主日礼拝

福音の前進

「福音の前進」  伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編第46章2-12節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙第1章12-18節
・ 讃美歌:8、355、506

【福音】  
 キリストの十字架と復活を信じ、教会に連なって日々を歩むとき、死から甦られ、生きておられる主イエス・キリストが、いつも共におられます。   
 詩編の詩人が「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」と歌ったように、わたしたち一人一人の罪を、ご自身の十字架の死によって贖って下さった主イエスは、わたしたちのあらゆる悩み、苦しみ、弱さ、恐れ、悲しみをすべてご存知で、わたしたちが行くであろう、すべてのところに必ずおられ、助けて下さいます。   
 主イエスは、神の御子でありながら、肉体をとって人となられ、地上を歩まれました。そして罪人として扱われ、裏切られ、鞭打たれ、苦しんで死なれた。そして墓に葬られました。死人の中にも、墓の中にも、主はおられました。   
 その方を、父なる神が復活させて下さいました。主イエスによって、わたしたちを罪と死の支配から解放し、神の永遠のご支配に入れて下さるためです。わたしたちも復活し、永遠の命を得るためです。  
 これが、わたしたちに与えられた「福音」です。良い知らせです。福音は、神の力です。わたしたちを救う命そのものです。

 主イエスは、弟子たちに、「あなたがたは言って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」とお命じになりました。あなたを生かす、この福音を、すべての者に伝えよと仰ったのです。  
 今は天におられる主イエスは、わたしたちに聖霊を遣わして下さって、いつもわたしたちと共におり、わたしたちに信仰と、また主イエスを証しする力を与えて下さいます。   
 教会は、このようにして福音に生き、またこの福音を宣べ伝え、伝道する者の群れです。      

 今日は、教会全体修養会が行われます。主題は「聖霊に助けられて祈り、交わりを深めつつ伝道する教会」となっています。この礼拝は、修養会の開会礼拝でもあります。この後、牧師が講演で「聖霊に助けられて」ということを中心にお話しして下さるということですので、ここでは講解説教の予定通り、フィリピの信徒への手紙から、「伝道」について、そしてそこで宣べ伝えられる「福音」について考えてみたいと思います。      

 わたしたち教会も、この手紙の著者である、伝道者パウロと共に、伝道の旅を歩んでいます。福音を宣べ伝える伝道には、多くの困難や労苦があります。空しく受け流されることもあれば、反発も受けるし、馬鹿にされることもあるかも知れません。教会は、世の常識では受け入れられないことを、宣べ伝えているからです。   

 しかし、福音は、受け入れなかった者を神の力によって変えて、受け入れる者とさせる、そのような力があります。死ぬ者を生きる者とする力があるのです。その福音の力によって、わたしたちは伝道の業に励むことができるのです。   

【伝道者パウロ】  
 さて、わたしたちは伝道者パウロの手紙を共に読んでいます。
「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知って欲しい。」   
 パウロの身に起こったこと。それは、捕らえられ牢獄に入れられたということです。このフィリピの信徒への手紙は、牢獄の中から、フィリピの教会の人々に書かれた手紙です。

 かつてパウロは、イエス・キリストの福音、十字架と復活の救いをフィリピの地に伝え、そこで人々がキリストを信じ、教会が生まれました。  
 フィリピの人々は、その後のパウロの伝道のために祈り、また贈り物を届けたりして、一所懸命に支えていました。主イエスの救いに、共にあずかった者として、パウロとフィリピの教会は、共に神様に仕え、互いにいつも祈りに覚えていたのです。  

 そしておそらく何らかの形で、パウロが伝道の旅の途上で、牢獄に繋がれていると聞き、フィリピの人たちは大変心配したに違いありません。パウロ自身を気遣ったことは言うまでもなく、フィリピの人たちは、パウロが捕まってしまったことで、福音の伝道の業が、途中で止まってしまうことをも心配したと考えられます。  
 パウロは、自分の伝道によく協力してくれていたフィリピの人々が、そのことをも心配していると考え、「わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったのだ」、そのことを知ってほしいのだ、と手紙に書きました。福音は、パウロが捕らえられたからといって止まっていない。かえって、前に進んでいる、と言うのです。    

 しかしパウロの状況は、客観的に見て、福音を伝えるということにおいては、何の希望も見出せない、絶望的な状況です。牢獄に閉じ込められて、監視され、自由を奪われ、福音を語るために、どこへ行くことも出来ない、何をすることも出来ない状況です。むしろ福音の心配をするどころか、パウロは自分のことを心配した方が良いくらいです。   
 しかし、パウロは、その誰から見ても絶望的と思われる状況が、「福音の前進に役立った」というのです。

【福音の前進】   
 ここで、パウロが「福音の前進」と言っていることに注目したいと思います。   
 この「前進」と言う言葉は、障害物や危険にも関わらず前へ進んでいく、という時に使われる言葉です。パウロが頑張って福音を前進させているのではなく、福音そのものが、障害物を切り開き、危険を押しのけて、どんどん前へ進んでいく、それが「福音の前進」です。   
 人にはどうすることも出来ない状況でも、福音そのもの、つまり十字架に架かり、復活し、今も生きておられるキリストご自身が、人々を救うために前進していかれるのです。      

 その福音の前進に、パウロの身に起こったことがお役に立った。監禁されたことが、福音のために用いられた、と言うのです。   
 これは、神が、福音を前進させるために、パウロを苦しめたり、またわたしたちを困難な目に遭わせるというのではありません。   
 福音そのものが前進しているのです。   
 神の救いのご計画が、神ご自身によって進められているのです。そのご計画の中に、パウロも、そしてわたしたちもいます。   
 まるで、悪や、罪や死が支配しているように見える世界にあっても、キリストがすでに罪や死に勝利されており、神の支配が始まっているということを、わたしたちは知らされています。わたしたちは、キリストのご支配の中にいるのです。   
 わたしたちが、その福音に生かされているなら、困難と思われる状況にあっても、その障害物や危険をものともせず進んでいく福音の前進と共に、わたしたちも神のご支配の完成に向かって進んでいくことができます。   
 その、「福音の前進」をパウロは確信しているのであり、あらゆる状況が、神に用いられ、役立つというのです。

【福音の前進の役に立つ】   
 さて、パウロの場合、監禁されたことが具体的に、どのように役に立ったと言っているのでしょうか。続けて13~14節に語られます。
「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」  

 まずパウロは、パウロが「監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡った」、ということです。   
 ここで、「キリストのため」書かれていますが、原文の通りなら、「キリストにおいて」と訳すことが出来ます。「パウロが監禁されているのは、キリストにおいて、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡った」つまり、「パウロが監禁されていることが、キリストにおいて、明らかになった」、と言っているのです。  
 キリストを伝道したために監禁されたのですから、確かに「監禁されているのはキリストのため」です。しかし、ただその監禁された理由がキリストだと人々に知られた、ということだけではないのです。   
 それは「キリストにおいて、キリストの力によって、知れ渡った」のだ、と言っているのです。  
 閉じ込められ、どこに行くことも、何をすることも出来ないパウロの状況にも関わらず、キリストが、多くの人々にパウロが監禁されていることを知り渡らせたのだ、ということです。  
 パウロは牢獄の中にいますが、パウロ自身はそれにも関わらず、常に自分がキリストの支配の許にいることが、よく分かっているのです。どのような絶望的に思える状況でも、自分の力では何も出来ない状況でも、そこには生きて働かれるキリストがおられます。  
 監禁されていても、キリストが、福音のために、自分が捕らわれていることを人々に明らかにして下さる。人の目には希望も何もかも失せたような状況でさえ、そこにはキリストの支配があり、キリストの力によって、キリストにおいて、救いの恵みが人々に知れ渡っていったのだと、パウロは確信しています。  

 パウロはフィリピに伝道をした時にも、牢獄に捕らえられたことがありました。それは使徒言行録の16章に出てきますが、鞭打たれ、足枷をつけられ、いちばん奥の牢に入れられたパウロは、そこで神を賛美し、祈っていたのです。それを周りの囚人が静かに聞き入っていた、と書かれています。フィリピの人々は、手紙を読んで、きっとそのことを思い出したでしょう。   
 パウロは今回の牢獄生活でも、恐らく同じように神を賛美し、祈っていたのではないでしょうか。その時、パウロは一人ではありません。パウロが讃える神がそこにおられ、パウロの祈りを聞かれる主が、そこにおられます。  
 牢獄の番をしていた兵や、パウロと接触した人々は、このキリストを伝えて牢獄に入れられている一人の男が、絶望せず、落ち込まず、神を賛美し祈っているのを不思議に思ったことでしょう。   
 そうして、監禁されているパウロのことが、兵営全体に、またすべての人々に、キリストの力によって、キリストがパウロと共におられることによって、知れ渡ることとなったのです。

【確信を得た兄弟たちが御言葉を語る】  
 そして次に何が起きたのでしょうか。   主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、パウロが捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったと言います。他の信仰者たちが、パウロのことで励まされて、伝道の力を得たのです。  
 本来であれば、キリストを伝えたために捕らわれたパウロの事を知って、自分もキリストを宣べ伝えることで捕まってしまうかも知れないと、不安になり、尻込みするところです。  
 しかし、主に結ばれた兄弟たちは、パウロが捕らわれているのを見て確信を得た、と言います。それは、牢獄のパウロと共にキリストがおられ、生きて働かれているという確信だったのではないでしょうか。    

 ここで興味深いのは、この兄弟たちが「御言葉を語る」の「語る」という言葉が、通常の語るではなくて、幼児がたどたどしく話す、または音が出る、というような単語が使われていることです。  
 兄弟たちがパウロを通してキリストの確信を得て、勇敢に語り始めた御言葉は、たどたどしい語り口でした。しかし、そこで語ったのは神の言葉、御言葉であり、福音です。福音そのものに力があります。神ご自身が働いてくださることに信頼し、キリストのご支配を確信しているならば、たどたどしい語り口でも、福音は語られ、福音は前進していくのです。

【敵意と善意】  
 しかし、パウロは、御言葉を語る者の中には、ねたみと争いの念に駆られ、また利益を求めてパウロを苦しめようと不純な動機でキリストを告げ知らせている者がいると言います。  
 ねたみと争いの念に駆られている者とは、教会でのパウロの活躍を疎ましく思い、監禁されているのをいいことに、今のうちに自分の勢力を拡大しよう!と目論んだ人がいたのかも知れません。  

 一方で、善意をもって、パウロが福音の弁明のために捕らわれているのを知って、愛の動機から、真実にキリストを告げ知らせている者がいます。   
 「わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って」とありますが、この「捕らわれる」という言葉は、「おかれている、据えられている、定められている」という言葉です。つまり、パウロの監禁という状況さえ、パウロが神によってそこにおかれていることを知っている、ということです。   
 パウロ自身と同じように、神のご計画の内にパウロの状況を理解し、キリストの支配を確信して、御言葉を伝えようとする者もいたのです。   
 そのように神の御心を正しく知り、それに従って伝道の業に励めるなら、それは大きな恵みです。      

 そして、この極端な両者についてパウロは言います。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」   
 これは、結果キリストが伝えられているなら、なんでもいいや、という意味ではありません。   
 どんな動機にも関わらず、キリストが宣べ伝えられていることは、福音の前進であり、神ご自身の業なのです。たとえパウロを苦しめるために伝道している者がいたとしても、そこで正しくキリストが語られているのなら、その御言葉自身に力があるのだから、確かに福音が前進しているということを、パウロは信じ、喜んでいるのです。   
 パウロは、妬みや争いの感情を向けられ、自分が苦しめられている中で、それにも関わらず最も重要なこと、神の救いの御業が語られていることに目を向け、そのことを感謝し、喜びます。   
 パウロは徹底して、神ご自身が救いの御業を進めて下さることに信頼するのです。      

 そして、わたしたちも、いつも自分が、そして教会が、キリストのご支配の内にあることを知っているならば、パウロのように、人の業ではなく、そこに働く神の御業に目を向けていくことが出来ます。   
 自分が順調に伝道のために働ける時も、自分が何もできなくなった時も、協力してくれる人がいる時も、自分勝手な人がいる時も、ただしっかり神の御業に目を向けて、そこでキリストが宣べ伝えられているならば、福音の前進を喜ぶことが出来るのです。

【福音の前進において自分の人生を見る】  
 わたしたちは「福音」を受け取り、またその「福音」を、すべての人に宣べ伝えなさい、伝道しなさいと主イエスから命じられました。人の目には困難や、苦難や、絶望に覆われているように思えても、福音はそれを切り開き、前進していきます。わたしたちは福音そのものであるキリストに自分をお委ねし、主が進まれる後に従っていくのです。    

 またそれは当然、困難な時のみでなく、福音によって生きているわたしたちの生活のすべてが、このキリストの支配の中で、キリストにおいて、福音の前進に役立つということです。キリストにおいて、わたしがキリストの支配の中に生きる者だと、周りの人々に明らかにされていくのです。  

 ですから、わたしたちは、世の基準や価値観に苦しんだり、絶望したりせずに、困難の中でさえ、福音の前進という神の光で、自分の人生の歩みを照らすことができます。神の御手の中にある人生として、歩んでいくことができるのです。      

 もし、わたしたちがそのキリストのご支配を知らなかったら、どうでしょうか。神に背を向けて生きていくと、どうなるでしょうか。   
 わたしたちの目が、罪と悪に支配されたような、目の前の辛い現実しか見ることが出来なかったら。苦しみや孤独の中で、祈る相手を知らなかったら。死で終わりを迎える世の歩みしか知らず、復活の希望を知らなかったら。   
 それは闇から闇に向かって歩き続けるようなものではないでしょうか。   
 神は、ご自分が創造された者たちが、そのように生きることを望んでおられません。わたしたちが、神と共に生き、神の呼びかけに応え、喜んで生きていくことを望んで下さっているのです。そのために、父なる神は、御子主イエスをわたしたちのもとに遣わして下さいました。      

 もはやキリストによって罪と死は克服されたのだと知り、小さな日々の生活も、あるいは困難な一日も、辛い一日も、楽しい一日も、すべてがキリストの福音の前進に役立つと知っているなら、わたしたちの日々は感謝と喜びに満ちたものになります。   
 キリストご自身が、わたしたちの救いのために今も生きて働かれ、共におられることを知っているなら、わたしたちはいつもキリストの慰めと平安の中を歩むことができます。   
 その時、わたしたちは喜んで、わたしを福音のために、役立てて下さいと、神に自分を献げることが出来るのではないでしょうか。      

 また、共にキリストに結ばれた兄弟姉妹のことも、その福音の前進の中で共に歩む者として受け止めていくことが出来ます。パウロの監禁を知って、他の信仰者たちがますます勇敢に御言葉を語ったように、兄弟姉妹の信仰を通して、さらにキリストの確信を強められ、互いに励まされるということがあります。そして互いの信仰のために祈り合うことができます。   
 教会は、そのようにキリストのご支配の中で、お一人のキリストに結ばれ、福音に生かされている兄弟姉妹が一つの体となって、共に神を礼拝し、共にキリストを証し、互いに祈り合い、福音の前進に喜んで仕え、伝道していく群れなのです。   

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