主日礼拝

福音によって強くされる

「福音によって強くされる」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 創世記 第3章8-15節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第16章17-27節
・ 讃美歌:6、140、534

教会の現実を見つめているパウロ
 主日礼拝においてローマの信徒への手紙を読み進めてきまして、いよいよ最後の16章の後半となりました。本日と来週の二回、この最後の所を読み、ローマの信徒への手紙の講解説教を終えようと思っています。
 先週読んだ16章の前半、16節までの所でパウロは、ローマの教会にいる知人たちに「よろしく」という挨拶を送っていました。その知人たちというのは、ただの知り合いとか友人ではなくて、いずれも、パウロと共に主イエス・キリストに仕えている人たちであり、伝道における同労者であり、主のための苦しみを共にしている人々です。そして「よろしく」という挨拶も、ヘブライ語では「シャーローム」という、主なる神による平安と祝福が満ちるようにという祈りでした。パウロはこの手紙を締めくくる挨拶において、ローマの教会において共に主を信じ、主に仕えている信仰者たちへの祝福を祈ったのです。その続きが本日の17節以下ですが、ここには、16節までの祝福の挨拶とは全く違うことが語られています。「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい」。教会の中に警戒し遠ざかるべき人々がいる、というのです。感謝と喜びに基づく挨拶を語っていた16節までとの大きな違いに私たちは驚きを覚えます。しかしこのことは、パウロが、教会の現実を曇りのない目でしっかりと見ていることの現れだと言えるでしょう。キリストの教会には、16節までのところに語られていたような、信頼できる信仰の兄弟姉妹がいる、苦しみを負いつつ主イエス・キリストに共に仕えている人々がいる、しかし教会には同時に、17節にあるように、間違った教えを説き、不和やつまずきをもたらしている人々もいるのです。つまり教会は決して何の問題もない理想的な群れなどではない、そこに来れば優しくて親切な良い人たちだけがいるわけではないのです。そもそも、優しくて親切な良い人ではない自分がいるのですから、そんなこと求めること自体が間違っているのです。教会もまた様々な罪と弱さをかかえた人々の集まりです。パウロはローマの教会にはまだ行ったことがありませんが、そこにもそういう現実があることをはっきりと見つめているのです。

自分の腹に仕えている
 18節でパウロは、このような不和やつまずきをもたらす人々において何が起っているのかを語っています。不和やつまずきの根本にあることは何なのか、ということです。「こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです」。教会の交わりの中に不和やつまずきをもたらしている人々は、主であるキリストに仕えないで自分の腹に仕えているのです。それはつまり、神のみ心に聞き従うのではなくて、自分の思い、自分の考えや判断にのみ従い、それに固執して考えを変えようとしない、ということです。神の教えによって自分の考えを変えられること、つまり悔い改めることを拒んでいるのです。それは、神ではなくて自分を主人として生きているということです。それはもはや信仰をもって生きているとは言えません。悔い改めることなしに信仰者であることはできないのです。そしてさらに悪いことに、その人たちの実体は「うまい言葉やへつらいの言葉」によって覆い隠されています。信仰によって正しく生きているように思える理屈は語られているのです。だから神と教会のために熱心に奉仕しているように見えるのです。ところがその働きのゆえに教会の中に不和やつまずきが起っています。対立が生じ、批判し合い裁き合うことが起っているのです。正しい理屈に従って熱心に奉仕しているのにそういうことが起るのは、その奉仕が本音のところでは「主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている」ものになっているからです。無意識の内にそうなっているのでしょう。自分では神に仕え、教会に仕えているつもりなのです。しかし心の奥深くでは、神に栄光を帰すのではなくて、自分の誉れ、栄光、自己実現を求めているのです。自分の誉れ、栄光、自己実現を求めてなされている働きにおいては、自分はこれだけのことをしているのだ、という自負や誇りの思いが必ず頭をもたげて来ます。その自分の働きを他の人に認めてほしい、評価してほしい、褒めてほしいという思いが生まれます。そういう思いから、お互いのことを褒め合う、気の合った仲間どうしのグループが生まれます。そのグループは、お互いに「うまい言葉やへつらいの言葉」を語り合うことによって結ばれているので、その言葉を共有しない他のグループとは仲が悪くなります。お互いに相手を批判し合い、不和が生じ、その不和がつまずきをもたらし、教会の交わりが破壊されていくのです。その根本にあるのは、「主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている」ことなのだ、とパウロは言っているのです。この指摘を私たちは、他人事として聞くことは出来ないでしょう。私たち自身が、気づかない内に自分の腹に仕える者となり、不和やつまずきをもたらす者になってしまっていないか、しっかりと自分を顧みる必要があるのです。

神が強くして下さる
 このような、不和やつまずきをもたらす人々も存在している教会の現実を見つめながら、パウロはこの手紙を締めくくろうとしています。そういう現実の中で彼は25節を語っているのです。「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります」。神はあなたがたを強めることがおできになる、とパウロは言っています。それは、一般論として、神を信じることによって力が、元々持っていない強さが神から与えられる、ということではなくて、キリストに仕えないで自分の腹に仕えてしまうことによって不和やつまずきをもたらしている人々がいる、自分自身もそうなっているかもしれない、そういう教会の現実の中で、そのような罪や弱さに打ち勝って、祝福に満ちた神の民の群れとして教会を築いていくことができる者へと、神はあなたがたを強くして下さるのだ、ということでしょう。現実の教会には色々な問題があるけれども、しかしこのような希望が与えられているのだ、と告げることによってパウロはこの手紙を締めくくろうとしているのです。それは私たちに与えられている希望でもあります。

わたしの福音
 神が私たちを強くして下さるのは、「わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって」だとパウロはこの25節で言っています。福音とは、神からの喜ばしい知らせ、救いの知らせです。神が与えて下さる救いの恵みと言ってもよいでしょう。パウロはそれを「わたしの福音」と言っています。神が与えて下さる救いの恵みを「わたしの福音」と呼ぶことができるほどに彼は、その恵みを自分のものとしているのです。この福音こそが自分を日々生かしている、自分はこの福音のために生きている、と感じているのです。彼はこの手紙の冒頭の1章1節で、自分自身のことを「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」と言っています。自分は「神の福音」のために選び出され、召されて、それを人々に宣べ伝える者として遣わされている。神の福音はそのようにして「わたしの福音」とされているのです。
 その「福音」の内容は「イエス・キリストについての宣教」です。先程読んだ1章1節に続く2節以下にもそのことが語られていました。「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」。「神の福音」即ち「イエス・キリストについての宣教」が、パウロをも私たちをも強くするのです。

サタンのやり方
 この25節は17、18節に語られていた、教会の中に不和やつまずきをもたらす者がいる、という現実を見つめつつ語られているのだ、と先程申しました。そのことを裏付けているのが20節だと言えると思います。20節にこのように語られています。「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう」。神がサタンを私たちの足の下で打ち砕いて下さる、それこそ、神が福音によって私たちを強めて下さることによって実現することです。サタンとはいわゆる悪魔ですが、それは私たちを神に背かせ、罪に陥らせ、それによって私たちを神から引き離そうとする力です。サタンとか悪魔を私たちはともすればオカルト映画に描かれているようなおどろおどろしいものとして想像してしまいがちですが、それは間違いです。サタンは私たちのもっと身近なところにおり、日常の生活の中で力を振っているのです。サタンの力に捕われることによって私たちは、何か常軌を逸した行動をするようになるのではありません。サタンのやり方はもっと巧妙であって、そのような分かりやすい仕方では働きません。むしろ私たちがそれと気づかないうちに、つまり自分はおかしなことはしていない、当然のことをしているのだと思わせつつ、いやさらに自分は良いことをしているのだ、とすら思わせることによって、私たちを神に背く罪へとひきずり込む、それがサタンの手口です。それを具体的に語っていたのが先程の17、18節です。サタンは私たちを、主であるキリストではなくて自分の腹に仕えるように誘惑するのです。しかもそこで、うまい言葉やへつらいの言葉によって、自分が正しいことをしている、主と教会に熱心に奉仕していると私たちに思い込ませるのです。サタンによってそのように思い込まされた私たちは、自分の正しさに固執し、人々がそれを評価してくれることを求め、自分を評価してくれる人と党派を組み、他の人々と対立していきます。そのようにして不和とつまずきをもたらしてしまうのです。教会における不和やつまずきはまさにサタンの仕業であり、サタンは私たちを、気づかないうちに支配し、私たちを不和やつまずきをもたらす者としていくのです。パウロは、教会に起っている不和やつまずきの現実を見聞きする中で、それが単に人間の罪や弱さによることではなくて、サタンの働きをそこに見ざるを得なかったのです。キリストによる救いにあずかった神の民の群れである教会においても、サタンが力を振っていることを彼は見つめているのです。それは別に驚くべきことではありません。神の民の群れであり、神の子イエス・キリストによる救いのみ業がそこでなされているがゆえに、教会は、神に敵対する力であるサタンが最も激しく攻撃してくる場でもあるのです。サタンにとって最も重要な戦場は、神の救いの場である教会なのです。そこで人々を神から引き離して罪に陥らせることができれば、その他の所での勝利は間違いないからです。しかもサタンの攻撃はまことに巧妙であって、サタンが攻撃しているなどとは思わせずに、私たちを、キリストに仕えないで自分の腹に仕えるように仕向けるのです。

サタンを打ち砕いて下さる神
 そのサタンの攻撃を見つめつつパウロは20節で、「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」と言っています。神が間もなくサタンを私たちの足の下で打ち砕いて下さる。それが主イエスによる救いの恵みだ、と言っているのです。この20節に、主イエス・キリストによって私たちに与えられ、約束されている救いが凝縮されて示されています。先ず、神がサタンを私たちの足の下で打ち砕いて下さると語られています。神がサタンを打ち砕いて下さるのです。つまりこれは神ご自身が実現して下さる救いです。私たちがサタンと戦って勝利しなければならない、ということではないのです。そんなことは土台無理です。私たちは、サタンと戦うどころか、その攻撃にも気づかず、サタンの巧妙な罠にまんまと引っかかって、神と教会に仕えているつもりで実は自分の腹に仕えてしまうのです。そのようにサタンに翻弄されてばかりいる私たちです。その私たちのために、神ご自身がサタンと戦い、勝利して、サタンを打ち砕いて下さるのです。それによって私たちはサタンの支配から解放され、神の恵みの下に置かれるのです。
 しかしそこで、神がサタンを「あなたの足の下で」打ち砕いて下さるとあることが大事です。神のサタンに対する勝利は、私たちの足の下で起るのです。私たちの知らない、関係ない他所で起るのではありません。つまり神はご自身がサタンと戦って勝利して下さるそのことを、私たちの足元で、私たちの歩みにおいてして下さるのです。それはつまり私たちが、自分の腹に仕えることをやめ、真実に主イエス・キリストに仕える者となる、ということです。そのようにして私たちが、不和やつまずきをもたらす者から、互い愛し合い、お互いの奉仕を喜び合い、感謝し合う、良い交わりを、キリストの体である教会の交わりを築いていく、ということです。神は私たちをそのようにして下さることにおいて、サタンを打ち砕いて下さるのです。福音によって私たちが強められるとはそういうことです。私たちは主イエス・キリストの福音によって強められて、サタンの攻撃を見抜き、それに対抗して、自分の腹ではなく主イエス・キリストに仕える者とされるのです。神があなたがたをそのように強めて下さることを信じて歩みなさい、とパウロは言っているのです。

主イエスの十字架によって
 「サタンを打ち砕く」という言い方は、本日共に読まれた旧約聖書、創世記第3章の15節を意識しています。創世記第3章は、最初の人間アダムとエバが神に背いて罪に陥ったことを語っています。それは、蛇に象徴されるサタンの誘惑によることでした。その蛇に対して主なる神がこの15節を語られたのです。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」。彼というのは、女の子孫であり、それは人間としてこの世にお生まれになった神の独り子イエス・キリストを指し示しています。女の子孫であるキリストが、お前、つまり蛇、サタンの頭を砕くのです。主イエス・キリストこそ、サタンを打ち砕いて私たちを罪から救い出して下さる方なのです。しかしその時に、「お前は彼のかかとを砕く」とあります。サタンも主イエスのかかとに噛み付き、砕く、それは主イエスの十字架の死を指し示しています。サタンを打ち砕き、私たちを罪から救って下さるという救いを実現して下さった主イエス・キリストは、そのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのです。それが「わたしたちの主イエスの恵み」です。その恵みが「あなたがたと共にあるように」と言われているのです。

間もなく
 この20節に「間もなく」と言われていることにも注目しなければなりません。サタンが私たちの足の下で打ち砕かれる、その救いは、「間もなく」実現するのです。主イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによって、その救いは決定的に近づいています。それははるか遠い将来のことではなくて、「間もなく」実現するのです。しかしそれはまだ実現していない、これから実現する救いです。今はまだ、サタンの力が猛威を振っており、私たちを翻弄しています。だから教会の中にも不和やつまずきが起っているのです。そのサタンを神が打ち砕いて下さることを私たちは待ち望んでいます。しかしそれは単なる願望に過ぎない願いではありません。主イエス・キリストの十字架と復活において、神は既にサタンの力に勝利しておられるのです。サタンとの決定的な戦いはもう終わっており、神の勝利は確定しているのです。だから私たちは神が間もなくサタンを私たちの足の下で打ち砕いて下さることを信じて、私たちもサタンと戦っていくことができるのです。

彼らから遠ざかりなさい
 私たちがサタンと戦っていく、その戦いのための勧めが17節です。「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい」。私たちはサタンとどう戦っていったらよいかがここに教えられているのです。勧められているのは「彼らから遠ざかりなさい」ということです。サタンの働きによって不和やつまずきが生じている現実の中で、そのサタンとしっかり戦って打ち破りなさいと言われているのではありません。戦うのではなくて、むしろその場から遠ざかりなさいとパウロは勧めているのです。自分の力でサタンと戦って打ち負かそう、自分の腹に仕えている連中をやっつけて、キリストに仕える者へと変えてやろう、などと考えるな、ということです。そんなことは私たちには無理だからです。むしろそのようにすることの中で私たちは、サタンの罠にかかり、自分が正義のために戦っているつもりで、実は自分の腹に仕えるようなことになってしまうのです。私たちのなすべきことは、遠ざかることです。ある意味で逃げることです。しかしそれは、神が間もなくサタンを私たちの足の下で打ち砕いて下さることを信じて、その神の戦いに、神の勝利に委ねるということです。主イエス・キリストの十字架と復活によってサタンの頭を砕いて下さった神が、その救いを、間もなく必ず完成させて下さる、その神の救いの恵みに信頼して、サタンとの戦いを主に委ねて遠ざかるのです。それこそが、サタンが最も嫌がることです。そうされてしまったら、サタンは私たちに対して手も足も出なくなるのです。

福音によって強くされる
 「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります」とパウロは言いました。私たちは福音によって強くされる、それは私たちが、サタンと、あるいはその手先となってしまっている人々と、正面から戦って打ち破ることができるようになるということではありません。イエス・キリストの福音は、神がその独り子イエス・キリストの十字架と復活によってサタンの力に勝利して下さったことを告げています。この神の恵みの強さを信じて、サタンとの戦いを神に委ねて生きる者となることによってこそ、私たちは本当に強い者となることができるのです。

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