「聖霊による命」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:イザヤ書第43章1-7節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第8章1-11節
・ 讃美歌:120、351、476
ローマの信徒への手紙のクライマックス
主日礼拝においてローマの信徒への手紙を読み進めていますが、本日からいよいよ第8章に入ります。「いよいよ」と申しましたのは、この第8章がローマの信徒への手紙の最大のクライマックス、頂点をなす所だからです。ローマの信徒への手紙自体が、聖書全体の中で最も重要な位置を持っていることを思えば、この第8章は聖書全体のクライマックスであると言うことすら出来るかもしれません。私たちはいよいよ、その最大のクライマックスにさしかかろうとしているのです。
しかしそこに入る前に先ず、これまで読み進めてきたこの手紙の流れにおいて第8章がどのような位置にあるのかを振り返っておきたいと思います。この手紙は、最初の挨拶や自己紹介の後、1章18節から本論に入っています。本論の最初に語られていたのは、人間の罪とそれに対する神の怒りについてでした。私たち人間は、神に選ばれ律法を与えられているユダヤ人も、そうでない異邦人も変わりなく、皆神の前に罪を犯している者であり、自分の力で自分を義とすることが、つまり救いを獲得することが出来ない者であり、神に裁かれ、滅ぼされる他はない者なのだということが、1章18節から3章20節までの所に、執拗なほどに語られていたのです。そして3章21節から新しい部分が始まりました。パウロはそこから「神の義」について語り始めたのです。「神の義」とは、人間が自分の力で獲得する人間の義ではなく、神の恵みによって与えられる義です。罪ある人間が義とされ、救われるのは、人間が自分の力で義となることによってではなくて、神が恵みによって義として下さることによって、つまり神の義によってなのです。その「神の義」は、イエス・キリストの十字架の死と復活によって示され、与えられています。主イエス・キリストが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さったことによって、神が私たちの罪を赦して下さり、義として下さった、その福音、喜ばしい救いの知らせが3章21節以下に語られてきたのです。その福音を語る部分の締めくくりがこの第8章です。次の第9章からは別のテーマについての話となります。それは勿論「キリストによる救いの福音」と結びついている大事なテーマではあるのですが、「イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる神の義」とはどのようなものかを語っている部分はこの第8章までです。つまりこの第8章をパウロは、キリストの福音を語る部分のまとめ、締めくくりとして語っているのです。だからこの8章はこの手紙全体のクライマックスだと言うことができるのです。
7章と8章の関係
このように第8章は、3章21節以下に語られてきた神の義、キリストの福音全体の結論として語られています。1節の始めに「従って」とありますが、それはその直前の第7章を受けていると言うよりも、3章21節以下の全体を受けて「これらのことから導き出される結論はこうだ」という思いで語られていると言うことができるでしょう。第7章をも含めて、これまで私たちが読んできたことの全体の帰結がこの第8章に語られているのです。
今「第7章をも含めて」と言いました。それについて少し語っておきたいと思います。つまり第7章と第8章の関係についてです。このことは第8章全体を読んだ上で語った方がよいのかもしれませんが、先週まで第7章を読んできた、その記憶が鮮明な内に、とも思うのです。第7章には、パウロの信仰における苦しみと嘆きが赤裸々に語られていました。それは、神の律法に従ってみ心に適う正しい生き方をしようと心から願い、そのために努力している自分が、その努力の中でまさに罪の力に捕えられ支配され、死に定められてしまっているという自己分裂による苦しみ、嘆きです。その嘆きがあの7章24節の「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」という叫びを生んだのです。このようにパウロが自分の弱さ、罪に支配されている惨めさを正直に告白していることから、第7章は多くの人に愛され、親しまれてきた、ということを何度か申しました。私たちは第7章のパウロに親近感を覚えるのです。あの偉大な伝道者パウロもこういう弱さをかかえていたのだ、とほっとする思いを抱くのです。そのこと自体は決して間違ってはいないでしょう。しかし私たちは、そのパウロが、この第7章をも含めて、これまで語ってきたことのまとめ、結論として第8章を語っていることをしっかりと見つめなければなりません。つまり第7章のパウロだけを見て、第8章のパウロを見ないようなことがあってはならないのです。7章の嘆き、弱さ、惨めさはそこで終わってはいないのです。嘆き、弱さ、惨めさを覚えているパウロの、しかし最終的結論は8章です。8章に語られていること、それを私たちはこれから読んでいくわけですが、それを先取りして一言でまとめれば、「喜びと希望」です。それがパウロの結論なのです。イエス・キリストを信じる信仰の結論は、嘆き、弱さ、惨めさではなくて、喜びと希望です。それは、嘆きや弱さや惨めさを知らない、おめでたい喜びや希望ではありません。7章なしでの8章ではないのです。しかし7章の嘆きや弱さや惨めさをはっきり意識しつつ、信仰によって行き着く帰結、結論は8章の喜びと希望なのです。パウロは、弱さや惨めさを嘆きつつ、根本的には喜びと希望に生きているのです。このことを私たちは第8章からしっかりと聞き取っていきたいのです。
このようなことを言うのは、私たちはともすれば、「8章に語られている信仰による喜びと希望は信仰における建前であって、この世の厳しい現実のただ中を生きている私たちの本音はむしろ7章のような弱さ、惨めさ、嘆きにこそある」と思ってしまうことがあるからです。しかしもしもそのような思いから、8章よりも7章の方により親近感を覚える、ということがあるならば、それはパウロが言っていることが全く分かっていないということであり、自分勝手な思いを聖書に読み込んでいることになります。パウロにおいては、8章は建前で7章が本音、などということは決してありません。そもそもパウロは、また聖書は、本音と違う建前で何かを語っているようなことはないのです。神の言葉に建前と本音などという区別はありません。7章を経た8章が帰結であり結論である、それが、この世の厳しい現実の中を生きているパウロの本音です。イエス・キリストを信じて生きるとは、7章を経た8章の喜びと希望に生きることなのです。私たちはこの8章に、7章と同じように、いやむしろ7章以上に、パウロの信仰における中心的な思いが語られていることを見つめ、この8章からパウロの信仰の神髄を聞き取っていきたいのです。
罪に定められることは決してない
さてこのような前置きをした上で、いよいよ第8章に入っていきたいと思います。先程指摘したように8章1節は「従って」という言葉から始まっています。しかしこれは実は翻訳におけることであって、原文を見ると8章の冒頭にあるのは「従って」ではなくて「決して~ない」という言葉なのです。それはこの翻訳のどこに現れているかというと、1節の最後の「罪に定められることはありません」ということころです。この1節を原文の語順を生かしてちょっと無理に訳してみるとこのようになります。「決してない、従って今や、罪に定められることは、キリスト・イエスに結ばれている者は」。このように「決してない」という言葉が冒頭に置かれていることによって、この1節は非常に強い口調で、あることを否定している文章となっています。何を否定しているのかというと「罪に定められること」です。1節でパウロは、「従って今や、罪に定められることは決してない」と断言しているのです。「従って」とは、先程申しましたように、3章21節以下で語ってきた全てのことの帰結、結論として、ということです。「今や」という言葉はその3章21節にもありました。そこには「ところが今や、神の義が示された」と語られていたのです。つまりこの「今や」は、イエス・キリストを信じる信仰による神の義、神の恵みによる救いが示された「今や」です。イエス・キリストによる救いが示され与えられた今や、そのキリストを信じ、キリストに結ばれている者は、罪に定められることは決してない、と1節は語っているのです。このことが8章全体に語られている「喜びと希望」の土台です。パウロは7章で、自分の肉、あるいは五体は罪に売り渡され、罪に支配されている、自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている、という現実を深い嘆きをもって語りましたが、8章においては、そのような自分が、しかしキリスト・イエスに結ばれている以上、決して罪に定められることはない、と断言しているのです。
神の恵みにより無償で義とされる
「罪に定める」という言葉は、5章15節以下においては「有罪の判決が下される」と訳されていました。そこを読んでみます。5章15~18節です。「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」。16節と18節に「有罪の判決が下される」とあるのが、「罪に定められる」と同じ言葉です。これは勿論人間の裁判におけることではなくて、神の裁きにおけることです。神の裁きにおいて、人間に有罪の判決が下され、死刑、滅びが宣告されるのです。そして今読んだ5章に語られていたことは、一人の人の罪、それは即ち最初の人間アダムの罪ですが、その罪によって全ての人間は罪に定められる者となったのに対して、別の一人の人イエス・キリストによって、その罪に定められるべき人間に無罪が宣言され、義とされて命を得るという恵みが与えられている、ということです。イエス・キリストによって、有罪であるはずの者が罪に定められなくなり、無罪となる、そういう恵みが私たちに与えられているのです。「キリスト・イエスに結ばれている者は罪に定められることはない」という本日の1節は、この5章と同じことを語っています。そしてこの「本来有罪である者が罪に定められずに義とされる」ということが、キリストによって示された「神の義」の中心的な内容です。3章23、24節はこの「神の義」についてこのように語っています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。「キリスト・イエスによる贖いの業」とは、主イエス・キリストが私たちの全ての罪を背負って、私たちに代って有罪の判決を受けて下さり、十字架の死刑を受けて下さったということです。私たち自身が本来受けなければならなかった神の裁きにおける有罪の判決を、主イエスが代って引き受けて下さったのです。そのことによって私たちはもはや罪に定められることがなくなった、それが「神の義」です。それが与えられる時、私たちは「神の恵みにより無償で義とされる」のです。つまりこの義は、人間の側のいかなる業にもよらないのです。これこれの善いことをすればそれによって獲得できる義ではないし、これこれの悪いことをしてしまったらもうそれによって得られなくなってしまうような義でもありません。この神の義を示され、与えられたゆえにパウロは、7章で語った嘆き、弱さ、惨めさにもかかわらず、私たちはもはや決して罪に定められることはない、と断言することができるのです。イエス・キリストを信じる信仰の最終的帰結、結論は、「神の恵みにより無償で義とされているのだから、自分はもう罪に定められることはない」という確信です。それゆえに私たちは、たとえどんなに自分の弱さや罪に嘆くことがあっても、最終的には喜びと希望に生きることができるのです。
キリスト・イエスの中で
この確信、喜びと希望の根拠は、私たちの中にあるのではなく、主イエス・キリストにこそあります。主イエスの十字架の死と復活による神の救いのみ業によって義とされているから、「自分はもう罪に定められることはない」という確信を持つことが出来るのです。それは主イエス・キリストを離れては成り立たない確信です。そのことが「キリスト・イエスに結ばれている者は」という言葉によって言い表されているのです。罪に定められることがないのは、自分に罪がない者や、罪に打ち勝って正しい生活をしている者ではなくて、自分の罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったキリスト・イエスと結ばれている者なのです。この「結ばれている」という言葉は、原文では「~の中に」という言葉です。つまり「キリスト・イエスの中にいる者は」が直訳です。これはパウロが好んでよく使う言い方で、6章11節にもありました。そこには、「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」とありました。この「キリスト・イエスに結ばれて」が「キリスト・イエスの中で」という言い方です。キリスト・イエスの中にいる者は、罪に対して死んでおり、神に対して生きている、つまり罪はもはやその人に対して力を持たず、神の恵みが彼を支配しているのです。ここにも、「キリスト・イエスに結ばれている者は罪に定められない」という本日の1節と同じことが語られています。また6章の最後の23節にもこうあります。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」。この「キリスト・イエスによる」もやはり同じ「キリスト・イエスの中で」です。神はキリスト・イエスの中にいる者に、永遠の命を賜物として与えて下さるのです。永遠の命は、神によって義とされた者に与えられる救いの完成ですから、これも「キリスト・イエスの中にいる者は罪に定められず、義とされる」と同じことを語っています。このようにパウロは、信仰者のことを常に「キリスト・イエスの中にいる者」と呼んでいます。それは単なる比喩ではありません。そのことが6章3、4節にこのように語られていました。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。ここに、「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」とありますが、これも直訳すると「キリスト・イエスの中へと洗礼を受けた」となります。洗礼を受けた信仰者は、主イエス・キリストの中へと入れられ、キリストの中にいる者となり、それによってキリストの十字架と復活による救いを与えられ、もはや罪に定められることのない者とされ、永遠の命を賜物として与えられているのです。
聖霊による新しい歩み
このように見てきますと、8章1節の「キリスト・イエスの中にいる者はもはや罪に定められることはない」という断言は、既に何度も、様々な形で語られて来たことであり、まさにこれまでに語ってきたことのまとめ、結論であることが分かります。パウロは8章1節で、これまでに語ってきた福音をこのようにまとめてみせているのです。それは、このまとめ、結論を出発点として、新しいことをこの8章で語っていくためです。その新しいこととは、キリスト・イエスの中に入れられた信仰者の、キリストに結ばれた新しい歩みです。キリスト・イエスに結ばれ、神の恵みによって義とされた信仰者にはどのような新しい歩みが与えられているのか、第8章はそのことを語っていくのです。その新しい歩みが2節では「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放した」と語られています。キリスト・イエスに結ばれている信仰者は、罪と死の法則、つまり罪に定められ、死に至るしかない、罪の支配の下での古い歩みから解放されて、キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則の下に置かれている、つまり聖霊の働きによって、キリストの復活の命、永遠の命を与えられるという希望を与えられているのです。この霊の法則の下で新しく歩む信仰者のことが4節では「肉ではなく霊に従って歩むわたしたち」と言われています。また9節にも「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは肉ではなく霊の支配下にいます」とあります。また14節にも「神の霊によって導かれるもの」とあります。このようにこの第8章は、キリスト・イエスに結ばれキリストの中にいる信仰者たちの新しい歩みを、神の霊が内に宿り、神の霊によって導かれる歩みとして見つめ、語っているのです。第8章において最も重要な、また最も頻繁に出て来る言葉は「霊」「神の霊」です。パウロは第8章で、主イエス・キリストの中で生きる信仰者の新しい歩みにおける聖霊のお働きを語っており、それによってキリストによる救いの福音を語る部分の締めくくりをしているのです。キリストの福音を信じる信仰は、十字架と復活による罪の赦し、贖いの恵みにあずかることで終りではありません。私たちは、洗礼を受けることによってイエス・キリストと結ばれ、キリストによる罪の赦しを与えられ、キリストの中に入れられます。そして、聖霊のお働きによって、キリストのものとして、キリストと共に、新しい命を生きていくのです。キリストによる救いの福音は、私たちが神の恵みによって無償で義とされ、もはや罪に定められることはない、という罪の赦しで全てなのではなくて、私たちに新しい命を与え、喜びと希望をもって新しく生かして下さる聖霊のお働きを欠かすことはできないのです。パウロがキリストによる福音を語る部分の締めくくりとしてこの第8章で語っているのはそのことです。私たちはこれからこの第8章において、聖霊のお働きによる新しい歩みのことを聞いていくのです。
先ほどこの礼拝において、乾伝道師の就任式が行われました。私たちはこのことにおいても、聖霊なる神様が私たちの教会に今働いて下さり、み業を行って下さっている恵みをこの目で見ることができました。一人の人が伝道者となるために選ばれ、召され、研鑽の時を導かれ、その中で様々な試練をも体験し、しかし守られて伝道者として立てられ、遣わされ、一つの教会においてその働きを与えられる、それはまさに、聖霊なる神様が人間の思いをはるかに越えた力をもって働き、その人をそれまでとは全く違う者として新しく生かして下さるという出来事です。聖霊なる神が今この群れにそのように臨み、み業を行い、乾伝道師を、そしてこの礼拝に集っている私たち一人一人をも新しく生かして下さっているのです。聖霊によって与えられるその新しい命について語っている第8章を私たちはこれから読んでいきます。キリスト・イエスに結ばれ、聖霊による命を与えられている信仰者は、様々な嘆き、悲しみ、罪の惨めさに満ちているこの世の人生を、にもかかわらず喜びと希望を失わずに生きていくことができる、第8章はそのことを私たちに示してくれるのです。