夕礼拝

主イエスは生きている

「主イエスは生きている」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第16編7-11節
・ 新約聖書:使徒言行録 第24章27-25章27節
・ 讃美歌:530、527

<フェストゥスの赴任>  
キリストの福音を宣べ伝えている伝道者パウロは、ユダヤ人の特に指導者たちから反発に遭い、身に覚えのないことで訴えられ、総督フェリクスのもとで裁判を受けました。ユダヤ人たちは、同じユダヤ人でありながら、キリストの福音を宣べ伝え、他のユダヤ人たちに大きな影響を与えているパウロが邪魔だったのです。
しかし、その裁判は未決のままで、何と二年間も、パウロはそのままにされていました。24:27にあるように「フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた」からです。  

二年たって、人事異動がありました。総督フェリクスの後任として、ポルキウス・フェストゥスという人が赴任したのです。彼はこの二年越しのパウロの裁判を引き継ぎましたが、最終的に、途方に暮れてしまいました。  
それは、25:18にあるように、結局ユダヤ人たちが訴えるような罪状は、何一つ指摘できなかったからです。パウロも8節で「私は、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対して何も罪を犯したことはありません」と弁明しましたし、また誰も罪を立証することは出来ませんでした。さらに、パウロは皇帝に上訴したのです。
しかも、本当に困ってしまったのは、19節に書かれている「パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです。」ということです。
フェストゥスは、「わたしは、これらのことの調査の方法が分からなかった」と言っています。この「分からなかった」と言う言葉は、「当惑した」「途方に暮れた」と訳されることもあります。「死んだイエスが生きている」と言ってパウロが訴えられている。それをどう調べ、どう理解すればよいか分からない。途方に暮れた。それは当然のことでしょう。  

この、「死んでしまったイエスが生きていると主張している」というのは、外にいるフェストゥスの立場から見た、パウロ、つまりキリスト教だということです。
そして、それは、その通りなのです。

<死んでしまったイエスが生きている>
わたしたち、キリストを信じる者たちは、何かの思想とか、よりよく生きる教えだとか、死後の考え方などを信じているのではありません。
十字架に架けられ、死んだイエスという方が、三日の後に神によって復活し、今も生きておられると信じているのです。今、この時もです。
神の子がまことの人となられて、この世に来られました。そして、「イエス」と名付けられました。これが、クリスマスの出来事です。確かに、約2000年前にベツレヘムでお生まれになり、30歳くらいの時に、十字架の刑に処せられ、死んで、アリマタヤのヨセフという人の墓に葬られた、ナザレのイエスという方。このわたしたちの世界の歴史の中に、確かに存在した方。この方が、死者の中から神によって復活し、そして、今も生きておられる。そう、本気で信じているのです。

  幽霊とか、魂とか、そういうことではありません。死者の中から復活した、ということは、あいまいな存在ではなくて、体を持って甦り、そこからずっと生き続けている、ということです。
体を持ち、復活なさった主イエスは、天に昇られたと、使徒言行録の1章に書かれています。そして、弟子たちに聖霊を送って下さり、教会が生まれました。
聖霊なる神のお働きによって、キリストを信じ洗礼を受けた者たちは、復活し、天におられ、生きておられる主イエスと結ばれ、いつでも、どこでも、この方がわたしと共におられる、と信じるのです。

常識ではあり得ない。理解できない。それはそうだと思います。これは、人の理解や思いを超えた、神の御業だからです。この主イエスの出来事は、わたしたちの外から、神から来たものだからです。人間が経験してきた歴史の出来事とは違うけれど、まさに人間の歴史の只中で、神によって起こった出来事なのです。このことは、信仰によってしか受け入れることが出来ません。

 そして、キリストを信じる者は、復活し、生きておられる主イエス・キリストに、語りかけられ、支えられ、励まされ、慰められながら、日々を、人生を歩んでいるのです。
 だから、キリストを信じる信仰は、活き活きしたものです。それは、頭の中の思索や、哲学や、精神論ではないからです。人生そのものが生きておられる神との関係の中に置かれて、神が語り、働きかけてこられ、またそれに応えていく、そのようなダイナミックな神との交流があるからです。

 パウロは、そのような信仰に生きていました。フェストゥスから見れば、「死んでしまったイエスが生きていると主張している」ということですが、パウロから言えば、「今、わたしは復活して生きておられる主イエスと一緒におります」と、証言しているのです。
 フェストゥスには、パウロが本気でそういうことを言っており、しかもそれがユダヤ人と争っている原因になっている。それはまったく訳が分からない、理解できないことだったのです。

<パウロの苦しみ>
 しかしパウロも、元々はキリストの復活や救いを信じず、教会を迫害する側でした。
 ところがパウロは、教会を迫害するために向かう道の途上で、復活の生きておられる主イエスとお会いしたのです。出会う、というのは、相手がまったく外から来て、相対するということです。パウロは名前を呼ばれ、「なぜわたしを迫害するのか」と主に語りかけられました。
 この出会いによって、パウロは、主イエスを知りました。自分が迫害していた主イエスこそが、神に遣わされた救い主であり、その十字架の死は、他でもないパウロの罪をも赦すためであったことを知りました。主イエスの御業が、すべてが、神のご計画であったと知ったのです。そして、その復活し、生きておられる方と、相対しているのです。

 パウロは主イエスを信じ、洗礼を受け、主と共に生きる者となりました。そして、主に「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」(22:21)と命じられ、主イエスの名を世界に知らせるために、遣わされました。
 パウロは異邦人の地で伝道をし、いくつもの教会が生まれました。
 しかし、エルサレムに戻った時、パウロを疎んじているユダヤ人が騒動を起こし、パウロは捕えられてしまいました。最高法院まで開かれました。そんな状況の中で、主イエスはさらに、23:11にあるように、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」とパウロに命じられたのです。
 ですから、ローマへ行って伝道することを、パウロは使命だと受け止めています。そして、主のご命令は、約束でもあります。きっと共にいる主イエスが道を拓いて下さる。伝道のために、困難を乗り越えさせて下さる。祈りつつ、そう固く信じていたでしょう。

 しかし、二年です。聖書では、24:27に「さて、二年たって」とさらっと書いてありますが、伝道を妨害され、捕えられ、訴えられ、そして監禁されたまま、二年もの月日が経っています。
 パウロに不安はなかったのでしょうか。主のローマへ行けというご命令は勘違いだったのだろうか。神はどうして問題を解決してくれないんだろうか。どうして苦しみばかり重なるのだろうか。そのように疑いや、迷いを覚えることはなかったのでしょうか。

 これは、主イエスを信じなければ経験することのなかった、信仰の苦しみ、悲しみです。そしてそれは、信仰者はきっと誰もが経験することです。キリストを信じているがゆえに、従うゆえに、悩むこと、苦労すること、葛藤すること、迫害されること、悲しまなければならないことが起こってくるのです。

<キリストの苦しみを辿る>
 さて、そんなパウロの歩みを改めて辿ってみると、それはまるで主イエスの十字架の苦難の歩みを辿っているかのようです。この使徒言行録の著者であるルカも、そのことを強く意識していると思われます。

 主イエスは、御自分の十字架の死によって人の罪を贖うために、エルサレムへ行かれました。ルカによる福音書の22:47以下から、主イエスが捕えられ、訴えられる場面が描かれています。主イエスは逮捕され、大祭司の家に連れて行かれました。そして、暴行を受け、その後、長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まってきて、主イエスは最高法院へ連れて行かれました。そして総督ピラトの尋問を受け、ヘロデ王、これは今日登場するアグリッパ王の大叔父に当たりますが、そのヘロデ王の尋問を受け、最終的にピラトは主イエスをユダヤ人たちに引き渡したのです。
 ピラトは尋問の時に主イエスのことを、「わたしはこの男に何の罪も見出せない」と言いましたが、人々は「この男は民衆を扇動している」と言い張ったとありました(ルカ23:4~5)。またヘロデ王は、主イエスに以前から会いたいと思っており尋問をしましたが、最後は侮辱してピラトに送り返しました(ルカ23:6~)。死刑の判決の時、ピラトは「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者として連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった、それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない」(ルカ23:14)と述べました。

 これらのことが、パウロの出来事と重なっているのが、よく分かると思います。(使徒21:27~)ユダヤ人たちが民衆を扇動して神殿でパウロを捕え、暴行しました。その後、最高法院が開かれ、訴えられました。またユダヤ人の間でパウロ暗殺計画が持ち上がったため、総督フェリクスのところに護送されました。そこで裁判が開かれ、「世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている」(使徒24:5)と訴えられました。そして今回の総督フェストゥスの裁判があり、アグリッパ王の前に引き出されたのです。フェストゥスもパウロのことを「罪状は何一つ指摘できない」(使徒25:18)、「彼が死罪に相当するようなことは何もしていないということが、わたしには分かりました」(使徒25:25)と述べています。

パウロは自分で望んで主イエスの十字架の出来事を辿ったのではありませんが、主イエスを信じ、従う中で、そのような歩みになっていきました。パウロが主イエスの名のために、主イエスのように迫害に遭うのは、パウロがまことに主イエスと一つにされ、主イエスに従い、共に歩んでいるからです。

救いの恵みに与り、従う者が、どうして苦しまなければならないのでしょうか。

 しかし、わたしたちがまず覚えるべきは、神から離れ、罪に捕らわれ、滅びに向かって行く者のために、罪のない方である主イエスご自身が、最も大きな苦しみを受けられたということです。それは、わたしのためです。神に逆らい、主イエスを十字架につけたのは、わたしたちです。
 しかし主イエスは、わたしたちが自分ではどうしようもない罪をすべて負って下さり、御自分の死によって、わたしたちが受けるべき苦しみを、裁きを、死を、代わりに担って下さいました。そして、罪を赦して下さったのです。
 そして、父なる神が主イエスを十字架の死から復活させて下さり、この方がまことに救い主であることを明らかにして下さいました。また、神の力が、主イエスを復活させて下さったことで、わたしたちも、神の力によって終わりの日に復活することを保証して下さったのです。主イエスが、罪と死に勝利して下さり、わたしたちを恵みによって永遠に支配して下さることを明らかにして下さったのです。

 主イエスの苦しみは、わたしたちの救いのためでした。そして、わたしたちが主イエスを信じるゆえに受ける苦しみは、この方の救いの恵みにまことに与っているゆえに受けるものです。神に敵対しようとする力が、従う者にも向かって来るのです。私たちは、主イエスの苦しみにも共に与る者となるのです。
 そこには不安や、疑いや、迷いが起こるような、厳しい世の現実があるかも知れません。しかし、その現実を覆いつくし、すべてに勝利し、生きておられる主イエスがわたしたちと共におられます。すべてを支配しておられる主の、もっと確かな神の恵みの現実が、キリストを信じる者にはあるのです。

 苦しみの中でこそ、わたしたちは、もっと大きな苦しみをわたしの代わりに担い、苦難の道を歩み、十字架に架かって下さった主イエスのお姿をはっきりと覚えます。
 そして、たとえわたしたちが、現実の厳しさに「わが神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでしまうような時にも、このわたしの最も深い苦しみは、もはや主イエスがすべてご存知であり、すでに主イエスがこれを叫ばれたことを思い起こすのです。
 そして、苦難と十字架によって主が御業を成し遂げられ、神が復活させ、わたしたちの救いを実現して下さったように、わたしも神に用いられ、神が最も良いと思われるご計画を必ず実現して下さると、信じてよいのです。
 ですから、キリスト者は、信仰による忍耐が与えられていくのです。

 また、今、生きておられる勝利者が共におられるのですから、キリスト者は、希望を失わずに歩んでいくことが出来ます。神のご支配は必ず完成します。
 この世における死ということさえ、主イエスが今生きておられるということ。つまり、主イエスの復活を信じることによって、終わりの日にわたしもその復活にあずかるという望みを与えられていくのです。

<生きておられる主イエスと生きる>
 ですから、主イエスが生きているということは、信じる者の生き方を変え、日々の生活にも直結するリアルなことです。
 キリストを知らない人々からは、目に見えないのに、生きていると言って、依り頼んだり、祈ったり、従ったりするキリスト者は、奇妙に映るに違いありません。しかし、奇妙に映ってしまうほど、生きておられる主イエスは、わたしたちの人生に、生活に関わってこられるのです。
 わたしたちも周りの人に、「あの人たちは2000年前に死んだイエスが、今も生きていると言っている。そのイエスに励まされたり、慰められたりすると言っている。」と言われるはずなのです。

 今も、生きておられる主イエスはこの礼拝に共にいて、わたしたちに語りかけておられます。わたしたちは、お応えします。賛美し、祈り、そして、それぞれ与えられた場所で、神の救いのご計画のために仕えます。
 神に従おうとする歩みの中で、悩み、苦しみを覚えることがあります。しかし、神は必ず恵みの御心を実現なさいます。わたしたちは聖霊によって祈り、生きて共におられる主イエスにますます信頼して寄り頼み、忍耐して御心がなる時を待ち望むのです。

 また、困難の中で、祈ることさえ難しくなるときも、わたしたちには、執り成してくれる兄弟姉妹が与えられています。
 パウロも二年牢獄にいましたが、24:23に、フェリクスが「ただし、自由をある程度与え、友人たちが彼の世話をするのを妨げないようにさせた」とありました。信仰の友が、共にキリストに仕える仲間が、パウロを世話し、支え、共に祈ってくれていたのです。
 彼らは、ローマへの伝道の道が開かれることを共に祈り、また他のキリスト者たちのことをも覚え、相談したり、励まし合ったりしたことでしょう。

 神は、必要な時に助け手を送り、共に歩む友を与え、目に見える交わりをも与えて下さいます。同じ時代、同じ場所で共に生きるように与えられた兄弟姉妹との喜び、苦しみ、祈りを共にしていく交わりは、わたしたちの信仰を強め、ますます豊かにし、支えてくれます。
 そして、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と、主イエスは仰って下さったのです。

<ローマへ>  
 さて、パウロは二年の間、主イエスのご命令を忘れることなく、諦めることなく忍耐し、総督フェストゥスによって裁判が再開されると、ローマ皇帝に上訴しました。
 こうして具体的にパウロの身柄がローマへ移されることになったのです。
 二年間パウロを支えたのは、信念でも、根性でもなく、生きておられる主イエスに他なりません。また、主が与えて下さった友との祈りの交わりです。
 そして主イエスは、一人でも多くの者の罪を赦し、御自分の救いに与らせるために、福音を世界に宣べ伝えるために、主イエスご自身が先頭に立たれ、伝道の業を推し進めて下さるのです。

 主イエスと共に歩むパウロは、そしてわたしたちは、主イエスに従う中で、苦しみ、忍耐して歩んでいく中で、時が来た時に、困難の中に道が開け、神の御心が実現していく様を見ます。主の福音が宣べ伝えられ、救われる者が与えられていく。その神の恵みの御業を、最も近くで目撃していくことになります。そして、神と共に喜びに与るのです。そのような場が、教会です。そうしてますます信仰を強められ、励まされ、恵みを確かにされていくのです。

 それは、パウロのように二年待つこと、いや、もっと時を必要とするかも知れません。しかし、神は最も良い時を知っておられます。わたしたちは、諦めず、忍耐して祈り続けなければなりません。主イエスの十字架によって、わたしたちの救いを成し遂げて下さった神が、御心を行って下さるからです。
 今も生きておられ、共におられる主イエスに信頼して、共に従い、歩んでまいりましょう。

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