主日礼拝

光の子としての証し

「光の子としての証し」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 詩編 第36編2-10節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第8章12-20節
・ 讃美歌 ; 204、326、432

 
ご自身を証される主イエス

 「私は世の光である。わたしに従う者は、暗闇の中を歩かず、命の光をもつ」。主イエスはご自身を「世の光」と言われました。世に向かって、ご自身が光であるということを力強く証されたのです。
 ヨハネによる福音書には、主イエスが様々な言葉をもってご自身を示されたことが記されています。「わたしは命のパンである」「わたしは良い羊飼いである。」「わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である。」。そのような主イエスの言葉の中でも、今日与えられている、「わたしは世の光である」との言葉は、私たちが最も親しみを持っている言葉ではないかと思うのです。この福音書の書き始めもこの「光」という表現が用いられています。1章3節には、「言の内に命があった命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とあります。主イエスが暗闇の中で輝く光であるということは、ヨハネによる福音書を貫いている大切なモチーフなのです。そして、今日の箇所では、主イエスご自身の口から、ご自身が世の光であるということの証がなされるのです。
主イエスはその生涯の中で幾度となく人々の前で証をされました。特に、ヨハネによる福音書はそのことを明確に記しています。他の福音書において、主イエスがエルサレムに赴かれるのは、ご自身の十字架に向かって歩む一回だけです。しかし、ヨハネによる福音書において主イエスは、祭りがある度にエルサレムに上京しているのです。一回目の上京は過越しの祭りにおいてでした。この時、主イエスは、神殿で商売をする人々を追い出したと記されています。二回目にユダヤ人の祭りで上京しました。その時、主イエスはベトザタの池で病人を癒されました。そして、今日お読みした出来事は、仮庵祭において主イエスが三度目にエルサレムに上京した時のことです。
 ただ数多くエルサレムに登って祭りに顔を出したというだけではありません。そこで主イエスは繰り返し、ご自身のことを語られているのです。この第三回目のエルサレムでの祭りにおいてもそうでした。この祭りにおいて、主イエスが口を開かれるのはこれが初めてではありません。本日の聖書箇所の冒頭に、「イエスは再び言われた」とあります。この証の言葉を発する前から、主イエスはご自身について語ってこられているのです。少し前の箇所、7章37節には次のように記されています。
祭りが最も盛大に祝われる終わりの日にイエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れでるようになる。」 ご自身の下に来て、水を飲めば、その人から生きた水が川となって流れ出ると語られたのです。祭りが盛大に祝われる終わりの日とあります。私たちの社会における祭りの最後の日を思い起こせば、この時のエルサレム神殿の境内の賑わいぶりが想像できます。そのような賑わいが絶頂にある時に、しかも、神殿の境内で、主イエスが立ち上がり、祭りの喧噪をはねのけるように大声で叫ばれたのです。
 しかし、イエスの証を聞いたものたちの中には対立が生じました。「イエスは誰であるか」ということについての議論が起こっていたのです。また、この時、すでに律法学者やファリサイ派の人々がイエスを逮捕するために、下役たちを遣わしたことが記されています。そのような中で、再び主イエスが言われたのです。おそらく今度も大声で叫ばれたにちがいありません。もしかしたらは、さらに大きな声で叫ばれたことと思います。「私は世の光である。わたしに従う者は、暗闇の中を歩かず、命の光をもつ」。

仮庵祭

 ここで言われている「祭り」とは、ユダヤにおける三大祭りの一つである「仮庵祭」と言う祭りです。仮の庵と書きますが、その名の通り、この祭りにおいては、仮小屋がたてられました。秋の収穫祭として祝われるようですが、そもそもは、イスラエルの民が、かつてエジプトの地を脱出して40日間荒野を旅したことを記念するものです。荒野での生活と同じように仮小屋を建てて、その時を思い起こしたのです。
 この祭りには欠かせない二つの儀式がありました。一つは、神殿のそばにあるシロアムの池から水を汲み、神に捧げるということです。もう一つは、祭りの最初の日の夜から祭りの間中、神殿に立っている、四本の大きな金の燭台に火をともすということです。この燭台の光は、神殿だけではなく、エルサレムの町全体を照らすほどのものであったと言われています。イスラエルが荒野を旅した時、主なる神は、昼は雲の柱、夜は火の柱によって人々の行くべき道を示されました。ですから、この祭りにおいては、火の柱を記念して燭台に火をともしていたのです。そして、この神殿の周りで夜通し歌って踊ったそうです。
 どうして、人々は、たびたび祭りを行い、そこで、水を捧げ、火をたくのでしょうか。おそらく、日々繰り返される自分たちの生活を中断し、非日常的な儀式を取り入れることで、自分たちの民の歴史を思い起こして、自分たちの生活に意味づけをなしていたのではないでしょうか。どのような祭りであれ私たちがなす祭りにはそのような性格があるものです。そこにおいて、世にあって枯渇した私たちが潤されるための水が求められ、日々繰り返される混沌とした、生活に意味を与える光が求められるのです。

わたしこそ世の光

 主イエスは、そのような、水と火の祭りの最も盛り上がった時に叫ばれたのです。人々は世の闇を払拭するような炎の明るさの中で歓喜に満ちて歌っていたかもしれません。恍惚状態に陥った人々が狂喜乱舞して踊り回っていたかもしれません。そのような人々の高揚した熱気に、水を差すかのごとくに声を張り上げて、渇いている人は自分の下に来て飲むようにと言われ、又、自分は世の光であると言われたのです。
 ただ単純に、祭りにおいて、燭台の上の輝く炎の光になぞらえて、「あの光を見てみなさい、私は世にあってあの光のようなものなのです」と言われたのではありません。「わたしは世の光である」というのは、主イエスがこの世に対して力強く、ご自身を啓示される時に用いられる表現が使われています。ギリシャ語で本来主語は動詞の活用で識別出来るため、省略されることが多いのですが、ここでは、「私は」としっかり書かれているのです。そこには強調の意味があります。主イエスは、「私こそは世の光である」との強い口調で語られているのです。確かに、世にはたくさん「光」といえるようなものがあるかもしれない、現に今、祭りにおいて煌々と明るく灯された光がある。しかし、それらのどれでもなく、「わたしこそ世の光である」「わたし以外に光りはない」と宣言されているのです。
 なぜ、主イエスは祭りのある度毎に、エルサレムに登ってご自身を示されるのでしょうか。それは単純に祭りにおいて人々が大勢集まるからという理由だけではないように思います。祭りにおいて、人々が、漫然と繰り返される日常を中断し、混沌とした世における、自分たちの生活の意味づけを得ようとするからではないでしょうか。そのような自分で光を持とうとする人間の歩みの背後に、人間の作る偶像を見たからではないかと思うのです。ですから、人間がそれらを求め、それらを作り出そうとする場で、主イエスははっきりと大声をあげて、他の何ものでもなく自分こそが光であると言われるのです。人々は世にあって、自分で光を作りだそうとします。自らの生の意味づけを自分でなそうとするのです。ご自身を証して叫ばれる主イエスは、そのような人間の歩みに対抗して、終わりを告げようとされるのです。「わたしこそ世の光である。」

証の根拠の問題

 このような主イエスの態度は、多くの議論を巻き起こしました。祭りにおいて、人々が作り出す光を否定するような形で、主イエスがご自身を示されたのですから、人々の間に激しい反発が起こるのも当然です。
 主イエスが、祭りにおいてご自身を証する度に、主イエスに敵対する者たちの反論も活発になっていきました。今度の主イエスの証に対しても、イエスに対して敵意を持っていた、ファリサイ派の人々は、「あなたは自分について証をしている。その証は真実ではない」と言っています。ユダヤの律法では、裁判において、自分自身についての証言は信頼されず、誰か別の人の証言が必要であったのです。その律法を持ち出して、主イエスのなさる証を否定するのです。
 しかし、この世において証言が真実であることの根拠と、主イエスご自身の証が真実であることの根拠は異なっています。主イエスは言われるのです。「たとえわたしが自分について証をするとしてもその証は真実である、自分がどこから来て、どこへ行くかを知っているからである。」。ご自分が、どこから来て、どこに行くのかを知っていることが、自分の証が真実である根拠だと言うのです。これが私たちの証と主イエスの証の根本的な違いです。
 「私たちは、どこから来て、どこへ行くのか。」。最近テレビで放送されていた世界中の「世界遺産」を取り上げて紹介する番組の副題にこのテーマが掲げられていました。私たちが関心を持つテーマであると思います。歴史的な遺産の探究に限らず、およそ学問による真理探究は、多かれ少なかれ、私たちが、どこから来て、どこへ行くのか、ということに関心があります。それは、私たちの根拠と目的を知るということであると言っていいでしょう。私たちは世にあって、これについての答えが与えられないまま、この問いを抱き続けるのかもしれません。
 しかし、主イエスはご自身が、どこから来て、どこに行くのかを知っているというのです。それは、ご自身がどういう存在であるかを知っているということです。主イエスは世を照らす光として、父なる神の下から来られた方でした。そして、人間の罪を負って十字架へと赴かれる。主イエスの証を理解しないもののために、その闇の最も深いところへと赴かれるのです。そしてその後、十字架の死から復活されて、父のおられる天にあげられるのです。そのような形で闇の力を克服される方なのです。だからこそ、「わたしは世の光である」との証は真実であると言えるのです。
 主イエスは、続けて、「わたしは自分について証をしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証をしてくださる」と言っています。ご自分の父、自分がこの方の下から来て、この方のもとにかえって行くところの父が、主イエスについて証をして下さると言うのです。自分の根拠は父なる神にあると言われるのです。

人間の闇と光なるイエス

 しかし、人々はこのことを理解しません。イエスがどこから来てどこに行くのか知らないのです。反発する人々は、主イエスの証を、人間の尺度で捕らえて、その信憑性を疑います。この世の裁判での一般的な証についての常識を持ち出して、主イエスの証を非難するのです。又、主イエスが「父もわたしについて証をしてくださる」と答えたのに対して、「あなたの父はどこにいるのか」と地上の父親の居場所を訪ねるのです。ピントのずれた受け答えしかできないのです。自分の尺度でしか、主の言葉をはかれないからです。その答えが、さらに、人々の無理解を露呈してしまいます。主イエスは「あなたたちは、わたしもわたしの父もしらない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」と言われるのです。結局、主イエスの証を理解しないものは、主イエスも父なる神も知らないのです。真の神の子として理解しないのです。
 ヨハネによる福音書において、主イエスが世の光とされているのに対し、光が輝く世は闇とされています。世が闇であるとはどういうことでしょうか。私たちの人生に様々な悲惨があるということでしょうか。確かにそれも世の闇であるでしょう。けれども、ここでの闇とは、根本的には、私たちが光を理解しないということであるのです。世に真の光が来られており、天の父の下から来た光としてご自身を証しているのに、その光を理解しないということです。
 光が輝くところで、闇も明らかになります。闇しかない場所であれば、闇は闇でないでしょう。光が輝くところに闇も又はっきりと現れるのです。それと同じように主イエスがご自身を光として、示されれば示される程、私たちの無理解、私たちの闇も明るみになるのです。
 しかし、主イエスが来られたのは、まさに、そのような闇の中なのです。光はほかのどこでもなく、暗闇の中で輝くのです。自分で自分を潤す水を求め、自分で自分を照らす光を求めてしまうことによって、真の光である主イエスを理解しない者たちのためにこそ、主イエスは世に光として来られたのです。暗闇の中にある者たちに、命を与えるために、この世へと来られて、十字架と復活によって闇に勝利して下さっているのです。

神の愛

 三浦綾子さんが、ご自身のことを綴った文章に次のようなものがあります。
 「戦争中に小学校の先生であった私は、敗戦を迎えて、ひどく虚無的な、そして懐疑的な人間になった。その私を敗戦後七年目にして変えたのは、聖書であった。聖書は私に生きる方向を変えさせた。いままで背を向けていた光なる神のほうに私をふりむかせた。光に背を向けている間は、私は自分の黒い不気味な影だけを見つめていた。が光のほうを向いたとき、影は消え、聖なるあたたかい光だけがあった。聖書の光に映し出された私の姿は、私が知っているよりもはるかに卑小であり、傷だらけであり、醜かった。だが、その醜いままの私を拒否せずに、受け入れてくれる神の愛を私は知った。本来聖書は、イエスを神の子であると、指し示す本である。イエスが私たちの救い主であると、証する本である。私が聖書に出会ったことは、すなわち神の子イエスに出会ったことでもあった。その神の子が私を変えた。」
 私たちは世にあって、真の光に背を向けています。なぜでしょうか。真の光を見ることを恐れているからです。真の光に照らされた時の自分自身の醜さを見ることを、おそれるからです。そして、真の光に対して、背を向けている時に、自分の黒い不気味な影しか見えない中で、様々な偽りの光を見いだそうとするのではないでしょうか。自分自身で光を作り出して安心しようとするのではないでしょうか。私たちが自分から作り出す偽りの光は、私たちを見えるもののように振る舞うことをさせるかもしれませんが、決して私たちの醜い姿を明らかにはしません。そのような光を求めるのが世にいる人間であると言っていいでしょう。しかし、そこに真の救いはないのです。
 ただ、私たちが、真の光の方を振り向く時に、真の光に照らされて、自分自身の姿を知らされるのです。この光に照らされた時に、あまりに、卑小で、傷だらけで、醜い姿が知らされるのです。しかし、真の光である神は、そのようなものの醜いままの姿を受け入れて下さるのです。真の光の下で照らされた私たち自身が受け入れられているのです。それが神の愛だというのです。
 この事実を知らされる時に、詩編36編の詩人と共に、「あなたの家に滴る恵みに潤い あなたの甘美な流れに渇きを癒す。命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたしたちは光を見る」と歌うことが出来るのではないでしょうか。

私たちの証

 この神の愛に生かされる時に、私たちも又、証するものと変えられるのです。それは、真の光である主イエスに従う歩みをなすようになることです。
 キリスト者としての歩みは証の生活であると言われます。しかし、時に、そのことに私たちはとまどいます。どのような時代であれ、世にあってキリストが証しされるところでは、そこに必ず、自らの手で光りを作りだそうとする世からの反発も起こるからです。ヨハネによる福音書はキリスト教がユダヤ社会から追放されるという時代背景の中で記された福音書です。この福音書を読むと、世にあってキリストを証することの困難さが伝わってきます。しかし、この困難さは、世でキリストを証する時に必然的に起こる困難さです。それは、イエス・キリストご自身が、世にとって躓きであったからです。そして、私たちを最も困惑させるのは、キリストにあるものとされた私たちも、世にあるものの一人でもあるということです。そこには、様々な光を求めようとするものがいます。主イエスの証に対して無理解なものがいます。そのようなものが果たして証をなすことが出来るのかと思わされるのです。
 しかし、この世に証をなすとは、自分自身を光として示すことではありません。何か、光を作り出そうとすることでもありません。ただ世に光として示して下さった主イエスに従いつつ生きることです。その光の下で、神の愛によって生かされている自分自身を示すことです。
私たちの闇のために十字架にまで下られ、その闇の力に勝利された主イエスが、私たちの闇の中で語って下さっています。「わたしは世の光である。わたしに従うものは暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。この言葉に押し出されて今週の歩みを始めたいと思います。

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