「神に愛されている子供」 副牧師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: レビ記 第19章1―18節
・ 新約聖書: エフェソの信徒への手紙 第4章17―5章2節
・ 讃美歌:12、567、514
教会、信仰共同体において
私が主日礼拝の説教を担当します時は、ご一緒にエフェソの信徒への手紙から御言葉に聞いておりますが、本日は第4章の17節から、少し長いですが5章2節までの御言葉に耳を傾けたいと思います。エフェソの信徒への手紙は第4章から、私たちの生き方に関わる勧めを語っています。その勧めの内容とは「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み」なさい、というものでした。具体的にどういう勧めかと言いますと、ここで、節制ということや思慮深さという私たちの個人の倫理としてではなく、あるいは公平や正義という社会的な生活の場面での倫理ということではありません。その勧めは何よりも、信仰における歩み、教会の生活、即ち1つの信仰共同体においての生き方に関係づけられて語られています。それが特徴であり、重要なことです。 このような特徴は今日の私たちにも関わる事柄です。従って、ここでの「~しなさい」「~してはならない」という勧め、命令とも取れるような勧めは教会生活、信仰共同体としての教会の生活に関わる勧めなのです。パウロは本日の箇所である17節から改めて強い調子で勧めを語り出します。パウロは、エフェソの教会の人々に、彼らの信仰の出発点を思い起こさせます。その上で、25節以下で、教会における在り方を語ります。小見出しには「新しい生き方」と記されていますが、教会における生き方を具体的に語っています。「だから」という言葉は、17節から24節と25節以下をつなぐ言葉です。そこで、まず始めに、17節から24節を取り上げ、そして25節以下に入りたいと思います。
心の底から新たにされて
エフェソの教会の人々は、そのほとんどが、ユダヤ人ではなく異邦人でした。異邦人とは、まことの「神を知らずに」に生きていた(2:12)人々で、彼らは「恵みにより、信仰によって救われた」(2:8)のです。そのような異邦人にパウロは今、勧めを語り、戒めを示します。まずパウロは、彼らに「以前のような生き方」(4:2)を思い起こさせることから始めています。それが、17節から19節です。「そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」(17-19節)以前の生き方を思い起こさせます。そして、その上でパウロは、「しかし」と、対比させながら、エフェソの人々の現在を、次のように語ります。「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(20-24節)
洗礼
今、お読みしました箇所には「学んだ」「教えられた」という言葉が出ています。これらの言葉によって、パウロは、エフェソの人々に、彼らに伝えられた、そして彼らが受け入れた最初の信仰を思い起こすように添えています。ただ、それは洗礼を受けるための準備のために学ぶ、あるいは教えられた教理それ自身を思い起こすようにということではないでしょう。信仰を与えられたとき、信仰の初心、キリスト者、信仰者としての出発点に立ち帰れということです。その信仰の初心とは何か、信仰者としての出発点とはどこか、エフェソの教会の人々が「歩んで来た」道とはどのような道であったのか、ここでパウロは三つの言葉で語っています。第一に「古い人を脱ぎ捨て」、第二に「心の底から新たにされて」、そして第三に「新しい人を身につけ」という三つの言葉です。そして、これらは順番で、実は、洗礼の出来事を表しています。
脱ぐ
洗礼とは古い人間、滅び行く人間の死を意味します。同時にそれは、また新しい人間の誕生をも意味します。闇の業を脱ぎ捨てて、イエス・キリストを着ることです。洗礼の出来事とはそのようなことです。聖書では、脱ぐ、着る、あるいは「身につける」という比喩が多く使われています。私たちは普通、これらの「脱ぐ」「着る」「身につける」という言葉を使う時は、大抵着ているものと、着ている人とは分けて考えます。着ている者で人を判断してはいけない、「馬子にも衣装」というのは、着物とその人とは同じではないから成り立つ言い方です。しかし、聖書では、衣服とその人格は切り離せないと考えられています。旧約聖書の創世記第3章には、アダムとエバが罪を犯しあとで裸であることに気づいて、いちじくの葉で腰を覆うものしたという記事があります。つまり、何かを身にまとってはじめて人間となったのです。人間であることと衣服を身にまとうことは同一のことです。ですから、着ているものを「脱ぐ」ということは、その人間が人間でなくなることを意味します。
着る
また、「着る」ということにおいても同じです。何かを着ることはまったく新しい別の人間になることを意味しているのです。マルコによる福音書第5章に悪霊にとりつかれたゲラサ人のことが出てきます。彼は墓場を住処とし、彼につけられた鎖や足かせを引きちぎり、日夜叫び、石で自分を打ちたたいていたような人間です。その彼を主イエスはいやさます。いやされたその男についてこう書かれています。マルコによる福音書第5章14節のところですが、「人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。」(マルコ5:14b-15)ここで、この悪霊にとりつかれたゲラサ人が、正気になったことは、彼が服を着ていることによって表されています。これは、この悪霊にとりつかれた人が、本来の自分に返った、新しい人間になったということです。 では、今お読みした22節に戻ります。「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け」とあります。エフェソの人々は今やまったく新しい人間になったのです。新しい人間に「なるだろう」ということではありません。また「なる資格をもらった」「徐々になっていく」というのでもありません。新しい人間に「なった」、「なっている」のです。それは新しく創造されたと言って良いでしょう。いや、そう言われなければならないのです。エフェソの人々の心は根底から新たにされた、パウロが彼らに思い起こさせようとしたのはそのことでした。
偽りと真実
先ほど、25節以下でパウロはエフェソの教会の人々の在り方を極めて具体的に語っていると申しました。そして、それは教会の生活に関係していると申しました。「わたしたちは、互いに体の一部なのです。」という言葉は、それをはっきりと示しています。「体」とは、主イエス・キリストの体としての教会(1章23節)のことです。共同体としての教会において、お互いの間でどのようにあるべきか、それがここでの問いです。25節から5章2節を三つにわけて見ていきたいと思います。まず、25節から28節です。「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」(25-28節)本日の箇所の1つの特徴は、その全体にわたり、言葉の問題が繰り返し取り上げられ、言及されているのが目立つということです。それは、そのことが共同体としての教会において重要なことなのです。ここで最初に取り上げられているもの、実に言葉の問題です。偽りと嘘を捨て、隣人に対して真実を語りなさい、ということです。ここで、「真実」と訳されている言葉は、21節で「真理がイエスの内にある」と言われている時の「真理」と同じです。真実を語りなさい、というのは本当のことを言うということとは少し違います。嘘というのは論外ですが、本当のことを言うことで、他人を傷つけるような言葉は実に多いと思います。「真実」「真理」は主イエスのうちにあるのです。主イエスの愛に裏打ちされている言葉、それが真実の言葉、真理の言葉なのです。そのような言葉を、それぞれが隣人に対して語ることを、これが最初に勧められています。
怒りの問題
次に勧められているのは「怒り」の問題です。26節と27節ですが「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」(26-27節)とあります。聖書は、その始めから終わりまで、何度も「怒り」の問題を取り上げております。主イエスの御言葉にもそのことが言及されています。主イエスの山上の説教ですが、そこでは「兄弟に腹を立てる者」は殺人者に等しいと見做されます。(マタイ5:21-26)この主イエスのお言葉はまことに人間の現実を良く表しています。心に芽生えた小さな憎しみや怒りから、人を殺すことが起こります。私たちは日々の情報を通じて、そのような悲しい現実を見ております。この問題は私たちの生きる現代の社会の一番大きな問題かもしれません。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」(詩編4:4口語訳)と言われています。ここで、怒りが容認されているのでしょうか。つまり、怒っても、罪にならなければいい、と言われているのでしょうか。そして、その条件は、その日の内に仲直りすることだ、そうして怒りを解消することだと。理屈では、そのようなことにもなるかもしれませんが、そういうことをこの詩編は言っているのではないでしょう。怒りは、私たちを捕らえます。それから、自由な人はおりません。しかし、だから、怒りが正当なものだと言うことは出来ません。「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」(ヤコブ書1:19-20)とあります。もし、私たちが怒りに襲われたのなら、私たちは自分の怒りと断固として戦わなければならない。出来るだけ、早くそれを解決しなければならない。「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」というのは、役に立つ言葉です。その自分との戦いをもし怠るのであれば、悪魔は私たちの戸口に立っているのです。そして、私たちの怒りを一身に引き受けて下さった方の存在を忘れてはならないでしょう。
盗みの問題
そして、28節では、盗みの問題に対して、きわめて現実的な勧めがなされています。盗みは十戒の第八戒で戒められています。盗みの問題というのは、個人の問題だけではありません。経済的な搾取といった集団、世界の問題、社会構造の問題としても捉える必要があります。それだけに根深い問題です。この箇所では、もちろんそこまでのことは触れられていませんが、盗みを労働の問題と関係づけて語っています。そして、働くということが「困っている人々とに分け与える」ためになされる、そうされなければならないという、新しい観点も示しています。
聖霊を悲しませるな
次に、29節から31節です。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」(29-31節) ここで、再び「言葉」に関することになります。「悪い言葉」と訳されているのは、「腐った言葉」とも訳すことが出来る言葉です。この「悪い」「腐った」という意味のこの言葉は、マタイによる福音書で、悪い木は悪い実を結ぶ(7:17)というところで使われています。つまり、「悪い」「腐った」というのは、善い実りをもたらさない言葉です。徳を立てない言葉です。それゆえに、パウロは、ここで「聞く人に恵み与えられるように、その人を造り上げるのに役に立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」と勧めるのです。そうではない時、私たちは「神の聖霊を悲しませて」いることになるのです。既にエフェソの手紙は、霊による一致が教会に与えられているということ、霊の働きによって教会が造られること、更に私たち一人ひとりに聖霊が与えられており、それが救いの保証であるということを語っております。隣人の徳を立てない言葉は、霊における神の働きに反することなのです。私たちの日々の歩みを振り返りますと、私たちはいかにそれと反対のことばかり、口にしていることでしょうか。聞く人に不快な思いをさせたり、人を元気にし、あるいは人格を育て上げるのとは正反対の言葉を語ったり、不必要なときに余計なことを言ったり、必要な時に言うべきことを言わなかったり、政治の世界から、子供の世界まで、私たちを本当に生かすべき言葉が、私たちを不幸にしています。主イエスの愛に裏打ちされた言葉だけが、私を、そして私たちを生かす言葉なのです。
憐れみの心で接し
「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」(4:32-5:2) ここまでパウロは、教会の交わりの中にある私たちの在り方について、極めて具体的に率直に語ってきました。当然のことながら、ここで指摘されるような現実が、多少でもあったに違いありません。そう考えると、手紙の背景には、何かしら重苦しいものがあることも確かでしょう。しかし、そのような中でただ今お読みした箇所は、少し気持ちをほっとさせるようなものがあるのではないでしょうか。その理由は、ここで勧めとか戒めの領域を突き貫けるものが現われ出ているからです。それは、すべての勧めや戒めがそこに基づいている、神の恵みという基礎が語られているからです。その意味でこの部分は、本日の箇所の中心とも言えます。この部分は、また5章1節から「あなたがた」から「わたしたち」に変わっていることから、当時の教会の信仰告白に由来するとも言われています。そうしますと、その内容はエフェソの教会の信徒がかつて、「学び」「教えられた」ことでもあったと推測することが出来ると思います。
主イエス・キリストによって
エフェソの教会の人たちが学び、教えられたことは、主イエス・キリストが私たちを愛してくださったこと、そして、その愛によって自らを犠牲としてささげてまで、その愛を証しされたこと、即ち主イエス・キリストの十字架における愛こそ、私たちの人生の土台であると、本日の箇所は語っております。私たちが勧めや戒めに従うということは、その愛に対する信仰の応答なのです。主イエス・キリストによって赦されたのだから、私たちが互いに赦し合うのです。主イエス・キリストに愛されているのですから、互いに愛し合うのです。教会はそのような信仰の共同体です。そして、そのような信仰の共同体である教会がこの世に存在する時、この世は、そこに神が確かにおられることを、主イエス・キリストがおられることを信じ、知るようになります。そして、また主イエス・キリストの愛によって裏付けられている信仰の共同体である教会の交わり、その形成そのものが、教会の伝道の業にもなっていくのです。