主日礼拝

愛の負い目

「愛の負い目」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:アモス書 第5章4-15節
・ 新約聖書:ローマの信徒へ手紙 第13章8-14節
・ 讃美歌:116、430、573

キリスト者の生活の基本―愛
 ローマの信徒への手紙の12章以下には、主イエス・キリストによる救いにあずかった信仰者、つまりクリスチャンに与えられる新しい生き方のことが語られています。12章から15章までがその部分なのですが、12章と13章には基本的なことが語られており、14章からはその応用であると言うことができます。ですから今読んでいる13章の終りのところは、信仰者としての新しい生き方の基本を語っている部分のしめくくりに当ります。その新しい生き方を一言で言えば、12章9節に「愛には偽りがあってはなりません」とあるように、偽りのない愛に生きることです。偽りのない、真実な愛に生きること、それがキリストによる救いにあずかった者の新しい生き方なのです。本日の箇所の8節においてもパウロは「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」と言っています。「互いに愛し合うこと」こそがキリスト信者の生き方の中心であることがここにも語られているのです。

義務を果たしなさい
 この8節について、先週の説教においてもある程度語りました。「借り」というのは「借金、負債」という言葉です。借金は返さなければなりません。お金を借りた人はそれを返す義務があるのです。パウロはここで、「だれに対しても借りがあってはなりません」と語ることによって、教会の人々に、自分の義務をしっかり果たして生きることを教え、勧めているのです。このことは7節に「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい」と語られていたことと繋がっています。この「義務」と8節の「借り」は同じ言葉なのです。隣人に対して果たすべき義務をしっかり果たして生きることが、キリストを信じて生きる信仰者に求められているのです。
 信仰者が果たすべき義務として7節で見つめられていたことには、税金を納めることも含まれていました。税金を納めることは国家に対する義務です。個人的な関係における義務だけでなく、社会的な義務、国民としての義務をも果たすようにとパウロは言っているのです。それはつまり、キリストを信じて生きる者は、自分の親しい仲間や友達のことだけを愛するのではなくて、この社会において共に生きている全ての人々を隣人として愛することが大切だ、ということです。そこから、社会における、国家に対する義務をもきちんと果たす、という姿勢が生まれるのです。このことは、私たちにおいては、パウロの時代以上に大切なことになっていると言うべきでしょう。パウロが生きていたローマ帝国においては、皇帝を頂点とする支配者が絶大な権力を握っていました。人々は自分が選んだわけではない支配者に従うしかなかったのです。しかし今日の私たちは、民主国家に生きています。そこにおいては国民一人ひとりが主権者であり、国の政治を担う者は私たちが選挙で選ぶのです。ですから私たちは、国家や政府の命令にただ従うだけの者ではないし、そうであってはなりません。私たちには主権者としての権利と義務があるのです。この国がどのように歩むのか、どのような社会を築いていくのかは、私たちが選び取り、決断するべきことです。ですから私たちがこの国と社会に対して果たすべき義務は、パウロの時代よりもずっと大きいし積極的なものです。政府の言うことに従って税金を納めていれば国民としての義務を果たしているとは言えないのです。それだけでは、隣人に対する義務を十分に果たせてはいない、つまり「借り」を残しているのです。この社会において、政治の責任を負っている人々をふくめた隣人を本当に隣人として愛するならば、私たちはもっと積極的に、この国の政治や社会のあり方について考え、発言し、行動していく義務があるのです。「すべての人に対して自分の義務を果たしなさい。だれに対しても借りがあってはなりません」という教えにはそのようなことをも含まれているのです。

愛の負い目
 しかしパウロはこの8節の「だれに対しても借りがあってはなりません」という教えに、「互いに愛し合うことのほかは」という但し書きを付けています。これは、他のいろいろなことにおいては借りがあってはならない、義務をしっかり果たさなければならないが、互いに愛し合うことにおいては、借りがあってよい、義務を果たさなくてよい、ということでしょうか。そうではありません。そのように捉えてしまったら、偽りのない愛で愛し合うことがキリスト信者の生き方だという教えと矛盾することになります。先週も申しましたようにパウロはここで、互いに愛し合うことにおいては、私たちの借りが、つまり果たさなければならない義務が、なくなることはない、いつまでも残る、と言っているのです。借金ならば、利子を付けて全額返済すればそれでもう借りはなくなります。返済の義務から解放されるのです。税金も、決められた額を納めればそれで義務を果たしたと言うことができます。しかし互いに愛し合うことにおいては、「もうこれで十分、これ以上は愛さなくてよい」ということはないのです。偽りのない愛に生きるところでは、「もう十分」ということはない、愛における借り、義務、言い替えれば負い目はいつも残っている、偽りのない愛に生きるというのは、自分が愛の義務、愛の負い目を負っていることを常に意識して生きることなのです。ですからこの8節は、愛においては借りがあってもよい、不義理をしてもよい、と言っているのではなくて、互いに愛し合って生きることにおいて、自分が愛の負い目を負っていることをいつも意識して歩みなさい、ということなのです。

愛の負い目を意識しているか?
 私たちは普段の歩みの中で、この「愛の負い目」を意識しているでしょうか。私たちは誰でも、自分の愛が不十分な、足りないものであることを知っています。そのことは分かっているつもりでいます。「あなたの愛は十分ですか」と問われて、「はい、十分に人を愛しています」と答えることのできる人はいないでしょう。自分の愛が決して十分ではないことを、私たちは頭では分かっているのです。けれどもそこで本当にそれを自分の「負い目」として意識しているかどうかは別です。私たちはしばしば、「これだけ愛しているのにどうして応えてくれないのか」という文句や不平を覚えます。それは、自分は十分愛しているのに、相手がそれに応えようとしない、我々の関係がうまくいかないのは相手のせいだ、ということです。そこでは私たちは、自分の「愛の負い目」など少しも意識していません。負い目があるのは、返さなければならない借りがあるのは相手の方だと思っているのです。およそ私たちが人に対して腹を立てる時というのは、そういう思いに陥っているのではないでしょうか。つまり、一般論として自分の愛が不十分だと認めることと、具体的な相手との具体的な関わりにおいて、自分の愛が不十分であり、愛の負い目が自分にあると認めることは全く別なのです。しかしそのような具体的な、現実の人間関係において、愛の負い目を覚えて生きるのでなければ、互いに愛し合って生きることはできません。「これだけ愛しているのに」と言って相手が自分の思い通りにならないことに腹を立てるとしたらそれは、結局自分のために相手を愛しているに過ぎないのであって、実は相手を愛しているのではなくて自分を愛しているのです。相手を本当に愛することは、自分に愛の負い目があることを常に意識していくことによってこそできるのです。

律法を全うするとは
 8節の後半には「人を愛する者は、律法を全うしているのです」と語られています。これは前半と深く結び着いた言葉です。ここに「律法を全うする」ということが語られているのは、律法を実行することによって正しい者となり、つまり神に対する義務を全て果たし、もう負い目のない者となることができる、と思われていたからです。律法を守り行っていれば、もう負い目を感じることなく堂々と生きることができる、ユダヤ人たちはそのように考え、そうなるために熱心に律法を守っていたのです。つまり彼らは、律法を全うして負い目のない人間になろうとしていたのです。パウロはそのような思いでいる人々に対して、人を愛する者こそが律法を全うしているのだ、と言っているのです。自分に愛の負い目があることをいつも意識して、その負い目、愛する義務を果たそうとしている者こそが人を愛して生きることができます。そこにこそ、律法を全うする生き方が、つまり神が律法をお与えになった本来の目的に適った生き方があるのです。愛の負い目をいつも意識しているところにこそ、律法を全うする歩みがあるのです。そのような生き方こそが、キリストを信じる者に与えられる新しい生き方なのです。

負い目のない者となろうとすると
 9節でパウロは、律法の中心である十戒の中の四つの戒めを取り上げて、今申しましたことを確認しています。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という四つの戒めです。これらはいずれも、私たちの日常の生活と、そこにおける具体的な人間関係に関わることです。ユダヤ人たちは、これらの戒めを日常生活において守ることによって、律法を全うする者となり、正しい者、罪のない者、つまり負い目のない者となろうとしていたのです。しかしパウロは、これらの戒めは、またその他のどの戒めも、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されるのだと言っています。つまり律法の全ての戒めは、それによって自分が律法を全うして、清く正しい者、負い目のない者となるためにあるのではなくて、神の下で生きる私たちが隣人を愛して生きていくためにあるのだ、ということです。これは主イエス・キリストご自身が語っておられたことです。主イエスは、律法全体をまとめる言葉として、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という申命記の言葉と、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」というレビ記の言葉を引用なさいました。主イエスは、律法を全うするとは、神を愛し、隣人を愛することだと言われたのです。それゆえに、「姦淫するな」という戒めについては、マタイによる福音書第5章27節で、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」とおっしゃいました。つまり、ただ姦淫の罪を犯さないというだけでなく、自分の夫あるいは妻を真実に愛して生きること、また結婚している他の人たちの夫婦としての愛の関係に割り込んでそれを破壊しないことが、この戒めを本当に守ることだと教えられたのです。「殺すな」についても主イエスは、同じマタイ福音書5章で、兄弟に対して腹を立て、「ばか」とか「愚か者」と言うことは人を殺すのと同じだと言っておられます。つまりこの戒めは、ただ人殺しをしなければよいというのではなくて、日々の具体的な人間関係において、人を愛し、大切にし、良い関係を築いていくことを求めているのです。「盗むな」や「むさぼるな」も同じです。人のものを盗んだり欲しがったりしないというだけでなく、人を愛し、その人のためになることをして生きることをこそこれらの戒めは求めているのです。これらの十戒の戒めが目指しているのは、それを守ることによって自分が正しい者、罪を犯さず、負い目を感じないでよい者となることではなくて、常に隣人を愛し、大切にし、生かす者として歩むこと、つまり愛の負い目をいつも感じて、率先して人を愛して生きる者となることなのです。私たちは、どちらのことを追い求めているでしょうか。自分が正しい者、罪のない清い者となり、もはや負い目を感じないですむ、誰に対しても借りを作らず、胸を張って堂々と生きることができる者となることを求めてはいないでしょうか。それを求めていく中で私たちは、隣人を自分のように愛するという、主が求めておられる一番大事なことを見失ってしまうのです。自分に愛の負い目があることを忘れてしまうのです。
 そのような姿を、繰り返し紹介しているルカによる福音書第10章の「良いサマリア人」の話に出て来る祭司やレビ人に見ることができます。強盗に襲われて傷つき倒れている人を見ても、彼らは道の反対側を通って、見て見ぬふりをして通り過ぎたのです。彼らは神に仕え、律法を熱心に守り、またそれを人々に教えていた人たちです。姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるなという戒めを彼らは完璧に守り行っていたのです。そういう意味では、律法を全うしている、罪や負い目のない人々だったのです。しかし彼らは、目の前に傷つき倒れている人がいても手を差し伸べることができませんでした。愛に生きることができなかったのです。それは彼らが冷酷な人だったというよりも、正しい者となろう、正しいことをして生きよう、誰にも恥じることのない、負い目のない生き方をしようとしている中で、愛の負い目を感じなくなってしまって、そのために愛が決定的に欠けてしまっていることに気づかなくなっていたのです。自分は正しいと思い、愛の負い目を感じなくなっていると、愛さなければならない具体的な状況に直面しても、愛することができないのです。この祭司やレビ人の姿は私たちにとって決して他人事ではないでしょう。それに対してあのサマリア人は、祭司やレビ人の立場からすれば汚れた罪人です。付き合うこともはばかられるような者です。しかしそのサマリア人が、怪我人を介抱して宿屋に連れて行き、自分のお金を払ってその世話を頼んでいます。具体的な愛に生きているのです。それは彼が特別に優しい人だったということではなくて、愛の負い目をいつも自覚して生きていたということです。愛することにおいては自分にはいつも負い目が、義務があるのだという思いを持っていたのです。そういう者こそが、具体的に人を愛することができるのです。

愛は隣人に悪を行わない
 10節には、「愛は隣人に悪を行いません」とあります。隣人に悪を行わない、というのは、愛とはどのようなものかを語るには随分消極的な言い方だと感じます。愛するとは、隣人のために何かをすること、あのサマリア人がしたように、傷つき倒れている人を助け、介抱するような、そういうことが愛することではないのか、と私たちは思うのです。しかし振り返ってみれば、9節のあの十戒の戒めは、隣人に対して姦淫、人殺し、盗み、むさぼりという悪を行ってはならない、という戒めでした。隣人を自分のように愛することが、そのような消極的な戒めとして教えられていたのです。これはよく考えてみるべき大切なことです。愛の負い目を意識して、隣人を自分のように愛して生きることが私たちに求められています。しかしそのように生きようとする時に私たちが先ず第一になすべきことは、隣人に対して悪を行わない、ということなのです。私たちの愛は、はなはだ独りよがりで、自分勝手なものです。愛しているつもりで、実は相手を傷つけてしまうことがしばしば起るのです。それは私たちが神から顔を背ける罪に陥っていて、正しい方向を向いていないからです。だから私たちの愛の向かう方向もねじ曲がってしまっていて、人を生かすよりも傷つけるものとなってしまうのです。神と正しく向き合い、神を愛していないと、隣人とも正しく向き合い、本当に愛することができないのです。ですから私たちが、隣人を愛して生きようとする時に気をつけなければならないのは、自分がどれだけ人を愛していると思っているか、という自分の感覚に頼ってはならないということです。愛することにおいて、自分の感覚や主観に固執することも私たちの罪です。自分が愛しているという感覚に固執する時、その愛は私たちの自己実現、自己満足の手段となっていきます。それは相手を生かす愛にはならないし、そこには「私はこんなに愛してあげているのに、相手がそれに応えてくれない」という不満が生じるのです。ですから自分の勝手な愛を相手に押し付けることと、愛の負い目を覚えて生きることは全く別です。愛の負い目を覚えて生きるところには、自己主張は起らないはずです。私たちの問題は、愛において自己主張をしてしまうことです。その時それはむしろ相手に悪を行うことになってしまうのです。つまり私たちは、傷つき倒れている人を見て見ぬふりをして通り過ぎた祭司やレビ人のようになってしまうこともあれば、そもそも彼を襲って傷を負わせ、半殺しにして放り出した強盗のようになってしまうことだってあるのです。自分ではそんなつもりはなくても、自分勝手な、自己主張の愛に陥る時、そのようになってしまうことを私たちは自覚しておかなければなりません。それゆえに、「愛は隣人に悪を行いません」という教えはとても大事なことを語っているのです。

主を求めよ、そして生きよ
 私たちはこのように、愛が欠けている者です。また愛においてすら罪を犯している者です。本日共に読まれた旧約聖書アモス書は、そういう私たちの罪、愛の欠乏を厳しく指摘し、責める神のみ言葉です。本日の箇所である5章の12節にも、「お前たちの咎がどれほど多いか、その罪がどれほど重いか、わたしは知っている。お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り、町の門で貧しい者の訴えを退けている」とあります。自分のように愛するべき隣人を愛そうとせず、むしろ苦しめ傷つけている、そういう罪の指摘です。神からのこのような指摘、告発の前に、私たちはうなだれて沈黙するしかありません。私たちの罪がいかに大きく重いか、愛がどれほど欠けているか、主なる神ははっきりとそれを見ておられ、知っておられるのです。しかしその神の告発、断罪のみ言葉の中に、「わたしを求めよ、そして生きよ。主を求めよ、そして生きよ」という語りかけもまた与えられています。愛に欠乏しており、愛においても罪を犯している私たちに、なお「生きよ」と語りかけて下さっている主なる神がおられるのです。この語りかけに応えて、主なる神を求めていくことによってのみ、私たちは、愛の欠けの中から、また自分勝手な愛によって人に悪を行ってしまう罪の中から立ち上がって新しく生きることができるのです。

キリストによる救いにあずかった者として
 しかし主を求めるとはどういうことでしょうか。どうすれば私たちは主を求め、そして生きることができるのでしょうか。私たちが主を求めて生きることができるようにして下さったのも、主ご自身なのです。独り子イエス・キリストを遣わして下さったことによってです。主イエス・キリストは、神から顔を背け、神を愛することなく自分ばかりを愛しており、そのために隣人をも愛することができず傷つけてしまっている罪人である私たちのために、人間となってこの世を歩んで下さり、そして私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。神は主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦し、また主イエスの復活によって私たちのために、神の子として生きる新しい命への道を拓いて下さったのです。この主イエスの十字架と復活による救いの恵みのゆえに、罪人である私たちが、主なる神を求めて生きることができるのです。この主イエスによる救いが、私たちの側の良い行いや、清さ正しさによらず、ただ神の愛によって与えられているということが、この手紙の11章までのところに語られていました。主イエス・キリストによって与えられたその救いにあずかった者はどのように生きるのか、が12章以下に語られているのです。主イエスによる神の愛の中でこそ、私たちは主を求め、そして生きることができます。主を求め、主の愛によって生かされていく時に私たちは、主の愛にお応えする愛の負い目が自分にはあることをも知るのです。そしてその愛の負い目を、喜んで、積極的に負っていく者となるのです。それが、キリストによる救いにあずかった者に与えられる新しい生き方なのです。

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