「人間からか、神からか」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:イザヤ書第55章8-11節
・ 新約聖書:使徒言行録第5章33-42節
・ 讃美歌:204、447
使徒たちは、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と、時の権力者を前に堂々と宣言しました。先週お読みした、5:29です。
人は、色々なことを決断しなければならない時があります。選択、と言っても良いかも知れません。「人生は選択の連続だ」と言った人もあるくらいです。
もし、神に従うか、人間に従うかを決めなければならないことがあれば、イエス様を信じ、救いの恵みを受けた者は、当然、神に従うことを望むでしょう。
しかし、神に従うことが、自分の命に関わることだったら、どうでしょうか。現在の日本に生きるわたしたちには、キリスト教を信じているからといって、命に関わるような信仰の決断を迫られることはありません。しかし、今でも世界の他の国では、キリスト教だといって迫害を受けたり、命を狙われるようなことがあります。
勇気を持って、どんな時でも神に従いたいと願います。でも、いざとなったら、わたしにはそのような勇気がないかも知れない。目の前の恐怖や、不安に、すぐに屈してしまうかも知れない。命どうこうでなくても、何か誘惑や、困難や、不利益を前に、神に従うという思いが揺らいでしまうかも知れない。
それはもし、わたしの中の決意や、信念や、勇気によって、神に従おうとしているならば、そういう不安を抱えることになります。
では、わたしたちは一体どのようにして、神に従うことが出来るのでしょうか。
使徒たちは、主イエスの復活を証しし、その名を多くの人々に宣べ伝えていました。そして多くの者が信じました。これを知ったイスラエルの民の指導者である大祭司と、サドカイ派というグループの人々は、ねたみに燃えて、使徒たちを牢に捕え、最高法院、つまり裁判の法廷に引き出しました。それが前回読んだ箇所です。
使徒たちの中で、ペトロとヨハネが、以前にも捕えられて、指導者たちから「イエスの名によって話したり、教えたりしてはならない」と命じられていました。
イエスの名を語るな、と命じられる。それは使徒たちにとって、神に従ってイエスの名を語るか、人に従ってイエスの名を語らないかを決めることでした。その決断は、自分たちの命に関わる可能性がありました。
しかし5:29にあるように、使徒たちはイスラエルの指導者たちに答えます。
「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」。
使徒たちは、自分たちは神に従う、ということを宣言しました。
そして使徒たちは裁判の場で、イスラエルの指導者たちが十字架につけて殺したイエスは、神が復活させられ、神の右に上げられたということ。人々を悔い改めさせ、罪を赦すために、救い主となられたのだ、ということを語りました。
このことを聞いた指導者たちは、この時、主イエスが神から遣わされた救い主であると信じなさい、悔い改めて、罪を赦してもらいなさいと、福音を告げられ、救いの恵みに招かれていたのです。
しかし、彼らはその恵みを受け入れません。33節には「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた」とあります。
彼らは使徒たちを妬んでいました。民衆の多くが使徒たちの教えを信じ、また信じた者たちが心を一つにして互いに物を分かち合いながら生活し、人々に好意を寄せられ、称賛されていたからです。
また、特に使徒たちを捕えたサドカイ派というグループは、「復活」というもの自体を否定していました。主イエスが復活した、ということが人々に広まるのは、自分たちの主張に反する、都合の悪いことでした。
また、この指導者たちは、使徒たちが、自分たちに主イエスを十字架で殺した血の責任を負わせようとしている、と考えました。
彼らは、神の救いの御心に目を留めるのではなく、人々からの人気や自分たちの権威に目をとめて、立場や、主張を守ることに必死でした。その思いで、彼らは神に対して心を頑なに閉ざし、主イエスの福音を拒み、使徒たちに対する殺意に至ったのです。
さて、使徒たちを殺すかどうかという緊張が張りつめた場面で、一人の人物が登場します。ガマリエルという人です。34節には、民衆全体から尊敬されている律法の教師であり、ファリサイ派に属していた、と書かれています。
使徒言行録で後に登場するパウロというキリスト教の伝道者が、かつて回心する前、このガマリエルのもとで先祖の律法について厳しく教育を受けた(22:3)と語っています。
このガマリエルが、使徒たちを一旦議場から退出させて、イスラエルの指導者たちに、使徒たちから手を引くように、放っておくようにと言いました。
そう言った理由は、38~39節にある通りです。「あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」。
ガマリエルはそれに関する二つの例、テウダと、ガリラヤのユダの出来事を挙げます。
テウダは自分が偉い者のように言って立ち上がり、400人くらい従ったが、結局テウダは殺されて、従った者もいなくなった。ガリラヤのユダも、反乱を起こしたけれど殺され、従った者もちりぢりになった。それはどちらも神の御心でなかったから、扇動したリーダーは殺され、従った者も散らされたのだ、ということです。だからこのイエスをリーダーとする集団も、神からのものでなければ、じきに解体するだろう、と言っているのです。
もし、神からのものだったら?その時には、イスラエルの指導者たちは神に逆らう者となるかも知れない、と言っています。
結果、指導者たちはこの意見に従うことにして、使徒たちを殺すことはしませんでした。ガマリエルは人々に尊敬された人物であったし、また民衆に称賛されていた使徒たちに手をかけることは、民衆の反発も予想されることでした。指導者たちも納得したし、使徒たちも殺されずに済んだのです。
これは、見事なガマリエルの大岡裁きだったのでしょうか。中立の立場で、しかも人間から出たものなら自滅するし、神からのものなら滅ぼされないだろうという、使徒たちの教えの真偽を神に委ねる、ガマリエルの信仰的な決定だったのでしょうか。
そうではないと思います。
そもそも、二つの例が、リーダーが死んで人々が散らされた、という話でしたが、ここにはイエスという人物も既に十字架で死んだのだから、彼に従った集団もそのうち自滅するだろう、という考えです。ガマリエルの挙げた例からは、使徒たちの主イエスの復活の証言を信じていない様子が受け取れます。
でもある人は、ガマリエルは、「もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかも知れない」と言っているではないか。ガマリエルは、使徒たちの行動や教えが、神からのものかも知れないと思っているのではないか、と言うかも知れません。
しかし、本当に神に忠実で、神を畏れている人が、本気で自分が神に逆らう者となるかも知れないと思った時に、「だから放っておこう」という判断をするでしょうか。
ここでは、使徒たちが勝手に自滅するだろう、という思惑が強いように思えますし、自分は神に逆らうことにはならない、という自信が伺えます。
もしガマリエルが、自分が神に逆らう者になるかも知れない、ということを本当に畏れるなら、真剣に使徒たちの証言を聞こうとし、聖書を調べ、主イエスこそ神が与えて下さった救い主であることを確かめようとして、放っておくということにはならないのではないでしょうか。
主イエスの十字架と復活の出来事は、それを聞いた者に決断を迫ります。
もちろん、それは、わたしたちにも問われます。
主イエスが救い主であることを、受け入れるか、受け入れないか。主イエスが叩いて下さっている自分の扉を、開いて招きいれるか、開かないで拒むかです。
ここで、ペトロの説教を聞いたエルサレムの町の人々のことを思い起こしてみましょう。2:36でペトロが「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシア(救い主)となさったのです」ということを人々に語った時、人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った、とあります。
心を打たれた。それはただ良い話に感動したということではありません。心を抉られるような痛みを感じた。主イエスの十字架が自分の罪のためであったと知り、神の前で自分が犯した罪に、心が刺し貫かれ、居ても立ってもいられなくなったのです。
そこでペトロは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と、人々が神の恵みに応えて為すべきことを教えました。
主イエスの救いを知らされ、受け止めた者は、心を抉られます。そして与えられた神の恵みを受け入れ、神のもとに立ち帰って、洗礼を受け、罪を赦していただくことこそが、神の与えて下さる恵みに対して為すべきことです。
この人々とは対照的に、5:30でペトロが最高法院で主イエスの復活を証しし、この方が救い主だと語った時、これを聞いたイスラエルの指導者たちは、激しく怒って使徒たちを殺そうと考えた。またガマリエルは、使徒たちをほうっておくがよい、と言ったのです。多くの人々が主イエスを信じた一方で、主イエスの救いの知らせを聞きながらも、自分中心に生きる人々、神の愛から目を背ける人々の、頑なな心も、ここでは示されています。
さて、最高法院では、ガマリエルの意見に従って、使徒たちを殺すことは思いとどまったので、ガマリエルの判断は、結果、使徒たちを助けることになりました。
ただ注意すべきなのは、わたしたち人間の目で、ある出来事の結果の良し悪しを判定し、それが人間からのものか、神からのものかを決めることは出来ないだろうということです。
例えばこの歴史の中で、教会が激しく迫害され、多くの殉教者が出た時、それは神からの計画ではなかったことを示していたのでしょうか。また集会か何かが開かれて、その人数がどんどん増えていくならば、それは神からのものであることの結果なのでしょうか。
そうではありません。わたしたちの営みが、神の御心に従わないで、人の思いや欲によって行われる時、それが上手くいかなくて、反省するということはあるかも知れません。でも、この世界においては、人の思いや欲に従っているからこそ、とても栄え、豊かになり、世で力を持つようなこともあります。
わたしたちの営みから起きる出来事の結果に対して、わたしたちの目は、自分たちの偏った見方でしか見ることが出来ないし、簡単に都合の良い結論を出すことが出来てしまうのです。
わたしたちが、それが神の御計画かどうか、神の御心かどうかを知るには、ただ、心を一つにして祈ることと、神ご自身の御言葉に耳を傾けることしか、方法はありません。聖霊の導きを祈り求め、主イエスにおいてご自身を示された神の御心に従うことにおいてのみ、わたしたちの営みは、困難に満ちていても、また順調にいくにしても、神のものとして祝福され、用いられていくでしょう。
また祈りと御言葉に照らして人の歴史の歩みを見るなら、わたしたちは主イエスの福音が語られ続けているということにおいて、それこそが神の御心であると知るでしょう。
神は、わたしたちにとって良い時も悪い時も、すべてのわたしたちの歩みを導いておられます。創造の時から御手の内に導いて下さり、御子を遣わして人を罪から解放し、やがて神のご支配を完成して下さる終末の時まで、神は定めておられること、つまりわたしたちのための救いの御業を、必ず成し遂げて下さる方なのです。
さて、使徒たちは一度退場させられた後、再び議場に呼び入れられ、鞭で打たれ、イエスの名によって話してはならないと、再び命じられて釈放されました。
これは、ペトロとヨハネが釈放された時より、鞭打ちの刑が加わった重い勧告でした。使徒たちの命は助かりましたが、肉体的に大きな苦痛を与えられました。
しかし、釈放された使徒たちは、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」と書かれています。
鞭打たれ、辱めを受けたことを喜んだ。これは通常では考えられないことです。普通なら、もう二度と鞭打たれたくないと思うし、そんな目に遭った自分が哀れに思えたり、主イエスの名のために仕えているのに、却って酷い目に遭うことを恨んだりしそうなものです。
しかし、「主イエスの名のため」に、自分たちが神に従い続け、困難を受けていることは、喜びだと、使徒たちは言うのです。それは無理をして、これは神のためなんだから喜びなんだと思い込んだり、こんな困難に遭っても頑張っている自分たちを誇って喜んでいるのではありません。
以前の使徒たちは、この時とまったく違いました。ペトロのことを考えてみましょう。
ペトロはかつて、主イエスが捕えられ、十字架につけられる時、主イエスのことを「知らない」と三度も繰り返し、逃げ出したのでした。それまでは「主イエスと一緒に牢に入って死んでもよい」とまで言っていたのに、いざとなると裏切ってしまったのです。
しかし、誰がペトロを弱虫だと言ったり、勇気のない奴だと言うことが出来るでしょうか。わたしたちだって、身の危険を感じ、恐怖に捕らわれてしまったら、自分を守るために、個人的な熱心や決意は、脆く崩れ去っていくことをよく知っているでしょう。
この時、確かにペトロは、主イエスに従うことが出来なかったのです。
しかし、今やペトロは、捕えられ、危険な目にあっても、神に従うことを堂々と宣言します。主イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされた、と言って、主イエスの名のために戦う者とされているのです。
何がペトロを、使徒たちを、このように変えたのでしょうか。
それは、使徒たちが、復活の主イエスと出会ったからです。
使徒たちが従っているのは、今も生きて共におられる、救い主、イエス・キリストです。
使徒たちのため、そして、わたしたち一人一人のために、苦しみを受け、辱めを受け、不名誉な十字架の死を受け入れて下さった方です。
まずこの方こそが、わたしたちのために苦しまれた。辱めを受けられた。この世の悪と戦って下さった。この主イエスの十字架の苦難にこそ、わたしたちの罪の赦しと、そして神と共に生きる新しい命があります。
このわたしに、新しい命を下さった方に従うのです。イエスという名の方。この方のもとに、すべてがあります。十字架によって罪を赦し、そして死に打ち勝ち、復活された方。今も生きておられ、神の右に座し、すべてを支配される方です。
従う者には、罪の赦しと永遠の命が与えられ、終わりの日には主イエスの栄光に共にあずかること、そして、わたしたちも復活にあずかるという希望の約束があります。
この世の何にも勝る希望を与えて下さる方が、滅びていくはずだった罪人一人一人に目を留め、出会って下さり、わたしに従いなさいと言って下さるのです。あなたの苦しみ、あなたの罪はすべてわたしが負ったから、悔い改めて、わたしが与える新しい命を生きなさい、と言って下さるのです。
すべての喜びはここにあります。主イエスに従い、主イエスと共に生きることにあるのです。その喜びを知っているなら、確かな希望を知っているなら、わたしたちは世の困難苦難を前に絶望することはありません。
またこの名のために苦しむことも、主イエスが共におられるからに他ならないと知るなら、それを喜びと言うことが出来るのです。
もしも神に従うことが、使徒たち自身の信念であったり、主張であったり、また自分自身の勇気を奮い立たせてのことだったら、それは他の信念や主張を前に揺らいだり、誘惑にあって崩れたり、倒れたりしたでしょう。
しかし、この使徒たち自身を生かし、立たせているのは、自分の内からのものではなく、外から与えられた神からの恵みであり、神からの命であり、神からの希望なのです。
神の御子、主イエスご自身がわたしたちのところに来て下さり、救いの御業を成し遂げて下さった。使徒たちも、わたしたちも、その主イエスに結ばれて一つにされているから、弱くても、勇気がなくても、臆病でも、聖霊に力を与えられて、恵みによって、神に従っていくことが出来るのです。その喜びに生きることが出来るのです。
主イエスとの交わりに生きている人々は、神を礼拝し、主イエスを証しすることを止めません。使徒たちは釈放された後、主イエスの名によって話すなと命じられてもなお、「毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせて」いました。それが神の御心であり、また使徒たちの喜びだからです。
主イエスを救い主であると信じた人々は、神の国を待ち望みながら、神の御言葉によって、主イエスとの交わりの中で生きていきます。主イエスにあって心を一つにし、共に祈ります。聖霊の導きによって、主イエスの福音を告げ知らせるという神の救いの御計画に参与して、共にその使命を果たしていきます。
そうして神と共に生きる者とされ、神に従う者であること。
ここに、わたしたちの真の命があり、希望があり、喜びのすべてがあるのです。