「今こそ救いの日」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:イザヤ書 第49章8-9節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二 第6章1-10節
・ 讃美歌: 464、516、392
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。わたしたちはこの言葉を読みますと、素直に、希望を与えられ、慰 めを与えられます。しかし、パウロがどういう意味でこの言葉を言ったのか、はっきりさせないで、ただこの 言葉は感動的でいい言葉だと感心しているだけでは、この言葉は、現実の厳しい状況の中でいつの間にか、力 を失ってしまいます。パウロはどのような現実の中で、どういう意味でこの言葉を語っているかを聞いていき たいと思います。
この「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」という言葉は、2節の最後に書かれていますが、この言葉はすぐ 前の言葉と結び付いています。2節のはじめ『なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。 救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。』この言葉に対して「今や、恵みの 時、今こそ、救いの日」と応じています。この2節の初めの言葉は、パウロ自身の言葉ではなくて、旧約のイザ ヤ書49章8節の言葉でありますが、それがどういう意味で言われているかを知るために、このイザヤ書の言葉の 前後をみてみますと、ここには実際に苦しんでいる、悩みの中にあるイスラエルの人々に対して、やがて必ず 神様が救いを与えて下さるとイザヤが預言している箇所です。49章8節から読んでみます。 「主はこう言われる 。わたしは恵みの時にあなたに答え/救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立て て/民の契約とし、国を再興して/荒廃した嗣業の地を継がせる。9節、捕らわれ人には、出でよと/闇に住む 者には身を現せ、と命じる。彼らは家畜を飼いつつ道を行き/荒れ地はすべて牧草地となる。 えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き/湧き出る 水のほとりに彼らを伴って行かれる。」そして少し飛んで13節を見ますと「天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ 。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰め/その貧しい人々を憐れんでくださった。 す。ここにはイスラエルの民と国の回復、そして喜び歓喜が預言されている形で書かれて言います。その中の 文章の中の一部をパウロは引用しています。このイザヤ書の文章は、未来の神様の救いの約束を預言している 文章です。今は大変苦しいけれども、必ず神様が救いを与えて下さる、だから希望を持ち、勇気を持って生き て行きなさいと勧めている所です。イザヤ書は「わたしは恵みの時に、あなたに答え、救の日にあなたを助け た」の次に、パウロの言葉のように「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と、書いていませんでした。イザヤ 書では、「今」は苦しみの時だ、しかし、「やがて」神の救いが来るという、将来を待ち望む信仰によって書か れていました。
ところがパウロは、そうでなくて「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と「今」を強調しました。いつか、 やがて、神様の救いが来るというのではなくて、今、ここに、神の恵みがあり、救いがある。イザヤが言いえ なかったことを、パウロはここで言い切っています。ここが重要なところです。
わたしたちは、信仰生活を送っている時に、いつか神様が解決を与えて下さるだろうと思って、今の辛い時を 辛抱するということは、よくあることです。信仰者は、そういう意味で、よく辛抱し、よく忍耐します。しか し、わたしたちが、今が救いの時である、今が恵みの時だということを本当に心から言えるかと問われると、 これは、なかなかむずかしいことであります。特に苦しい目にあっている時、いろんな悩みの中にいる時に「 今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と言えるでしょうか。
このように言い切ることのできたパウロが、この時とても良い恵まれた境遇にいたかと言えば、そうではあり ませんでした。6章4節を見ますと「大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、 労苦、不眠、飢餓においても、」と、ありとあらゆる辛いことをここに並べています。パウロはそういう辛い目 にあっていたのです。伝道の旅がいつも順風満帆で、楽楽として生活をしているわけではありませんでした。そ のような状況にもかかわらず、パウロは「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と言い切っております。なぜ パウロはそのようことが言えたのでしょうか。この理由は二つあります。一つは、イエス・キリストによる救 いが実現した。キリストの十字架と復活において、わたしたちが罪の奴隷の状態から解き放たれて、神のもの とされたということです。旧約聖書は、いつでも救いを未来のものとして見ています。やがて神様は救いを与 えて下さる。しかし、その旧約聖書の期待が、旧約の時代においては成就されていない。いつでも未来を望ん でおります。しかし新約聖書においては、それがすでに成就された過去の出来事として語られています。これ が、旧約と新約をはっきり分けることです。ルカによる福音書4章に、イエス様がナザレの会堂で礼拝をされた 記事が書いてあります。その時にイエス様は、イザヤ書の61章の言葉をお読みになりました。「主の霊がわた しの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわ たしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されて いる人を自由にし、 はなく、未来の神様の救いの約束を表す言葉です。ところがイエス様は「この聖書の言葉は、今日、あなたが たが耳にしたとき、実現した」と言われました。未来ではない、今この時に、この旧約の約束は成就した、イ エス様が、わたしたちの救い主としてこの世に来られた、そして、わたしたちの救いを完成して下さった、そ してわたしたちを神の子として下さったのです。この事実が、パウロに「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」 と言わせたのです。わたしたちはイエス・キリストの中に置かれている、イエス・キリストの救いの中に置かれ ている、いつでもわたしたちは、神様の恵みの中に生きているんだと。たとえ、見えるところでいろいろ悩み はあっても、神様の恵みの中にちゃんと守られているのだ。その確信に生きていることが第一の理由です。 もう一つの理由は、この与えられた神様の救いが、今、この福音を宣べ伝えることを通して、わたしたちの耳 に聞かされているということです。イエス様がわたしたちのために十字架にかかり、甦ったということは、過 去において、すでに起こった出来事です。しかし、そのイエス様の救いを、今、わたしたちは聞いている、こ れは現在のことです。そして、この、今、ここでわたしに語られている救いの福音を聞くことを通して、神様 が現在「今や、恵みの時、今こそ、救いの日、あなたの救いは完成されているのだ」ということを、わたした ちの魂に向かって語りかけておられるのです。この過去において実現した、誰も壊すことができないこの救い の事実と、そして、これが「あなたの救いなのだ、あなたのためになされた救いなのだ」、と語って下さる現在 の神様の語りかけと、この二つのことを思った時に、パウロは「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と言わ ざるをえなかったのです。
パウロはなぜ、このことをここで言っているかといいますと、それは一節の言葉を裏付けるといいますか、力 付けるために言っています。一節に、こうあります。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧 めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」パウロは、ここに一つの勧めをしています。そ れは「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。(神の恵みをいたずらに受けてはならない)」とい う勧めです。この「勧める」という言葉は、この手紙の5章の20節にも出て来る言葉です。そこではパウロが「 神がわたしたちを通して勧めておられる」言っています。この二つは関連しています。この5章20節の考えを合 わせて「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。」ということを考えると、「神からいた だいた恵みを無駄にしてはいけません。」という勧めは、パウロという人間の勧めであると共に、パウロを通 して神様が、勧めをしているということです。その神様からの勧めはというと、「いただいた恵みを無駄にし てはいけない。」ということです。神様は今、わたしたちに恵みを与えておられる、だからわたしたちは、それ をムダにしてはならないということです。この言葉を読むと、思い出すイエス様のたとえがあります。それは 、イエス様の種蒔きのたとえです。種を蒔く者が、種を蒔きに行ったところ、その種はいろんな所に落ちます 。道端に落ちたり、石だらけの所に落ちたり、茨の中に落ちたり、良い土地に落ちたりしました。初めの三つ は、状況は違いますけれども、実を結ばないということは、みな共通しています。良い土地に落ちた種だけが 実を結んだ。この良い土地に落ちた種は、恵みを無駄にしなかったということです。他の三つは、神の恵みを 無駄にした、ということになります。神様が救いの御言葉を語って下さったという事実は、誰にも蒔かれてい ます。しかし、それをどう受けたかということによって、これをムダにしてしまう者もあれば、豊かな実を結 ぶ者もいる。パウロはここで、せっかく神様が与えて下さったこの救いの恵みを、実を結ばないような受け方 をしてはいけない。そういうことを勧めています。しかもこの勧めは、パウロの個人的な勧めではなくて、わ たしを通して、神様の言葉としてだと言っているのです。わたしたちも今、礼拝を通して、福音にあずかり、 恵みが今わたしたちに注がれています。パウロは、この手紙の読み手にも、読み手の一人であるわたしたちに も、「今は恵みの時であり、救いの日である。今、あなたが福音を聞いているこの時こそ、恵みの時なのだ」 と言っているのです。そしてパウロは、こういう勧めをしましたが、人に勧めるだけで、自分は神の恵みをム ダにしているということでは、これはしようがないわけであります。信仰者とは、しばしばそういう危険に陥 ります。信仰者は皆、御言葉を伝道する使命に生きているものたちです。そのわたしたちが、この言葉を人に 伝えるだけで、もしくは伝えたいと思っているだけで、自分がその福音に生きていないということが多々ある のです。御言葉を伝える使命にある信仰者は、本当にこれを警戒しなければなりません。しかし、それは、信 仰者はいつも律法に縛られて、生活をしなければならないということではありません。信仰者が生きて行くの は律法ではなくて、福音です。信仰者は、福音によって生活をしなさいと他の人々に勧めるだけではなくて、 自分自身が福音によって生きていく、という実例を示さなければならないのです。パウロは、わたしに倣う者 となりなさいと言いました。これを単純に聞いた時は、パウロはなんと自信過剰なひとだと思ってしまいます 。もしもこれが、律法に従って生きる、言い換えれば、しなければいけないことをきっちり守ることを、わたし は完璧にできているということだったら、これは大変、傲慢な言葉です。しかし、パウロが言っているのは、 福音に生きるということの意味において、わたしに倣う者になりなさいと言っているのです。
パウロがどういう気持ちでこういうことを言ったかということは、テモテへの手紙1の1章15節以下で言われて いる言葉でよく分かると思います。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は 真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐 れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信 じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。 す。わたしに倣う者になりなさい、わたしを手本としなさいというのは、わたしが立派な人間だから、それを見 倣いなさいというのではない。わたしがいかに罪深い者であるか、わたしがいかにひどい者であるかというこ とは、わたしがよく知っている、その一番罪の深いわたしを、神様がイエス様において、贖い取って下さった ことこそ福音だ。福音というのは、何か抽象的な教えではなくて、罪人である人間パウロが、キリストにおい て救われ、神の子とせられたという、この事実の中に実を結んでいる。このわたしを見て下さい。わたしのよ うな者が罪を赦されて、神の子どもとされた、そのわたし自身の実例を通して、わたしはあなたがたにお勧め をしている。神様の福音の恵みは、この弱い、罪深いわたしにおいて現れている。この福音を、自分を通して 他者に伝え、分かち合うということこそが、パウロの考えていた「恵みを無駄にしない生き方」です。
パウロは、自分を手本だと言っているのですが、どういう手本なのか。それは本日の6章4節前半で言われて います。「あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。 訳聖書では、神の僕となっていました。どんな時にも、神様の僕として、自分をあらわす。それがパウロの生 き方です。 僕というのは、奴隷という意味です。奴隷というのは、二つのことが考えられます。奴隷には、所 有者がいます。パウロは神様のものであり神様の僕、キリストのものでありキリストの僕です。またわたした ちも、神様の僕であり、イエス様の僕です。そのパウロにも、わたしたちにも、これは神様のものだという印 が付いています。それが洗礼の時に賜物としてわたしたちに与えられる、聖霊です。神様のものですから、こ の僕に勝手に手をだそうとしたり、奪おうとしたりするものに対して神様は、「これはわたしのものだ、手を 付けるな」と言って下さる。イザヤ書の43章の1節にあるように、「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなた はわたしのもの。」神様が「これはわたしのもの、愛する子たちだから、手を出すことはゆるさない」と言っ て神様が、わたしたちを絶望に引きずり込むようなあらゆる脅威から守って下さる。奴隷といわれると、なに か苦しかったり惨めなことばっかりのように思ってしまいますけれども、神様の奴隷というのは、他の者がこれ を脅かすことができない、神の主権のもとに守られているということを示しています。奴隷は自分の考えで動 くのではなくて、主人の言い付けのままに動く、パウロもそういうふうに生きました。そういう神の僕である 者としての生活が、普通の、自分の思いのままに生きている人とどう違うか、それが、パウロの生活に出て来 ており特色と言いますか、それが具体的に4節の後半から書かれています。「大いなる忍耐をもって、苦難、欠 乏、行き詰まり鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても」と書いてあります。ここには、パウロの置 かれている状況が語られていますが、これはわたしたちの現実でもあります。何かこう神様の恵みのもとにあ るというと、もう病気もないし、商売はうまくいってですね、無病息災、家内安全、商売繁盛というふうにい くだろうと、わたしたちは考えがちであります。そして、ちょっと病気になったり、問題にぶつかってうまくい かなくなったりすると、ああ神様の恵みがないと思いがちです。しかし、パウロは「そうではない、わたしの 生涯、わたしの生活をみると、ここに書いてあるようにさまざまの患難があるが、その患難の中にあって、わ たしが神のものであるということを、わたしが神の僕であることを現すんだ」と言っています。そして、その 次に「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の 手に義の武器を持ち」とあります。苦しみや艱難というそういう境遇の中におかれた時に、神の僕は、どういう ふうに生きて行くかということが、ここで語られています。純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、こ ういうふうに並べられ、自分の信仰者としての現実を振り返ると、これはもう、とてもじゃない、わたしなん かじゃできないナーと思ってしまします。わたしがやると思うと、これはできないわけです。わたしたちがここ の言葉で注目したいのは、聖霊です。純真から始まるこの言葉は、最後の義の武器まで並べられて語られてい ます。その言葉の並びに来ている中心が、聖霊なんです。これらの中で一番重要なものであるとして、パウロ は真ん中にこの言葉を於いているのです。わたしたちが神の僕となったときに、聖霊を与えられています。そ の聖霊によって、わたしたちは偽りのない愛を注がれ、真理の言葉を聞くことができるようになり、その聖霊 なる神の力によって、純真に変えられ、知恵を与えられ、寛容になり、親切に生きるもの、へと変えられていく のです。神様の僕だから、神様がそれにふさわしいものへと、わたしたちの内に与えられた聖霊を通して変え て下さるのです。
そして8節で「栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそう しているのです」と言われています。ここは、「そうしている」ということがどういうことなのかわかりにく くなっています。口語訳の方がここは意味が取りやすくなっていて、口語訳には「ほめられても、そしられて も、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている」と書かれています。わたしたち は、人に悪口を言われないように、悪く評価されないように、いつでも人から誉められるような生き方をしな ければ、と思いがちです。しかしパウロは、そんなことは言っていません。「ほめられても、そしられても、 悪評を受けても、好評を博しても」パウロだって、「そしられたり、悪評を受ける」こともあるのです。人に良 くいわれようが、わるくいわれようが、パウロにとって、そのことはどうでもいいことなんです。そんなことに 気をとられるんではなくて、神様の僕として自分を現しているかどうか、福音によって生活しているかどうか ということ、これをパウロは大切にしていたのです。そしてその結果、どういうことになるか「わたしたちは 人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているよ うで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、 貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」ここには、ネガティ ブなことがすべてポジティブなこととして言い換えられて書いてあります。
信仰者は、なかなか人に理解されません。それで世間の常識、世間の標準で見ますと、クリスチャンというの は、損ばかりするように見えます。クリスチャンは、自分のことを我慢して他人のために仕えたりすることもあ る。このため、信仰者はそんなに、世の目から見れば、苦しそうだったり、貧しく見えたります。しかし、こ こにパウロが「貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」と、 すごいことを言っています。どうしてでしょう。普通、人はいつでも、その人間の能力とか、人間の持ってい る富とか権力とか、その人についているものだけで、その人の生活を判断します。しかし、世は、いつも神様 が共におられる、支えられている、守られているというような信仰者の生活を、見ることができません。わた したちも、時にそのことをわすれることがあります。この神様に支えられる生活は、一見なにももっていない ように見えて、だれよりも豊かに生きることができるのです。その生き方は、小さな赤ん坊の生活に例えるこ とができます。生まれたばかりの赤ちゃんはお金も能力を持っていません。しかし、赤ちゃんが飢えて死ぬか と言えば、そうではありません。両親がいて、必要な食べ物を全部与える。着る物も用意する。本当に必要な ものを与えようとします。一円も持っていなくても、ちゃんと生きていけます。わたしは自分の息子を見ながら 、そう思います。彼自身は、なにももっていないのに、支えられるものにとって、豊かになっているのです。 息子の心の中まではわかりませんが、幸せだと思うのです。必要なものを必要な時に、必要な分与えられると いう信頼、そのような人が自分にはいる、孤独じゃない、頼るべき人がいるというのは、心もまた平安にされ心 をも豊かにされていくのではないかと思います。
これが神の僕であり、神様の子供であるクリスチャンの生活です。何も持たないようであるが、すべての物を 持っているのです。必ず与えてくださる信頼できる方が共にいてくださるのです。すべてを持たれている神様が 、必要なものをすべて与えてくださるからです。そういう生活をパウロは毎日しています。「そのようにわた しに委ねて生きなさい」と、パウロを通して神様から、今わたしたちは勧められています。神様が、いまこのよ うにわたしたちに勧めておられるということこそ、今、わたしの恵みの時、救いの日なのだと。神様の福音が 今、あなたの耳に響いているということは、これは何物にも代えがたい、大きな恵み。その恵みを今、あなた は無にしてはならない。聞き流して忘れてしまってはならない。このパウロを通して語られる福音の言葉が、 どうか、わたしたちの中で豊かな実を結びますように。