリストを死者の中から復活させた」神であるということです。パウロが使徒である根拠は、復活した主イエスが彼に現れたことにありました。しかしさらに遡れば「キリストを死者の中から復活させた」神にこそあるのです。
 「神がキリストを死者の中から復活させた」ことは、「キリストは復活した」と告げられるのとは違う大きな意味を持っています。もしキリストが自分の力で復活したのであれば、キリストの復活は人ではなく人を越えた者の復活であり、私たちとは関係のない出来事です。しかしキリストは私たちと同じ人として死なれ、そのキリストを父なる神が死者の中から復活させたのです。それゆえキリストの復活は私たちの初穂であり、私たちも終わりの日にキリストの復活に連なり神によって復活させられ永遠の命に与ることができるのです。この恵みの出来事のゆえに、パウロは、自分が使徒である根拠は「キリストを死者の中から復活させた神」にあると言うのです。

<パウロの自己理解>
 さてパウロは、彼が使徒であり、また彼が使徒であるということの根拠はいかなる人の権威によるのでもなく、ただイエス・キリストと父なる神によるのであり、その父なる神はイエス・キリストを死者の中から復活させた神にほかならないと、1節で述べていました。私たちは、ここにパウロが使徒として自分自身をどのように理解していたかを見ることができます。パウロは、自分がイエス・キリストと神のみを根拠として使徒として立てられていると理解していたのです。自分はかつて教会を迫害していたけれど、自分の力によって努力して周りに認められ使徒となったと考えていたのではありません。死者を復活させてくださった神の力こそが、迫害者だった自分を使徒として立てていると理解していたのです。
 このパウロの使徒としての自己理解は、私たちの自己理解にも結びつきます。私たちは自分がいったい何者であるかと問うことがあります。そのとき、私たちは何によって自分が何者であるか分かるのでしょうか。生まれや育ちや仕事や地位などによって私たちは自分が何者であるか定めることができます。しかしそれらは私たちが何者であるかの究極的な答えにはならないのではないでしょうか。裁きの日に神のみ前で、「あなたは何者なのか」と問われたとき、だれが自分の生まれや育ちや仕事や地位によって答えることができるでしょうか。ある子ども向けのカテキズムの最初の問いには「あなたは誰ですか」とあり、その答えは「わたしは神さまの子どもです」となっています。私たちの自己理解は、突き詰めれば「わたしは神さまの子どもです」以外にはありません。ガラテヤの信徒への手紙3・26、27には、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」とあります。私たちは何者なのか。私たちは洗礼によって罪を赦され、キリストに結ばれ、神の子とされた者にほかなりません。パウロが自分は神の力によってのみ使徒として立てられていると理解していたように、私たちも、罪の中にあった自分が、自分の力や努力によって神の子とされたのではなく、ただ神の力によってのみ罪を赦され神の子とされているのです。

<使徒は孤独ではない>
 そのようにキリストと神のみによって立てられている使徒パウロは、人を寄せつけず、孤独に福音を宣べ伝えていたのでしょうか。そうではありません。2節を見れば、この手紙の差出人がパウロだけでなく、パウロと一緒にいた兄弟一同も含むことが分かります。このことは、パウロと一緒にいた兄弟たちもこの手紙を書いたということではありません。そうではなくパウロがこの手紙で述べていることは、彼の個人的な考えや主張ではないということなのです。パウロの周りには彼の仲間がいて、パウロの意見は個人的な見解ではなく、パウロの仲間たち全員の意見でもあるということが示されているのです。ですから、使徒は孤独ではありませんでした。
 私たちが「神さまの子どもである」という自己理解もまた、この世を捨て、人と関わらないようにして生きることではありません。むしろ「私は神さまの子どもである」という自己理解はキリストを信じる群れを作り出します。そしてこの群れは、この世へと、隣人へと積極的に関わっていくに違いありません。一人でも多くの方を「私は神さまの子どもです」と告白する群れに加えるためにです。私たちは神の力によってのみ生かされているからこそ、そこには孤独があるのではなく、真の隣人が与えられているのです。

<わたしたちの罪の赦しのために>
 3節に「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」とありますが、この祝福を祈る言葉で述べられた挨拶は、すべてのパウロの手紙の冒頭に見いだされます。しかしこの挨拶に続く4節では、ほかの手紙の前書きでは見いだせないことが書かれているのです。
 4節は、新共同訳を後ろから読むと原文の順序となり、その方がパウロの語っていることの筋道がはっきり分かります。つまり最初に「御自身をわたしたちの罪のために献げてくださった」とあり、続いて「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして」、そして「わたしたちの神であり父である方の御心に従い」となっているのです。このパウロの語っていることの道筋に沿えば、ここでは、キリストの死について二つのことが告げられています。まず言われていることは、キリストは私たちの罪のためにご自身を献げてくださったということです。「御自身を献げてくださった」とは、直訳すれば「自分を引き渡した」となります。この表現はパウロの手紙だけでなく新約聖書全体で見いだされ、いずれもキリストの死を指し示しています。たとえばローマの信徒への手紙4・25では「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され」と述べられていますし、マルコによる福音書14・41では主イエスがゲツセマネで「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される」と言われています。ですからキリストの死をキリストが「自分を引き渡した」、あるいは「引き渡された」と言い表すのは、パウロの言葉というよりも、最も初期の教会の信仰の言葉であると言えるのです。私たちも聖餐の度に聖餐制定のみ言葉として「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き」と繰り返し聞き、そのことに心を向けています。
 そしてキリストの死が「引き渡した」、「引き渡された」と言い表されているのは、最も初期の教会において、キリストの死が本日お読みした旧約聖書箇所イザヤ書の預言の成就であると考えられていたからです。この箇所は苦難の僕の歌として知られていますが、最後の12節に「彼が自らをなげうち、死んで」という言葉があり、この言葉は、ギリシャ語訳の旧約聖書では「彼の命が死へ引き渡され」となっているのです。
 また11節には「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った」とあり、このことがキリストの死において実現したのですから、本日の箇所の4節で「わたしたちの罪のために」と言われているのは「わたしたちの罪の赦しのために」ということを意味しています。パウロは旧約聖書の預言の成就として言い表されていた信仰の言葉を用いることで、キリストが私たちの罪の赦しのためにご自身を引き渡してくださった、と語っているのです。

<今の悪い世から救うために>
 パウロが語っていることの筋道に戻りますと、「御自身をわたしたちの罪のために献げてくださった」に続くのが、「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして」でした。「私たちの罪のために」とは、私たちが犯した罪の一つ一つのためにということです。この私のあの罪この罪のためにキリストは死んでくださった、と告げられているのです。しかしパウロはキリストの死によって私たちの罪が赦されたと語るだけでなく、私たちはこの悪の世から救われたとも告げています。「この悪の世」とは「今の悪い世」という意味です。また「救うために」は「解放するために」とも訳される言葉です。ですからパウロは、キリストの死が「今の悪い世から私たちを解放するため」であったと言っているのです。キリストの死の目的は、私たち一人ひとりの罪の赦しにとどまりません。私たちが捕らわれてしまっている「今の悪い世」からの解放のためでもあるのです。私たちの罪の問題だけでなく、この世が悪の力によって支配されていることにもパウロは目を向けているのです。悪の力による支配とは、悪い指導者たちが世を治めているということよりも、罪と死の力が世を支配しているということです。この力が私たちを支配し、捕らえ、閉じ込めているのです。しかしパウロは、キリストの死によって、この罪と死の力による支配が滅ぼされ、罪の赦しによって与えられる義と命の力による支配が打ち建てられたと告げています。ですからキリストの死は個人のことがらにとどまらず、この世のことがらであり、世を支配する力の交替を実現した救いの出来事なのです。
 「今の悪い世」とは、神の救いが完成する終わりの日に実現する「きたるべき世」との対比において語られています。ですから一方で、私たちは今なお悪い世に生きています。罪と死の力による世の支配はなお残り続けています。昨日までの一週間も、私たちは悲惨なニュースをいくつも聞きました。そのような悲惨な出来事に接するたびに、私たちは「いまだ」悪い世の中にあることを思い知らされます。しかし他方でパウロは、キリストが死に引き渡されたことによって、私たちは「すでに」悪い世から解放されていると告げているのです。「いまだ」悪い世の中にあって、「すでに」キリストによってそこから解放された者として生きる、このことこそ信仰にほかなりません。この信仰によって、私たちは悲惨な出来事に接して絶望するのではなく、キリストの死と復活によって与えられた希望によって歩むことができます。その歩みは今の悪い世に対する諦めでもなければ無関心でもありません。もう悪い世から解放されたのだからこの世で生きている意味などない、ということではないのです。「すでに」キリストによって悪い世から解放された者として生きるからこそ、この世に無関心ではいられないし、世にある悲しみや苦しみ、不条理に対してなお絶望せずに向き合うことができるのです。またその歩みはもはや自分のために生きることではありません。自分の思いや願いのために、私たちは自分に与えられている賜物を用いるのではないのです。「すでに」キリストによって悪い世から解き放たれ、神によってのみ生かされている者として、私たちは与えられた賜物を用いて、神さまへお応えし、お献げしていく歩みを歩み始めているのです。

<神の意志>
 キリストの死は私たちの罪の赦しのためであり、今の悪い世から私たちを救うためであることが、4節で告げられていることに目を向けてきました。さらにこの二つのことは「わたしたちの神であり父である方の御心に従」っている、と原文の順序では4節の最後に言われています。神の御心という言葉は、私たちもしばしば使いますが、それでいてはっきりした意味が捉えにくい言葉であるように思えます。神の御心とは直訳すれば神の意志のことです。つまり神にはなさりたいことがある、ということです。私たちは日々あれをしたいこれをしたいと思っていますが、神さまにもなさりたいことがあるのです。ですから「わたしたちの神であり父である方の御心に従い」とは「わたしたちの神であり父である方の意志に従って」ということにほかなりません。神さまの意志、神さまがなさりたいことこそ、私たちの罪を赦すことであり、私たちをこの悪い世から救い出すことなのです。そのために神さまは、主イエスを死に引き渡されたのです。
 前書きの最後に「わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン」とあります。ガラテヤの信徒への手紙の前書きは、ほかのパウロの手紙と異なり頌栄で終えられているのです。頌栄とは神に栄光を帰すことです。私たちもまたあなた方を救いたいという神の意志によって救われた者として、神に栄光を帰す歩みへと押し出されていくのです。

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