「キリスト・イエスを誇る」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:エレミヤ書 第9章22-23節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第3章1-11節
・ 讃美歌:353、297、522
<何を喜ぶか>
「喜びなさい」。パウロがこの手紙の中で、何度も何度も繰り返すことです。
「わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。」
パウロは、何度も「喜びなさい」と言うことを厭わない、面倒だとは思わない、それは、あなたがたにとって、安全なことだから、確かなことだから、というのです。
でも、わたしたちには、喜びなど感じることが出来ない状況があります。様々な出来事が起こって、打ちのめされること、落ち込むこと、闇の中にいるように感じることがあります。そんな時に、「喜びなさい」と言われても、それは到底、無理な話です。
でも、この「喜びなさい」というのは、いつでも、何がなんでも喜んでいるように振る舞いなさい、苦しい時も、苦しいと言ってはいけない、無理して喜びなさい、ということではありません。
わたしたちは苦しむし、悲しむし、辛くなります。そんな中で、わたしたちが立ち竦んでしまったり、絶望しそうになったり、倒れてしまったりする時、何もかもを失ってしまったと感じる時、それでも絶対に消えない希望を持っているということ。どんなにどん底にいるように思っても、必ずそこで一緒にいて下さり、必ずわたしを立ち上がらせて下さる方を知っているということ。それが、わたしたちが喜ぶべきことなのです。
その方は、イエス・キリストという方です。パウロは、「キリスト・イエスを誇りとする」と言っています。この「誇る」という言葉は、頼る、信頼する、そして褒め称える、喜ぶ、というニュアンスもあります。キリストを誇りとすること、キリストを頼る者であること、それが「主において喜ぶ」ということなのです。
自分の感情や、心の動きや、状況の良し悪しで喜ぶのではありません。主イエス・キリストにおいてしか、わたしたちは本当に喜ぶことはできないのです。ですから、パウロはただ、真の喜びを与えて下さるキリストを誇るのです。
<肉に頼ること>
ところが、2節以下でパウロが激しく警告をしているように、わたしたちはキリスト以外のものを誇ったり、頼ったりすることが多くあるし、またその誘惑が満ちています。そこでパウロは、神ではない、自分の行いや力を頼る人々がいることに注意を促すのです。
ここでパウロが「あの犬どもに注意しなさい」と呼びかけている「あの犬ども」とは、教会を迫害する外部の人たちのことではなく、当時、教会の内部で、ある主張をした人たちのことです。それは、キリストを信じたユダヤ人たちです。ユダヤ人は、旧約聖書に書かれている、神に選ばれたイスラエルの民でした。彼らは、神の律法に従って、割礼を受けています。割礼とは男性が、体の一部の皮を切り取ることで、神が選んで下さった民であるということの「しるし」でした。
神が、このユダヤ人を選ばれたのは、ユダヤ人だけを救うためではなくて、ユダヤ人を通して、すべての人間をお救いになるためのみ業を行われるためでした。すべての人間の罪を引き受けて下さるために、神の御子イエスは、まことの人となってお生まれになりました。そのために、神はユダヤ人を選ばれ、主イエスはユダヤ人として地上にお生まれになり、すべての人の罪を赦して救うために、十字架に架かられたのです。救い主が遣わされ、すべての人に救いが及ぶということは、旧約聖書にも預言されており、その神の約束が、ユダヤ人という選ばれた民が用いられて、具体的に人間の歴史の中で実現したのでした。
しかし、このキリスト者になったユダヤ人の中の一部の者が、自分たちが元々神に選ばれた民であること、つまり割礼を受けている者であることが、キリストの救いを受けるために重要なことだ、割礼が救いを保証してくれるのだ、と主張したのです。そうして、割礼を受けていない、ユダヤ人以外の民族でキリストを信じた兄弟たちを、おそらく軽蔑していたのです。「犬」とは、当時、ユダヤ人が割礼を受けていない異端者や、異邦人を侮蔑して呼ぶ言葉でした。
パウロがその彼らの言葉を反対に使って、「犬ども」とユダヤ人である彼らを激しく責めるのは、そのように、神の救いのみ心を弁えないで、割礼を受けていないキリスト者を「犬」呼ばわりするあなたたちこそ、本当の割礼を知らない「犬」だ、という意味が込められているのでしょう。さらに、「よこしまな働き手」、「切り傷にすぎない割礼を持つ者」と厳しく非難しています。
そして、フィリピの教会の人々に、三回も「注意しなさい」「気を付けなさい」「警戒しなさい」と言うのです。なぜなら、このユダヤ人キリスト者の主張は、信仰の本当の意味を失わせる、大変危険な主張だからです。
<律法から生じる自分の義>
パウロは、彼らが割礼を受けることを救いの根拠としたように、自分の行いや、持っているもの、キリスト以外のものに救いを頼ることを、「肉に頼る」と表現しています。
そして3節に「彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」と語ります。本当に神の救いを確かにするのは、神の霊によって礼拝すること。つまり、自分の熱心さや、自分の願いや思いを中心にして神を礼拝するのではなくて、聖霊の導きによって、神を礼拝すること。そして、キリスト・イエスを誇りとすること、キリストのみを頼りとすること。そして、肉に頼らないことなのです。
そしてパウロは、自分だって、肉に頼ろうと思えば、割礼を誇っているあなたたち以上に、誇れるものはいくらでも持っているのだ、と言うのです。
5~6節に書かれているように、パウロだって生まれながらのユダヤ人で割礼を受けている神の民で、しかもその部族の中でもベニヤミン族という、サウル王を排出した名門の部族出身です。まさにヘブライ人の中のヘブライ人。そして律法に関してはファリサイ派の一員です。ファリサイ派は特に厳格に律法を守ることを重視した学派です。どれだけ熱心だったかというと、律法を厳格に守るために、かつては教会を迫害してキリスト者を片っ端から捕えていたし、律法の義、つまり律法にどれだけ厳密に従っているか、という正しさにおいては、非の打ちどころがなかった。もうとにかく、超エリートで、血筋も完璧で、生活も品行方正、誰にも指摘されるところがない人物だったのです。
もし、このように神に選ばれた民族出身であることや、自分の行いや、持っているものによって神の救いが得られるのなら、パウロは堂々と自分は救われる資格があると言えたでしょう。もう何だか嫌味にしか聞こえません。
ところが、ここには恐ろしいことが隠されています。
それは、割礼を救いの根拠としたり、自分が神の律法に完璧に従っているから、自分の救いは確かだと考え、そのことを誇り、肉に頼るなら、それは自分に救いの根拠を持とうとしていることなのだ、ということです。
それは救いを神以外に頼ることです。救いを神に依り頼まずに、自分や、行いや、他のものに依り頼み、神を神としない罪を犯すことです。律法に従っているつもりで、神に従うべき律法の根底に逆らい、神の救いを得たいと望みつつ、神からますます遠ざかっているのです。
しかも、その自分が頼りにしているものは、本当に頼れるものなのでしょうか。絶対に失われないものでしょうか。地位、名誉、血筋、努力、熱心さ…。わたしたちも、そのようなものではなくても、どこかで自分が誇りに思い、拠り所にしているものが、絶対のように思っていることがあります。しかしそれは、わたしが絶望した時に、わたしを救えるでしょうか。わたしの罪を赦したり、死の中から救ったりできるのでしょうか。
<自分の持っている一切が損失>
パウロは自分が肉に頼って誇れるものをすべて並べた後で、驚くべきことを言います。
7~8節で「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」と言うのです。
かつてパウロが持っていたもの、救いのために熱心に行っていたこと、パウロの人生を支えていたものは、「主キリスト・イエスを知ることのすばらしさに、一切の損失となった」、キリストによってすべてを失ったが、そんなものは塵あくた、ゴミと同じだった、むしろ害になるものだった、というのです。
なぜなら、パウロが持っていたもの、神を求めて熱心にしていたことは、むしろパウロを神から引き離し、罪を犯させ、救いから遠ざけていたからです。
かつてのパウロのように、自分が律法に従い、律法に正しくあることで救いを得ようとすることを、パウロは9節にあるように「律法から生じる自分の義」と言います。
「義」つまり「正しさ」というのは、「神との正しい関係」を意味します。人は神に逆らい、神から離れ、神との正しい関係を失ってしまった状態にありました。その、神に逆らった罪を赦し、神とまた正しい関係の中に生きることが出来るように、神の御子イエスが十字架によって罪を赦して下さったのです。
そのように、キリストによって罪が赦されたことを信じ、その信仰によって、神との正しい関係を回復して頂くのが、9節の後半にある「キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」ということです。
しかし、この神との正しい関係を、自分が律法を守るという良い行いによって、「律法から生じる自分の義」によって得られると考える時、それは、神に頼らず自分に頼って救いを得ようとしているのであり、神から離れ、神との正しい関係をますます得られなくなっているのです。ですから、パウロはかつて自分が持っていたもの、この地上で賞賛を受け、誇ることが出来るような一切のことを、もはや損失とみているのだ、と言うのです。
<キリストを知ることのすばらしさ>
パウロがこのように、自分が所持し、有利と思われていたものが、損失だ、塵あくただ、と気付かされたのは、「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」を知ったからです。キリストを知って、パウロに価値の大転換が起こったのです。キリストを知ることは、まったく生き方を変えられてしまうことです。
パウロは、自分の中に本当に誇れるものは何もない、自分の内に救いの根拠となるものは何もないと知りました。何を持っていても、どう熱心に、真面目にやろうとしても、自分では罪を犯すばかりなのです。そしてそれが、人間の姿であり、神から離れた状態なのです。
それは、キリストを知ることによって初めて、自分がどんな状態にあったのか、どれだけ神から離れていたかを、知らされます。
「キリストを知ること」というのは、単に知識を持つことではありません。2000年前、ベツレヘムでイエスという名の人が生まれ、30歳くらいでエルサレムで十字架につけられ死んで、三日目に復活した…という情報を、知っている、ということではないのです。
知る、というのは人格的に相手を知っていること、つまり、主イエス・キリストと出会う、ということです。わたしを愛し、救うために十字架に架かって死なれ、そして復活して今生きておられる方が、出会って下さり、語りかけて下さり、この方の命に生かされ、共に生きる、ということが、キリストを知る、ということです。
キリストと出会い、キリストの呼びかけにお応えし、自分の中へキリストを受け入れる時、わたしたちは、8~9節にあるように、「キリストを得、キリストの内にいる者と認められる」のです。この原文を直訳すると、「キリストを得て、そしてキリストの中に、わたしは見出されるだろう」と訳すことも出来ます。
キリストを知った時、キリストと出会った時、キリストの中に、自分自身を見出すのです。キリストによって、支えられ、生かされている人生であること、命であることを知るのです。キリストがいなければ生きられない者であったと知るのです。この方が、わたしと共にいて下さり、わたしの苦しみ、悲しみ、そして罪をすべて負って下さり、わたしのために十字架に架かって死なれました。それは罪の中で滅びるばかりであったわたしを生かすためです。罪を赦し、神との正しい関係を取り戻して下さり、そして復活の力によって死を打ち破り、わたしたちにも永遠の命と復活を与えて下さるためです。
キリストに出会い、そのキリストと十字架の死と復活のみ業がわたしのものとなり、キリストの命に結ばれて、キリストの中にわたしが置かれる時、そこに、本当の「喜び」が生まれるのです。それは、何があっても、悲しみ、苦しみ、困難があっても、死に直面したとしても、罪と死を打ち破り、復活して生きておられる主が、必ずわたしと共におられるという、決して消えない、ゆるがない喜びなのです。
この方を知ったのだから、この方を信じる信仰によって、神は救って下さるのだから、パウロがかつて誇ったものは、もはや塵あくたでしかない。主キリスト・イエスを知るというあまりのすばらしさの前には、他のものは全く何もいらない。肉に頼らず、キリストに頼り、自分や他のものを誇るのではなく、ただキリスト・イエスを誇るのだ、と言っているのです。
信仰というのは、熱心さや真面目さではありません。信仰は、わたしを救おうとして下さる神を知ること、そして神に頼ることです。そして、差し出された恵みを、ただ受け取るのです。自分に救われる要素や、条件は何もありません。わたしがすべて失い、まったく弱り果て、倒れてしまっていても、救いは神から一方的に与えられるのです。
わたしたちは、そのように一方的に憐れみ、愛し、わたしを救い出して下さった方に、ただただ頼るのみなのです。
<苦しみにあずかり、死の姿にあやかる>
そのように、キリストを知ったなら、パウロは、10節にあるように「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と言います。
キリストと出会い、その復活の力を知ります。キリストの復活は、父なる神の力です。力は「デュナミス」という単語で、ダイナマイトの語源と言われています。つまり、爆発的な力、すべてを打ち破るような力です。この神の力が、キリストに働いて、わたしたちを捕らえていた死を打ち破って下さいました。この神の力で、わたしたちは全く新しい者とされるのです。
そしてパウロは、このわたしたちを新しくする復活の力にあずかることは、同時にキリストの苦しみにも与ること、その死の姿にあやかることである、と言います。
神に救われるということは、わたしたちの希望が叶うことや、何の苦しみも不幸もないような、望み通りの生活が出来るようになることではありません。むしろ信仰を持つことで苦しみや戦いを経験します。
神に救われた者の生活は、神でありながら全てを捨てて下さり、低くへりくだられ、神に従順に歩まれた、主イエス・キリストの御跡に従っていく生活です。主イエスと一つにされ、私たちのために受けて下さった主イエスの苦しみに与り、死にあやかりつつ、わたしたちも互いにへりくだって、主イエスと共に歩んで行くということです。
それはまた、この世において、自分で誇るものを何も持たないこと、貧しくなること、弱くなること、小さくなることです。しかし、ただ神にのみ依り頼む時、空っぽの弱いわたしたちに、神の力が、すべてを新しくする力が、いっぱいに満たされるのです。わたしたちの弱さの中に、神の力が豊かに働いて下さるのです。
そして、「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」とパウロは言います。
これは、何とか努力して頑張らなければ、復活に達することが出来ない、という意味ではありません。それではまた、自分の力に頼って、自分の努力を誇って救いを得ようとすることになります。
そうではなくて、わたしたちは、終わりの日に、キリストと同じように復活することが約束されていますが、その時はまだ来ておらず、わたしたちは、今はまだ復活に達していません。だから、それを期待して、待ち望み続ける、ということです。わたしたちはまだ途上にあり、完成を求め続けているのです。
それを期待せず、求めず、既に完成しているかのように生きることは出来ません。わたしたちは依然、罪に誘惑され、悪の力を感じ、死の力に圧倒されそうになります。神の国はまだ完成していないからです。しかし、主イエスは必ず再び来られると、神の国は完成するのだと約束して下さいました。ですから、わたしたちは、わたしたちのためにキリストが耐え忍んで下さった苦しみ、そして十字架の死を覚えながら、しかし同時に、死をも打ち破り、キリストを復活させて下さった神の力をしっかり見つめながら、目の涙をすべて拭い去って下さり、死も悲しみも嘆きも労苦もないと言ってくださる、終末の時、復活の時を、心から待ち望むのです。ただ、この救いの御業を成し遂げて下さったキリストを頼りつつ、誇りつつ、地上の歩みを続けていくのです。
キリストは、この礼拝に共にいて下さり、わたしたち一人一人と出会って下さり、語りかけておられます。わたしたちは、この神の御子イエス・キリストと出会うことが出来、この方の中に自分の命を見出すことができます。この方に頼り、この方を誇ることが出来ます。
そして、わたしたちのために命を捨てて、わたしたちの人生を、命を、根底から支え、復活を約束して下さる方が、どのような時も、いつも共にいて下さることを、喜ぶことが出来るのです。