「信仰による義」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:申命記 第30章11-14節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第10章5-13節
・ 讃美歌:301、141、358、77
自分の義と神の義
本日はローマの信徒への手紙第10章5節以下をご一緒に読むのですが、ここは先週読んだ1~4節と密接に結びついていますので、先週のところを振り返ることから始めたいと思います。10章1節でパウロは、「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」と言っています。「彼ら」というのはパウロの同胞であるユダヤ人たちのことです。同胞たちが救われることをパウロは心から願っているのです。それは、ユダヤ人たちの多くがイエス・キリストによる救いを受け入れずに敵対しているからです。なぜ彼らは主イエスによる救いを受け入れようとしないのか。2節でパウロは、彼らユダヤ人たちは熱心に神に仕えているが、その熱心さは正しい認識に基づくものではない、と言っています。ユダヤ人たちは熱心に神を信じ、神による救いを求めています。しかしそれは的外れな熱心になってしまっているのです。どこが的外れなのか、それは3節にあったように、神の義を知らず、自分の義を求めていることです。問題は、神の義を求めるか、自分の義を求めるか、なのです。神の義を求めるとは、自分は決して正しい者、義なる者ではないけれども、神が恵みによって義として下さる、正しい者と見なして下さる、その「神の義」をこそ求め、その恵みに感謝して生きようとすることです。それに対して自分の義を求めるとは、自分の力、自分の良い行いによって正しい者、義なる者となって、その「自分の義」によって救いを獲得し、神の前にも人々の前にも正しい者として誇りをもって堂々と立とうとすることです。ユダヤ人たちはこの自分の義を求めていた、そのために、神が罪人を義とするために遣わして下さったイエス・キリストを受け入れることができず、キリストによる救いの福音を拒んでいるのです。パウロ自身も以前は彼らと同じように、神への熱心さのゆえにイエス・キリストによる救いを否定し、教会を迫害していました。神の義ではなく自分の義を求めて生きていたのです。しかし彼は主イエス・キリストとの出会いを与えられ、自分の義ではなく、キリストによって与えられる神の義こそが人を救うことを示されました。自分のそれまでの熱心が正しい認識に基づくものではなかったことに気づかされたのです。自分の義ではなく神の義による救いをこそ求める者となるという回心が、同胞であるユダヤ人たちにも起ることを彼は祈り願っているのです。
律法による義と信仰による義
このように「神の義」を求めるのか「自分の義」を求めるのかがここでの問題であるわけですが、そのことが本日の5節以下では「律法による義」と「信仰による義」と言い表されています。「律法による義」は「自分の義」です。ユダヤ人たちは、神から与えられた律法を守ることによって「自分の義」を確立しようと努力していました。律法をしっかり守り行うことで、神の前でも人の前でも正しい者となり、それによって救いを獲得しようとする、それが「律法による義」つまり「自分の義」を求めることです。それに対して「信仰による義」を求めるとは、神の前に自分の正しさや努力を持ち出そうとすることをやめて、神が恵みによって与えて下さる義、つまり神の義を信じ、感謝をもってそれをいただくことです。ですから信仰による義というのは、「信じてクリスチャンになるという良い行いによって義を獲得する」ということではありません。それだったら、自分の力で獲得する「自分の義」と同じになってしまいます。「信仰による義」は、自分が信心深い生活を送ることによってではなくて、神の恵みを信じることによって神が与えて下さる「神の義」なのです。
行いによってか信仰によってか
このようにパウロはここで、律法によって自分の義を求めることと、信仰によって神の義を求めることの対比を語っています。それでは、神がイスラエルの民にお与えになった律法は、人を義とするものではなくて、むしろ人を正しい道から逸らせ、神が与えようとしておられる救いを見失わせてしまうようなものだったのでしょうか。私たちは律法から遠ざかって生きるべきなのでしょうか。律法の中心は十戒ですが、十戒を私たちの信仰の生活から消し去った方がよいのでしょうか。そうではありません。ユダヤ人たちの陥った間違いは、律法を熱心に守ろうとしたことにあったのではありません。そうではなくて、律法の本当の目的、意味を見失ってしまったことが彼らの問題だったのです。そのことは既に9章31節で注意深く語られていました。9章31節に「しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした」とありした。ここでパウロは律法を「義の律法」と呼んでいます。「義なる、正しいものである律法」「人を義とするものである律法」という意味です。つまり律法は基本的に良いものであり、神の救いの恵みにおいて積極的な意味を持つものなのです。イスラエルはその「義の律法」を追い求めていたのに、その律法に達しなかった、つまり律法が本来目的としていることに到達できなかったのです。それは律法を正しく用いなかったからです。そのことが32節に語られています。「なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです」。ユダヤ人たちは、律法が本来目的としていることに、信仰によってではなく行いによって到達できると思った、そこに彼らの間違いがあったのです。
律法の目標はキリスト
このようにパウロは、律法そのものに問題があるのではなくて、問題は、律法を受け止める人間の側にある、と言っています。それでは律法を正しく受け止めるとはどのようなことなのでしょうか。律法の意味や目指すところをどのように捉えることが、律法を正しく受け止めたことになるのでしょうか。10章4節がそのことを語っていました。「キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために」。律法の目標はキリストである、このことを弁えることが、律法を正しく受け止めることなのです。この点においてユダヤ人たちは間違ってしまったのです。彼らは律法の目標を見誤っているのです。律法の目標は、それを守ることによって自分が正しい者になることではなくて、私たちを主イエス・キリストへと、主イエスによる神の救いの恵みへと導き、それによって信じる者すべてに義をもたらすことなのです。これこそが律法の目標、目指しているところであることは、十戒をきちんと読むことによって明らかになります。十戒は一見、自分が正しい者となり、救われるために果たさなければならない十の掟、つまり救われるための条件を語っているように感じられてしまうかもしれませんが、よく読むとそうではないことが分かります。十戒の冒頭には、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という言葉があります。つまり十戒の前提には、主なる神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放し、救って下さったその恵みがあるのです。その救いへの感謝の中で、恵みに応えて、神の民として生きるための指針が十戒です。つまりそれは元々、救われるための条件を語っているのではなくて、神による救いを受けた者が感謝の生活を送るために与えられたものだったのです。神による救いは、今や主イエス・キリストによって私たちに与えられています。キリストが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによって、私たちは罪を赦されて義とされ、また永遠の命の約束を与えられたのです。この救いの恵みの中で、十戒を始めとする律法は、それを十分に行なうことのできない私たちに自分の罪を自覚させると共に、キリストによる罪の赦しの恵みへと私たちを導き、その救いに感謝して生きる信仰の生活を導くものとして与えられているのです。「キリストは律法の目標である」とはそういうことです。律法は、それによって自分の義を確立するためではなくて、主イエス・キリストによる罪の赦しによって与えられる神の義をいただいて生きることへと私たちを導くものなのです。
律法が独り歩きすると
本日の5節以下を理解するためには、この4節の「キリストは律法の目標である」ということをしっかり押えておかなければなりません。律法の目標はキリストなのですから、律法とキリストへの信仰は本来対立するものではないのです。しかし、律法の目標がキリストであることが見定められていないと、律法と信仰とが切り離されてしまって、律法の独り歩きが起り、律法と信仰が対立するようになるのです。そのことを語っているのが、5節の「掟を守る人は掟によって生きる」という言葉です。これは旧約聖書レビ記18章5節からの引用ですが、パウロはこれを律法による義について語っている言葉として引用しています。それは、信仰によってではなく律法を行うことによって自分の義を立て、自分の力で救いを得ようとするなら、まさに自分の力で律法を完全に守ってこそ生きることができるということになるのだ、ということを語るためです。しかし自分の力で律法を完全に守ることができる人など一人もいないのだから、律法によって生きることのできる人はいない、律法による義を求めることによって救われる人はいない、とパウロは言っているのです。
だれが天に上るか
それに対して6節には、「信仰による義については、こう述べられています」とあります。そこにも旧約聖書の引用がなされており、それが本日共に読まれた旧約聖書の箇所、申命記30章11節以下です。パウロがこの箇所を、信仰による義について語っている箇所として引用していることは注目に値します。実際に申命記を読んでみるとどうなのでしょうか。30章11節には「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない」とあります。つまり申命記のこの箇所は、神の戒めである律法について語っており、律法は難し過ぎてとても手が届かないようなものではないからあなたはそれを行うことができる、と言っているのです。それがどうして「信仰による義」について語る言葉になるのでしょうか。パウロが実際に引用しているのは次の12節です。「『だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない」。これも、律法は誰かが天に登って取って来て聞かせてくれなければ行うことができないような、手の届かない高みにあるものではない、という意味です。パウロはこの申命記の文章を「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない」というふうに少し変えて引用した上で「これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません」と言っています。つまり彼はここに主イエス・キリストのことを読み取っているのです。ここに語られていることはとても難しくて分かりにくいのですが、パウロはこのようなことを考えているのだろうと思います。「神の律法は天の高みにあって、それを行なうために自分が天に上っていくのだとユダヤ人たちは思っているが、そうではない。既に天から、神のみ言葉を携えてこの地上に降りて来て下さった方がおられる。その方こそ主イエス・キリストである。だから私たちはもはや天に上っていく必要はない。むしろ私たちが天に上ろうとすることは、キリストを引き降ろすことになる。なぜなら私たちが天に上ろうとすることは、自分の努力や正しい行いによって義を獲得しようとすることであって、それは、私たちの救いのために天から降りて来て下さった主イエスを拒み、主イエスが天から来られた救い主であることを否定して、主イエスを神ではないただの人間としてしまい、主イエスの十字架の死を私たちの救いのための神の子の死ではないとしてしまうことになる。それは神であるキリストを天から地上へと引き降ろすことに他ならない」。パウロのこの謎めいた言葉はそういうことを意味しているのだと思われます。このようにパウロは、律法は天にまで行って取って来なければ行なうことができないような難しいものではない、という申命記の文書を、キリストが既に天から降りて来て下さったのだから、キリストを信じる私たちは律法を行うことができる、と読んでいるのです。それは言い換えれば、キリストによって律法の目指していることが実現しているということ、つまりキリストは律法の目標であるということです。天から降りて来て下さった主イエス・キリストが、罪人である私たちを義として下さり、私たちの内に律法の目指していたことを実現して下さるのです。その救いはキリストを信じる信仰によって与えられます。この救いにあずかるために私たちは、自分の義を積み重ねて天に上っていく必要はない、天から降って来られたキリストを信じてその救いをいただけばよいのです。
だれが底なしの淵に下るか
パウロはさらに7節で「また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります」とも言っています。ここでの引用は申命記30章13節の「海のかなたにあるものでもないから、『だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない」という文章から取られています。しかしすぐに気づくように、「海のかなたに渡る」が「底なしの淵に下る」と言い換えられています。そのような言い換えをするのは、「これは、キリストを死者の中から引き上げることになります」ということと繋げるためです。つまりパウロはここでも主イエス・キリストによる救いを見つめているのです。先程の「だれが天に上るか」のところでは、既に主イエスが天から私たちのところに降って来て下さったのだから、私たちは救いを得るために自分の義を積み重ねて天に上る必要はない、ということが語られていました。この7節の「だれが底なしの淵に下るか」において語られているのもそれと同じように、既に主イエスが底なしの淵に、つまり死者の行く所である陰府にまで下って下さったのだから、私たちはもう底なしの淵に下る必要はない、ということです。私たちは人生の歩みの中で、底なしの淵に引きずり込まれてしまうことがあります。どうしようもなく深い苦しみや悲しみによってどこまでも沈み込み、もう浮かび上がることはできないと思ってしまうことがあります。あるいは、自分の底知れない罪の深さを思い知らされて絶望し、もはや自分には救いなどあり得ないと思ってしまうことがあります。しかしそこにおいてこの言葉は「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってはならない」と語りかけているのです。なぜならば、既に私たちの全ての罪と苦しみとを背負って十字架にかかって死んで下さり、底なしの淵に下って、そこから復活なさった方がおられるからです。その方こそ主イエス・キリストです。主イエスは「私があなたのために既に底なしの淵に下り、そこから復活したのだから、あなたは底なしの淵に下る必要はない」と言って下さっているのです。それにも関わらず私たちがなお底なしの淵に、絶望に沈んでいこうとするならばそれは、自分のために十字架にかかって苦しみを受け、神に見捨てられる絶望を味わい、死んで下さった主イエス・キリストによる救いを拒み、キリストが私たちの罪と苦しみを背負って十字架にかかって死んで下さったことをなかったことにしてしまうことになる。それが「キリストを死者の中から引き上げることになる」ということでしょう。そんなことがあってはならないのです。救い主イエス・キリストの下で私たちは、自分の義を立て、自分の正しさや立派さによって天に上っていくことはできないと同時に、自分の罪や弱さ、自分の苦しみ悲しみによって絶望し、底なしの淵に下っていくこともまたできないのです。天も、そして底なしの淵も、どちらも主イエス・キリストが私たちのためにそこから来られ、そこへと降られたところなのであって、私たちは天に上る者でもなければ、底なしの淵に下る者でもないのです。私たちは、この主イエスの救いの恵みに支えられて、天に上るのでも底なしの淵に下るのでもなく、地上を生きる者なのです。
地に足を着けて生きる
私たちはともすればすぐに天に上っていこうとします。自分の力で、頑張りで、自分の義を立て、神の前でも人の前でも正しい者であろうとします。そのために神が与えて下さった律法を熱心に守ろうとしますが、その熱心が的外れな、自分の義を立てるための熱心となり、その結果傲慢な自己主張に陥り、お互いに傷つけ合ってしまうのです。そうかと思うと、私たちはしばしば、自分の弱さや罪、失敗や挫折によってうちひしがれ、底なしの絶望の淵に陥っていきます。いろいろな苦しみ、困難、悲しみによって生きる力を失ってしまうのです。これらの、天に上ろうとする傲慢と、底なしの淵に下ろうとする絶望は表裏一体のものだと言えるでしょう。自分の力によって、自分が天に上ろうとしているからこそ、それが失敗し挫折する時に底なしの淵に陥っていくのです。そのように私たちは、天に上ろうとしたり底なしの淵に陥ったりを繰り返しています。パウロはそのような私たちに、地上にしっかりと足を着けて生きることを教えようとしているのです。それが8節です。「では、何と言われているのだろうか。『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです」。これも申命記30章からの引用ですが、申命記の文脈においてはこれは、神が与えて下さった律法は、天の上や海の彼方にあるのではなくて、あなたのすぐ近くに、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる、ということです。しかしパウロはこの引用においても、律法の目標である主イエス・キリストを見つめています。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」、その御言葉とは主イエス・キリストのことです。主イエスは、天から降って来て私たちのところに来て下さり、また底なしの淵に下り、そこから復活して下さいました。その主イエスが私たちの近くにいて、私たちの口と心にみ言葉を常に語りかけて下さるのです。主イエスが与えて下さるこのみ言葉を聞きつつ歩むことによって私たちは、この世において、傲慢に天に上ろうとするのでもなく、絶望して底なしの淵に陥るのでもなく、共にいて下さる主イエスのみ言葉に導かれながら、一歩一歩、与えられた人生を歩み続けていくことができるのです。
聖餐にあずかりつつ
本日はこれから聖餐にあずかります。聖餐は、この地上を歩む私たちのもとに天から降りて来て下さり、十字架にかかって死んで、底なしの淵にまで下り、死者の中から復活して下さった主イエス・キリストが、私たちと共にいて下さることの目に見える、口で味わうことのできるしるしです。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」、そのことを私たちは聖餐において身をもって体験しつつ、主イエスと共に、そのみ言葉に養われつつこの地上を生きるのです。そこには、自分の力で天に上ろうとする思い上がり、傲慢からも、また底なしの淵に下ってしまう絶望からも解放されて、主イエス・キリストを信じる信仰によって神が与えて下さる義をいただいて生きる新しい人生が、恵みによって開かれていくのです。