「励ましと慰め」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:詩編 第16編7-11節
・ 新約聖書:使徒言行録 第20章1-12節
・ 讃美歌:12、206
旅のルート
パウロは、イエス・キリストの福音を伝えるために、伝道の旅をしています。前回はエフェソという場所にいる間に起こった、騒動のことが語られていました。 本日は、その騒動が収まって、パウロが計画している次の目的地へ向かって出発するところから始まります。
パウロが計画したのは、19:21にあったように、一つはエルサレムの教会に行くこと、そしてその後にローマに行くということです。
ご覧になれる方は、聖書の後ろのページにある地図をご覧ください。「8.パウロの宣教旅行2、3」というところです。点線のところが、今回の第三次旅行のルートを示しています。
今、パウロはエフェソにいます。ページの左半分の、中央上あたり、太字でアジアと書かれている地域の西側で海に近いところに、エフェソがあります。次の目的地のエルサレムは、地図の一番右下にありますから、本当はエフェソから東に向かって行くはずです。しかし、パウロはエフェソより北西にあるマケドニア州へ向かって出発した、とあります。そこからさらにギリシアに来て三か月過ごしました。マケドニアはページの左上の方で、エーゲ海を渡って、フィリピ、テサロニケ、べレアなどの教会があるところ、そしてギリシアはそこから南下して「アカイア」と書かれているところで、コリントの教会などがあるところです。
パウロは、エルサレムに行くにあたって、前回の伝道旅行で主イエスを信じる人々が起こされ、生まれた教会を、再び訪問して行ったのです。
その後、本当は、20:3にあるように、ギリシアから舟に乗り地中海を渡って、シリア州、つまりエルサレムの方へ行きたかったようですが、「彼に対するユダヤ人の陰謀があったので、マケドニア州を通って帰ることにした」とあります。ユダヤ人の陰謀とは、パウロを亡き者にしようという計画です。パウロの伝道は命がけで行われていました。
★ それで、来た道を引き返し、ギリシアから北上して再びマケドニア州に戻り、エーゲ海を渡ってトロアスという港町に行きました。そこで他の同行者と落ち合って、エルサレムに向かって旅を進めることにしたのでした。
遠回りの理由
しかしパウロは、なぜエフェソからエルサレムに向かうに当たって、だいぶ遠回りをして、これまで伝道した各地の教会を尋ねていったのでしょうか。
パウロは、エフェソに約三年間滞在している間に、新約聖書に納められている、いくつかの教会宛ての手紙を書きました。
各地の教会は、迫害と戦っていたり、教会の内部から混乱してしまっていたりと、様々な状況に置かれていました。パウロはそれらの教会に心を配り、エフェソで伝道している間にも、他の地域の教会の様子を聞いて、人々からの質問に手紙で答えたり、指導したり、励ましたりしていました。
今回、遠回りをして地方を巡り歩いて行ったのも、そのような各地の教会への配慮のためであり、力付け、励ますためでした。
特に心を痛めていたのは、ギリシアのアカイア州にあるコリント教会のことです。知らされたところによると、そこでは分裂が起き、倫理的にも乱れ、教会がとても混乱しているということでした。それで、パウロは何度か手紙を書き送り、さらに2~3節で「ギリシアに来てそこで三か月を過ごした」とあるように、コリント教会に訪問して、共に過ごし、教会を指導したり、励ましたりしたのです。
教会を励ます
それらの教会では、パウロと人々との間で、さまざまな交流や、指導が行われたことと思います。それぞれの教会にどのような問題があったかは、この時にパウロが書いたそれぞれの手紙を読むと、詳しく知ることが出来ます。
しかし、この使徒言行録は、詳しいことを語らず、その様子をただ「言葉を尽くして人々を励まし」た、とだけ述べています。
しかし、それはパウロが行った最も大切なことを、しっかりと言い表していると思います。
1、2節にある「励ます」という言葉は、ギリシャ語では12節に出て来る「慰め」と同じ単語が使われています。そして、この言葉は「そばに呼ぶ、招く」という意味の言葉から出来ています。
わたしたちも経験することと思いますが、不安な時、悩みや困難の中にある時、誰かがそばにいてくれる。声をかけてくれる。それは大きな励ましであり、慰めです。また反対に、自分が誰かを慰めようとして、相手のそばに寄り添うということもあるでしょう。
パウロが訪れて、側にいてくれたことは、教会にとってとても嬉しく、それこそ励まされ、喜びに満ちたことだったに違いありません。
しかし、人が人に対して出来る励ましには、限界があります。パウロもまたいつか教会を離れて行かなければなりません。
また、わたしたちが相手にかけようとする言葉も、力の無い、意味のない、虚しい言葉しか出てこないことが多いのです。
パウロは教会を訪れ、人々の近くにいて顔と顔を合わせ、言葉を尽くして励ましました。
しかし、ここでパウロが語った「言葉」の内容は、パウロ自身の言葉ではなかったでしょう。パウロが教会の人々に言葉を尽くしたのは、「主の言葉」であり、キリストの福音のことを話したに違いありません。
使徒言行録の13:15では、パウロは「何か会衆のために励ましのお言葉をください」と言われたことに対して、旧約聖書から説き明かし、十字架に架かって死に、復活したイエスこそ救い主である、という福音の説教を語っています。これが、励ましの言葉なのです。
励ましの言葉、そこで語られるキリストの福音とは、すべての人の罪を代わりに負って十字架で死に、その後に復活したイエス・キリストこそ、神が遣わして下さった救い主であるということ。この方の十字架によって、人の罪は赦され、キリストを信じる者を、神は、条件も何もなく、分け隔てもなく救って下さるということです。この、罪を赦し、死に打ち勝って下さったキリストのご支配の中に招かれ、生かされている、ということです。
「言葉を尽くして人々を励ました」というのは、そのイエス・キリストの救いの恵みを、パウロがそれぞれの教会で繰り返し語り聞かせた、十分に、懇ろに教えた、ということでしょう。
人の虚しい言葉ではなく、神の言葉が語られる時、キリストの福音が語られる時、そこには聖霊なる神が働いて下さり、天におられるキリストが臨んで下さいます。
この神の言葉が教会を励ますのです。神がご自分のもとに呼び寄せて下さり、共にいて下さるということこそが、教会を、人々を、真に励まし、慰めるものなのです。
パウロは、命の危険を冒して旅をしています。教会の人々とは、もう二度と会えないかも知れません。教会の人々も、パウロに出来ればずっと一緒にいて欲しかったはずです。しかし、聖霊の導きに従って、パウロは次のところへ向かおうとしています。
しかし、教会は、人の指導者によって立っているのではありません。教会はキリストの体です。教会の頭はイエス・キリストです。そのキリストの福音によって、ただ神の言葉によって、教会は立たされ、励まされ、慰められて、キリストに従って歩んでいくのです。
パウロがいなくなっても、それぞれの教会が、しっかりと神のみ言葉にこそ立つように、そして、必ずいつも主イエスが共にいて下さる、ということを忘れないように、パウロは祈りつつ必死にそのことを語ったのではないでしょうか。それが、「言葉を尽くして人々を励ました」ということだったのではないかと思うのです。
そしてそのパウロを通して語られた神の言葉に、神がいつも共におられるということに、人々は、確かに励まされ、慰められたのです。
主の日の礼拝
さて、そのように教会が、神の言葉によって生かされ、励まされ、慰められるものであることが、7節以下の出来事を通して、具体的に語られています。
これは、パウロがエルサレムへ行く7人の同行者と落ち合うことにした、トロアスでの出来事です。
7節には、パウロは翌日出発する予定で話をした、とあり、トロアスの人々にとっては、これでパウロから話を聞くのは最後かも知れない、明日にはお別れをして見送らなければならない、という状況でした。
そして、それは週の初めの日、つまり日曜日のことでした。当時から教会は、主イエス・キリストが復活した週の初めの日、日曜日に集まって集会を行なっていました。ですから、今のわたしたちも、日曜日を「主の日」と言って、復活を覚える日に毎週集まるのです。
しかし、今のようにカレンダーで日曜日が祝日になったのは、このパウロの時代からもっと後のことです。ですから、このトロアスの人々は、日曜日も普通に一日の仕事を終えてから、夜などに集まって、集会を開いていました。この夕礼拝には、朝から仕事をして、ここに来られた方もおられるでしょうから、その方は、少し状況が似ているかも知れません。
仕事の疲れがある中で、恐らくもう最後になってしまうパウロの説教に、皆一所懸命耳を傾けていました。そしてそこでのパウロの話は、夜中まで続いた、ということなのです。
ここで行われていた集会は、礼拝です。
7節には「週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると」とあります。パンを裂く、というのは聖餐のことを表しています。人々は聖餐にあずかるために、主の日に集まっていたのでした。
聖餐は、主イエスが十字架に架かられる前に定めて下さったことです。聖餐で裂かれるパンは、わたしたちの罪の赦しのために、十字架で裂かれたキリストの体のしるし、また杯はキリストがわたしたちのために流された血、新しい契約のしるしです。そして、パンと杯を通して、わたしたちは、十字架で死に、復活して天におられる、キリストの体に、真に与り、キリストの復活の命に結ばれていること、キリストの命に生かされていることを、確かに味わい知るのです。そうして、信仰が強められ、励まされるのです。
そして、パウロが話をした。説教をしていたのです。神の言葉、キリストの福音を語っていたということです。
初代教会から現代のわたしたちの教会に至るまで、説教と聖餐はいつも礼拝の中心にあります。
青年エウティコ
さて、そのような礼拝が行われており、パウロの説教が夜中まで続いていたところで、大変なことが起こってしまいました。集会は家の三階で行われていました。夜なのでたくさんのともし火が灯され、また大勢の人が集まったのでしょう。エウティコという青年は、三階の窓のところに腰を下ろしていました。
仕事の疲れもありますし、人も多くて、ともし火がたくさん灯っていて、部屋は酸欠気味だったかも知れません。そこに、パウロの熱のこもった説教がおそらく何時間も続いたのです。
その時、9節にあるように「エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった」のです。しかも「起こしてみると、もう死んでいた」とあります。
次の10節に、「パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。『騒ぐな。まだ生きている』」と書かれていますが、パウロが「まだ生きている」と言った意味を、エウティコが仮死状態だったと考える必要はありません。使徒言行録の著者であるルカは医者であったと言われています。ここでは文章が「わたしたち」と一人称複数で進められているように、著者である医者のルカはこの場所にいて、9節にあるように、確かにエウティコが「死んでいた」という死亡診断を下しているのです。
しかし、パウロは転落して死んでしまったエウティコのところへ降りて行き、上にかがみ込み、抱きかかえて「騒ぐな。まだ生きている」と言いました。そして、12節に「人々は生き返った青年を連れて帰り」とあるように、エウティコは死んだのに生き返ったのです。この主の日の礼拝の最中で、死んだ青年が生き返る、という奇跡が起こったのです。
パウロの「騒ぐな。まだ生きている」という言葉は、マルコによる福音書5章で語られている、主イエスが会堂長の娘を生き返らせた出来事と重なります。主イエスは娘が死んだという知らせを聞いても、「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ」と仰いました。そして、死んだ少女を起き上がらせ、生き返らせて下さったのです。
ここでは、パウロに主イエスと同じ力があった、ということではなくて、主イエスに従うパウロを通して、まさに主イエスご自身が、この場に臨んで下さり、奇跡の御業を行って下さった、ということが示されています。
エウティコの生き返りの奇跡が指し示していることは、み言葉の説教と、聖餐が行われる礼拝において、主イエス・キリストが共におられ、真の命が満ち満ちているということです。礼拝の中で、まさに、死に打ち勝たれた復活の主イエスが臨んで下さっており、生きて働いて下さっているということです。その恵みが、この時、目に見える形で、み言葉を聞いていた人々に示されたのでした。
それで、人々はエウティコの事件の後も、すぐに礼拝を続けるために、神のみ言葉を聞き、聖餐に与るために、すぐに上の階に戻りました。
そしてパウロは、パンを裂き、聖餐を行い、神の言葉を、キリストの福音を、夜明けまで長い間話し続けてから出発しました。
パウロが出発すると、12節にあるように、「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた」とあります。
死んでしまったエウティコが、生き返らされたこと、エウティコを失わずに済んだことに、人々は胸をなでおろし、本当に良かったと思ったはずです。
しかし、それ以上に、エウティコが生き返ったことで、教会に、神が召し集めて下さった者たちと共に、いつも復活の主イエス・キリストがおられ、生きて働いて下さっていること。自分たちが確かにキリストの復活の命に与り、救いの恵みに生かされているということを、はっきりと知らされました。その恵みは、死によってさえも奪われることのないものです。死に勝利された、救い主、イエス・キリストが共におられる。これこそ、何によっても奪われることのない、失われることのない、教会の励ましであり、慰めなのです。
わたしたちにも共に
教会では、説教を「聞く神の言葉」、聖餐を「見える神の言葉」と表現することがあります。わたしたちも礼拝で、この神の言葉によって、耳で聞いて、目で見て、生きておられる復活の主イエスが確かに共にいて下さることを、確信させられます。
いつもわたしたちは語りかけられます。神に逆らい、神から離れて、滅びるしかなかったあなたの罪を赦すために、キリストが来られ、十字架に架かられた。あなたに永遠の命を与えるために、キリストは復活された。
そうして、今も生きておられ、天におられる復活の主イエス・キリストが、御自分のそばに、わたしたちを呼び寄せて下さり、神の許に立ち帰らせて下さり、救いの恵みを注いで下さっています。わたしたちをご自分の命に与らせて下さり、真に生かして下さいます。
み言葉を聞くことは、神が共にいて下さるということを確かにされることは、わたしたちの唯一の励ましであり、大いなる慰めです。
ですから、わたしたちは、毎週の主の日の礼拝を大切にします。時間が空いたから礼拝に行くのではありません。礼拝は、わたしたちの生活の中心であり、命の源なのです。み言葉に耳を傾け、繰り返しその恵みに与り、新たに励ましと慰めを受けるのです。
そして、今日お読みした詩編の詩人のように、共にいて下さり、命を与えて下さる主を、賛美する者とされるのです。最後にもう一度詩編16:7-11をお読みします。
「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴をみさせず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます。」