主日礼拝

うめきつつ、待ち望む

「うめきつつ、待ち望む」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第38編1-23節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第8章18-25節
・ 讃美歌:3、377、342

うめく
 ローマの信徒への手紙第8章18節以下において特徴的な、そして心に残る言葉は「うめく」という言葉です。22、23節にこのように語られています。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、〝霊〟の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。被造物全体が、つまり神によって造られたこの世界の全てがうめき苦しんでいるのです。私たちの生きているこの世界はうめき苦しみの世界であり、私たちの人生もうめき苦しみに満ちているのです。パウロはこの「うめく」という言葉を、コリントの信徒への手紙二の第5章2、4節でも語っています。2節に、「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」とあります。この「苦しみもだえている」が「うめく」という言葉です。そして4節に「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが…」とあります。ここに「地上の幕屋」とあるのは私たちの肉体のことです。地上を、肉体をもって生きている私たちは苦しみもだえ、うめいている。パウロは「うめき」としか言い表せない私たちの苦しみを知っています。「うめき」は言葉になりません。本当につらく苦しい時に私たちはうめくことしかできないのです。パウロが言っているのは、「神を信じていない者にはそういううめき苦しみがある」ということではありません。「わたしたち」というのは、主イエス・キリストを信じて教会に連なっている私たち、つまり信仰を持って生きている者たちです。信仰者の人生も、このようなうめきに満ちているのです。

共にうめき苦しむ
 しかしパウロはここで、被造物全体のうめき苦しみを語っています。被造物がすべて、共にうめき苦しんでいるのです。私たちは、うめくしかないような苦しみに陥る時、自分の苦しみしか見えなくなってしまうことがしばしばです。しかしうめき苦しんでいるのは自分だけではありません。他の人も、さらには動物も植物も、この世界の全体がうめき苦しんでいるのです。そのように他の人、他の被造物のうめき苦しみの声を聞き取っていくなら、私たちはそこで、他の人々と、またこの世界の被造物たちと、うめき苦しみにおいて連帯することができます。うめき苦しみを共にする交わりがそこに生まれるのです。それは言い換えれば、私たちが自分の苦しみだけを見つめるのでなく、他の人の苦しみを思いやることができるようになる、ということです。うめくような苦しみを体験することに積極的な意味があるとしたらそれは、他の人のうめき苦しみが分かり、それを思いやることができるようになる、ということでしょう。うめくような苦しみを体験し、知っている人の言葉こそが、うめくしかない苦しみの中にある者にとって慰めとなり支えとなるということを私たちはしばしば体験します。そういう意味でパウロがここで「共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」と言っていることはとても大切なことです。共に苦しむところに、私たちの真実な交わりが、連帯が生まれるのです。

被造物全体がうめいている
 このことは親しい人との関係においてのみ起ることではありません。神がお造りになったこの世界において、神がお造りになった多くの人々がうめき苦しんでいることに私たちは思いを致すことが必要でしょう。自然災害によって、また貧困や差別のような社会の問題によって、また原発の事故による放射能汚染のように、両者が相俟って起る問題によって苦しんでいる多くの人々のうめき苦しみを聞き取り、そのうめき苦しみを共に背負っていくことが私たちに求められているのです。私たちが生きているこの社会にはそのようなうめき苦しみが満ちています。そのうめき苦しみの声に耳を傾け続けることが大切であり、そうすることの中でこそ、他の人のうめき苦しみを共に背負っていくための道が示されていくでしょう。うめき苦しんでいる他の人のために私たちの出来ることは本当に僅かですが、しかし共にうめき苦しむところには真実な交わりが与えられるのです。そしてパウロはここで、人間だけでなく、被造物全体がうめき苦しんでいることを語っています。神がお造りになった自然もうめき苦しんでいるのです。地球環境の破壊や温暖化、放射能汚染、そして戦争などによって被造物全体がうめき苦しんでいる、その被造物のうめきを聞き取っていくことも。現代を生きる私たちにとって特に大事な課題なのです。

うめきの原因は人間の罪
 人間以外の被造物までもがこのようにうめき苦しんでいるのは何故か、その理由をパウロはここで見つめています。10月9日の礼拝においてそのことは既に語りましたが、もう一度ふり返っておきたいと思います。20節に「被造物は虚無に服している」とあります。「虚無に服している」とは、「目的を達成することができなくなっている」ということです。被造物全体が、その本来の目的を達成することができなくなっているのです。神に造られた被造物の本来の目的とは、造り主である神の栄光を表し、神をほめたたえることです。ところが今、自然も人間も、その本来の目的を果たすことができなくなり、虚無に服しているのです。20節には「それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり」とあります。被造物が虚無に服しているのは、服従させた方、つまり神のご意志によることです。神は何故被造物を虚無に服させたのでしょうか。それは人間の罪のためです。神は人間を、全ての被造物の頂点として、被造物全体を神のみ心に従って管理し治めるべき者としてお造りになりました。その人間が神に背き、罪に陥ったために、被造物をみ心に従って管理するどころか、むしろ自分の欲望のために被造物を破壊するようになったのです。その人間の罪のゆえに被造物全体がその本来の目的を、神の栄光を表しほめたたえることを達成できなくなっているのです。ですから、被造物を虚無に服させたのは神ですが、その責任は人間にあります。被造物のうめき苦しみの原因は私たち人間の罪なのです。

自分の罪を知ることによってこそ
 ですから、パウロがここで被造物がすべてうめき苦しんでいると語ることによって私たちに求めているのは、私たちが自分以外の他の人々やさらには動物や植物たちのうめき苦しみの声を聞き取り、そのうめき苦しみを思いやれるようになるためということもありますが、それ以上にパウロは私たちに、自分の罪のゆえに他者がうめき苦しんでいる、という事実を見つめさせようとしているのです。このことは、私たちが他の人の苦しみを思いやることができる者になるために最も大事なポイントです。人の苦しみを本当に思いやる者となることは、苦しんでいる人を見て同情し、可哀想に思うということだけでは不十分です。同情や憐れみというのは基本的に「上から目線」です。そこには真実の交わりは築かれていきません。自分が他の人に、そして動物や植物にも、苦しみを与えていることを知ることによってこそ私たちは、自分の苦しみしか目に入らず、他の人のうめき苦しみの声を聞く耳を持たないような歩みから解放され、他の人の苦しみに本当に思いを致すことができるようになるのです。苦しんでいる自分は同時に苦しめている自分でもある、ということを知ることによってこそ私たちは、他者と苦しみを共有する交わりを築いていくことが出来るのだと思います。自分の罪を知ることによってこそ、他者との交わりを築くことが出来るということです。交わりを阻害しているのは人間の罪です。その罪を相手にのみ見ていたのでは交わりは築かれません。自分の罪が交わりを阻害していることを見つめていく所にこそ関係が築かれていくのです。人間どうしの間ではそのように、お互いが自分の罪を認め、相手の罪を赦すことによって交わりが築かれていきます。しかし被造物、自然との関係においては、私たち人間が、自分たちの罪の結果として被造物がうめき苦しんでいることをしっかり見つめることが大切です。環境破壊、温暖化、原発事故、戦争などはどれを取っても私たち人間の貪欲の罪によって生じていることです。その原因となっている私たち人間が悔い改めなければ、被造物全体の苦しみは解消されないのです。
 このように私たちは、自分自身もうめき苦しみつつ、他の人や被造物に苦しみを与えつつこの地上を生きています。その根本には私たちの罪があります。私たちは自分の罪のゆえに自らもうめき苦しみつつ、また他の人々や被造物全体にも苦しみを与えつつ生きているのです。人間が「罪人」であるとはそういうことです。パウロは被造物全体のうめき苦しみを語ることを通して、私たちに自分たちの罪の現実を見つめさせているのです。

産みの苦しみ
 しかしパウロがここで語ろうとしているのはそのことだけではありません。22節で彼は、被造物のうめきが「産みの苦しみ」だと言っています。産みの苦しみは他の苦しみとは意味が違います。それは子供の誕生を待ち望む苦しみであり、前途に希望のある苦しみです。被造物全体のうめき苦しみは、実りのない、希望のない、無益な苦しみなのではなくて、ある約束の実現を待ち望む、希望のある苦しみなのだ、とパウロは言っているのです。その約束とは何でしょうか。それは21節にある「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」という約束です。今は虚無に服してしまっている被造物が、自分たちを支配している虚無から、滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかる日が来る、という約束が与えられているのです。前途にそのような約束を見つめての苦しみだから、それは産みの苦しみなのです。「滅びへの隷属から解放され、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかる」という約束が実現するのは、19節にあるように「神の子たちの現れる」時です。被造物が虚無に服しているのは、私たち人間が罪に陥り、神のみ心に従わず、自分の欲望のままに被造物を支配しているからです。その私たち人間が、罪を赦されて神との関係を回復され、神の子とされ、神のみ心に従って歩む者となる時に、被造物は虚無から、滅びへの隷属から解放されて、造り主である神の栄光を表しほめたたえるという本来の目的を達成することができるようになるのです。だから被造物の希望は、神の子たちが現れることにあります。被造物全体はそのことを待ち望みつつ産みの苦しみの中にいるのです。

神の子とする霊を受けて
 神の子たちが現れるというのは、どこかに現れるということではありません。私たちが神の子とされる、ということです。23節にはこのようにあります。「被造物だけでなく、〝霊〟の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。「わたしたち」が神の子とされるのです。その「わたしたち」は、「〝霊〟の初穂をいただいているわたしたち」です。「〝霊〟の初穂」とは、「〝霊〟という初穂」という意味です。〝霊〟とは神の霊、聖霊です。信仰者である「わたしたち」は、神の霊、聖霊という初穂を与えられているのです。パウロはそのことを、この第8章のこれまでの所で語ってきました。イエス・キリストを信じ、キリストと結ばれ、その十字架の死と復活による救いにあずかる洗礼を受けた信仰者は、神の霊、聖霊という初穂を与えられており、その人の内には神の霊、聖霊が宿って下さっているのです。その神の霊の働きについて、14、15節にはこのように語られていました。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。このように神の霊は私たちを神の子として下さるのです。その霊の働きによって私たちは神を「アッバ、父よ」と呼んで祈ることができるのです。聖霊が宿って下さることによって、私たちと神との間に、父と子という愛と信頼の関係が回復されるのです。

初穂
 この神の霊、聖霊が私たちには「初穂」として与えられています。初穂とは、その年の収穫の最初の実りです。初穂は、その後得られる豊かな収穫を約束しています。私たちが今、神の子とする霊を与えられ、神を「アッバ父よ」と呼んで祈ることができることは、私たちが完全に神の子とされ、父である神と共に永遠の命を生きる者とされるという大きな恵みを約束しているのです。しかし初穂が与えられた時点ではまだ、豊かな収穫は得られていません。パウロが「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」と語っているのはそのことと関わりがあります。神の子とする霊を与えられた私たち信仰者は、神に向かって父よと呼びかけることができる神の子とされていますが、しかし私たちが神の子であることは今はまだ、誰の目にも明らかなこととして現れてはいないのです。私たちが罪を赦されて神の子とされていることはまだ隠されているのです。それが現れるのは、将来、この世の終りの救いの完成の時です。その時に、私たちは、永遠の命を生きる神の子として現れるのです。それが23節の「体の贖われること」です。私たちが今生きているこの体は、罪と死に支配されており、いつか必ず死んで滅びていきます。しかし世の終わりの救いの完成の時には、この体が罪と死の支配から贖われて復活し、永遠の命を生きる者とされるのです。私たちは、罪と死に支配されているこの世の人生、この肉体の弱さや欠けの中でうめき苦しみつつ、しかし神に向かって「アッバ、父よ」と祈るという初穂を与えられていることを拠り所として、世の終わりの救いの完成の時には、復活と永遠の命を与えられ、神の子として現れることを待ち望みつつ生きるのです。私たちのその救いが完成する時、被造物全体も虚無から解放され、造り主である神の栄光を表し、ほめたたえる本来の姿を回復します。被造物全体はこのことを待ち望みつつ、今は滅びへの隷属の中で産みの苦しみを味わっているのです。

希望によって救われている
 24節でパウロは、「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」と言っています。「希望によって救われている」というのは分かりにくい表現ですが、しかしパウロが言おうとしていることは明らかです。私たちに与えられている救いは、希望における救いなのだ、希望こそが私たちの救いの中心的な内容なのだ、ということです。イエス・キリストによって救われるとは、希望を与えられることです。神の子とされること、体の贖われることへの希望を与えられ、それを待ち望む者とされること、それが救われることです。この希望は、世の終わりまで希望であり続けます。「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか」と24節で言っています。私たちが希望し、待ち望んでいることは、世の終わりまで、目に見える事柄にはならないのです。神をこの目で見ることができないし、天に昇られたキリストと今肉体においてお目にかかることができないのと同じように、神の子としての復活と永遠の命の希望も信じるしかないものです。そこに私たちのうめき苦しみがあります。信仰者の人生も、うめき苦しみの中にあるのです。しかしそのうめき苦しみの中で私たちは、25節にあるように、「目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」。目に見えないものを望みつつ、忍耐して待ち望むことが私たちの信仰です。このことを私たちはしっかりと捉えておかなければなりません。そうでないと、うめき苦しみの中で、見えないものを待ち望むことをやめてしまって、目に見えるものを求めるようになり、それに振り回されていくことになるのです。それは言い換えれば、うめくことしかできないような苦しみを信仰の中で受け止めることが出来なくなる、ということです。それは同時に、他の人のうめき苦しみを、また被造物全体のうめき苦しみを聞き取る耳が失われることでもあります。うめき苦しみつつ信仰に生きることができなければ、うめき苦しんでいる人と信仰において共に生き、慰めや支えを与えることはできないのです。しかしパウロが教えているように、今はまだ隠されている神の約束をうめきつつ待ち望む信仰に生きるなら、私たちは、自分のうめき苦しみを産みの苦しみとして、希望ある苦しみとして受け止め、その中で忍耐して待ち望むことができます。そしてそこにおいて、自分の苦しみだけでなく、他の人のうめき苦しみを、また被造物全体のうめき苦しみを聞き取っていくことができるのです。自分の苦しみを産みの苦しみとして、希望ある苦しみとして忍耐しつつ待ち望んでいる者こそが、うめき苦しんでいる他の人と共に生き、慰めと支えとを与えることができるのです。

うめき苦しみの中で「父よ」と祈る
 神の子とされること、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいる、それが私たちの信仰です。そのような信仰を支えているのが、私たちの内に宿って下さっている神の霊、聖霊です。聖霊が初穂として与えられているからこそ、私たちは、うめき苦しみの中で神に「アッバ、父よ」と呼び掛けて祈りつつ待ち望むことができるのです。15節には「『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とありますが、この「呼ぶ」と訳されている言葉はむしろ「叫ぶ」と訳した方がいいような言葉です。私たちは苦しみの中で「父よ」と叫ぶのです。うめくことしかできないような、言葉に言い表せない苦しみの中で、「父よ」という一言を、主イエスの父である神に向かって叫ぶことができるかどうか、それが信じるか信じないかの分かれ道です。それができれば、そこには、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、罪の赦しの恵みを与えて下さった主イエス・キリストがおられるのです。主イエスのもとにうめきつつ待ち望む道が開かれるのです。そして苦しみが、待ち望む苦しみ、前途に希望のある、産みの苦しみとなるのです。その「父よ」という一言の祈りを、いや叫びを、私たちに語らせて下さるのが、神の霊、聖霊なのです。

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