主日礼拝

証しの勇気

「証しの勇気」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; エレミヤ書 第2章4-10節
・ 新約聖書; 使徒言行録 第23章11-35節

 
カイサリアへ 

 使徒言行録第23章の12節以下には、エルサレムで、ローマ帝国の守備隊に捕えられ、囚人となったパウロが、急遽、カイサリアの、ローマ帝国ユダヤ総督のもとへと護送されたいきさつが語られています。カイサリアは当時、ローマ帝国のユダヤ統治の中心地でした。そもそもカイサリアという名称自体が、カイサル、つまりローマ皇帝から来ている、「カイサルの町」という意味です。この町はローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが、ヘロデ大王に与えたものであり、ヘロデは皇帝への感謝としてこの町の名をカイサリアと改め、12年に及ぶ大改修工事を施して、立派な港を整え、円形劇場、競技場、水道、皇帝崇拝の大神殿のあるギリシャ、ローマ的大都市としたのです。主イエスやパウロの当時、政治的、軍事的にはこの町がユダヤの中心でした。ローマ帝国のユダヤ総督、この時はフェリクスという人でしたが、その総督もこの町にいたのです。エルサレムからカイサリアへは直線で80キロほどですが、パウロは、夜の間に、多くの護衛の兵士たちに守られて、途中のアンティパトリスまで行き、翌日、騎兵たちに守られてカイサリアに着いたのです。これは大変ものものしい護送です。パウロは何故そのように突然、多くの護衛をつけられてカイサリアに送られたのか。その理由が12節以下に語られているのです。

パウロ暗殺計画  

 四十人以上ものユダヤ人たちが陰謀をたくらみ、パウロを暗殺しようと計画したのです。ユダヤ人たちにとってパウロは、民族の伝統的教えへの裏切り者でした。もとサウロと呼ばれていたパウロは、ユダヤ人の伝統的な宗教の指導的立場にある、ファリサイ派の若きエリートでした。彼自身もそういう自覚を持ち、それゆえに最初は、新しく興ってきた、十字架につけられたナザレのイエスを救い主と信じるキリスト教の教えを憎み、教会を迫害し、荒らし回っていたのです。しかしその彼が、180度の方向転換をし、むしろイエスこそキリスト、神様が約束して下さっていた救い主であると宣べ伝えるようになりました。さらに悪いことには、ユダヤ人のみでなく異邦人も、イエスを信じることによって同じ救いにあずかることができる、と教えているのです。これは、自分たちこそ選ばれた神の民であるという強烈な自負に生きていたユダヤ人たちにとっては許し難いことでした。彼らの中心的指導者になるはずだった男が、裏切ってそのようなとんでもない教えを宣べ伝えている、そのパウロに対する憎しみ、敵意は、殺意にまで高まっていたのです。パウロがローマの守備隊に捕えられたのも、神殿の境内で、ユダヤ人のリンチによって殺されそうになったのをむしろ保護されたということです。ローマの軍隊によって、パウロを殺すことを妨害されたユダヤ人たちが、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てて暗殺を計画したのです。この誓いには、彼らの並々ならぬ決意と、今すぐにそれを実行に移そうという緊迫した思いが込められています。彼らの立てた計画は、ユダヤの祭司長たちや長老たちを動かして、パウロについてもっと詳しく調べるという口実で、翌日のユダヤ人の最高法院の会議にパウロを再び連れて来るように、守備隊の千人隊長に願い出てもらう、ということでした。パウロがローマの兵営から最高法院に移される途中で襲って暗殺しようというのです。

千人隊長の思い  

 この暗殺計画が、どのようにしてかは分かりませんが、パウロの姉妹の子、つまり彼の甥の耳に入ったのです。パウロにどのような親族がいたのか、この甥がどういう人物だったのかは全く分かりません。とにかく、この甥が兵営に捕えられているパウロのところに行ってこの陰謀を伝え、パウロは監視役の百人隊長に頼んでこの甥を千人隊長のところに連れていってもらい、報告させたのです。このようにして、パウロ暗殺の計画が千人隊長の耳に入りました。クラウディウス・リシアという名の千人隊長は、直ちにパウロをカイサリアに護送することを決め、命令を発しました。それが23、24節にあります。「千人隊長は百人隊長二人を呼び、『今夜九時カイサリアへ出発できるように、歩兵二百名、騎兵七十名、補助兵二百名を準備せよ』と言った。また、馬を用意し、パウロを乗せて、総督フェリクスのもとへ無事に護送するように命じ」。総勢470名の大部隊です。一人の囚人を護送するにしては大がかり過ぎるようにも思えます。しかし、相手は四十人余りの、決死の誓いを立てた、今日で言えば自爆テロリストの集団のような者たちです。少人数の部隊では犠牲者が出ることが考えられます。これだけの大部隊を注ぎ込むことによって、相手の戦意を失わせ、一兵も失わずに目的を達しようとする慎重な作戦であるとも考えられます。とにかくパウロは夜の間にこの大部隊に守られてエルサレムを出発し、アンティパトリスに着き、翌日、今度は騎兵たちの護衛を受けてカイサリアの総督フェリクスのもとに着いたのです。こうしてパウロは、ユダヤ人の暗殺計画から救われたのです。    これが12節以下の筋です。ここには、神様のこと、信仰のことは何も語られていません。歴史物語としては、緊迫した面白いところだと言えますが、この箇所を神様のみ言葉として読み、ここから信仰の糧を得ようとするならば、いったい何を読み取ればよいのか、とまどいを覚えます。使徒言行録の著者は、パウロがエルサレムからカイサリアに護送されたいきさつをこのように詳しく語ることによって、読者に何を示そうとしているのでしょうか。一つ考えられることは、ローマ帝国の支配者たちが、パウロに対して、つまりキリスト教や教会に対して、好意的であり、むしろユダヤ人の陰謀から守ってくれたのだ、ということを示すため、ということです。使徒言行録が書かれた時代の教会、キリスト者たちは皆、ローマ帝国の支配下にあります。そして次第に教会が勢力を増していくにつれて、ローマ帝国によって迫害を受けるというきざしも見え始めていたのです。そのような状況にあって、教会の信仰がローマの支配を否定したり、それとぶつかり合うようなものではない、現にローマの支配を担っている人々がこのようにパウロに対して好意的に振舞っていたのだ、ということを示すためにこれらの話が語られているということは大いにあり得ます。使徒言行録の、特に終わりの方には、そのような動機、意図が感じられる箇所が多くあります。けれども、そういう意図は確かにあるとしても、ローマ帝国がキリスト教会に対してどのような態度を取ったかを語ることが、著者ルカの関心の中心ではないのです。ローマの官憲が好意的だったかどうかによって、キリストの福音の価値がどうこうするわけではありません。現に、本日の箇所でもルカは、千人隊長がパウロをカイサリアに送ったのは、彼がキリスト教に好意を持っていたからだと語っているわけではありません。千人隊長リシアはパウロを送るに際して総督フェリクスに手紙を書いています。そこに、彼の意図が語られているのです。彼はこの手紙で、自分の手柄を語っています。27節にこうあります。「この者がユダヤ人に捕らえられ、殺されようとしていたのを、わたしは兵士たちを率いて救い出しました。ローマ帝国の市民権を持つ者であることが分かったからです」。しかしこれは事実と違います。パウロを捕え、保護したのは、ローマ市民をユダヤ人のリンチから救うためだったと言っていますが、パウロがローマ市民であることを彼は後から知ったのです。そのことは22章の22節以下に語られていました。むしろ彼はパウロを、ローマ市民に対しては認められていない、鞭打ちの拷問にかけようとさえしたのです。そういう自分に都合の悪いことには一切触れていません。また、彼がパウロを急いでカイサリアに送ったのも、好意によると言うよりも、自分が警備の責任を負っているエルサレムで、ローマ市民であるパウロが暗殺されたりしたら、それは自分の責任になるからだったと言えるでしょう。だから彼は一刻も早く、パウロを自分の管轄外に連れ出したかったのです。総督のもとに送ってしまえば、もうめんどうなことに巻き込まれて責任を問われる恐れはなくなります。パウロのカイサリアへの護送はそういう思いによって行われたと考える方が正確でしょう。つまりここに働いているのは、千人隊長の利己的な思いです。自分の手柄ではないことをさも自分の手柄であるかのように誇り、逆に責任を問われそうなことは人に押しつけようとしているのです。パウロのためではなく、自分自身のために彼はそうしたのです。けれどもそうなると私たちはますます、この箇所からいったい何を読み取ったらよいのか、とまどいを覚えるのです。

主イエスの励まし  

 本日の箇所から神様のみ言葉を、信仰の教えを聞き取ろうとする時に鍵となるのは、既に皆さんがお気付きのように、最初の11節です。ここには、今見てきた全てのことが起る前の晩に、エルサレムの、ローマ軍の兵営の中に捕えられているパウロのそばに、主イエスが立ってお語りになった励ましの言葉が記されています。この励ましは、パウロに対する一つの約束、あるいは命令という形で与えられました。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」。主イエスはパウロに、「あなたはエルサレムでわたしのことを力強く証しした」と言っておられます。ローマの守備隊の囚人になる前も後も、ユダヤの民衆に対しても最高法院の議員たちに対しても、パウロが語ったことは、主イエス・キリストについての証しであり、主イエスの十字架と復活による救いの知らせ、福音であり、それを土台とする希望でした。そして彼は、この主イエス・キリストについての証しを、ローマにおいても語り、宣べ伝える志を与えられていたのです。そのことは、19章21節に語られていました。「このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、『わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない』と言った」。このような志を持っているパウロに、主イエスは、「あなたはローマでも証しをしなければならない」と言われたのです。それは、パウロのローマ行きの志を、主イエスが認め、その実現を約束して下さったということです。しかもこの「しなければならない」という言葉は、神様のご意志を示す言葉です。「神様がそのように決めておられる」と主イエスは言われたのです。つまり主イエスはここでパウロに、あなたがローマでわたしのことを証しする志を持っているのは、あなたの勝手な思いではない、神様ご自身がそのように決意しておられるのだ、神様が決めておられる以上、そのことは、どのような障害、妨害があっても必ず実現するのだ、あなたは神様のみ心によって、必ずローマにまで導かれ、証しをすることになるのだ、と約束して下さったのです。それゆえに、「勇気を出せ」というのです。それは、勇気をもって、主イエスのことを証しし続けよ、ということです。主イエスはパウロに、神様のみ心を示し、証しの勇気をお与えになったのです。

ローマへの道の前進  

 この主イエスの励ましのみ言葉が、本日の箇所の冒頭に力強く鳴り響いています。12節以下の全ての出来事は、この主イエスのみ言葉の響きの中で展開しているのです。四十人以上ものユダヤ人たちの陰謀も、それがパウロの甥によって千人隊長の耳に達したことも、彼がパウロをカイサリアに護送する決断をし、それが直ちに実行されたことも、全ては、パウロがローマでも主イエスのことを証ししなければならない、という神様のご決意、み心の中で起っているのです。著者ルカがここで語ろうとしているのはまさにそのことです。ここに語られているのは、先ほど見たように、人間の悪意、殺意による暗殺の計画であり、また、自分の手柄を上司に誇示して点数を稼ぎ、逆に都合の悪いことは自分の管轄の外に追いやろうとする人間の利己心です。そのような人間の思いと行動によって、パウロはエルサレムからカイサリアに移されたのです。しかしそのことを通して、神様のみ心が、ご計画が進展しているのです。パウロがユダヤ人の暗殺計画から救われ、ローマ帝国ユダヤ総督の手元に引き渡されたことは、ローマへと向かう道における大きな前進です。主イエスによるあの励ましのみ言葉が与えられた、その直後の二日間で、事態は急速に展開し、パウロはローマへの道を大きく前進したのです。それは彼自身全く予想していなかったことだし、また彼の働きかけや努力によるのではない、全く別の事情によって起ったことです。この二日間の体験によってパウロは、人間のあらゆる思惑や行為、それがどれほど悪意に満ちた、利己的な、神様に逆らうものであっても、それら全てを通して、神様のみ旨、ご計画が実現していくのだ、ということを身をもって知らされたのです。

神の摂理  

 このような神様のみ旨、ご計画のことを「摂理」と言います。神様を信じて生きるとは、この世において働いている神様の摂理を信じることです。この世界は、また私たちの人生は、人間の自分勝手な思いによって支配されており、この世における力関係や利害関係によって全てのことが動いているように、私たちの目には見えます。しかしそのようなこの世の中にあって、最終的に勝利し、実現するのは神様のみ旨、ご計画なのだ、と信じて生きることが私たちの信仰なのです。スイスの諺に、「人間の混乱と神の摂理とによってスイスは支配される」というのがあるそうです。私たちがこの目で見、体験しているこの世界の有り様はまさに、人間の混乱です。しかもそれは私たち人間が生み出している混乱です。人間の悪意や利己的な思い、即ち罪がこの社会を、あるいは家庭を、また私たち一人一人の心を、混乱させ、様々な問題を引き起こし、苦しみや悲しみをもたらしているのです。12節以下に語られているのはまさにそのような人間の混乱の様子です。しかしそのような人間の混乱の前に、11節のみ言葉が鳴り響いているのです。パウロがローマでも主イエスのことを証しすることを、神様ご自身が計画しておられ、それを必ず実現するという約束が告げられているのです。そして人間の生み出すあらゆる混乱が、神様のそのご計画の実現を妨げるのではなく、むしろその混乱を通して、み心が実現していくという神の摂理が語られているのです。「人間の混乱と神の摂理とによって」とは、人間の混乱もあるけれども神の摂理も働くのだ、悪いこともあるけれども良いこともまたあるのだ、という話ではありません。人間の混乱を通して、人間の混乱を用いて、そのただ中で、神様の摂理が実現し、勝利していく、ということです。考えてみれば、主イエス・キリストの十字架による救いは、まさにそのようにして実現したのです。祭司長や律法学者たちの主イエスに対する敵意、このような者は生かしておけない、という殺意、弟子の一人だったユダの裏切り、また群衆の、イエスよりもバラバの方を釈放してほしいという思い、また総督ピラトの、イエスには何の罪も見いだせないと思いながらも、ユダヤ人たちの要求を拒絶して暴動にでもなったら自分が責任を問われるという自己保身の思い、これらの人間の思いや利害が絡み合って、主イエスは十字架につけられたのです。しかしまさにそれら全てのことを通して、神様の独り子が私たちの罪を背負って身代わりになって死んで下さるという救いのみ業が実現し、父なる神様が私たちの罪を赦して下さるというみ心が行われたのです。人間の混乱を通して実現される神様のみ旨、ご計画の中心は、この主イエス・キリストの十字架の死と復活による救いの恵みなのです。摂理を信じるとは、私たち一人一人の人生においても、様々な苦しみや悲しみの出来事を通して、しかし最終的に実現していくのはこの主イエス・キリストによる救いの恵みであると信じるということです。つまり摂理を信じることによって私たちは、どうせすべては神様の敷いたレールの上を進んでいくのだとなげやりになるのではなくて、主イエス・キリストの十字架の死と復活による神様の救いの恵みが、自分の人生においても表わされ、実現することを切に願い求めつつ生きる者となるのです。

主の日と週日  

 私たちが日々生きていくこの世の人生は、まさに12節以下のような、様々な人間の思惑が絡み合い、人間の力関係、利害関係によって動いていくような修羅場です。私たちはそれを「現実」と呼んでいます。私たちの週日、ウイークデーの生活はその現実のただ中に置かれているのです。しかし私たちは、その週日の生活を始める前に、週の初めの日に、このように礼拝に集い、神様のみ言葉を聞いているのです。人間のあらゆる混乱が、独り子イエス・キリストを遣わし、その十字架の死と復活によって私たちの罪を赦し、永遠の命を約束して下さった神様の恵みのみ心、救いのご計画の中に置かれており、人間のあらゆる罪をも貫いてそのみ心こそが実現していくのだということを告げるみ言葉を示されているのです。そのみ言葉によって私たちは、私たちがこれこそ現実だと思っているこの世の混乱よりも、主イエス・キリストによって実現している神様の恵みのみ心の方が、より根源的な、より強い、本当の現実なのだということに目を開かれるのです。私たちの週日の生活は、主の日の礼拝において与えられるこの主イエスによる救いの恵みを告げるみ言葉の響きの中に置かれているのです。

証しの勇気

 主イエスはパウロに、「勇気を出せ」と言われました。それは主イエスのことを証しし、福音を宣べ伝えていく、証し、

 伝道への勇気です。私たちも、礼拝における神様のみ言葉によって、その勇気を与えられます。証しの勇気は、私たちが力をふりしぼって、あるいはやせ我慢をして、自分の心の中から、ありもしない勇気を絞り出すようにして捻出するものではありません。私たちは、神様の摂理を信じるのです。恵みのみ心が、人間のどのような罪にも打ち勝って実現していくことを信じるのです。主イエスの十字架において、まさにそのような仕方で救いのみ心が実現したという事実を、み言葉によって繰り返し示されるのです。このみ言葉の響きの中で歩むところに、証しの勇気が与えられます。預言者エレミヤは、神様の召しを受け、預言者として立てられた時、「わたしは若者で、語る言葉を知りません」と言いました。しかし主は、手を伸ばして彼の口に触れ、「わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける」と言われました。証しの言葉を与えて下さったのです。そのことが、私たち一人一人に、この礼拝において起こります。私たち人間のあらゆる混乱を貫いて、神様の救いのご計画こそが前進し、実現していくことをみ言葉によって示されることによって、私たちにも、証しの勇気が与えられるのです。その勇気によって、証しの言葉もまた与えられます。それは私たちが自分で何か気の利いた言葉を考え出すということではなくて、神様の恵みのみ言葉の響きに共鳴して、私たち自身の心も生活も、自然に喜ばしい音色で鳴り響きはじめる、そのようにして与えられる言葉なのです。

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