主日礼拝

神と御心と人の誓い

「神と御心と人の誓い」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 箴言、第19章 21節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第18章 12節-23節
・ 讃美歌 ; 17、205、517
・ 聖歌隊 ; 22-1

第二回伝道旅行の終わり
 本日の聖書の箇所、使徒言行録第18章12?23節には、パウロの第二回伝道旅行が終わり、第三回伝道旅行が始まったことが語られています。パウロの伝道旅行は、シリアのアンティオキアを出発地とし、そこへ帰って来る、という仕方でなされています。22節の終わりに、「アンティオキアに下った」とあるのが、第二回伝道旅行の終わり、23節に、「パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て」とあるのが、第三回伝道旅行の始まりです。アンティオキアに帰ったと思ったらまたすぐ次の伝道の旅に出た、という感じです。この第三回伝道旅行のことは次回以降に回すとして、本日は、第二回伝道旅行の終わりのところを見ていきたいと思います。先週読んだ18章の前半には、コリントでの伝道の様子が語られていました。11節によればパウロはこの町に1年6か月滞在して伝道したのです。これは先週も申しましたように、パウロの、一つの町での滞在期間としては非常に長い方です。そのコリントをついに去って、その後どうしたかを先ず確認しておきたいと思います。聖書の後ろの付録の地図の8、「パウロの宣教旅行2、3」を見ていただきたいと思います。ギリシャの南部、アカイア州の州都がコリントです。そこからパウロは、18節によれば「船でシリア州へ旅立った」のです。その船に乗り込んだ港がケンクレアイという所です。そして先ず、エーゲ海を渡り、対岸の小アジア、今日のトルコに上陸し、エフェソに到着しました。そこでほんの少し伝道をして、また船出し、あとはまっすぐ地中海を南東へと向かい、カイサリアに着きました。エルサレムに最も近い港です。そこから「教会に挨拶をするためにエルサレムに上り」とあります。この地図の線はこのエルサレムで終わっていますが、そこから出発地であるアンティオキアに下ったとありますから、本来そこまで線を引くべきでしょう。これが、本日の箇所に語られている、第二回伝道旅行の終わりです。

急ぐパウロ
 この地図から分かるように、本日の数行に語られている旅は、距離としてはものすごいものです。今日でも、船で行くとしたらけっこうな距離の旅だと言えるでしょう。そこを一気に駆け抜けるようにして、パウロはアンティオキアへ帰ったのです。何か、とても急いでいるように感じられます。これまでは、陸路をたどって旅をし、行く先々の町で伝道をしつつゆっくり歩んできたのです。コリントでは1年半も滞在したのです。ところがその後は、まっすぐに、一目散に、エルサレムそしてアンティオキアへと戻っています。途中エフェソには寄っていますが、そこではほんの少し伝道しただけで、町の人々がもうしばらく滞在するように願ったのを断って、慌ただしく出発しているのです。このことは大変不思議なことです。何故ならば、このエフェソで伝道することは、パウロのこの第二回伝道旅行の主要な目的の一つだったからです。第二回伝道旅行は15章36節から始まっていますが、彼が先ず訪ねたのは、第一回伝道旅行において教会が生まれたデルベ、リストラといった小アジアの町々でした。16章の6節には、その後、「アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」とあります。このアジア州という言葉で意味されているのは具体的にはエフェソの町のことです。アジア州の州都エフェソでの伝道を彼は計画していたのです。しかしそれを聖霊から禁じられた、それは、何らかの事情によってそれが不可能になったということですが、そのことをパウロは、神様のみ心によって禁じられた、神様が自分を別の道へと導こうとしておられた、と理解したのです。その結果彼はギリシャへ渡ることになりました。神様はあの時彼を、ギリシャへ渡って伝道をする道へと導こうとしておられたのです。そのギリシャ伝道に一区切りがついて、シリア州へ、つまりアンティオキアへと帰る途中でついに彼はエフェソに来ることができました。そこで伝道する機会が巡って来たのです。つまり、以前から望んでいたことがとうとう実現したのです。それなのに、彼はエフェソに留まろうとせず、人々が引き止めるのを断って、去ってしまいました。このことから、彼が非常に旅を急いでいることが感じられるのです。コリントを去ったパウロは、まさに大急ぎで、今日のエルサレム、アンティオキアへと帰って行ったのです。何故そんなに急いだのでしょうか。急いでどこに行こうとしていたのでしょうか。そのことについては後で考えるとして、その前に先ず、12?17節に語られている、パウロが去る前にコリントで起った一つの出来事を読んでおきたいと思います。

コリントでの騒動
 その出来事とは、ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って訴えたということです。これまでにもパウロはいくつもの町で、ユダヤ人たちによって殺されそうになったり、訴えられたりしてきました。コリントでも、先週読んだところにあったように、彼が語ることに反抗し、口汚くののしるユダヤ人たちはいましたが、これまでは直接危害を加えようとすることはなかったのです。しかしついにコリントでもそのようなことが起ったわけです。ユダヤ人たちはパウロを捕えて法廷に引っ張って行き、「この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております」と言って訴えました。パウロが彼らの訴えに反論しようとして話し始めようとすると、ローマ帝国アカイア州の地方総督であったガリオンという人は、ユダヤ人たちに向かってこう言いました。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない」。そして彼らを法廷から追い出してしまったのです。つまり、総督ガリオンはユダヤ人たちの訴えを門前払いにし、受け付けなかったのです。このガリオンの言葉は、当時のローマ帝国の宗教政策を示しています。つまり、社会の秩序を乱したり、ローマの支配を否定しない限りは、どのような信仰を持っていようとも干渉はしない、ということです。また、諸宗教の信仰の内容、そこにおける対立に口出しはしない、ということです。様々な民族と様々な宗教をかかえこんでいたローマ帝国は、このようにそれぞれの民族や宗教にできるだけの自由を与えることによって支配を安定させていたのです。
 このようにしてパウロはユダヤ人たちから守られたわけですが、その後に起った17節の出来事の意味についてはいろいろな解釈があります。会堂長のソステネという人が、群衆に殴られたというのですが、このソステネとはどういう人か、彼は何故殴られたのか、彼を殴った群衆とはどのような人々か、がはっきりしないのです。一つの考え方としては、ガリオンに訴えを却下されたユダヤ人たちが腹いせにキリスト信者になっていた会堂長ソステネにリンチを加えたのだ、というものです。先週読んだ所には、会堂長のクリスポという人がパウロの話を聞いて信者になったということがありました。クリスポの同僚の会堂長だったソステネもキリスト信者になったのか、あるいはクリスポとソステネは同一人物で、何かの勘違いで名前が間違って伝えられたのか、とも考えられます。この理解は、ユダヤ人の群衆がキリスト信者であるソステネを殴ったということです。しかし別の読み方もできます。実はこの「群衆は」というところは、別の写本では「ギリシャ人たちは」となっているものがあるのです。そうすると、「ギリシャ人たちが会堂長ソステネを殴った」となります。そのギリシャ人たちとは、パウロの話を聞いてキリスト信者となったコリントの人々ではないか、つまりキリスト信者たちが、ガリオンがユダヤ人たちの訴えを門前払いにしたのに意を強くして、パウロを訴えたユダヤ人の代表だった会堂長ソステネを殴った、というふうにも読めるのです。これはキリスト者としては受け入れたくない読み方です。キリスト者がそんなことをするなんて、と思います。しかし現実には、クリスチャンがそういう暴力を振るうことだってあるのであって、こういう読み方もあり得るのです。そしてもう一つ、ここに出てくるソステネという名前は、コリントの信徒への手紙一の第1章1節に、パウロと共同の手紙の発信人として出てくるのです。この二人のソステネは同じ人なのか、それともたまたま名前が同じなだけなのか、はっきりしません。しかしコリントの教会への手紙にこの名前が出てくることには、偶然の一致以上のものを感じます。そしてある人は、先ほどのギリシャ人キリスト者たちが会堂長ソステネを殴ったということとこのこととを結びつけて、想像をたくましくし、このように読んでいます。「ガリオンがユダヤ人たちの訴えを門前払いにしたのに意を強くしたキリスト者たちが、ユダヤ人の代表だった会堂長ソステネを殴った。パウロはそれを見て、そんなことをしてはいけないと彼らをたしなめ、ソステネを助けた。自分を訴えようとした張本人である敵をもそのように助けるパウロの姿にソステネは感銘を受け、以後パウロの語ることに耳を傾けるようになり、結局キリスト信者となって、パウロと共に伝道をする者となった。そしてコリント教会への手紙の共同差出し人になったのだ」。これは余りにも想像の翼を広げ過ぎだとは思いますが、一つの、心躍る読み方だと思います。

誓願
 さてパウロは18節前半にあるように、この出来事の後なおしばらくの間コリントに滞在し、それから兄弟たちに別れを告げてコリントを去りました。つまりこの騒動のためにコリントにおれなくなったのではなくて、自分の意志で去ったのです。そして18節の後半には、彼がコリントを去り、ケンクレアイの港から船出するに際して、「誓願を立てていたので髪を切った」とあります。これはどういうことなのでしょうか。「誓願を立てる」というのは、旧約聖書以来ユダヤ人たちの間で行なわれてきた儀式の一つです。何かの願いごとがあったり、神様に仕えるために自分を献げようとする時に、一定期間頭の毛を切ったり剃ったりしないで伸ばしたままにするのです。そういう誓願を立てている人のことを「ナジル人」と言って、民数記の第6章1?21節にその規定が語られています。そこにもあるように、誓願の期間が終わると、伸ばしていた髪をそり、神様に犠牲を献げるのです。このことから分かるのは、パウロがコリントを去り、ケンクレアイの港から出帆する前に、ある誓願の期間が終わったということです。パウロは何かを神様に強く願い、あるいは何かのために身を献げようという誓いを立てていたのです。その誓願の期間の終わりが、コリントを去る時と重なっていたのです。パウロはいったいどのようなことを願い、誓っていたのでしょうか。これについてははっきりしたことは分かりません。注解書もはっきりとこうだ、とは言ってくれません。ですからそれこそ想像をたくましくしていく他ありません。そしてその時に、先ほど申しました、パウロがこの後大変道を急いでいった、ということと、この誓願とは関係があるのではないだろうか、と考えることができるように思うのです。

エルサレム教会への挨拶
 ここで、パウロが道を急いだ理由を考えることになります。彼はあれほどに急いで、どこへ行こうとしたのでしょうか。シリア州、今日のパレスチナにおいて、彼がしたことは本日のところでほとんど語られていません。一つだけ、パウロがしたこととして語られているのは、22節の「教会に挨拶をするためにエルサレムへ上り」ということです。エルサレムの教会に、そこの人々に挨拶をする、これが、本日の箇所におけるパウロの旅の目的だったと考えられるのです。この挨拶は、単なる表敬訪問ではありません。ちょっと近くに来たから挨拶に行ったのでも勿論ありません。パウロは、わざわざこの挨拶のために、遠路はるばる、しかも大変急いで旅をしたのです。それは何のためだったのか。
異邦人とユダヤ人の一致のために
 第二回伝道旅行において、パウロは初めてギリシャに足を踏み入れました。そこの町々で伝道をし、キリストを信じる者たちの群れ、教会が生まれました。その信者たちの中には、ユダヤ人もいましたけれども、それ以外の、いわゆる異邦人、具体的には先ほども出てきたギリシャ人たちが多数いたのです。異邦人を主体とする教会が生まれ、育ちつつありました。パウロは、十字架にかかって死に、復活された主イエスこそ救い主であると信じる信仰によって、異邦人も、主なる神様の民に加えられる、主イエスの十字架と復活によって神様は今や新しいイスラエルを興し、異邦人をも招いて下さっている、という確信に立ち、その福音を宣べ伝えていました。その根拠は、まさに神様が遣わされた救い主であるイエス・キリストに敵対し、教会を迫害していた自分が、赦されてその救いにあずかったという事実です。人間の側の条件としては、救われるに相応しいものなど何もない、むしろ神様の敵であった自分が、主イエスによる神様の恵みによって救われた、それと同じ救いが、もともとは神の民でなかった異邦人にも与えられるという福音を彼は宣べ伝えていたのです。しかしこのことは、エルサレムを中心とするユダヤ人たちの教会には、なかなか理解されませんでした。ユダヤ人たちには、イスラエルの民に属し、その印として割礼という儀式を受け、神様からイスラエルに与えられた律法を守る者こそが神の民である、という意識が深く根付いていたのです。それゆえに、異邦人が信じて教会に加えられるに際して、割礼を受け、律法を守っていくこと、つまりユダヤ人になることを求めるという主張が根強くありました。この問題は、15章に語られているエルサレムにおける使徒たちの会議で、既に一応の結論に達していたと使徒言行録は語っています。そこでは、異邦人は教会に加えられる時に割礼を受ける必要はないことが確認されました。しかし同時に、ユダヤ的伝統に基づくいくつかの但し書きも加えられています。つまり玉虫色の結論です。パウロの主張が完全に認められ、それで教会が一本化したわけではないのです。この問題はそう簡単には決着がつかず、かなりの期間に渡って、初代の教会の中で問題であり続けたのです。そういう状況の中で、パウロが切に願っていたことは、異邦人たちがただキリストを信じる信仰のみによって新しいイスラエルである教会に加えられることが、エルサレムを中心とするユダヤ人たちの教会においても認められ、ユダヤ人の教会と異邦人の教会が同じキリストの教会として一つになって歩むことでした。そのことによってこそ、もともとの神の民であるユダヤ人も、主イエス・キリストによって神様が成し遂げて下さった新しい救いの恵みに本当にあずかることができるし、またキリストを信じて教会に加えられた異邦人たちも、旧約聖書以来の神の民イスラエルにおける神様の救いの歴史を受け継ぐ、新しいイスラエルとなることができるのです。パウロは、異邦人たちの教会が、異邦人だけで、ユダヤ人たちと関係なく歩んでしまうことは絶対に避けねばならないと考えていました。もしそうなったら、その教会は、イスラエルにおける神様の救いの歴史とつながらない、つまり歴史を持たない根無し草のようなものとなり、時代の流れによってどこへ流されていってしまうかわからないものとなってしまうのです。このことは私たちの信仰において言えば、新約聖書のみで旧約聖書を持たない信仰になってしまってはならない、ということです。旧約聖書を土台として、そのつながりの中で新約聖書が読まれることによってこそ、主イエス・キリストにおいて実現された神様の救いの約束にあずかり、神の民の歴史の中に身を置くことができるのです。
 このような理由でパウロは、自分の伝道によって生まれた異邦人を中心とする教会と、エルサレムのユダヤ人の教会との一致を大切に考えていました。第二回伝道旅行の終わりにエルサレムに上り、教会に挨拶をしたのはそのためです。このためにパウロは、念願だったエフェソでの伝道の機会をも顧みずに道を急いだのです。彼が立てていた誓願、心から願い、誓っていたこともこのことだったのではないでしょうか。異邦人とユダヤ人が、一人の主イエス・キリストによる救いに共にあずかる一つの教会となる、彼はそのことを切に願い、そのために身を献げる誓願を立て、その期間が満ちると共にエルサレムを目指して出発したのです。

失意の内に
 パウロのこの心からの願いはエルサレムの教会に通じたのでしょうか。「教会に挨拶をするためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った」という文章にはそのことは何も触れられていません。触れられていないというところに、パウロの願いは叶わなかった、ということが暗示されているように思われます。エルサレムの、ユダヤ人たちの教会の指導者たちは、パウロの伝道によって生まれた異邦人を中心とする教会を仲間として認めようとしなかったのです。あくまでもユダヤ的な伝統にこだわり、ユダヤ人としての生活をしなければ神様の民とは認められない、という主張が大勢をしめていたのです。紀元50年代から60年代にかけてのこの時代、ユダヤにおいては、民族主義が高まり、ローマ帝国の支配への抵抗運動も高まっていました。それが火を吹いたのが、紀元66年に勃発した、ユダヤ戦争と呼ばれるローマへの反乱です。この戦争の結果、紀元70年にエルサレムは徹底的に破壊され、ユダヤ人は国を失ってしまうのです。この戦争に向けてユダヤ民族主義が高まっていた時代の風潮の中で、エルサレムの教会はパウロの主張を受け入れませんでした。パウロは失意の内にアンティオキアに帰らざるを得なかったのだと思われるのです。

神の御心ならば
 パウロが立てた誓願、神様に強く願い、そのために身を献げようとした誓いは、そういう意味ではこの時実現しませんでした。人間の誓いは、その通りになるとは限らないのです。これが神様のみ心だ、と確信し、ぜひこうなってほしい、と思って努力していったことが、うまくいかないことがあるのです。私たちは人生の歩みにおいて、そういうことをしばしば体験します。世の中、良いことなら必ずうまくいく、などということはないのです。人生は、私たちの思い通りにならないことで満ちています。それが決して我が儘な願いでなくても、願ったことがその通りにならず、失意を覚えることが多々あるのです。しかしパウロはそのような挫折、失意によって、失望して、力を落とし、やる気を失ってはいません。少なくともこの使徒言行録の記述においては、何事もなかったかのように直ちに第三回伝道旅行に出かけていることからもそれが分かります。パウロは絶望しないのです。へこたれないのです。それは何故か。その秘密が21節にあります。念願だったエフェソでの伝道のチャンスが開けたのに、エフェソの人々もそれを望んだのに、断ってエルサレムへと出発しようとするパウロは、「神の御心ならば、また戻って来ます」と言いました。自分のかねてからの願いであるエフェソ伝道が実現するかどうかは、神様の御心次第だ。その御心に自分は全てを委ねる。それがパウロの思いです。パウロはこのように、神様の御心に、自分の歩みも、事の成否も、委ねているのです。それゆえに、自分の願い、誓いが実現せず、思いどおりにならなくても、失望落胆してしまうことがないのです。へこたれることがないのです。

主の御旨が実現する
 そして、彼の願っていたエフェソ伝道は、神様の御心によって、第三回伝道旅行において実現しました。また、彼が強く願い、そのためにエルサレムに上ったあの問題は、歴史の流れが解決しました。割礼や律法にこだわるユダヤ主義的な教会は、ユダヤ戦争の結末、エルサレムの陥落と破壊と共に歴史から姿を消したのです。キリスト教会の中心はもはやエルサレムではなくなり、パウロが伝道して回った小アジアやギリシャ、そして後にはローマの教会が、つまり異邦人を中心とする教会が、その歴史を担っていきました。イエス・キリストを信じて、洗礼を受けることのみによって、新しい神の民イスラエルに加えられるということが、教会の常識となったのです。パウロが立てた誓願、切なる願いは、その時には実現しなかったけれども、最終的には神様の御心によって実現し、今日に至るキリスト教会の歩みの方向性が定められたのです。
 「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」。本日の旧約聖書の箇所、箴言第19章21節の言葉です。私たちは、主の御旨のみが実現することを信じるゆえに、人の心の計らいが実現するか否かに関わらず、主の示したもう道を誠実に歩み続けることができるのです。

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