「神の神殿にされる」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:哀歌第3章19-27節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二第6章14節-7章1節
・ 讃美歌: 145、12、509
今日の与えられた御言葉は「信仰のない者と軛を共にしてはならない、なぜならば、わたしたちは、生ける神の神殿だから」という言葉で全体を要約することができます。二匹の牛を一緒に耕作に使う時に、牛が勝手な行動をしないように、首のところに一本の棒を置き、それに二匹の牛を縛り付けます。そうするとその二匹の牛は、一緒に行動しなければならない。そのような農具を軛と言います。 「同じ軛につながるな」というのは、そういう耕作の様子を譬えにして、わたしたちが信仰のない者と同じ考え方、いわゆる世の生き方に縛られて、同じ姿勢で生きていってはダメだ。これは、信仰を持っている人と、共にいてはだめだ、世に生きてはだめだから、この世と付き合わずに行きなさいという勧めではありません。わたしたちは、全く違う生き方、世とは異なっているものに繋がれて生きていくべきだ。と、いうことを言っているのです。そして、それはなぜかというと「わたしたちは、生ける神の神殿だから」です。パウロが「わたしたちは神の神殿である」と言う時に、何を言っているかというと、わたしたちの中に、神の御霊、つまり聖霊なる神様が住んでおられるということを言っています。神の神殿には、神様がおられる。従って、そこは聖なる場所です。ですから本来、そこに入って行く者は、選ばれた祭司たちであり、さらに潔めの儀式をして、聖別されてから、そこへ行かなければならない。「わたしたちは神の神殿だから、聖なるものとされているはずだ。だから信仰のないものと、軛を共にしてはならない」と、こういうことをパウロは言っているのであります。
しかしわたしたちは、ここを読むと「おやっ」と思います。それはパウロが、たとえばローマの信徒への手紙とか、ガラテヤの信徒への手紙などで「わたしたちが義とされる、つまり救われるのは、律法守るという行いによるのではない。信仰によるのである」ということを強調しています。それなのに、7章1節でパウロは「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」という行いの勧めをしています。これはパウロが普段言っていることと、違うんじゃないか。どうしてだろう、というような疑問を覚えます。これは、義とされるとか、あるいは救われるということが、何を言っているかということを、少し考えてみなければならないと思います。義とされる、あるいは罪が赦されると言いますと、何かわたしたちは、救われた後は、もう勝手にしていいというような、たとえば普通の裁判所の判決みたいなものを、考えがちです。しかし、義とされる、救われるということは、判決がでたからもう出ていってよい、勝手にしてよい、自由にしてよいということではなくて、それは、神様の国に入ってよい、神の子になるんだと、そのような新しい関係の中に入れられるということです。
そして、ここでパウロが言っていることは、どういうふうにして神の国に入るか、どのようなことをすれば救われるかということではなくて、救われた者、神の子と認められ神の国に入れられた者が、いかに生きて行くか、そういうことを問題にしているのです。この二つの関係を大変よく表している言葉が、エフェソの信徒への手紙2章8節から10節に書かれております。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。?なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」ここでは救われるのは、全く神の恵みであって、わたしたちの行いによるのではないということと、そしてもうひとつは、神様が、わたしたちが善い業に生きるためにという目的を持って、わたしたちを創って下さった。だからわたしたちは善い業を行うのだ。とこういうことが書かれています。ここから、パウロがなぜ、こんなに強く、清い生活をするようにということを勧めているかということが、わかります。
しかし、それで納得がいったかというと、まだ、どうもひっかかるものがあります。それは「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」と言われ「完全な聖なる者になろう」と、わたしたちは、そう決心をして、少し頑張ってみても、すぐダメになってしまう。失敗をする。そうするとパウロは、わたしたちにできないことを求めているのではないだろうか。そういう疑問がおこるのです。それに対して、やはりさきほどのエフェソの信徒への手紙2章10節の後半に、そのことが説明されています。しかも、「神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。」ここは共同訳よりも、口語訳の方がわかりやすい訳になっています。口語訳は少し意訳ですが、そちらを読んでみます。7章10節後半「神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」口語訳では、神様が、わたしたちが善き行いをするように、神様が「あらかじめ備えてくださった」ことが強調されています。善い行いができるように、神様が備えて下さった。わたしたちが、できない、できないと言っているのは、何か自分でやらないといけないと、そう思うから、やってみたら失敗するということになります。しかし、それができるようにして下さるのは神様である。では、神様が「予め備えてくださったもの」とはなにかということになります。神様が予め備えてくださったもの、それは、聖霊なる神様です。わたしたちのうちに住んでおられる神の御霊の働き、神様御自身の働きによって、わたしたちは神様がお求めになるような、そういう、清く正しい生活ができるようになる、そういう道を神様が備えて下さったのです。わたしたちは信仰生活というと、何か聖書に書かれてあることを、一生懸命自分で努力して、実行をするんだと考えがちです。イエス様の教えや神様の教えを、わたしたちの工夫や努力で生きたものにする。そういう努力をわたしたちはしているんじゃないかと思います。心を開こう。隣の人を聖書の言葉通りゆるそうとか。そういうことです。しかし、やってみると失敗をする。どこに、わたしたちの誤りがあるのか。それは「聖書の言葉を、現在の生きた言葉にするために、わたしたちが努力しなければ」と考えているところに、誤りがあります。聖書の言葉を、今、わたしたちを生かす生きた言葉にするのは、神様であります。働きから言えば聖霊なる神様の御業です。
わたしたちは、イエス様が十字架につけられたけれども甦って今もわたしたちと共に生きておられるということを信じて、そして告白をしております。しかし、大変な事になった時に、わたしたちはイエス様が共にいて下さる、イエス様がわたしたちの中で御業をなさって下さる、または聖霊なる神様が自分と共にいて働き導いてくださる。そういうことを本当に信じて、歩んでいるでしょうか。クリスチャンだから、信仰者だから、苦難が起きたからここで頑張らないといけない、衝突があったからゆるさないといけない、受け止めなければいけない、そう思っていることが多いのではないかと思います。これは教えられた言葉が、わたしたちの中で生きていない。それは、ただ持っているというだけで、わたしたちを支配し、わたしたちに新しい行動をとらせる、そういう神様の語りかけになっていない、そういうことが多いと思います。
一つのお話を思い出してみたいと思います。それは福音書に書いてある「嵐の巻き起こるあの湖での話」です。イエス様と弟子たちが、ガリラヤの湖を舟で渡っていた時に、大嵐が起こりました。突然の嵐に、弟子たちは、舟が今にも沈みそうになったので、慌てふためきました。そして、弟子たちは「主よ、わたしたちは溺れそうです」と言いました。その時にイエス様は、「おまえたちの信仰はどこにあるのか」と言われ、弟子たちは叱られたという話があります。弟子たちは、かねがねイエス様の教えを聞いていました。そして、それに心を動かされて、これの教えは本当だなと受け入れていたのです。たとえば、二羽のすずめは一アサリオンで売られるではないか、しかし、その一羽も、天の父の許しがなければ地に落ちることはない。あなたがたの頭の毛も全部一本一本、神様はちゃんと数えておられる。父なる神様はあなたがたが祈る前からあなたがたに必要なものは、すべてご存知であられる。そしてそれらを与えてくださろうともされている。何も心配することはない。そういう教えを聞きますと、弟子たちは「ああ、本当にそうだろうな。神様はいつも守っていて下さるんだ。よかった。」と、そう思ったでしょう。そしてその言葉は、深く弟子たちの心に植えつけられました。しかし、あの突然の嵐の中で、舟が沈みそうになった時に、彼らは、その言葉を全く忘れておりました。そして「ああ、もうダメだ。あぶない。溺れる。死ぬ。どうにかしなきゃ。」そういうことばかり考えていたのです。これは、弟子たちの心の中にある、イエス様のお言葉が生きていないということであります。イエス様の言葉は死んだものとして、より正確に言えば、眠ったものとして、弟子たちの心の中にありました。その時、イエス様は弟子たちに「おまえたちの信仰はどこにあるか」と言われています。この言葉が、イエス様の生きた語りかけです。この言葉によってイエス様は、弟子たちの心の中に眠っている、イエス様の言葉を呼びさまされたのです。わたしたちは、毎週の礼拝の説教を通して、イエス様からこの生きた語りかけを聞いています。
このように聖書の言葉、わたしたちが福音として受け入れている言葉を、わたしたちは、記憶しているかもしれません。もし、大変なことが起こった時、また大きなことに取り組む時、思い煩いに合う時、それが本当に生きた言葉として御言葉を聞けた時、わたしたちは、目を醒まされ、わたしたちの不安を鎮められ、望みを与られ、そして主に委ねることを覚えるのです。そういう生きた行動、生きた生活をさせるのは、その聖書の言葉を、今、わたしたちに語りかける神様の言葉としていかして下さる御霊の働き、聖霊なる神様です。それは、聖霊なる神様の働きであり、言い換えれば、わたしたちと共におられるイエス・キリストの働きです。この礼拝の御言葉を生きたイエス様の語りかけとして聴くことができるようにさせるのも聖霊なる神様の働きで、またわたしたちが今まで聞いてきて、わたしたちの内側に植え付けられている御言葉をただの言葉ではなく、生きた御言葉にするのも、聖霊なる神様の御働きです。そのことによって、初めて、わたしたちは、パウロがここに言っているような「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となる」ということが、実現をするのです。
この、今日のところの最初に6章14節「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。」という言葉がありますが、不釣合いな軛という言葉は、「自分とは関係ない軛」と訳し直すことができます。「自分とは関係のない軛に繋がれるな」ということは、つまり、本当は自分と関係のある軛があるということです。これを聞くとわたしたちは、マタイによる福音書11章のイエス様の言われた言葉を思い出します。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」という御言葉です。クリスチャンが本当に関係している軛、それはキリストの軛です。わたしたちはキリストの軛を負っています。軛を負っているというと、何か大変、重荷のように感じます。確かに、軛を負うということは、自分勝手に行動したいと思う者にとっては重荷です。不自由、束縛であります。しかしイエス様は「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と言われました。どうしてかと言いますと、軛と言いますのは、自分一人ではなく、片一方に、イエス様が繋がれていてその軛を負っておられる。慣れた、よく訓練された牛と全く訓練されてない牛とが一緒につながれて、耕作しているようにです。その時に、慣れない牛は、慣れた牛が行く通り、ついて行かなければいけません。軛でつながれていますから。それと同じように、イエス様とわたしとは軛でつながれていますから、イエス様が行かれる通りついて行く。それがクリスチャンの生活です。
ところがわたしたちは、イエス様がつながれているのに、イエス様がいないかのようにして、自分一人で荷を引っ張っていかなければいけない、そんな思い、大変ムリをしているのではないかと思います。さらには、そのように自分で無理して一人で引っ張っていき疲れ果てた時に、「イエス様が共におられるっていっているのになにもしれくれない、そんななにもしてくれないイエス様って重荷なんじゃないか」と疑うことさえしてしまう。「キリストの軛を負う」それは言葉を換えて言えば、イエス様がわたしの軛を負ってくださる、さらにはわたしの重荷を担ってくださっているということです。わたしたちの歩みは、レールの上を走るように決まりきっているわけではありません。どうしたらいいか、思い惑うことがずいぶんあります。その時に、わたしたちは自分で判断をして、自分で道を選ぶのでなくて、軛を共に負うて下さるイエス様が、来なさい、止まりなさい、こっちへ来なさいというふうに、ちゃんと導いて下さる。それに従うのが、クリスチャンの生活です。
ところがわたしたちは、キリストの軛ではなくて、もう一つの別の軛、自分とは関係のない軛を負って生きていこうとする。それは、世の考え方であったりします。忙しくしていることがいいことだ、働いている自分にこそ価値がある。その世の求めが襲ってきた時に、わたしたちは、心配します。もし明日、自分が病気になって働けなくなったら。もし、失業してしまったら。もし戦争が始まったら。それらの心配事も自分とは関係のない一つの軛でありましょう。そのような世の価値観、世の求めに繋がれた人たちの生き方、心配に押しつぶされそうとなっている生き方は、わたしたちの中にしみついていまして、たびたびそれに押しつぶされてしまう。だからわたしたちは時々「不釣り合いな軛につながれてはなりません。」と、警告されることが必要なのです。「あっ! わたしが負っていくべき軛はこれではない。キリストの軛なんだ。」そう気付かされて、「イエス様のもとに、もう一度立ち帰ってくる。」そしてイエス様の導きに委ね、イエス様を信頼して、恐れから救い出される。そういうふうにして、わたしたちは生きて行くのです。
聖書の言葉、これはわたしたちが努力をして、自分で守っていくのではなくて、甦り、共にいて下さるイエス様、わたしたちの内に住んで、わたしたちを神の神殿として下さる、生ける聖霊なる神様が、この聖書の言葉を生きたものとして、生きた語りかけとして、生活の中でわたしたちに語りかけて下さる。決して、わたしたちの努力ではない。むしろわたしたちが努力することをやめて、イエス様と聖霊なる神様、に自分を明け渡す。そして父なる神様の養いと守りと導きを信じる。そうして、わたしたちは聖なる、清き、神の神殿に変えられていくのです。