主日礼拝

偽りのない愛

「偽りのない愛」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:レビ記 第19章18節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第12章9-21節
・ 讃美歌:54、378、478

偽りのない愛に生きる
 主日礼拝において、ローマの信徒への手紙の第12章を読み進めています。この手紙は12章から、イエス・キリストを信じてその救いにあずかった信仰者がどのように生きるべきかについて、つまりキリスト信者の生活について語っている、ということをこれまでに繰り返しお話ししてきました。本日から12章9節以下を読んでいくのですが、ここにはまさに、キリストを信じる者としてこのように生きなさい、という勧めが語られています。いろいろなことが語られていますが、それらの勧めを一言でまとめるなら、「偽りのない愛に生きなさい」ということになるでしょう。キリストを信じる者として生きるとは、偽りのない愛に生きること、真実に人を愛する者として生きることだ、と教えられているのです。そしてその愛することが抽象的、観念的になってしまわないように、様々な具体的な事柄が取り上げられて、愛に生きるとはこういうことだ、と示されているのです。例えば14節では、自分を迫害する者のために祝福を祈ることだと言われているし、17節では、悪に対して悪をもって返さず、むしろ全ての人の前で善を行うことだと言われています。そのように、偽りのない愛に生きることについて具体的に教えている9-21節を、本日から何回かに分けて読み、み言葉に聞いていきたいと思います。

愛の宗教?
 キリスト教は「愛の宗教」だとよく言われます。隣人を愛することを説いているのがキリスト教だと多くの人が思っています。そのせいか、教会にはよく「困っているからお金をくれ」と言って来る人がいます。愛を説いている教会なら何とかしてくれるだろう、ということでしょう。私が知っているある牧師夫人はなかなかの豪傑で、そういう人が来ると、「あなたねえ、教会はお金をもらう所ではなくて、神さまにお献げする所なのよ」と言って帰ってもらうそうです。これはしかしなかなか難しい問題です。お金をくれと言って来る人に何がしかのお金をあげればその人を愛しているとは言えないでしょう。しかし困っていることは事実で、教会に愛を期待して来た人を簡単に追い返すことにも躊躇を覚えます。教会として、キリスト信者として、愛に生きるにはどうすればよいのかということはそう簡単に答えの出ない問題です。そのような「愛に生きる」ことについての問いかけを私たちは例えば家族からも受けます。信仰者でない家族から、「あんたはクリスチャンだというのに、どうしてそんなに愛がないのか」と言われてしまうことがあります。クリスチャンとは愛に生きている人、という世間の常識と、自分の日常の姿とのギャップに悩むことが私たちにはよくあるのです。

隣人を愛するための前提
 「隣人を自分のように愛する」ことは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、レビ記19章18節に語られており、主イエスもそれを律法の中で最も大事な戒めの一つとされました。隣人を愛することが聖書の語る信仰の根本であることは間違いありません。しかし私たちはここで一つの事実に注目したいと思います。それは、使徒パウロが、まだ会ったことのないローマの教会の人々に、自分が宣べ伝えているキリストの福音とはこのようなものだ、ということを書き送ったこのローマの信徒への手紙において、この12章9節に至って初めて、「隣人を愛する」という教え、勧めが語られている、ということです。パウロは、キリストを信じる信仰とはこのようなものだ、ということを書くに際して、「隣人を愛しなさい」ということから始めることをしなかったのです。パウロはこの手紙において、愛という言葉を既に何度も語ってきています。しかしそこで語られてきたのは、私たちが隣人を愛する愛ではなくて、神が私たちを愛して下さっているという、神の愛です。この手紙で、愛という言葉が、隣人への愛という意味で使われるのはこの12章9節が初めてなのです。パウロは、1章から11章までを、さらには12章の8節までを語ってきて初めて、「隣人を愛する」というキリスト信者の根本的なあり方を語ることができたのです。このことは私たちが聖書の信仰を捉える上でとても大事なことを示しています。つまりキリストを信じる信仰は、「隣人を愛しましょう」ということから始まるものではないのです。キリスト教信仰は、隣人を愛することへと至るものですが、そこから始まるものではありません。そこに至るには前提があるのです。その前提を抜きにしては、隣人を愛することに至ることができない、あるいは、その愛が偽りのないものにはならないのです。

偽りに陥る愛
 愛が本物になることをパウロは真剣に求めています。「愛には偽りがあってはなりません」という9節の言葉がそのことを示しています。愛がしばしば偽りに陥ることをパウロはよく知っているのです。この「偽り」という言葉は「偽善」とも訳せる言葉です。それは、仮面を被って何かのふりをするという意味です。つまり愛が偽りになるとは、愛しているふりをする、本当はそうでないのに、愛があるように振る舞って人を欺く、ということです。私たちはそういう偽りの愛に陥ることが多いのではないでしょうか。人を愛して生きようと努力していても、自分の心の中をよく振り返って見れば、愛に生きている自分をいっしょうけんめい演じているだけだったりします。あの人は愛のある人だと思われたい、という気持ちが私たちにはあります。「クリスチャンなのにどうしてそんなに愛がないのか」と言われたくない、そのために一生懸命愛に生きようとする、しかしそれは純粋な愛ではなくて、自分のため、自分の評判のためではないのか。愛における自分のそういう偽善、偽りを感じない人はいないのではないでしょうか。いや自分は心から人を愛している、と思っている人がいたとしても安心はできません。宗教改革者カルヴァンはこの箇所の注解においてこう言っています。「ほとんどすべての人が、本当は持っていない愛を偽り装うことにかけてどんなに巧妙であるかは、容易に言うことができないほどだからである。なぜなら、彼らは、これをもって単に他の人を欺くだけでなく、自分自身をも欺いて、自分は関係のない人を愛するばかりか、真実に自分を拒否する人をも愛する義務を尽くしているかのように信じ込んでいるのである」。つまり私たちは、愛において自分自身をも欺いていることがあるのです。本当はそうでないのに、自分は人を心から愛している、自分を拒否している人すらも愛している、と思い込んでしまうのです。だから自分の愛は偽善ではないか、という自覚があるのはまだいい方なのかもしれません。私たちの愛はいとも簡単に偽りに陥っていく、そのことを知っていたのでパウロは「愛には偽りがあってはなりません」と言ったのです。

愛には偽りがない
 「愛には偽りがあってはなりません」と訳されていますが、この文章は原文においては命令文ではありません。直訳すれば「愛には偽りがない」です。ということは、パウロはここで「あなたがたの愛には偽りがある。そんなことではいけない。偽りのない愛に生きなければならない」と小言を言っているのではないのです。むしろ、「あなたがたの愛には偽りはない」と宣言しているのです。その後に「悪を憎み、善から離れず、云々」という文章が続いていきますが、この文章は13節の終わりまでひと続きです。そして翻訳では「互いに相手を優れた者と思いなさい」「主に仕えなさい」「たゆまず祈りなさい」という命令、勧めの連なりとして訳されていますが、原文においてこれらは全て、文法用語で言えば「現在分詞」です。つまりこれらも命令の文章ではない、ということです。それを生かして訳すならこのようになります。「愛には偽りがない。悪を憎みつつ、善に密着しつつ、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いつつ、怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えつつ、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りつつ、聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助けつつ、旅人をもてなすように努めつつ」。つまりパウロはここで「愛には偽りがない」と述べた上で、その「偽りのない愛」の姿を様々に語っているのです。ですから9-13節はこの日本語訳から受ける印象とはかなり違って、「こうしなさい、ああしなさい」という事細かな命令ではなくて、「あなたがたはこのような愛に生きることができる」という具体的な励ましなのです。パウロが語っているのは、キリスト信者たるもの、このような偽りのない愛に生きなければならない、それができなければ失格だ、ということではなくて、あなたがたはこのように人を愛して生きることができる、そのように変えられていくのだ、ということなのです。

神の愛が注がれているゆえに
 なぜパウロはそのように語ることができたのでしょうか。それは先程申しましたように、1章から11章、そして12章8節までを前提としているからです。11章までに語られてきたことは、一言で言えば「神の愛」です。パウロはこれまで、神の私たちへの愛を語ってきたのです。それは、独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、その十字架の死と復活によって与えて下さった愛です。神がその独り子の命をすらも私たちのために与えて下さり、主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦し、主イエスの復活にあずからせて、私たち神の民として新しく生かし、そして永遠の命の約束を与えて下さったのです。そこに、神の私たちへの偽りのない愛があります。イエス・キリストを信じるとは、この神の愛が自分に注がれていることを信じることです。私たちは、イエス・キリストを信じて、キリストと結び合わされる洗礼を受けることによって、神の偽りのない愛の中で生きる者とされるのです。それが、キリストによる救いの知らせ、福音です。この福音が聖書から再発見されたことによって、宗教改革が起り、私たちのプロテスタント教会が生まれました。今週の火曜日、10月31日がその500年の記念の日です。この福音を前提としているがゆえにパウロは、キリストによる神の愛の中に置かれているあなたがたは偽りのない愛に生きることができる、と言うことができるのです。

偽りのない愛に生きるための手引き
 それゆえに私たちも、この9節以下を、私たちに対する励ましの言葉として読むことができます。私たちは愛において偽り、偽善に陥ってしまいがちな者ですが、神の私たちへの愛には偽りも偽善もありません。神は私たちを、愛しているふりをしているだけではないし、自分の評判のために愛しているのでもありません。神の愛は、独り子をも惜しまず死に渡して下さる真実な愛です。この偽りのない真実な愛によって愛されているがゆえに私たちは、偽りのない愛に生き始めることができるのです。それは私たちの抱いている愛の純粋さによってではなく、神の偽りのない愛を受け、それに応えていくことによってです。9-21節に並べられていることは、私たちが、神の真実な愛に応えて、偽りのない愛に生きるための手引きなのです。

悪を憎み、善から離れず
 その手引きとして先ず第一に語られているのは「悪を憎み、善から離れず」ということです。神の愛に応えて偽りのない愛に生きることは、先ずは、悪を憎み、善から離れないことです。このことを疑問に思う人もいるかもしれません。愛に生きるというのは、悪を憎むのでなくむしろ赦すことなのではないのか、という思いが私たちの中にはあります。善から一歩も離れず、悪を憎むというのは愛のないあり方ではないのか、愛とは時として相手のために善から離れることも厭わないことではないか。杓子定規にあくまでも善から離れようとしないという融通のきかないあり方は愛ではない、と思うのです。それはある面で愛の本質をついたことだと言えるでしょう。主イエスもまた、愛のゆえに、安息日の律法を越えて癒しの業をなさいました。それを律法違反と非難したファリサイ派は愛のない人々だったと言えるのです。しかし私たちにおいては、悪を赦し、大目に見ることが時として偽りの愛に陥る一つの原因となることも見つめておく必要があります。悪を憎まず、善から離れることを大目に見ることによって、相手を愛しているふりをする、ということが私たちにはあるのです。その方が相手の受けがよいからです。善から離れ、悪へと向かっている人に、あなたの気持ちもよく分かる、仕方がないことだ、と言うことによって、この人は自分を理解してくれている、愛してくれている、と思わせることができ、その人の心を掴むことができます。しかしそれはその人を本当に愛していることにはなりません。愛しているふりをしてかえって相手を破滅へと向かわせることにもなりかねません。ですから、人間の悪とそれによる問題に満ちているこの世の現実の中で、偽りのない愛に生きることは簡単ではありません。パウロはそこにおいて「悪を憎み、善から離れない」ことが必要だと言っているのです。しかしこの教えにも前提となっていることがあります。それは12章2節に語られていたことです。2節には「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」とありました。何が善で何が悪かをどう判断するかがここに語られています。善とは、神の御心であること、神に喜ばれることです。その反対が悪であって、神の御心に反しており、神に喜ばれないことです。それを正しくわきまえるようになる、つまり善と悪を区別できるようになるには、この世に倣うのでなく、心を新たにして、神によって自分を変えていただく必要があるのです。つまりパウロが見つめている善悪は、この世の常識や、私たちの考えによって判断される善悪ではありません。自分の思いにおける善に固執してそれによって人を裁こうとするなら、それはまさに愛のないことになるでしょう。パウロがここで善から離れずと言っているのは、自分が善いと思うことに固執することではなくて、神のみ心にかない、神がお喜びになること、つまり神が偽りのない愛で私たちを愛して下さっている、その神の愛を受けて、その愛から離れずに生きるということなのです。反対に、神の愛のみ心に即しておらず、その愛を無にして神を悲しませるようなことが悪です。そういう悪を憎み退けて、神の愛の下にしっかり留まって生きることによってこそ私たちは、偽りのない愛に生きることができるのです。

兄弟愛
 10節には「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」とあります。これも、偽りのない愛に生きるための大切な手引きです。この「兄弟愛」は、「世界は一家、人類は皆兄弟」というような、抽象的で偽りに満ちたこととは違います。パウロが兄弟と言っているのはもっと具体的なことです。それは12章4、5節語られていたことを前提としているのです。「というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」。「キリストに結ばれて一つの体を形づくっている」、それはキリスト信者の群れである教会のことです。兄弟愛に生きるとは、洗礼を受けて教会に連なる信仰者となり、信仰の兄弟姉妹と共に一つの体を形づくっていくことなのです。教会は、神が父となって下さり、キリストが兄であって下さる神の家族です。キリストによって神の家族とされている信仰の兄弟姉妹たちと、兄弟愛をもって互いに愛し合っていくところにこそ、偽りのない愛に生きる道があるのです。

尊敬をもって互いに相手を優れた者と思う
 それは、教会における信仰者の交わりには偽善や偽りの愛が入り込むことはあり得ない、ということではありません。教会に連なっている私たちは皆罪ある人間です。先程も見たように、私たちの愛は、偽り、偽善に陥ってしまうことがしばしばですから、その私たちが形づくる教会における交わりも、偽りから決して自由ではありません。しかし私たちはこの言葉も、あなたがたは兄弟愛をもって互いに愛し合って生きることができる、という励まし、約束の言葉として読むことができます。そのための具体的な勧めが10節後半の「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」です。これこそ、教会における兄弟姉妹の交わりが偽りのない愛の交わりとなるための手引きなのです。「互いに相手を優れた者と思いなさい」というのは、お互いに「あなたの方が私より優れている、私なんて全然ダメだ」と謙遜し合い、譲り合って結局何も進まないような偽りの謙遜を勧めているのではありません。「相手を優れた者と思う」というのは、相手に与えられている神の賜物を認めてそれを喜ぶことです。つまり6節に「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから」とあった、そのことを本当に信じて、神がそれぞれに異なった賜物を与えて下さっていることを認め、それをお互いに受け入れ、喜ぶことです。他の人には、自分とは違う賜物が、神によって与えられている、そのことを認め、兄弟姉妹を、神の恵みを受けている者としての尊敬をもって評価していくのです。それが兄弟姉妹を愛することです。愛するとは、相手を愛と尊敬をもって評価し、その良いところを認めることです。そこに、兄弟愛をもって互いに愛し合う交わりが築かれていくのです。そしてそのように兄弟姉妹を愛と尊敬をもって評価することは、自分自身をどう評価するかが変えられていくことによってこそ可能になるのだ、ということが12章3節以下に語られていたのを私たちは既に読みました。3節には「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」とありました。「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く」自分を評価するというのは、神の独り子イエス・キリストが自分のために十字架にかかって死んで下さり、罪の赦しを与えて下さった、それほどまでして神が自分のことを愛して下さっている、その神の偽りのない愛を信じて、自分自身を、神に愛されている者として見つめ、評価することです。私たちはこの神の愛を知ることによってこそ、自分を正しく評価することができるのです。そこにおいてこそ、自分を過大に評価して思い上がることからの解放もあるし、また自分と人を見比べて劣等感に悩んでしまうことからの救いもあります。そして自分が神の真実な愛を受けていることが分かっていくなら、他の人をも、神の真実な愛の下にいる人として認め、受け入れていくことができるようになるのです。そのようにして私たちの教会における交わりは、兄弟愛をもって互いに愛し合い、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思うという交わりとなっていくのです。

偽りのない愛に生きる場
 このように、12章の1-8節に語られてきたことも、9節以下の、偽りのない愛に生きることへの勧めの土台、前提となっています。11章までのところには、神が、独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死と復活によって、罪人である私たちを赦し、神の子として新しく生かして下さったという救いの恵み、その神の偽りのない、決して失われることのない愛が語られてきました。私たちは洗礼を受け、教会に加えられることによってこの神の愛の中で生きる者とされ、同じ信仰に生きる者たちと神の家族、兄弟姉妹とされて歩んでいきます。そこにこそ、私たちの、しばしば偽り、偽善に陥ってしまう愛が、神の偽りのない愛によって新たにされて、真実に互いに愛し合って生きる者とされていくための場が与えられているのです。

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